ドイツ音楽を盛り上げたかった皇帝
これまで、皇帝ヨーゼフ2世の急進的な改革を見てきましたが、彼の政策は「ウィーン古典派」と呼ばれる音楽に大きな影響を与えました。
現代では、「芸術」は世俗とは超越した、人間精神の内面的なものの発露、といったイメージもありますが、前近代にあっては、社会の動きと密接な関係がありました。
特に、時の権力者は芸術の保護者ですから、その個人的な性格や趣味、政策とは、切っても切り離せません。
このブログで王侯貴族の物語や政治・社会の動きを綴るのも、その時代の音楽を味わい、理解する上で欠かせない背景だからです。
母帝マリア・テレジアが世を去ってからの、ヨーゼフ2世の単独統治時代は、ほぼ、モーツァルトがウィーンで活躍した時代に重なります。
ヨーゼフ2世の単独統治開始は1780年11月。
モーツァルトが雇用主であるザルツブルク大司教のもとを飛び出して、ウィーンに定住を開始したのが、翌1781年5月です。
ヨーゼフ2世は、幼い頃から神童として御前演奏したモーツァルトをよく知っていました。
そして、彼を新しい自分の統治の〝道具〟として政治利用しようとしました。
これまで見てきたように、ヨーゼフ2世は、他民族国家の集まりであるハプスブルク家領を、ドイツ文化によって統一し、近代的な中央集権国家とし、富国強兵を目指しました。
洗練されたイタリア vs 野卑なドイツ
それまで音楽の分野ではイタリア音楽が圧倒的で、ウィーンの宮廷ではイタリア人音楽家が幅を利かせていました。
中でもイタリア・オペラはずっと根強い人気がありました。
イタリア統治に熱心だったハプスブルク家の皇帝たちも、代々イタリア音楽を習い、イタリア・オペラに心酔していました。
イタリアに残る、古代ローマの高度に洗練された文化水準からみれば、ドイツはゲルマン民族が跋扈した蛮地ですから、古代から千年以上経っても、やはり野卑とみられていました。
蛮族であったフランク族の支配権を受け継ぐ神聖ローマ皇帝としては、イタリアを支配する上で、文化的に舐められないようにするため、イタリア文化を取り入れてきたのです。
しかし、母帝マリア・テレジアは、グルックやヴァーゲンザイル、ディッタースドルフといったドイツ人作曲家を積極的に評価、登用しました。
ヨーゼフ2世はさらにその政策を推し進め、モーツァルトをドイツ代表として扱い、イタリア勢に対抗する手駒としました。
一番大きな施策としては、宮廷劇場ブルク劇場を1776年に「ドイツ国民劇場」とし、フランス演劇やイタリア・オペラの上演をやめて、ドイツ語の音楽劇(ジングシュピール)を上演させました。
その最初のものは1778年2月に初演されたイグナーツ・ウムラウフの『坑夫』でした。
このウムラウフは、ベートーヴェンの《第九》の初演を指揮した楽長ミヒャエル・ウムラウフの父です。
それなりには人気を博し、モーツァルトにもドイツ・オペラ作曲が委嘱されました。
ヨーゼフ2世の期待に大いにこたえようと作曲、上演したのが1782年の『後宮からの誘拐』です。
しかし、ヨーゼフ2世はこの作品にあまり満足できませんでした。
ふたりの有名な会話が伝えられています。
皇帝:われわれの耳にはあまりにも美しいが、音符が多すぎるよ、モーツァルト君。
モーツァルト:音符の量は適量でございます、陛下。
『後宮』は、ウィーンよりもドイツの各都市でもてはやされましたが、肝心のウィーンではその後、ドイツ語オペラは不人気で、ヨーゼフ2世自身もその政策とは逆に、イタリア音楽が大好きだったこともあり、『後宮』初演の翌年には「ドイツ国民劇場」は早々に閉鎖されてしまいました。
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イタリア・オペラ vs ドイツ・オペラ
ヨーゼフ2世は、その間もドイツ音楽の可能性を探っていたらしく、1786年には、オランダ総督を歓迎する余興として、シェーンブルン宮殿のオランジュリー(オレンジを育てる大温室)で、ドイツ・オペラとイタリア・オペラの競演を行いました。
ドイツ・オペラは、モーツァルトに任され、『劇場支配人』を作曲。
イタリアオペラ・オペラは、サリエリに任され、『はじめに音楽、お次にせりふ』を作曲。
まさにドイツ vs イタリアの〝オペラ対決〟だったわけですが、はっきり勝敗がついたわけではありません。
当日のギャラ配分を指示したヨーゼフ2世のメモが残っていて、それを見るとサリエリはモーツァルトの倍額の報酬をもらっているので、一般にはサリエリの勝ち、ともみなされていますが、当時サリエリはすでに宮廷作曲家の称号を持ち、モーツァルトはフリーランスのままでしたので、これは身分の差によるものと考えます。
