ベートーヴェンが12歳(触れ込みは11歳)のとき、1783年に『選帝侯ソナタ』を作曲、献呈したケルン選帝侯マキシミリアン・フリードリヒ大司教は、その翌年、1784年に逝去します。
ケルン大司教は聖職者ですから世襲ではなく、後任は形式的にはローマ教皇によって選ばれます。
中世にはこのような領主、君主でもある聖職者の叙任権をめぐって教皇と皇帝が争い、「カノッサの屈辱」などの事件で有名ですが、この時代には実質は皇帝とドイツ有力領邦君主たちの合議で決まっていたと考えられます。
そんなわけで、この度の後任は現皇帝家であるハプスブルク家から選ばれました。
前皇帝フランツ1世と、オーストリア女帝(正式には皇后・女大公)マリア・テレジアの末息子(第16子)にして、現皇帝ヨーゼフ2世、フランス王妃マリー・アントワネットの弟、マクシミリアン・フランツ(1756-1801)です。
この主君の代替わりも、ベートーヴェンにとって運命的なものでした。
将来の耳疾など、ベートーヴェンの生涯は不運との闘いといったイメージがありますが、人との出会いということでは、良き師、友人、主君、パトロンに恵まれ、多くの人に助けられて大成していきます。
幸運の連続といっても差し支えないと思います。
〝ふとっちょマクシー〟の改革
ウィーンから来た28歳の若き新選帝侯マクシミリアン・フランツは、啓蒙専制君主の代表として〝上からの改革〟を推し進めていた兄帝ヨーゼフ2世を心から尊敬し、その「ヨーゼフ主義」を自分の新しい領国でも実現しようと張り切っていました。
着任するや、宮廷の無駄な経費を大幅に削減し、予算を教育・科学・文化・芸術の振興に振り向けました。
同年、前任者が開設していた高等教育機関アカデミーをボン大学として発展的に改変し、教授として当代一流の科学者、哲学者、思想家を招聘し、大学図書館には多くの蔵書を集め、政治・経済を扱う新聞も収集しました。
翌年には植物園を開設して一般公開。
また、教会、修道院、神学校の旧弊な体質を改めるべく、近代的な改革を推し進めています。
国民たちは、そんな新君主を〝ふとっちょマクシー〟というあだ名で呼んで親しみ、慕うようになりました。
ただ、マクシーは着任早々には、国民劇場を閉鎖し、宮廷楽団を縮小、余剰人員とみなされた楽師を解雇。
ベートーヴェンの師、宮廷楽長代行ネーフェの年俸も、なんと400フローリンから200フローリンに半額減俸にしています。
宮廷楽団や宮廷劇場は、王侯貴族の虚飾や娯楽とみなして、真っ先に冗費削減の槍玉にあげられたのです。
しかし一方で、これまで無給で宮廷に奉仕していたベートーヴェンを、正式に年俸150フローリンで「宮廷第2オルガニスト」として雇用しています。
師の減俸分を弟子に回した形です。
実はマクシミリアン・フランツは、モーツァルトと同い年で、その大ファンだったのです。
ウィーンからの着任にあたって、モーツァルトの楽譜もたくさん携えてきていました。
そして、楽長ネーフェから、ボンには〝第2のモーツァルト〟になりうる神童がいる、と聞かされ、その演奏を聴いて、正式雇用に踏み切ったものと考えられます。
ネーフェの年俸も翌年には元に戻されました。
マクシミリアン・フランツは、モーツァルトの音楽はこれまでの宮廷の虚飾とは違い、新時代の真の芸術だととらえていたのです。
この頃モーツァルトはオペラ『後宮からの誘拐』を上演したばかりで、まだ『フィガロの結婚』も20番台のピアノ・コンチェルトも作曲していない段階です。
そして、若きベートーヴェンの才能、将来性も見事に見抜いたわけです。
さすがは、代々文化芸術の理解者として名高いハプスブルク家の出身です。
ヨーゼフ2世、その弟のレオポルト2世、そしてこのマクシミリアン・フランツという兄弟たちは、いずれも人民のことを考え、近代的な改革を行った君主たちでした。
上からの改革という限界はありましたが、オーストリアで長らく革命が起こらなかったのもそんな君主たちの政策も影響しています。
ですから、その兄妹であるマリー・アントワネットだけが、〝パンがなければお菓子を食べればいいじゃない〟などと無神経なことを言ったというのは全くもって眉唾です。
