大詩人たちと大音楽家たち
前回、皇帝ヨーゼフ2世が、音楽家ディッタースドルフとの会話で、ハイドンとモーツァルトの違いについて語り合ったエピソードを取り上げました。
そのくだりをもう一度掲げます。
皇帝:私は最近モーツァルトとハイドンを比較してみた。君も何かひとつ比較してみたまえ。そうして、君の考えと余の考えが一致するかどうか試そうではないか。
ディッタースドルフ:(しばらく間をおいて)陛下、その前にこちらからご質問をするのをお許しくださいますでしょうか。
皇帝:よろしい。
ディッタースドルフ:陛下は、クロプシュトックとゲレルトにどんな違いがあると思し召されますか?
皇帝:ふむ。ふたりとも大詩人だが、クロプシュトックの全ての美を理解するには、作品を何回か読まなければならないが、ゲレルトの美は、最初に読んだときにすぐ分かる。
ディッタースドルフ:陛下、それが私の答えでございます。
皇帝:すると、モーツァルトがクロプシュトックで、ゲレルトがハイドン、というわけか?
ディッタースドルフ:少なくとも私自身はそのように考えております。僭越でございますが、陛下のお考えをお伺いできますでしょうか。
皇帝:即答しよう。私はモーツァルトの作品を、パリで製作された黄金の嗅ぎタバコ入れに、そしてハイドンの作品はロンドンで製作されたものにたとえたのだ。
ここで挙げられているふたりの詩人、クロプシュトックとゲレルトは、当時、ドイツを代表する大詩人とされており、文学でもフランスやイタリア、英国よりも遅れていると思われていたドイツ文学を興隆させました。
まさに、ドイツ文化を盛んにし、バラバラの多民族国家ハプスブルク家領を、「ドイツを中心とした帝国」としてまとめたかったヨーゼフ2世によって、文化面での希望の星だったのです。
ディッタースドルフは、そんなヨーゼフ2世の思いに叶うように、ドイツ音楽の星、ハイドンとモーツァルトの比較論において、ドイツ二大詩人との比較を持ち込んだのです。
実に見事な気の回し方というべきか、空気の読み方というべきか。
音楽家でありながら男爵の位まで与えられただけのことはあります。
ヨーゼフ2世は、1回読んだだけ、聴いただけで理解できるのがゲレルトとハイドン。
何度も読んだり聴いたりしないと理解できないのがクロプシュトックとモーツァルト、と評し、ディッタースドルフも同意しています。
それでは、このふたりの詩を味わってみましょう。
遅れをとっていたドイツ文学
両者の詩には、残念ながらハイドンもモーツァルトも音楽をつけていないのですが、ゲレルトの詩にはベートーヴェンが、クロプシュトックの詩にはシューベルトが歌曲にしたものがありますので、それぞれ取り上げてみます。
ドイツ語はそもそも野蛮とされていたので、中世以来、文学といえばラテン語。
イタリアでは、ルネサンスによってダンテやボッカチオらのイタリア語(トスカーナ方言)での著作が生まれ、絶対主義時代になって、英国ではシェイクスピアやミルトンの英語文学が、フランスではラシーヌ、コルネイユ、モリエールの古典演劇が一世を風靡しましたが、ドイツでは、国がバラバラであったこともあり、それに匹敵する潮流は生まれませんでした。
ようやく18世紀になって、「啓蒙主義文学」が起こり、ゲレルトはその先駆者のひとりとされていますので、まずは彼から見ていきましょう。
クリスティアン・フュルヒテゴット・ゲレルト(1715-1769)。
ザクセン選帝侯領に生まれ、「ドイツ敬虔主義」の牙城といわれたライプツィヒ大学に進み、卒業後もその教授として活動、同地で生涯を終えました。
生涯独身でした。
神学的な詩の中にも啓蒙主義の色彩が濃く、汎神論的であって、カトリックの教義とは相容れないものでした。
神様の恩寵はあまねく万物に宿り、私たちをお救いくださる。
その恩寵には、教会も、ローマ教皇も関係なく、神は直接個人と相対している、という視点です。
この理念は、ルターの宗教改革から始まり、プロテスタントの教義となり、啓蒙文学として表現され、ゲレルトのあと、ゲーテやシラーに受け継がれ、ベートーヴェンの第九で高らかに歌われるのです。
まさに「ドイツ精神」といえるでしょう。
プロイセンのフリードリヒ大王もゲレルトの寓話を『ドイツ文学論』の中で優れたものと賞賛していますから、同じ啓蒙専制君主であるヨーゼフ2世にも高く評価されたのです。
