孤独のクラシック ~私のおすすめ~

クラシックおすすめ曲のご紹介と、歴史探訪のブログです。クラシックに興味はあるけど、どの曲を聴いたらいいのか分からない、という方のお役に立ちたいです。(下のメニューは横にスライドしてください)

マリア・テレジアの娘たち。九女マリア・ヨゼファの物語。ハイドンの雇用契約書、全文掲載。『交響曲 第35番 変ロ長調』

ハイドンが就職した、アイゼンシュタットの街

ハイドン雇用契約書、全文掲載!

1761年5月1日。

ちょうど261年前のきょうですが、ハイドンエステルハージ侯爵家副楽長として雇用される契約を交わしました。

モルツィン伯爵楽長を伯爵家の財政難から解雇されてしまいましたが、捨てる神あれば拾う神あり。

その神は、モルツィン伯爵とは比べ物にならない大貴族で、ハンガリーの副王格でした。

ハイドンはここで、30年もの間、誠実に勤務することになります。

まさに、安定した大企業での終身雇用、といった感じです。

しかし、課された仕事と責任は膨大なもので、管理職ではあるものの、現代だったら過労とストレスで倒れかねない内容でした。

でも、雇用契約書は、実にしっかりしたもので、王様と家来といえども、ちゃんとした契約が明示されており、さすがはヨーロッパ、といった感じです。

ハイドンの契約書は侯爵家の文書蔵にしっかり保存されていますので、それを全部見てみたいと思います。

当時の楽長がどんな仕事を任されていたかが、如実に分かる貴重な史料です。

本日、調印の年月日をもって、オーストリアのローアウ生まれのヨーゼフ・ハイドンは、以下に掲げる諸条件のもとに、神聖ローマ帝国の統治者にして、エステルハージおよびガランタその他の君主パウル・アントン侯の副楽長として仕えることを承認、任命されるものである。*1

楽長と副楽長の役割分担とは

第1条

アイゼンシュタットの楽長、すなわち、グレゴリウス・ヴェルナーは、多年にわたって、まことに忠実に侯爵家に仕えてきたが、現在、高齢と病身のため、みずからに課せられた義務を果たすに適任でない。しかしながら、多年にわたるその忠勤に鑑みて、当グレゴリウス・ヴェルナーを、楽長の地位に留めることをここに言明する。したがって、当、副楽長ヨーゼフ・ハイドンは、聖歌隊の音楽に関するかぎり、楽長に服従し、その指示を受けねばらならぬ。しかしながら、その他もろもろの演奏、および管弦楽団に関するすべての事項においては。副楽長が全指導権をもつこととする。

現楽長のヴェルナーは、高齢のため、礼拝堂の聖歌隊の音楽だけ受け持ち、それ以外の役目と権限はすべてハイドンに任されることになりました。

実質的な楽長はハイドンですが、ヴェルナーは終身名誉楽長といった処遇だったのです。

実に温情ある措置ですが、ヴェルナー自身は面白くなかったようで、ハイドンにも好意的ではなく、『めかし屋』『歌のへぼ作曲家』といった悪口を言っていたようです。

ご本人は、まだまだやれる、若造には負けん、と思っていたのでしょう。

会社の世代交代にもありがちな風景です。

部下へのパワハラは禁止!

第2条

当ヨーゼフ・ハイドンは、侯爵家の職員として考慮され、取り扱われる。したがって、殿下は、貴下が侯爵の宮廷にあって名誉ある王宮の職員たるにふさわしい行動をとるべく信頼されるものである。よく協調し、謹厳なる態度を持し、かつ部下の楽員に対しては粗暴な態度をとらず、穏和、寛大、率直かつ沈着であらねばならぬ。とくに、賓客の前で演奏するべく楽団が召集された場合には、副楽長および全楽員は、制服を着用することを守らねばならぬ。なお、当ヨーゼフ・ハイドンは、自分自身および楽団の全員が、あらかじめ下された指示にしたがい、白の靴下、白のリンネル、白粉をつけ、弁髪ないし鬘を着用し、かつ全員が揃って見えるようにせねばならぬ。

これは、社員の服務規程にあたりますね。

部下へのパワハラまで禁じられているとは、先進的です。

服装も細かく決められ、今だったら、ネイル禁止、ツーブロック禁止なども盛り込まれそうですね。

部下のいさかいは上司の責任!

