孤独のクラシック ~私のおすすめ~

クラシックおすすめ曲のご紹介と、歴史探訪のブログです。クラシックに興味はあるけど、どの曲を聴いたらいいのか分からない、という方のお役に立ちたいです。(下のメニューは横にスライドしてください)

努力家ベートーヴェンの謙虚な学習。『ピアノ三重奏曲 作品1 第2番 ト長調』

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18世紀のウィーン

新生活の準備

1792年11月10日頃、21歳のベートーヴェンケルン選帝侯派遣の給費留学生としてウィーンに到着し、リヒノフスキー侯爵邸に迎えられます。

音楽の都で新生活を始めるにあたり、色々と準備をしたさまが、当時の出納帳からうかがえます。

そこには新調のコートや靴、絹の黒靴下などの値段が記されていて、地方から都会に出てきた大学生や新入社員を思わせます。

平民ながら貴族社会に出入りすることになるのですから、身なりなどにもずいぶんお金がかかったことでしょう。

ピアノは新聞広告で売り物を探していますが、大都会といっても今よりは狭い社会ですから、メルカリなどなくても比較的容易に不要品の売買はできたようです。

ダンス教師の住所のメモまであり、貴族社会になじむには必要、と自分で考えたのか、人から勧められたのかは分かりませんが、ベートーヴェンがダンスを優雅に踊っている姿など想像できません。

レッスンには至らなかったでしょうが、ベートーヴェンはお得意の音楽で、貴族社会に溶け込むどころか、そこにセンセーションを巻き起こすのですから、そんな余芸など不要でした。

今度は父の訃報

そんなこんなで慌ただしく最初の1ヵ月が過ぎた頃、またしても訃報が届きます。

12月18日にボンの父ヨハンが急逝したとの知らせでした。

偉大な父親と息子に挟まれ、音楽家としても大成せず、アルコール依存症になって息子からも給与を差し押さえられるような父親でしたが、ベートーヴェンはどういう気持ちでこの知らせを受け取ったのでしょうか。

前回のウィーン研修も母の死によって無念の中断をせざるを得ず、今度も何の定めか、念願のウィーンに来てこれから、というタイミングでしたが、今回はベートーヴェンは帰郷しませんでした。

もはや父は禁治産者同様で、すでにベートーヴェンが家計を支えていたこともあるでしょう。

また、まだ自立していない弟ふたりがいましたが、ボンでずっとベートーヴェン一家と親交があったフランツ・リースがその世話をしてくれたことも助かりました。

後にベートーヴェンは弟たちをウィーンに呼び寄せますが、その恩に報いるべく、リースの息子フェルディナンドを弟子に迎え、可愛がることになります。

幼い頃には、神童として売り出してひと儲けすべく、DVまがいのスパルタ教育をしてきた父。

長じてはアルコール漬けで一家を支えるどころか傾けた父。

母の死には大いにショックを受けたベートーヴェンですが、父の死に対する感興は何も残っていません。

それにしても、父母ともに、ベートーヴェンの本格的な活躍を知ることなく世を去ってしまったのは残念な気がします。

ハイドンの作曲レッスン、スタート

父の訃報が届く少し前、ベートーヴェンはこの留学の目的である、ハイドンへの入門を果たし、さっそく作曲のレッスンが始められます。

作曲のレッスンとはどのようなものか?

それは「対位法」の学習でした。

対位法は、独立した旋律をうまく重ねて音楽を構築する方法で、バッハのフーガはその代表例です。

その手法で作られた音楽はポリフォニーと呼ばれます。

ヨハン・ヨーゼフ・フックス(1660-1741)がこれを理論化し、厳格対位法(類的対位法)として実習プログラムを作りました。

ハイドンは、フックスの教本『グラドゥス・アド・パルナッスム』(芸術の女神が住むパスナソス山へと昇る階段、の意)に基づいたテキストを作り、ベートーヴェンに与えました。

原本は1725年に発行されたものですから、当時としても古典でした。

そもそも対位法は、中世に教会で歌われた単旋律のグレゴリオ聖歌が、時代とともに複数の旋律を重ねる手法が生まれ、多声音楽になっていく過程で発展してきたものです。

レッスンは、与えられた定旋律に対し、異なった対旋律をつけていくことで進められ、最終的には八声の音楽が作れるようになることを目指します。

基本的には教会音楽の作曲のための実習でした。

なぜ今さら対位法?