ベートーヴェンの若い頃の師、ネーフェは、ライプツィヒを訪れてゲレルトの講義を聴講しています。
ゲレルトは1758年に54編からなる詩集『宗教的なオードとリート』を出版しましたが、この序文には、「これらは歌われるように」と記されていました。
音楽をつけて歌ってもらう歌詞として作詩したのです。
この言葉に従い、18世紀中に多くの作曲家によって曲をつけられ、中でもバッハの次男カール・フィリップ・エマニュエル・バッハのものが有名です。
ベートーヴェンも、詩集から6つの詩を選び、1798年末から作曲に着手し、1802年3月に完成しました。
若い時期のベートーヴェンの重要なパトロンのひとり、ブロウネ伯爵がこのプロジェクトを後援し、伯爵夫人もよく彼の面倒を見てくれましたが、作曲途中で夫人は早逝してしまいました。
また、作曲したのは、年々耳疾の悪化に悩んでいた時期にあたり、ジュリエッタ・グイッチャルディへの失恋もありました。
完成した1802年の10月には「ハイリゲンシュタットの遺書」が書かれています。
ゲレルトの詩に、彼は伯爵夫人の死や自分の苦悩もオーバーラップさせて作曲したといえるのです。
それでは聴いていきましょう。
ベートーヴェン:ゲレルトの詩による6つの歌 Op.48
Ludwig van Beethoven:Sechs Lieder von Gellert, Op.48
演奏:ゴットホルト・シュヴァルツ(バス)、ミヒャエル・シェーンハイト(フォルテピアノ)
第1曲『祈り』Op.48-1
神よ、あなたの善き業はあまねく広がり
雲の行く先まで至る
あなたは情けをもって我らに冠を授け
そして急ぎたもう、我らの救済を
主よ!我が砦、我が岩、我が盾よ
我が願いを聴きたまえ、我が言葉を聴きたまえ
我はあなたの前で祈るがゆえに
ホ長調で、『おごそかに祈りをこめて』と指示があります。伴奏は明るく、神への祈りを天に届けるように上行音型で通奏低音風に奏でられます。神の救済の営みを示すように、左手は歩みを描写し、最後の祈りのくだりでようやく和音となります。
この6つの歌曲は当初はゲレルトの詩の第1節のみに作曲されていましたが、リヒテンシュタイン侯爵夫人のために作られた別の筆写譜や、他社の楽譜では有節詩の全てが記されています。ここでは歌詞は最初の節のみ掲示します。ちなみに第1曲は4節あります。
第2曲『隣人の愛』Op.48-2
もしも誰かが「私は神を愛す」と言ったとしても
自らの兄弟たちを憎んでいるのならば
それは神の真実を嘲っているのだ
そしてそれを粉々に打ち砕いているのである
神は愛そのものにして、我にお望みになるのだ
隣人を愛することを、自分自身を愛するがごとくに
変ホ長調で、指示は『生気をもって、しかし激しすぎず』。冒頭、変ホ長調の主和音が鳴らされますが、モーツァルトのフリーメイソンのための音楽を思わせます。変ホ長調はフリーメイソンに結び付けられた調なのです。フリーメイソンは秘密結社のイメージがありますが、自由・平等・博愛を希求する啓蒙思想に共鳴する人々の、階級を超えた集いで、この節に謳われた隣人愛にも通じるものがあります。神は愛、というフレーズはバロック風の高らかな音型で歌われます。原詩は14節です。
第3曲『死について』Op.48-3
我が人生のときは過ぎ行き
刻々と我は墓へと急ぎ行く
でもそれが何だというのか
我がなおも生き続けるであろうということが?
考えよ、おお人間よ、汝の死のことを!
ぐずぐずしてはならぬ
ひとつの大事なことがあるがゆえ
嬰ヘ短調で、指示は『中庸の速さで、急ぐよりはむしろ遅く』。死について思う〝メメントモリ〟を呼びかけた重い曲です。伴奏は最初は単音ですが、だんだんと音を厚くし、減七和音に至ります。自分の死のことを考えよ、というくだりでは、バロックの伝統的な嘆きの音型が使われています。伴奏は終始、葬儀の鐘のように同音反復リズムを打ち鳴らします。若いブロウネ伯爵夫人の突然の死を悼んでいるともいわれます。原詩は7節です。
第4曲『自然における神の栄光』Op.48-4
天は永遠の栄光を讃え
その響きは御業をあまねく伝える
主を大地は讃え、主を海は讃える
聴くがよい、おお人間よ、彼らの聖なる言葉を!