さて、新選帝侯の着任によってもたらされたウィーンの楽譜の中に、モーツァルトの新作『クラヴィーアとヴァイオリンのためのソナタ集 作品2』がありました。
これは、モーツァルトが1781年に、雇用主のザルツブルク大司教と大喧嘩をしてその宮廷での職をなげうち、当時としては無謀ともいえるフリーの音楽家としての活動をウィーンで始めた頃に、いわばデビュー作として出版した曲集『アウエルンハンマー・ソナタ』で、そのいきさつは以前記事にもしました。
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モーツァルトが今後の人生を賭けて世に問うた作品だけあって、センセーショナルな反響を呼びました。
ボンの貴族ヨハン・ゴットフリート・マスティオーは、ベートーヴェンにこの楽譜を渡し、これと同じような音楽を作れないか、と依頼しました。
選帝侯からの意を受けてのことなのか、モーツァルト好きの選帝侯に取り入ろうとしてのことなのかは分かりませんが、これを受けて14歳のベートーヴェンは、モーツァルトの曲を下敷きに、3曲のクラヴィーア(ピアノ)四重奏曲を作曲しました。
これがベートーヴェンの最初の室内楽になります。
ピアノ四重奏曲では、後にモーツァルトも有名な2曲(K.478、K.493)を作曲しますが、この編成の曲はありそうで無い、珍しい部類で、ベートーヴェンもその後この編成では1曲も書いていません。
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メインテーマや曲の構成はモーツァルトの原作をモチーフにしていますが、明らかにベートーヴェンらしい個性もあふれ出ていて、神が神を生む瞬間を見ているかのような曲なのです。
今年リリースされた初の歴史的楽器(復元含む)による演奏です。
Ludwig Van Beethoven:Piano quartet no.1 in E flat major, WoO36-1
演奏:メレト・リュティ(ヴァイオリン:パオロ・アントニオ・テストーレ作、18世紀ミラノ)
朝吹 園子(ヴァイオリン:アンドレア・グァルネリ作〝コンテ・ヴィターレ〟(1676年)によるダニエル・フリッシュの2014年復元モデル)
アレクサンドル・フォスター(チェロ:ヤコブ・シュタイナー作/1673年)
レオナルド・ミウッチ(フォルテピアノ:ヨハン・ロードウィク・ドゥルケン作(1790頃)によるアンドレア・レステッリの2005年復元モデル)
モチーフはモーツァルトの『ピアノとヴァイオリンのためのソナタ ト長調K.379(373a)』です。今では〝ヴァイオリン・ソナタ〟と呼ばれることが多いですが、当時はヴァイオリン伴奏つきのピアノ・ソナタ、という性格でした。そのため、それを元に作曲したベートーヴェンのこの曲集も、ピアノの活躍が目立ち、弦は脇役という位置づけです。しかし、若いベートーヴェンは、その脇役たちにも活躍の場を与えようという工夫を早くもしていて、それがこの曲集の聴きどころといえます。特に、チェロにも独創的なパッセージを与えているのが画期的です。
ゆっくりとした抒情的な曲調、メロディも構成もモーツァルトの作品とそっくりですが、これは注文主のリクエストに従ったということでしょう。でも、ベートーヴェンが先輩巨匠の音楽に感動しながらなぞっている様が目に浮かびます。そして、そこから自分らしさ、自分の個性を探っている姿も。
終わりはフェルマータの半休止でアタッカ接続し、激しいアレグロにつないでいきます。モーツァルトの作品はアレグロも含めて第1楽章とされています。
モーツァルトのK.379の第1楽章も比較のため載せておきます。
第2楽章 アレグロ・コン・スピーリト
モーツァルトの曲も激しいト短調になるのですが、ベートーヴェンは平行調ではなく属短調である変ホ短調をとっており、一線を画しています。曲想も似て非なるもので、デーモニッシュな表現はまさにベートーヴェンです。第1テーマはシンコペーションのリズムに乗って実にシンフォニックです。
