
喪服のマリア・テレジア
王たちの〝メンツ〟が邪魔する戦争終結
女帝マリア・テレジアは、兵士の食べ物がなくて畑のじゃがいもを掘るしかすることのない、この不毛な〝ポテト戦争〟を終わらすべく、プロイセンのフリードリヒ大王と交渉を続けました。
息子の皇帝ヨーゼフ2世が領土拡大で手柄を立てたい!偉大な君主と言われたい!という中二病的な野心から始まった戦争ですから、諸外国も、ドイツ諸侯も、味方になってくれません。
娘マリー・アントワネットが嫁いだ同盟国のフランスですらそうですが、敵に回らないだけ同盟の効果があったと言うべきです。
マリア・テレジアの講和条件は、全てを戦争前の状態に戻す、ということだけでした。
しかし、これでは皇帝の面目は丸つぶれのため、少しは得るものが無いと、ヨーゼフ2世は退位に追い込まれかねません。
また、フリードリヒ大王も、多額の戦費をつぎ込んで攻め込んだのですから、皇帝の野望を打ち砕いただけでは、国内に対してもアピール不足でした。
この戦争では戦闘らしい戦闘は行われてないのですから、どちらが優勢ともいえないものの、お互いに少しは〝お土産〟がないと、手打ちにはできないのです。
その間、両軍あわせて40万の軍隊は、睨み合ったまま厳冬の寒さと飢えに苦しみ、軍隊に長く居座られたボヘミアの民衆はさらに困窮しました。
君主のつまらないメンツのために、大変な犠牲を強いられたわけです。
最低限の〝顔〟を立てた講和条約
マリー・アントワネットの活躍もあって、フランスとロシアが仲介をすることになり、1779年5月13日に、オーストリア領シュレージエンのテッシェン(現在のポーランド共和国のチェシン)で講和条約が結ばれました。
「テッシェンの和」です。
テッシェン公国は、マリア・テレジアが贔屓の娘で、唯一恋愛結婚を許された四女マリア・クリスティーナ(愛称ミミ)とその夫のザクセン公子アルベルト・カジミールが与えれ、治めている国です。
講和の内容は下記でした。
1.バイエルン継承戦争の終戦を確認する。
2.バイエルン選帝侯国はプファルツ選帝侯カール・テオドールが継承する。それにより、ヴェストファリア条約に基づきプファルツ選帝侯の地位は消滅する。
3.オーストリアはイン川沿いに若干の領土をバイエルンから譲渡される。
4.プロイセンはアンスバッハ、バイロイト両辺境伯領を将来併合することを認められる。
5.プロイセンに味方したザクセンには資金援助が与えられる。
ヨーゼフ2世は、ほんの、取るにも足らない若干の領土をバイエルンから割譲されることで、ギッリギリ、最低限のメンツを保ちました。
母から、あなたはこれで我慢しなさい、とアメでもくわえさせられた感じです。
この戦争によって、女帝マリア・テレジアの国際政治における影響力が絶大であることを諸国は知りましたし、皇帝ヨーゼフ2世はいまだに母に頭が上がらないことも世間に知れ渡りました。
私でも顔が赤くなるような恥辱です。
一方、フリードリヒ大王は、遠い同族が治めていたアンスバッハ、バイロイト両辺境伯領を、将来的に手中に収めることを認めさせ、中部ドイツに勢力拡大の足掛かりをつくりました。
七年戦争ではオーストリアに味方したザクセンも、この戦争ではプロイセン側に取り込まれてしまいました。
実際に、百年後のドイツ統一は、オーストリアを排除し、プロイセンによって成し遂げられます。
やはり、転んでもタダでは起きない大王です。
まったく、戦争は始めるのは楽でも、幕引きは容易ではありません。
ウクライナの戦争はいったいいつ、どんな形で終わるのでしょうか。
テッシェンの和のように、プーチンに若干の領土を与えて、それでメンツを保つ、なんてことも認められません。
しぶしぶミュンヘンに移った選帝侯

バイエルン選帝侯カール・テオドール
さて、この戦争と講和でけっこう迷惑を受けたのは、プファルツ選帝侯のカール・テオドールです。
彼は首都マンハイムでのフランス風の暮らしが気に入っていて、文化・芸術の都とし、その宮廷オーケストラは、ヨーロッパ一という呼び声高いものでした。