誰が天の数え切れぬ星を支えておられるのか?
誰が太陽をそのねぐらから導き出されるのか?
太陽はやってきて、輝き、遠くより我らに笑いかける
そしてその道を進んでゆく、英雄のように
ハ長調で、指示は『厳粛にそして崇高に』。ハイドンの『天地創造』にもある内容の歌詞です。前曲の暗さから一転、明るくなり、世界の秩序を表す基本のハ長調によるユニゾン伴奏で、大自然が創造主の業を讃えていることを示します。中間部の短調にゆらぐ部分も強い効果をもたらしています。
第5曲『神の力と摂理』Op.48-5
神こそが我が歌なり!
主は御力を持てる神なり
気高きは主の御業
そして偉大なるは主の御業にして
すべての天は主の御国なり
指示は『力と炎をもって』。引き続きハ長調で神の力を讃えます。簡潔に、かつ全世界に呼びかけるかのように朗々としています。自筆譜ではこの曲が第6曲とされており、終わり方も全編の終了のようなコーダとなっています。何らかの理由で最後には入れ替えられたようです。原詩は15節です。
第6曲『懺悔の歌』Op.48-6
あなただけに、あなたに我は罪をなし
悪事をしばしばあなたの前でなしたり
あなたはこの罪をご覧になっておられる
我に天罰を下すであろうこの罪を
ご覧あれ、神よ、我が嘆きもまた同じように
あなたに向けた我が嘆願
我が溜息は隠しようもない
そして我が涙もあなたの前にある
ああ神よ、我が神よ、どれだけ長く我は不安であらねばならないのか?
どれだけ長いことあなたは我の前より離れておわすのか?
主よ、我を我が罪をもて扱いたもうな
我を我が罪のゆえに罰したもうな
我はあなたを探す、尊顔を拝させ給え
あなた、慈悲と忍耐の神よ
早くあなたが我をその恩寵で満たして下さらんことを
神よ、慈悲深き父よ
あなたの御業をもて我に喜びを与えたまえ
あなたは唯一の神にして、喜びを愛でられるお方
あなたの道を我に再び喜ばしく歩ませたまえ
そして我に示したまいて
あなたの聖なる掟を
あなたに日々あなたがお喜びになることを為させたまえ
あなたは我が神にして、我はあなたの僕なれば
主よ、急ぎたまえ、我が護りよ、我を助けたもうため
そして我を平坦な道へと導きたまえ
主は我が叫びをお聞きになり
主は我が願いをお聞きになる
そして我が魂を慈しみたもうのだ
イ短調のポコ・アダージョから、イ長調のアレグロ・マ・ノン・トロッポに移ります。冒頭の懺悔のくだりは、第3曲『死について』の後半と共鳴し、嘆きの深さを表しています。ただただ悔い改めの心情を訴える単純な主旋律に対し、流れるような下行音型を対旋律としているのは第1曲とも関連づけられています。音楽は後半は明るさを帯び、伴奏は16分音符が走り回る華やかなものになり、変奏曲風に展開して、懺悔を神が嘉したもうことを願います。最後は途中で終わってしまうかのようですが、本来はこのあと第5曲が配されていたからかもしれません。この曲は原詩通りの節です。
クロプシュトックの詩、シューベルトの音楽
これに対し、クロプシュトックとはどんな人で、どんな詩を書いたのでしょうか。
フリードリヒ・ゴットリープ・クロプシュトック(1724-1803)は、ゲレルトと同じくザクセン選帝侯領で生まれました。
父は法律家で、裕福な少年時代を送ったようです。
若くして詩才を発揮し、「救世主」と題した大叙事詩を作る計画に際し、学生の身で作者に指名されました。
彼は生涯をかけて「救世主」に取り組みますが、それは青年たちに強い感動を呼び起こしました。
ドイツ文学の新しい時代の幕を上げた、とされています。
1758年に愛妻、マルガリータ・モラーを結婚後たった4年で失ってからは、悲観主義に陥り、詩も難解になってゆきました。
ヨーゼフ2世はそのあたりを『何度も読まなければ分からない』と評したのかもしれません。
それでは、クロプシュトックの詩を読み、聴いてみましょう。
クロプシュトックの詩は、マーラーが交響曲 第2番《復活》で使っていますが、ここではシューベルトの歌曲を聴きます。