この曲集はモーツァルトの曲を下敷きにしているためか出版されませんでしたが、ベートーヴェンは後年この曲のモチーフを様々な曲に用いており、この楽章の第2テーマの音型は後年のピアノ・ソナタ『悲愴』に受け継がれています。
第3楽章 変奏 カンタービレ(テーマ)
モーツァルトの曲にならい、第3楽章は変奏曲となっていますが、モーツァルトが第5変奏までのところ、第6変奏まであります。テーマもモーツァルトと同様カンタービレとされ、同じ装飾変奏です。小節数、調も同じですが、変奏ごとに主奏楽器が変わるのが特徴です。
(第1変奏)
主奏を務めるのはピアノで、弦のピチカートが愛らしく伴奏します。
(第2変奏)
主奏はヴァイオリンで、華麗な歌を聴かせます。弦の伴奏は優雅なだけではなく、ハッとするように切り込んでくるのにベートーヴェンらしさを感じます。
(第3変奏)
今度主奏を務めるのはヴィオラです。どこまでも柔らかい音色に癒されます。
(第4変奏)
かわりばんこに受け継がれた主奏は、チェロになります。渋い音色が実に伸びやかです。
(第5変奏)
一転、変ホ短調になり、ピアノが暗い嵐のようなパッセージを繰り広げます。モーツァルトも短調に転じますが、ここにはベートーヴェン独特の激しさがあります。
(第6変奏)
明るい長調に戻り、ピアノが華麗な分散和音を奏でながら、名人芸を披露します。
(第7変奏、コーダ)
ヴァイオリンがテーマをアレグレットで高らかに奏し、ピアノはそれに和しながら、最後はあっけないくらいさりげなく終わります。
ベートーヴェン:ピアノ四重奏曲 第2番 ニ長調 WoO36-2
Ludwig Van Beethoven:Piano quartet no.2 in D major, WoO36-2
3曲の中で最後に作られたと考えられる曲で、モチーフは同じくモーツァルトの作品2から、『ピアノとヴァイオリンのためのソナタ 変ホ長調 K.380(374f)』です。第1番ほどに細かい相似はありませんが、楽章の構成はそっくりです。
付点リズムの大胆なフレーズでスタートします。流麗な中にも哀愁を帯びた第2テーマは、モーツァルトのテクニックをなんとかモノにしたいという野心を感じます。
テーマを受け継ぐ弦たちの動きにも独創性を見出すことができます。
モーツァルトのK.380の第1楽章はこちらです。
第2楽章 アンダンテ・コン・モート
モーツァルトのため息の出るような第2楽章をなぞり、ベートーヴェンの曲も哀愁と抒情にあふれています。ピチカートの扱いにまだ幼さも感じますが、それにもまた独特の野趣がある気がします。
第3楽章 ロンド:アレグロ
モーツァルトの対応楽章のロンドと構造は似ていますが、もっと元気にしたような感じです。 途中短調に転ずるあたりにもベートーヴェン独自の工夫が見られます。最後に弦だけで終わるのも独創です。
ベートーヴェン:ピアノ四重奏曲 第3番 ハ長調 WoO36-3
Ludwig Van Beethoven:Piano quartet no.3 in C major, WoO36-3
3曲の中で一番最初に書かれた作品で、モチーフはモーツァルトの『ピアノとヴァイオリンのためのソナタ ハ長調 K.296』です。テーマを掘り下げていく後年のベートーヴェンのスタイルではなく、次々と新しいテーマをめくるめくように繰り出していくモーツァルトのスタイルで書かれています。実に楽しいこの曲は、聴く人に、まさに第2のモーツァルト登場、と思わせたことでしょう。モーツァルトの作品を元にしているとはいえ、アレンジの域は超えています。模倣、といっても、天才の模倣は天才にしかできないのです。
モーツァルトのK.296はこちらです。
第2楽章 アダージョ・コン・エスプレッシオーネ
テーマはモーツァルトのものに似ていますが、より深みを出そうという工夫を感じます。実際ベートーヴェンはこのメロディを、後年ウィーン・デビューして最初に発表したピアノ・ソナタ作品2の第1番第2楽章で再度使っているのです。主部ではピアノが主奏しますが、中間部では伴奏に回り、ヴァイオリン、次いでヴィオラが歌います。
