1777年、直系の跡継ぎがいなくなった、オーストリアの隣国バイエルン。
跡は、遠縁のプファルツ選帝侯カール・テオドールが継ぐことになります。
しかし、音楽を中心とした芸術振興にしか興味のない彼は、バイエルンのような広大な領土を統治するのも面倒で、その首都ミュンヘンに引っ越すのも嫌でたまりませんでした。
そこに付け込んだのが、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世。
かれは1772年、母帝マリア・テレジアの猛反対を押し切ってポーランド分割に参加し、戦わずして広い領土をせしめ、勢力拡大こそ君主の仕事、とばかり、次のチャンスを狙っていました。
バイエルン選帝侯家ヴィッテルスバッハ家本家の断絶は、まさに棚からボタ餅。
ヨーゼフ2世は、カール・テオドールと、バイエルン選帝侯領の2/3にあたる領土をオーストリアに割譲する条約を結びました。
ニーダーバイエルンとオーバープファルツといわれる地域です。
軍事好きのヨーゼフ2世は、せっかちにも翌年、1773年にはニーダーバイエルンに軍隊を送り、進駐しました。
軍隊を出すことには当然、母帝は反対しました。
これは単にハプスブルク家とヴィッテルスバッハ家だけの問題ではなく、国際的な大問題になり、悪くすると戦争になりかねない、と。
そんな棚ボタの話がすんなりまかり通るほど、国際情勢が甘くないことを、マリア・テレジアは生涯かけて身に染みているのです。
しかし、若い皇帝ならいざしらず、それにブレーキをかけるべき老練な大宰相、カウニッツ侯爵が、ポーランド分割に続き、またそのお先棒を担いでいました。
そして、進軍を強行!
アンタが言う?でも正論…
最初にこれに異を唱えたのはフランスでした。
しかし、7年前に墺仏同盟の総仕上げとして、マリア・テレジアの末娘マリア・アントニアがフランス王太子に嫁ぎ、今ではルイ16世王妃マリー・アントワネットとなっています。
オーストリアの大国化は見過ごせないものの、王妃の実家がすることです。
抗議はしたものの、戦争を仕掛けるわけにもいきません。
でも、絶対に認められない!と立ち上がったのは、ヨーゼフ2世が尊敬し、その領土拡大政策を真似た、ほかならぬプロイセン王フリードリヒ2世(大王)でした。
大王は、折しもレーゲンスブルクで開催されていた神聖ローマ帝国議会に提訴し、『野心的で強圧的な皇帝の行動は、帝国の平安を侵害する暴挙であり、私は断固としてこれに反対する』とヨーゼフ2世を弾劾しました。
これまで、国際法を無視した侵攻を繰り返し、まさに〝帝国の平安を侵害〟してきた大王ですから、みなが〝あなたがそれを言う?〟と内心思ったでしょうが、主張はごもっともです。
100年先まで見通していた女帝
マリア・テレジアは、ほら、私の言わんこっちゃない、とばかり、息子に手紙を送ります。
今は私たちの家と帝国が滅亡するかどうか、ヨーロッパが完全に荒廃するかどうかさえ問われているのです。このような惨禍に至る前に、これを防ぐためにはいかなる犠牲も惜しんではなりません。私はそのためになら何でも差し出します。仮に私の名前に傷がつくとしても厭いません。たとえ私が無責任、弱虫、虚弱者と思われてもいい。ヨーロッパがこのような危険な状況にさらされるのをふせぐためには、何でもいたしましょう。*1
今のプーチン大統領に聞かせたい言葉です。
オーストリアがバイエルンをほぼ併合するとなると、大ドイツ帝国となります。
ハプスブルク家の勢力範囲は、ドイツ圏よりも、ハンガリー、ボヘミア、イタリア、ネーデルラント(現ベルギー)、旧ユーゴ地域など、多民族に及んでいます。
これにドイツ領がさらに加わると、ヨーロッパ一の大国となり、新興のプロイセンはこれ以上発展できなくなってしまいます。
100年後、ドイツの統一をオーストリア中心でやるのか、プロイセン中心でやるのか、という大論争になり、前者を大ドイツ主義、後者を小ドイツ主義といいます。