第3条

楽団員の指導は、当、副楽長に委任される。したがって、副楽長は、模範的な態度をとらねばならぬ。すなわち、不当な親交を避け、飲食、談話に中庸を保ち、尊敬を失することのないよう、正しく行動し、殿下がいかなる不和、いさかいのたぐいも好まれぬことを銘記して、平和を保つよう、部下を感化しなければならぬ。

これは管理職心得ですね。

部下とのコミュニケーションも、羽目を外し過ぎて、上司らしからぬ行動をしないように、また、特定の部下と親しすぎないように、とは、今でも通じる内容です。

部下同士の不和も、上司の責任、というわけです。

人間関係は、なかなか難しいことですが…。

著作権は主君にあり!

第4条

当、副楽長は、殿下が命じられる音楽を作曲する義務を帯びる。それらの作品を他人にあかし、あるいは写しとらせることなく、殿下の使用にのみ供されなければならぬ。かつ殿下の承認と許可なくして、他人のために作曲してはならぬ。

これは、ハイドンの作品に対する著作権が侯爵に属するという条項で、当時としても不当と感じられるものでした。

ハイドンはいったん受諾したものの、彼の作品の評判が高まると、出版もされていますので、どこかで許可され、空文化したと考えられ、1780年の契約改訂時にはこの条項は削除されました。

ハイドンは、エステルハージ侯爵以外の君主に作品を献呈したり、商業出版で稼いだりしていますが、それは宮仕えの妨げにならない範囲で行われましたし、侯爵としても、自分が召し抱えている楽長の国際的名声が高まるのは、君主として大いなる面目でしたから、寛大に扱ったのでしょう。

そのあたりの侯爵とハイドンの阿吽の呼吸は、見事なものでした。

きょうは音楽やりますか?と毎日お伺い

第5条

当ヨーゼフ・ハイドンは、毎日昼食の前後に次の間に控え、殿下が楽団の演奏を希望されるか否かを伺わなければならぬ。殿下の命令が下った場合、彼はこれを他の楽団員に伝え、指定の時間を厳守するように注意し、部下がこれを守ったかを確認し、遅刻、欠勤については記録をとることとする。

これは、音楽家が宮廷内の従僕であった面を示す条項です。

モーツァルトは自分が芸術家と思っていましたので、ザルツブルク大司教に仕えている間、従僕扱いには我慢がなりませんでしたし、ベートーヴェンに至っては論外でしたが、ハイドンは喜んでこの義務を果たしていました。

いつでも君主が、音楽が欲しい、と、のたもうたときには演奏できるよう、待機していなければなりません。

また、いざというときに人数が揃わない、ということのないよう、部下の勤怠もしっかり管理するように、との仰せ。

小事は自分で解決、大事はほうれんそう

第6条

なんらかの不和、苦情がおこった場合、副楽長は、殿下を些細な紛争でわずらわすことのないよう、調停に努力せねばならぬ。しかし万一、当ヨーゼフ・ハイドンが処置しかねる、より重大な困難が生じた場合は、殿下に恭しく陳情し、問題の解決を賜ることとする。

サラリーマンは、この手加減が難しいですね。

上司にいちいち指示を仰いでいたら、自分で判断できないのか、と怒られ、自分で処理しようとしたら、何で報告しないのか、と怒られる…。

楽器を壊したら自腹で修理!