イタリア人ピアニスト vs ドイツ人ピアニスト
また、これに先立つ1781年、ヨーゼフ2世はモーツァルトと、イタリアから来た名ピアニスト、クレメンティとピアノで競演させています。
今度は、ロシア大公パーヴェル(のちの皇帝パーヴェル1世)をもてなす場でした。
クレメンティはローマで生まれ、この頃はロンドンに住んでいましたが、評判が高まってきたので演奏旅行に出て、パリでマリー・アントワネットの御前で演奏し、今度は兄のヨーゼフ2世のところにやってきたのです。
クレメンティは、ピアノの練習曲でも有名ですが、この時期はまだ若く、華々しい技巧で勝負していて、モーツァルトの奥深い演奏には遠く及ばなかったそうです。
モーツァルトはこの競演の様子を父親に次のように報告しています。
ところで、クレメンティのことです。この人物は有能なチェンバロ奏者です。それで全部言い尽くしたことになります。彼は右手が非常に巧みです。彼の得意なパッセージは3度です。それ以外には趣味も情緒もこれぽっちもない。単なる機械屋です。皇帝は、ぼくたちが十分挨拶を交わし合ったあとで、まず彼から弾き始めるようにといったのです。『カトリック教会さん』と陛下はおっしゃいました。クレメンティはローマ生まれだからです。彼は即興的に弾いたあと、ソナタを1曲弾きました。それから皇帝はぼくに始めてくれと言いました。ぼくは試し弾きをしてから変奏曲を弾きました。そのあとロシア大公妃がパイジエッロのソナタを下さいましたが(彼自筆のひどいものでした)、ぼくはそのアレグロを、彼はアンダンテとロンドを弾きました。それから、ぼくたちはそこから主題をひとつ取り出して、2台のピアノフォルテで演奏したのです。ここで奇妙だったのは、ぼくは自分用にトゥーン伯爵夫人のピアノフォルテを借りていて、ぼくが一人で弾く時にはこのピアノフォルテだけを弾いたのでした。これは皇帝がそうお望みだったからです。しかも、もう一つのピアノフォルテは調子が狂っていて、それにキーが3つも下がったままなのです。かまわぬ、と皇帝はおっしゃいました。ぼくは自分によくとって、これは皇帝がぼくの音楽における技術と知識とをもうご存知でいらっしゃって、外国人だけ試そうとお望みだったのだと考えています。*1
この競演は、モーツァルトの圧勝だったようです。
クレメンティ自身も、このように述懐しています。
私はこの時まで、誰もこれほどにも才智豊かで典雅な演奏をしたのを聴いたことがなかった。とりわけ私が驚いたのはアダージョであり、また皇帝が主題をお選びになった数々の変奏曲の即興であった。この主題を私たちはお互いに伴奏し合いながら変奏しなければならなかったのである。
実に率直に負けを認めています。
ただし、クレメンティはこれから、モーツァルトをはじめ、様々な演奏を聴くことによって、腕に磨きをかけ、豊かな演奏ができるようになっていったのです。
競演当時はまだ、テクニックをひけらかして喝采を浴び、天狗になっていた〝若気の至り〟時代だったわけで、曲がりなりにも現代にもその名が残っているのは、彼のその後の努力によります。
彼はまた、ベートーヴェンのプロモーションにも一役買ったエピソードはかつて取り上げました。
それにしても、ヨーゼフ2世がどれだけドイツ、イタリアの音楽を意識していたかが分かります。
また、クレメンティのことを〝カトリック教会さん〟と呼んでいるのも、ローマ教皇と対決していた当時の皇帝の心境が伝わってきます。
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教会音楽不作の10年間
1783年、ヨーゼフ2世の創った「ドイツ国民劇場」は、元の「ブルク劇場」に戻されてしまいました。
モーツァルトの『後宮』も、この性急なヨーゼフ2世の取り組みに寄与できなかったといえます。
やはり、イタリア・オペラの威力、特にイタリア人楽壇とその支持者の影響力は絶大で、ヨーゼフ2世の、根回しなき改革の失敗例のひとつとなってしまいました。
1787年、ブルク劇場として再開して以降は、再びイタリア・オペラの牙城となり、モーツァルトもここで『フィガロの結婚』を世に問うことになるのです。
ヨーゼフ2世の勅令が当時の音楽に与えた影響で最も大きなものは、教会音楽の制限でした。
敬虔なカトリック信者であった母帝マリア・テレジアの統治時代には、ウィーンでは華やかな教会音楽が完成を迎えました。
少年時代のハイドンも、弟ミヒャエル・ハイドンも、聖シュテファン大聖堂の合唱隊員として活躍し、女帝に褒められました。
教会音楽は、フル・オーケストラやソロ、合唱を伴う大規模なものとなってゆき、まるでオペラのように世俗化もしていきました。