結果、両者は普墺戦争で対決し、たった7週間でプロイセンが勝利し、その結果、「ドイツ統一」「ドイツ帝国成立」はオーストリアを排除し、1871年、宰相ビスマルク率いるプロイセンによって成し遂げられます。
両国の、ドイツでの主導権争いは、この頃に起因するわけです。
プロイセン王がこれを絶対に認めるはずがない、というマリア・テレジアの危惧は、100年後まで見通した政治感覚なのです。
そうなると、戦争になってしまう可能性大ですが、両国の戦力を熟知しているのも女帝です。
母は息子に、さらに書き送ります。
『私たちの軍隊はプロイセン軍よりも、確実に3、4千名は劣っています。地理的にいっても、敵の方が有利です。戦場までの距離にしても、私たちは倍以上を走らねばなりません。』
女帝は、ただ若気の至りで功に逸っている息子に、政治、社会、軍事、地政学上のリスクを分析してこんこんと諭し、自国の不利を訴えました。
戦争になれば、とてもこちらは持ちこたえられない、と。
しかし、若い皇帝は、バイエルン進駐がスムーズに済んだことに自信をつけ、大丈夫、と楽観していました。
そしていよいよ、マリア・テレジアの予想通り、プロイセン王は行動に出るのです。
それでは、同時代のハイドンのシンフォニーを聴いていきましょう。
バイエルン進駐の2年前、1776年に書かれた曲です。
Joseph Haydn:Symphony no.61 in D major, Hob.I:61
演奏:ジョヴァンニ・アントニーニ指揮 カンマーオーケストラ・バーゼル(古楽器使用)
この時期のハイドンのシンフォニーの中でも、娯楽性が高く、無邪気なまでに明るい曲です。偉大なハイドン学者ではるヤン・ペーター・ラールセンも「愉快で慎み深い」と評して、高い評価は与えていませんでした。「慎み深い」ということは、これまでに見られた、斬新な発想や工夫、やんちゃな冒険はあまりない作品ということになります。
ヨーゼフ2世は、ハイドンの音楽を高く評価しながらも、「ちょっとふざけすぎではないか」という感想を持っていました。皇帝の言う「おふざけ」が、時代を先取りした試みを指すのか、この曲の持つような〝能天気さ〟を指すのかはわかりません。
ともあれ、この第1楽章が底抜けに愉快であることは誰も否定しないでしょう。最初の力強いトゥッティのあと、くすぐるような楽し気な旋律が奏でられ、どんどん盛り上がっていきます。第41番以来、久しぶりにフルートが加わり、印象的なフレーズで色彩を豊かにしてくれます。モーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』第2幕のドンナ・エルヴィーラのアリアを思わせます。ティンパニが加わってお祭りムードですが、トランペットはいないです。
展開部は力強く、半音階も駆使しながら聴く人を引き込んでいきます。
3拍子で書かれた、叙情豊かで、どこまでも美しい楽章です。ホルンとフルートが、のどかな田園風景を思い起こさせてくれます。しかし、第2主題への移行の部分と、憂いを含んだ第2主題は、後年のシューベルトのようにロマン的で、深い感情が示されます。決して、娯楽性だけ追求されたシンフォニーではありません。
第3楽章 メヌエット:アレグレット&トリオ
定番通りのメヌエットに思えますが、第2部は複雑な動きになっています。トリオではオーボエが活躍、まるでコンチェルトのような趣になります。
第4楽章 フィナーレ:プレスティッシモ
実に娯楽的なロンドです。ロンドに合いの手をチョコっといれる管楽器が実に可愛い!。ロンドの変奏は、最初は力強く、二度目は管楽器がフルーティーな風味を醸し出し、三度目はちょっとシリアスです。最後は、ロンドン・シンフォニーを思わせるような壮大な終わり方をします。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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