第7条

当、副楽長は、すべての楽譜と楽器とを注意深く管理し、不注意ないし怠慢のために破損が生じた場合には、責任をとらねばならぬ。

不注意の場合は自腹で弁償せよ、という規定ですが、通常の修理費は宮廷経費で落とせたようです。

ハイドンは最少限の費用で済むよう工夫、交渉し、経費削減に努めたことが、残された記録から分かっています。

まさにサラリーマンの鑑です。

部下も自分も練習を怠るな!

第8条

当、ヨーゼフ・ハイドンは、女声歌手らがウィーンで多大の労苦と費用をかけてすぐれた巨匠から習得したことを、田舎にいて忘れることのないよう、彼女らに訓練を施さねばならぬ。当、副楽長は種々の楽器に熟達しているので、習得した楽器のすべてを練習するように心がけねばならぬ。

なぜ女声歌手だけ?と思いますが、当時の最先端の流行を担っていたのは女声歌手なのでしょう。

都会ウィーンに留学させ、一流の巨匠のもとで得たことを、そのまま田舎でキープするように、という実に興味深い規定です。

ハイドン自身も、今のレベルを落とさぬよう、練習を怠らないように、という厳しさです。

当時の就業規則

第9条

この契約および指令の写しは、当、副楽長が、文中の義務を部下に守らせることができるように、当、副楽長とその部下に引き渡される。

この契約書は部下にも公開されたようです。

楽団の就業規則も兼ねていたのかもしれません。

書いてないこともしっかりやるように!

第10条

当ヨーゼフ・ハイドンに要求される勤務を詳細に挙げる必要はないと考えられるが、とくに殿下は、ハイドンが、自発的にこれらの規則を遵守するばかりでなく、折にふれ殿下から下される命令のすべてを厳守することを希望される。みずからの名誉ともなり、熱意と思慮とに対する信頼にそむくことなく、殿下の一層の恩顧を受けるような立場と秩序とに楽団を置かねばならぬ。

この契約書にないことは、主君の命令に従うように、という規定ですが、ここまでくると、相当なくどさにハイドン自身も内心は辟易したかもしれません。

侯爵家の法務執事はかなり細かい人だったと思われます。

で、賃金は?

第11条

年俸400フローリンが年4回払いで、ここに殿下から、当、副楽長に与えられる。

ようやくお給料の話です。

400フローリンが当時どの程度の金額かはなかなか難しいですが、25年後にモーツァルトが皇帝ヨーゼフ2世から得た『皇室王室作曲家』の職は年俸800グルデン(フローリン)で、前任のグルックは2000グルデンでしたから、激務の割にはかなり薄給だったといえます。

若い頃の、食うや食わずの時代からすれば、夢のような安定収入かもしれませんが、地位が上がれば支出も増えますから、楽譜出版などの副業をやりたくなったのも無理はありません。

社員食堂つきの福利厚生

第12条

さらに、当ヨーゼフ・ハイドンは、職員の食卓で食事をとるか、あるいはそのかわりに、1日につき半グルデンを受けることとする。

食事は社員食堂つき、というわけです。

食べなければ別途食費支給というのは、福利厚生としては悪くないですね。

辞めるときは半年前に申し出よ

第13条

最後に、この契約書は、1761年5月1日より、最少限3ヵ年有効とし、もし、この期限の満了に際して当ヨーゼフ・ハイドンが勤務を辞することを希望する場合、殿下に対して6ヵ月前にその旨を届け出ねばならぬ。

契約更新しない場合は半年前に申し出ること、とのことでした。

確かに、後任探しのためにはそのくらいの期間は必要ですね。

がんばれば楽長になれるぞ!