第3楽章 ロンド:アレグロ
軽快なロンドは最初ピアノで提示され、次いでヴァイオリンが反復します。第2テーマではチェロが独立した動きを見せるのが画期的です。
13、4歳の少年(実際は15歳)が、当時の前衛作というべきモーツァルトの新作を自家薬籠中の物とし、見事にアレンジしてみせたのを知って、選帝侯マクシミリアン・フランツは、ベートーヴェンが〝第2のモーツァルト〟となり得ることを確信したと思われます。
そして、ネーフェの進言に従い、ベートーヴェンのウィーン派遣を決定します。
1787年春、実年齢16歳のベートーヴェンはウィーンに向かって旅立ち、馬車で10日程度かけて、4月7日に到着します。
ウィーンでの滞在先や日々の行動ははっきりとは分かっていませんが、どこかでヨーゼフ2世の姿を見たことと、モーツァルトの自宅を訪ね、その演奏を聴いたことだけは、ベートーヴェン自身が語っていますので確かです。
ベートーヴェンは後年、弟子のチェルニーに『モーツァルトの演奏は見事だったが、ポツポツと音を刻むようでレガートな演奏ではなかった。』と語っています。*1
モーツァルトのピアノ演奏は玉を転がすような音色で喝采を浴びていましたが、それはチェンバロ演奏から派生したものかもしれません。
ピアノが発達し、よりドラマティックな表現が可能となったベートーヴェンはレガート奏法を多用したので、そこは物足りなかったのでしょう。
しかし、ベートーヴェンは終生、モーツァルトへの尊敬の念を持ち続けていました。
死の1年前にも、手紙に次のように書いています。
『私は常に自分を、モーツァルトの最大の賛美者の一人と考えており、命あるかぎりそうであり続けるつもりです。』*2
この両巨匠の出会いがどうだったのか、当時のモーツァルト側にもベートーヴェン側にも史料はなかったのですが、ベートーヴェンの死後、その伝記を作るべく徹底的に調査したオットー・ヤーンは、次のようなエピソードを探し当てたのです。
モーツァルトの家を訪ねたベートーヴェンは、求められて何かの曲を弾いた。それを聴いたモーツァルトは、『うん、うまく弾けた。でも君はこの曲ばかり練習してきたのではないのかね?』と幾分冷たい口調でほめた。そこでベートーヴェンはテーマをください、と頼み、モーツァルトはそれを与えた。ベートーヴェンはそれをもとに、尊敬する巨匠の前で熱を込めて即興演奏を繰り広げた。モーツァルトは目をみはり、興奮して隣室に行き、そこにいた友人たちに声をはずませて言った。『彼に注目したまえ。そのうちに彼はすごいものを世界に与えるだろう。』
この逸話は、どの伝記にも載っていますが、ベートーヴェンの死後30年経って出版された本に初めて紹介されたものなので、真偽のほどは分かりません。
でも、本当であってほしいエピソードではあります。
このピアノ四重奏曲を聴くだけでも、少年ベートーヴェンがいかにモーツァルトに憧れ、その曲を徹底的に研究したかが分かりますから、その巨匠を前にしての演奏に、どれだけ緊張したことでしょうか。
この頃のモーツァルトは、『フィガロの結婚』作曲と『ドン・ジョヴァンニ』の作曲の間の時期で、多忙を極めていました。
モーツァルトの父レオポルトはザルツブルクで死の床にあり、それでも帰郷できない状態でした。
レオポルトはベートーヴェン来訪の翌月に亡くなります。
このような時期に、モーツァルトが無名の少年と会ってくれたのは、選帝侯の紹介なくしては考えられません。
早くにこのような強力な後ろ盾を得たのも、ベートーヴェンの実力と強運によるものといえるでしょう。
しかし、洋々たる前途の輝かしい第一歩となるべきウィーン訪問は、たった2週間足らずで中断を余儀なくされます。
父から『ハハキトク。スグカエレ』の急報が届いたのです。
続きは次回に。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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