新しい音楽形式を確立してきたハイドンが、なぜこんなバロック的な、古色蒼然とした課題をベートーヴェンに与えたのでしょうか。

ハイドンの世代が切り拓いてきた古典派音楽は対位法から和声法の時代になっていました。

旋律の組み合わせによるハーモニーではなく、より魅力的なひとつの旋律を主役とし、そのメロディにハーモニーをつけていく、というやり方です。

旋律そのものは、バッハのものよりもモーツァルトの方が魅力的なものが多いです。

しかし、バッハの曲は低音部もメロディアスで、他の声部との組み合わせの妙は深い感動を与えますが、モーツァルトの低音部はそれだけでは音楽として成り立ちません。

モーツァルトもウィーンに来て、ヴァン・スヴィーテン男爵の館でバッハ、ヘンデルの対位法音楽に接し、シンフォニー第41番『ジュピター』の終楽章などに活かしています。

ハイドンは、音楽の基本として、ベートーヴェンに対位法をあらためて学ばせようとしたわけです。

ハイドンの手抜き指導!?

理論ですから、こればかりは見よう見まねというわけにはいきません。

レッスンは、与えられた宿題をベートーヴェンが提出し、ハイドンがそれを直す、という形で進められました。

最初の頃は週何回か通っていたようです。

その実習課題は245曲残っていますが、ベートーヴェンの解答には多くの間違いがあり、しかもハイドンはあまりそれを直していません。

訂正や模範解答が書かれたものは42曲しかないのです。

中にはハイドンの修正にも間違ったものも見受けられます。

ハイドン先生は親身に指導してくれた、とは、とてもいえませんでした。

先生のために弁護するならば、ハイドンはもちろん対位法を駆使した大家ではありますが、理論家でも教師でもありません。

また、ロンドンでの大成功から帰ったばかりで、名声は嫌が上にも高まり、多忙な毎日でした。

そして、ロンドンからはぜひもう一度来て、というオファーもあり、その準備もしなければなりませんでした。

細かい指導をするには大物すぎたのです。

不思議な師弟関係

ベートーヴェンはそれはもともと分かっていた節もあります。

今回の留学はハイドンの推薦があってのことですし、ハイドンの弟子、という触れ込みがどれだけ有利かは言うまでもありません。

ハイドンの方も、ベートーヴェンという人材を世にプロデュースすることが、自分の名声につながることを意識していました。

ハイドンベートーヴェンを教えはじめて1年後、選帝侯に次のように進捗状況を報告しています。

やがてベートーヴェンがヨーロッパ最大の音楽家となることは、専門家も好楽家もひとしく認めざるをえず、しかも私は、自分が彼の師と呼ばれることを光栄に思うことでしょう。*1

ハイドンベートーヴェンの師弟関係は、今後ずっと続きますが、しばしばギクシャクし、気まずいことが何度も起こります。

しかし、ハイドンの死まで関係が破綻することはありませんでした。

それは、ドラスティックに解釈すれば、お互いの利用価値を認めていたから、と思えるのです。

ひそかに他の先生たちに

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ヨハン・シェンク

しかしベートーヴェンは、ハイドンのレッスンには物足りなさを感じ、半年後には師に内緒でヨハン・シェンク(1753-1836)の許で対位法のレッスンを受けるようになりました。

シェンクはケルントナートーア劇場専属の作曲家として、オペラで人気でしたが、対位法の教師としても高名だったのです。

ハイドンが2回目のロンドン訪問に出発すると、ベートーヴェンはもう何の気兼ねもなく、聖シュテファン大聖堂の楽長ヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガー(1736-1809)に入門します。

アルブレヒツベルガーも対位法の大家として有名でしたが、その教えは、これまでの教会音楽由来の古い理論ではなく、長調短調による調性和声と調性対位法で、ベートーヴェンの創作の幅を大きく広げました。

指導も熱心にしてくれて、ベートーヴェンは週に2度は通いました。

今回聴くピアノ三重奏曲作品1の第2番、そして第3番にはその成果が現れているといわれています。

ベートーヴェンは後年、オーストリア軍を撃破して進撃してくるナポレオン軍について、『俺が対位法と同じくらい兵法に通じていれば、ナポレオン軍など打ち破ってやるのに』とうそぶきますが、その自信はこの頃の猛勉強に裏付けられているのです。