第14条

殿下はヨーゼフ・ハイドンを、この期間中勤務にとどめることを保証するのみならず、殿下の満足を得た場合、楽長の地位に昇進することも期待することができるものとする。しかしながら、以上に反する場合、殿下が当ヨーゼフ・ハイドンを勤務期間中いつなりとも、自由に解雇することができるものとする。

副楽長ですから、人事考課で評価されれば、楽長への昇進も期待してよい、という条項で、実際その通りになります。

モチベーション維持には不可欠な条項ですね。

雇用の保証もしてくれていますが、君主の意に沿わなければいつでも解雇できるという規定ですので、あまり意味はないかもしれません。

この契約書の写しは、2通作成したうえで取りかわされる。

1761年5月1日 ウィーンにて交付

至高なる君主の委任により 執事ヨハン・シュティフテル

雇用契約書の内容は以上です。

伝記作家ガイリンガーも、『こんにちの指揮者で、ハイドンに要求されていた仕事の半分も負わされている者はいない』と慨嘆しています。

ハイドンの音楽は、このようなきっちりした契約書に基づいて生み出されていったと思うと、感慨深いです。

九女マリア・ヨゼファの生涯

九女マリア・ヨゼファ

さて、女帝マリア・テレジアの娘たちの生涯を引き続き追っていきます。

今回は、1751年に生まれた、九女マリア・ヨゼファ(1751-1767)です。

前回のマリア・アマーリア六女ですから、間に2人の姉がいることになりますが、いずれも不幸にして夭折しています。

マリア・アマーリアの次には、1747年に、後に長男ヨーゼフ2世のあとを継いで皇帝となるオポルト2世が生まれています。

七女マリア・カロリーナは、さらにその翌年、1748年に生まれましたが、0歳のうちに亡くなりました。

ナポリ王に嫁ぐはずだった八女

八女マリア・ヨハンナ・ガブリエーラは、1750年に生まれ、気立ての優しい可愛い娘で、皆に愛され、期待されました。

当然、政略結婚の良い駒として、ナポリ王兼シチリアフェルディナンド4世(1751-1825)(シチリア王としてはフェルディナンド3世)のところに嫁ぐことになっていました。

しかし、1762年から63年にかけて、ウィーンで大流行した天然痘によって、12歳のときに世を去ってしまったのです。

八女マリア・ヨハンナ・ガブリエーラ

このときの天然痘の流行は激しく、翌1763年には、皇太子ヨーゼフ2世最愛の妃、マリア・イザベラが罹患し、21歳の若さで亡くなってしまいました。

早逝した姉の代わりにナポリ王妃に

九女マリア・ヨゼファは1751年に生まれました。

彼女は内気で従順な性格で、特に兄ヨーゼフ2世のお気に入りでした。

彼女は順調に育ったので、1767年、16歳のときに、姉ヨハンナ・ガブリエーラの代わりに、ナポリ王フェルディナント4世と結婚することになりました。

ナポリシチリアは16世紀以降、ハプスブルク家の統治下にありましたが、ポーランド国王継承戦争の結果、1738年から王位はフランス・ブルボン家に渡っていました。

マリア・テレジアとしては、非常に重要な政略結婚相手となりますから、何としてでも皇女を嫁がせたかったのです。

なんと、また婚礼前に逝去!

ヨーゼフ2世妃マリア・イザベラ・フォン・パルマの棺(カプツィーナー地下納骨堂)

マリア・ヨゼファは、婚礼のためナポリに出発する前に、母帝マリア・テレジアに連れられ、ハプスブルク家先祖代々の墓所カプツィーナー教会地下納骨堂にお参りします。

ここは、1617年に神聖ローマ皇帝マティアスが創設したハプスブルク家墓所で、現在では138体の一族の遺骸が収められた棺が安置され、ウィーンの観光名所になっています。

ハプスブルク家の栄華を遺した壮麗な墓所ではありますが、そこはかとなく異臭漂い、気味の悪さは否めません。

花嫁の皇女は参拝の2日後、天然痘を発病してしまい、あっという間に亡くなってしまったのです。

母帝は、4年前に天然痘で亡くなった皇太子妃マリア・イザベラ・フォン・パルマの棺に礼拝したのがいけなかった、と後悔に打ちひしがれますが、何年も前のウイルスが残っているわけはありません。