訪れたモーツァルトも大感激です。
親戚筋の家が断絶して、その国をあげる、と言われても、南ドイツの無骨なバイエルンなどには行きたくなかったのです。
そこで、皇帝ヨーゼフ2世に、どうぞどうぞ、あの国あげます、と言ったところから、この戦争は始まってしまいました。
しかし、ここまでおおごとになってしまい、国際条約まで結ばれてしまった以上、バイエルンに行かざるを得ません。
せっかく育て上げたマンハイムのオーケストラは解散し、ミュンヘンの新宮廷に連れていけたのは数名でした。
実は、マンハイム宮廷に滞在して就職活動をしていたモーツァルトに対し、父レオポルトは、そこの宮廷楽団はどうなるか分からないから止めろ、と厳しく制止していたのです。
当地で初恋の人アロイジア・ウェーバーに夢中になっていたモーツァルトは、ズルズルと滞在を引き延ばしていたのですが、父から激怒した手紙を受けとり、しぶしぶパリに移ったのです。
1778年2月、バイエルン継承戦争が始まる5ヵ月前のことでした。
さすが年の功、父レオポルトの情勢の読みは正しかったと言わざるを得ません。
モーツァルトはパリでの就活にも失敗して、しぶしぶザルツブルクの宮廷楽団に戻ることになりました。

『クレタの王イドメネオ』の舞台
カール・テオドール侯は、もともと、バイエルンなど要らない、と言ってオーストリアの蹂躙に任せたのですから、しぶしぶバイエルン選帝侯になっても、当地ではまったく歓迎されないどころか、領民にも貴族にも嫌われていました。
1799年に彼が亡くなったときには、領民は3日3晩祝ったといわれています。
カール・テオドールは、新領地での人気取りのために、翌年のカーニバル(謝肉祭)の新作オペラを、モーツァルトに頼んできたのです。
モーツァルトなら、フランス風の斬新なオペラが作れて、新しい領民たちの好感度を得られるのでは、と踏んだのです。
ドイツの田舎者たちに、フランスの洗練された趣味を見せつける意図もあったかもしれません。
依頼を受けたのはテッシェンの和の翌年、1780年でした。
モーツァルトは11月に勇躍ミュンヘン入りし、渾身のオペラを作り、翌1781年1月29日に、レジデンツ劇場で初演したのです。
これが、モーツァルトの若さに満ちた野心作、『クレタの王イドメネオ』です。
オペラはカール・テオドールには絶賛されたものの、侯はモーツァルトの就職願いにはいい返事はせず、言を左右にしてごまかし続けました。
それでもモーツァルトは、新しいミュンヘン宮廷での楽長になれるのではないか、と淡い期待を胸にズルズルと滞在を引き延ばしていたら、雇用主のザルツブルク大司教にブチ切れられて、ついに決裂、ウィーンでヨーゼフ2世の庇護を求めるのです。
夢破れた傷心のヨーゼフ2世がモーツァルトを優遇したのには、欲しかったバイエルンを得たカール・テオドールへの当てつけの意味もあったのです。
オペラ『クレタの王イドメネオ』については、いつか取り上げたいと思っていますが、ここでは雄大な序曲だけ掲げておきます。
演奏:ジョン・エリオット・ガーディナー指揮 イングリッシュ・バロック・ソロイスツ
それでは、同時代のハイドンのシンフォニーを聴いていきます。
Joseph Haydn:Symphony no.68 in B flat major, Hob.I:68
演奏:クリストファー・ホグウッド指揮 アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージック(古楽器使用)
第66番、第67番とセットで1779年に出版された「作品15」の最後の曲です。バイエルン継承戦争が終結し、テッシェンの講和条約が結ばれ、平和を歓迎するムードの中で出版されたのです。
冒頭、朗らかで滑らかな、ウキウキするような第1主題が歌い出され、やがて全オーケストラで元気いっぱいに展開していきます。2回目の冒頭主題は管楽器が務めて彩りを加えます。第2主題は第1主題の裏返しのような感じで、ハイドンならではのジョークです。