弟子入りの間にも、演奏家、作曲家としてのベートーヴェンの評価、人気はうなぎ登りでしたが、それに驕ることなく、先輩に謙虚に教えを乞い、地道な学習を続けた姿には、まったく頭が下がります。

後にはサリエリにもイタリア・オペラの作曲を指導してもらっています。

ベートーヴェンはその言葉からは傲慢不遜な印象を受けますが、行動はまさに努力の人、求道の人なのです。

また、名選手かならずしも名監督、名指導者ならず、というスポーツの世界と同じで、後世に残る曲は生み出せなかった作曲家が、ベートーヴェンにとっては有益な指導を行ったというのも示唆に富んでいます。

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ヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガー

ベートーヴェンピアノ三重奏曲 作品1 第2番 ト長調 Op.1-2

Ludwig Van Beethoven:Trio for Piano and Strings in G major, Op.1 no.2

演奏:キャッスル・トリオ Castle Trio(古楽器使用)(ランベルト・オルキス:フォルテピアノ、マリリン・マクドナルド:ヴァイオリン、ケネス・スロウィック:チェロ)

第1楽章 アダージョアレグロ・ヴィヴァーチェ

ベートーヴェン初の、序奏つきソナタ形式です。ほとんどのシンフォニーに序奏をつけた師ハイドンにならったのでしょうか。ピアノが重々しく和音を弾いたかと思うと、一転軽やかで静かに語りはじめ、そこにヴァイオリンとチェロが対話するごとく和します。そのシンフォニックな響きは3つの楽器で奏しているとは思えないほど充実しています。ヴァイオリンのモチーフは主部のテーマを予告しています。

その主部はアレグロ・ヴィヴァーチェで、実にご機嫌なものです。うきうきとした軽やかさは、ピアノとヴァイオリンが交互に主導していきますが、優雅な気分は時々転調によって緊張感もはらみ、ベートーヴェンらしさが香っています。展開部は第1主題が色彩を変えて現れ、対旋律の屈折した音型は、対位法学習の成果といえます。その軽さ、明るさゆえ、作品1の3曲の中ではあまり演奏されない曲ですが、聴くほどに深みが出てくる曲です。

第2楽章 ラルゴ・コン・エスプレッシオーネ

素朴な旋律は、牧歌的でもあり、どこかの国の国歌のような厳粛な表情もある味わい深いものです。楽想は異なりますが、旋律の構造はモーツァルトの『魔笛』のパパゲーノのアリア『娘っ子でも女房でも』と同じと言われています。第2主題は憧れの音型で、ピアノで弾き出され、ヴァイオリンが繰り返し、チェロと対話していきます。ひそやかに転調と変奏を繰り返し、その美しさに引き込まれてしまいます。

第3楽章 スケルツォアレグロ・アッサイ)

テーマがチェロから歌い出されるのにはハッとしますが、ベートーヴェンスケルツォにしては抑制が効いていて、渋く落ち着いた曲調です。テーマはチェロ、ピアノの左手とヴァイオリン、ピアノの右手と受け継がれ、次にはこのテーマが転回して用いられるという趣向が凝らされています。トリオはロ短調の素朴な音型をピアノが弾いて始まりますが、属音の保続音が民俗音楽的な香りを醸し出しています。

第4楽章 フィナーレ(プレスト)

はしゃぐようなテーマをまずヴァイオリンが歌い出し、ピアノが受け継ぎます。これまで抑えていたものが爆発するかのように、3つの楽器が変幻自在に暴れます。第2主題は舞曲風に反復テーマが重なっていきます。展開部は、はしゃぐようだった第1テーマが恐怖に体を震わすような表情が出てきてびっくり、そうかと思うと、3つの楽器がバラバラにどこに行ってしまうのか、というほど別々な動きをします。しかし、統一感はしっかり取れていて、この楽章が単に明るく楽しいフィナーレにとどまらない、深い音楽ということを思い知らされます。これはサロンのBGMではなく、通人の芸術的愉しみのための音楽なのです。

 

今回もお読みいただき、ありがとうございました。

 

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*1:青木やよひ『ベートーヴェンの生涯』平凡社