シューベルトはクロプシュトックの詩に11曲音楽をつけていますが、ここではそのうち3曲を聴きます。
シューベルト:クロプシュトックによる歌曲
Franz Peter Schubert
『バラの花輪』D 280
シモーネ・ノルド(ソプラノ)、ウルリッヒ・アイゼンロール(フォルテピアノ)
春の木陰にぼくは彼女を見つけ
そこで彼女にバラの花輪を結んだ
彼女はそれに気づかず、まどろみ続けた
ぼくは彼女をじっと見つめた
ぼくの人生は結ばれたのだ
この眼差しによって、彼女の人生と
ぼくはそう感じたけれど、彼女はどうなのだろう
だけど、ぼくが彼女に静かにささやきかけ
バラの花輪を揺すると
彼女はそこで眠りから覚めた
彼女はぼくをじっと見つめ
彼女の人生もまた、その眼差しによって
ぼくの人生と結ばれたのだ
そしてぼくたちの周りは天国となった
2節の有節形式の単純で短い歌ですが、珠玉のような作品です。私は彼女を好きだけれど、彼女はどうなのだろう?でも眼差しで両想いであることが分かり、春爛漫の田園の中で、ふたりは幸せに浸ります。『中庸の速さで、愛らしく』と指示が記されています。
『あなたに寄す』 D 288
シモーネ・ノルド(ソプラノ)、ウルリッヒ・アイゼンロール(フォルテピアノ)
時よ、最高の喜びを告げる女神よ
身近なる至福の時よ
遠くにあるあなたを探し求めようと
ぼくは流したのだ
あまりにも多い悲しみの涙を
だが、あなたは来たのだ!
おお、あなたは、そう、天使が寄こしてくれたのだ
天使たちがあなたをぼくのところへ
かつて人間であって、わたしと同じように愛していたが
今の愛し方は不滅なる者が愛するように愛す天使たちが
自らのすべてを感じ取り
喜びを注ぎ込むのだから
その心の中に、満ち足りた魂は
愛されていると
愛に酔いしれて魂が思った時に
崇高な賛歌調の輝かしい歌です。長く寂しく、耐え難い孤独の日々の果てに、愛する人と出会うことができ、愛の喜びの絶頂に浸る思いを歌い上げています。女神や天使といったフレーズに、感謝の気持ちが込められています。
『夏の夜』 D 289
マーカス・ウルマン(テノール)、ウルリッヒ・アイゼンロール(フォルテピアノ)
かすかな光が月から今、森に降り注ぎ
菩提樹の香りの混ざったにおいが
涼しさの中に吹くとき
恋人の墓に向ける思いがぼくを影で覆う
そしてぼくは森の中で
ただあたりがたそがれるのを見る
そしてぼくに向けて
花々から風が吹き寄せることはない
ぼくはかつて楽しんだものだった
おお死者たちよ、君たちと共に!
いかに香りや涼しさがぼくたちを包んだことか
いかに月に美しく照らされたことか
おまえ、おお美しい自然よ!
夏の夜、かすかな月の光に包まれて、森の中に佇む主人公。夏の夜の爽やかな香りに満ちた風が吹き寄せます。一転、音楽はレチタティーヴォ風の激情に。主人公の前にあるのは恋人の墓なのです。もはや、花の香りも自分には届きません。そして、心に湧き上がるのは、幸せだったころの思い出の数々。自分の境遇は大きく変わってしまったけれど、夏の夜の情景は変わらない。自然の変わらぬ美しさに、やるせない思いがつのります。愛妻を結婚4年で失ってしまったクロプシュトックは、妻の著作集を出版し、生涯彼女への思いを胸に抱き続けました。
いかがでしたでしょうか。
啓蒙主義、理性のゲレルトと、感傷主義、感性のクロプシュトック。
ドイツ文学の新しい時代を切り開いたふたりの大詩人。
皇帝ヨーゼフ2世は、同じ役割を音楽の世界で果たしつつあったハイドンとモーツァルトになぞらえましたが、ゲレルトにはベートーヴェン、クロプシュトックにはシューベルトの音楽がよく合っているので、皇帝が次世紀まで存命だったら、このふたりも取り上げて、大いに議論を楽しんだに違いありません。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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