この時、再びウィーンの街を天然痘の大流行が襲っていたのです。

間の悪い、モーツァルト一家のウィーン再訪

マリア・テレジアに拝謁したモーツァルト(1回目の訪問 1762年)

こんなときに、運悪くウィーンを訪れたのが、幼いモーツァルト一家でした。

モーツァルトは6歳のとき、1762年10月にウィーンを訪れ、マリア・テレジア一家に拝謁、御前演奏をします。

一番末の皇女、マリア・アントニア(マリー・アントワネットに『大きくなったらお嫁さんにしてあげる』と言ったのはこの時のことです。

八女マリア・ヨハンナ・ガブリエーラが天然痘で亡くなったのは、その2ヵ月後のことでした。

その後、モーツァルト一家は足かけ4年にわたる西ヨーロッパ大旅行に出て、ドイツ諸国から、フランス、英国、オランダをめぐり、神童の名を全ヨーロッパに轟かせます。

そして、いったん故郷ザルツブルクに戻ったあと、マリア・ヨゼファの婚儀が行われることを知り、売り込みのチャンスと考えて、再びウィーンに向かったのです。

モーツァルトは11歳になっていました。

しかし、この旅行は、モーツァルト一家にもまったくツキのないものでした。

レオポルト・モーツァルトが旅行中のことを、ザルツブルクの友人に書き送っています。

花嫁の皇女さまが、土曜日の晩に具合がお悪くなり、昨日急に天然痘がおできになられましたことをお知らせしましょう。これが混乱をひきおこしていることは容易にご想像なされましょう。皇帝陛下(ヨーゼフ2世)のナポリ旅行は来年の春まで取り止めになるのはもう確実です。天然痘はなるほど良性ではありますが、神がこの先なにをお命じになられるかは、待ってみなければなりません。このことがまた私どもの見込みをいくらか台無しにしてしまうということも、たやすくお分かりいただけましょう。お手紙は拝受いたしました。当地ではだれもが天然痘をはなはだ恐れてはいますが、ありがたいことに私ども一同元気です。(1767年10月7日 レオポルト・モーツァルトよりザルツブルクローレンツ・ハーゲナウアー宛)*2

そして、その7日後の手紙です。

太后マリア・テレジア)は花嫁の皇女さまと、ボルジアの聖フランチェスコの日か日曜日に、カプツィーナー教会にお出ましになられ、そこで告解をなされ、聖体拝領のあと、祖廟においでになって、3時間も信心深く祈祷されて、おかくれになったすべてのご先祖さま、ご兄弟ご姉妹のみなさま、義理のご姉妹のみなさまにお暇乞いをなされました。いとわしい臭気などやご印象などが、その日のうちに激しい病変を引き起こしまして、火曜日には天然痘になられたのでした。

(1767年10月14日 レオポルト・モーツァルトよりザルツブルクマリア・テレジア・ハーゲナウアー宛)

さらに、その3日後の手紙です。

花嫁の皇女さまは天国の花婿の花嫁さまになられました。びっくりするほどの変化でした。14日の午後4時か5時頃、私どもはさる会合に居合わせておりまして、そこに現皇室厩舎長官のディートリヒシュタイン伯爵閣下がおられましたが、この方は皇帝のお気に入りでいらっしゃるので、皇女さまの状態がどんな様子かくわしく知っておいでのはずでした。この方は、皇女さまは良い状態でいらっしゃるとおっしゃいました。6時15分頃、ひとりの召使いが私たちを捜しにやってきまして、デ・ブラガンツァ公爵とカウニッツ侯爵がロジェさまのところにいらっしゃり、そこで私どもを待ち受けていらっしゃると申しました。そして私どもが9時すぎまでそこにおりましたところ、シェーンブルン宮殿からわざわざ人がつかわされ、厩舎長官閣下に、皇女さまがたいへん危険な状態にあって、医師たちが今度はすべての希望を失ってしまったので、即刻シェーンブルンに参上せよ、との皇帝陛下のご命令を書いた書状を持ってきました。15日の朝早く、街じゅうで皇女さまがお亡くなりになったと噂が立ったので、昼には、この間違った騒ぎをやめさせよとの命令が攪乱防止局に下されました。夕方の4時にはご回復の希望がもてると確言しようとしました。そして5時にはフォン・クラリー伯爵夫人さまが、ちょうど私どもがお邪魔していたフォン・フリース男爵のもとにおいでになり、皇女さまはまだお亡くなりにはならず、なお希望があるとはっきり言明なさいました。9時に、ちょうど帰宅しようというとき、皇女さまが7時頃おかくれになり、皇室はその直後にシェーンブルンを後にされ、もう市内にいらっしゃるとのニュースが届きました。