展開部は緊張をはらみますが、特に意表を突く仕掛けはなく、定石通りに進んでいきます。その代わり、再現部の後半、終止に至る過程はかなり長くなっていて、遠隔調への転調など、工夫に満ちています。〝癒しの調〟変ロ長調の優しさに包まれるような楽章です。
動画の演奏はスイスのオーケストラ、アルテ・フリザンテです。
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第2楽章にメヌエットが来て、第3楽章が緩徐楽章になるという、逆転した楽章構成のシンフォニーは、ハイドンではこれが最後の曲になります。ハイドンは、この時期まで、こっちの方が良いか?と実験を繰り返していたのでしょうか。
メヌエットは、優雅ではあるものの特に目立った特徴はありませんが、その代わりトリオでは弱拍のアウフタクトが使われ、斬新な響きがします。のちの《オックスフォード(第92番)》のメヌエットのトリオでも使われます。
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長大な緩徐楽章で、このシンフォニーの核心といえます。この楽章の重さから、第3楽章に持ってきたのでしょうか。
第2ヴァイオリンが16分音符を機械的に刻み、その上を第1ヴァイオリンが、気まぐれとも思えるような、統一感のないセリフを歌います。そこに、時々、全オーケストラがフォルテで合いの手を入れるのですが、このタイミングも法則性はなく、気まぐれな感じです。第2ヴァイオリンの刻むリズムは、のちの《時計(第101番)》の第2楽章を思いおこします。
展開部に入ると、音楽はさらに複雑になり、転調を繰り返して、深い森に迷い込んだ気分になります。再現部では、再び不連続性の強い音楽が帰ってきて、終わると見せてまだ続く。
この楽章でハイドンは何をしようとしたのか、謎であり、議論があるところです。ユーモアにしては濃い内容であり、ドラマにしてはストーリーが分からず感情移入もしにくい。様々な解釈を聴衆に委ねた、というのが案外ハイドンの狙いなのかもしれません。60番台、70番台のハイドンのシンフォニーは演奏の機会が極端に少ないですが、若い頃のいわゆる疾風怒濤期のシンフォニーや、晩年の大シンフォニーに比べて解釈が難しいところが、演奏家に敬遠されているのでしょうか。
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第4楽章 フィナーレ:プレスト
プレストというわりにそれほど急速な感じは受けないロンド形式のフィナーレです。ロンドのテーマは楽しげではあるものの、ちょっと複雑な感じも受けます。ロンドの合間に、3つのエピソードが挿入されますが、最初はエピソードはファゴットのユーモアあふれるつぶやき。次はオーボエによる流れるような優雅な旋律。最後のものは、低弦による短調の颯爽としたシリアスなもの。何度も現れるロンドのテーマは、変奏を繰り返し、対位法も使った凝ったものです。
最後には、独奏楽器たちが、消え入るような音で「こだま」のように響かせ、どこか遠くに行ってしまうかのようですが、一転、全オーケストラで大いに盛り上げて幕となります。
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前回の第67番の「コル・レーニョ」といい、この3曲シリーズは、人を驚かせる仕掛けをスパイスのように効かせて、意表を突いています。
時にはやり過ぎ感もあるハイドンの変わったシンフォニーは、ハンガリーの田舎の宮廷から出て、全ヨーロッパで人気を博していくのです。
それは、「変わり者」が「王道」になっていく奇跡といえます。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。


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