この特別な事件で奇妙なことは、すでに数年前、ヨハンナ皇女さま(このお方を私どもはよく存じ上げておりましたし、私どもが当地におりました間にお亡くなりになられました。)が、当地のナポリ王のお妃と決まっておられたことです。この皇女さまがお亡くなりになられてから、ヨゼファ皇女さまが王のお妃と決まりました。したがって、王が亡くされたのはオーストリア皇室からの二人目の花嫁なのです。それに当地では14日に婚儀がとりおこなわれるはずでしたので、ナポリではもうおそらく婚礼の礼式が行われています。今度はいま15歳のカロリーナ皇女に番が回ってくるでしょう。(1767年10月17日 レオポルト・モーツァルトよりザルツブルクローレンツ・ハーゲナウアー宛)

オポルトは、ヨゼファの逝去によっても、マリア・テレジアナポリ王との政略結婚を諦めず、次の下の皇女、十女マリア・カロリーナにお鉢が回ってくることを見抜いており、事実そうなります。

天然痘に襲われたモーツァルト姉弟

この時の天然痘流行はすさまじく、特に子供が犠牲になりました。

オポルトは手紙に『死者名簿に10人の子供が載っていれば、そのうち9人が天然痘で死んだものでした。』と書いています。

モーツァルト一家も身の危険を感じていましたが、皇帝ヨーゼフ2世が自分たちを呼んでくれる、という噂を信じて、ウィーンの街にとどまっていましたが、ついに宿で感染者が出るに及んで、ついにウィーンの街を出て、モラヴィアに避難をしました。

しかし、モーツァルトも、姉のナンネルも罹患してしまいます。

モーツァルト一家の、二度目のマリア・テレジア拝謁

でも、運よくふたりとも、大事に至らず回復し、翌年1月にはウィーンに戻り、マリア・テレジア一家に拝謁することができました。

その時の様子を知らせた、レオポルトの手紙です。

私があなたにお知らせしなければならないいちばん新しいニュースは、私どもが19日の午後2時半から4時半まで、皇太后陛下(マリア・テレジア)のもとに参上いたしましたことです。皇帝陛下(ヨーゼフ2世)は、私どもが皇族の方々がコーヒーをお飲みになられるまでお待ち申し上げていた控えの間までお出ましになられ、おん自ら私どもを招じ入れてくださいました。皇帝と皇太后のほかにザクセンのアルベルト王子さま(ミミの夫君)、それに皇女さまが全部いらっしゃいました。こうした皇族の方々のほかには、どなたもいらっしゃいませんでした。そこで何が話題となり、またなにが起こったかをすべてお書きするのは、あまりにも長すぎてしまうことになるでしょう。

ただ申し上げなければならないのは、皇太后陛下がどんなにお親しげに家内とお話しになり、ひとつには子供たちの天然痘について、ひとつには私たちの大旅行のこまごまとした事柄などについて語り合われたかをご想像いただくことは不可能だ、ということです。陛下が家内の頬をさすられたり、腕をおつかみになったりなさったことも、ご想像できないでしょう。

一方、皇帝陛下は、私やヴォルフガングと音楽のことや、その他いろいろなことをお話しくださり、しばしばナンネルの顔を赤らめさせておいででした。これ以上のことはいずれ直接お話しいたします。(1768年1月23日 レオポルト・モーツァルトよりザルツブルクローレンツ・ハーゲナウアー宛)

シェーンブルン宮殿マリア・テレジアの家庭は、フランスやスペイン宮廷のように格式ばったものではなく、アットホームな雰囲気だったと言われていますが、それが伝わってきます。

しかし、その陰に、一家を次々と襲った病魔や、兄弟姉妹間の確執と嫉妬、政略結婚の強要などの暗黒面があったのです。

その最大の悲劇が、後に末娘マリー・アントワネットを見舞うことになります。

皇室一家は、モーツァルト一家を歓待してくれましたが、ただそれだけで、役目や仕事を賜ることなく終わり、レオポルトをがっかりさせています。

マリア・テレジアは音楽好きではありましたが、国家の大改革や、戦争に次ぐ戦争を行ったために、音楽への投資はほとんどできませんでした。

ハプスブルク家の音楽投資は、息子ヨーゼフ2世の単独統治時代まで待たなければならないのです。

 

それでは、ハイドンエステルハージ侯爵家時代のシンフォニーを聴いていきます。

ハイドン交響曲 第35番 変ロ長調

Joseph Haydn:Symphony no.35 in B-flat major, Hob.I:35

演奏:ジョヴァンニ・アントニーニ指揮 ジャルディーノ・アルモニコ

第1楽章 アレグロ・ディ・モルト

この作品は、珍しく作曲日が分かっており、1767年12月1日です。ちょうど、モーツァルトの姉が天然痘を克服し、健康を取り戻した頃です。この作品あたりから、ハイドンのシンフォニーは初期の頂点に達し、円熟してきたといってよいでしょう。第1主題と第2主題が見事な対になり、入れ替わり、転調したりしながら、流麗に音楽を進めていきます。時には歌うように、時には馬のギャロップのように、意表を突きつつも安定した展開で、引き込まれていきます。ホルンのアクセントが実に見事で、思わず身体が動いてしまうほど癖になる音楽です。

第2楽章 アンダンテ

ハイドンの緩徐楽章は、アダージョとアンダンテの性格の使い分けがわりとはっきりしていますが、この曲はアンダンテの特徴がよく出ています。すなわち、明朗さのうちに、深みをしのばせる、といった感じです。第1主題は変ロ長調で、第2主題は曲の主調の変ロ長調になっています。曲の終わりに、冒頭のテーマをさりげなく回帰させて締めるのは、ハイドンならではのセンスといえます。

第3楽章 メヌエット:ウン・ポコ・アレグレット

元気いっぱいのメヌエットですが、繊細な面も合わせもっています。強音と弱音のアクセントや、フレーズの対比は、まさにハイドンの真骨頂です。トリオがメヌエットよりもせわしないのも意表を突きます。終わりが弱音(ピアノ)で閉じられるのも、全く新しい試みです。

第4楽章 フィナーレ:プレスト

3つの和音の打撃で始まり、それが繰り返されたのち、音楽は疾走していきます。まさに軽快そのもの。ホルンは高音のB管を使用していて、甲高く音楽を盛り上げてくれます。曲の終わりも、冒頭の3和音で終わりますが、微妙に主音からズらしていて、少し素っ頓狂な感じがしますが、これもハイドン一流の冗談的仕掛けなのです。

私はハイドンの初期・中期のシンフォニーでは最初にこの曲を聴き、興奮が抑えられなかったのを覚えています。

 

動画は、同じくアントニーニ指揮のイル・ジャルディーノ・アルモニコです。


www.youtube.com

 

今回もお読みいただき、ありがとうございました。

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*1:大宮真琴『新版ハイドン音楽之友社

*2:海老沢敏・高橋英郎編訳『モーツァルト書簡全集Ⅰ』白水社