人々が、素晴らしい音楽を求めて教会に足繫く通うようになったのは、マリア・テレジアの狙いのひとつだったかもしれませんが、ヨーゼフ2世は、それを苦々しく思っていたようです。
カトリック教会の力を削ぐ政策に邁進していた皇帝は、1780年代、単独統治になってから、次々と、華やかな教会音楽を禁止、あるいは制限していきました。
その結果、ハイドンもモーツァルトも、その時期には教会音楽を書かなくなってしまったのです。
ハイドンは1782年の『マリアツェル・ミサ』以降、1796年までミサ曲を書いていません。
モーツァルトも、1782年の結婚に際して『ハ短調ミサ』を作曲しますが、これも未完成に終わり、それ以降、書いていません。
ウィーンに来る前は、宗教都市ザルツブルクで大司教に仕えていましたから、たくさんのミサ曲を書いていたにもかかわらず、です。
次に書いたのは、1790年のヨーゼフ2世の崩御後、翌年に自分が亡くなる間際に書いた『レクイエム』のみです。
これはモーツァルトの創作上の謎とされていますが、何のことはない、皇帝によって禁止されていたから、にほかなりません。
ハイドンがこの時期、シンフォニー作曲に邁進したのも、そこに理由が見いだせるのです。
彼も、ヨーゼフ2世が崩御して、教会音楽の制限が撤廃されてから、6曲もの大ミサ曲を作曲しています。
それでは、ハイドンのシンフォニーを聴いていきます。
Joseph Haydn:Symphony no.75 in D major, Hob.I:75
演奏:クリストファー・ホグウッド指揮 アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージック(古楽器使用)
第1楽章 グラーヴェ―プレスト
ハイドンのシンフォニーの中でも、生前に特に人気があり、ポピュラーになっていた作品です。1780年代から様々な出版社から楽譜が出され、1781年にはフンメル社から、第62番、第63番、第70番、第74番と一緒に「作品18」として出版されています。
モーツァルトもこの作品を特に研究し、自作の参考にしたといわれていて、彼の楽譜の片隅にもこのシンフォニーの譜例がメモされています。
序奏に「グラーヴェ」と指示されているのはこの曲だけです。ふつうは「アダージョ」あるいは「ラルゴ」とするのに、何か強い思い入れを感じます。実際、この序奏には単なる導入の域を超えて、ただならぬものを感じます。途中から短調になり、半音階的な屈折した音型で、とてもシリアスな雰囲気になります。
プレストは一転、ニ長調らしい明るく元気な調子になりますが、ここでの音階の動きはモーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』序曲の主部に似ているとの指摘があります。あの序曲の、暗い序奏から一気に明るくなる流れは、初めて聴く人を唖然とさせますが、その着想はこのシンフォニーにあったのかもしれません。
展開部は対位法も駆使して、時には颯爽として翔け、時にはこれでもかというほど畳み掛けていきます。
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テーマは、静謐で厳粛な讃美歌のようです。この曲は英国で大ヒットし、後のハイドンのロンドン訪問につながっていきますが、英国国歌の趣もあります。一方で、モーツァルトのピアノ協奏曲 第15番 K.450の第2楽章にも影響を与えたと言われています。テーマは4つの変奏となります。第1変奏は、管楽器の強いリズムに導かれてヴァイオリンが旋律を奏で、第2変奏はチェロのソロが担当します。第3変奏は管楽器の豊かな伴奏のもとに第1ヴァイオリンが元のテーマを奏する中、第2ヴァイオリンが細かい律動で変化をつけるという凝りようです。第4変奏はシンプルで素敵なコーダです。
実際、1792年に、ハイドンは英国訪問の際、3月26日にコンサートで自らこのシンフォニーを演奏しました。その前夜、ある牧師が夢で「このシンフォニーのアンダンテは自分の死の予告である」というお告げを受けたというのです。実際はポコ・アダージョですが、第2楽章のことを一般にアンダンテを呼んでいたようです。そして、夢告のとおり、この演奏を聴いた牧師は翌月の4月25日に亡くなってしまった、とハイドン自身が日記に書きつけています。怖いエピソードではありますが、当時ハイドンのシンフォニーがどれだけ人々に影響を与えていたかが窺えます。
第3楽章 メヌエット:アレグレット&トリオ
軽くてギャラントな雰囲気が魅力的なメヌエットです。トリオでは、フルートとソロ・ヴァイオリンがユニゾンで奏するのが珍しい趣向です。
第4楽章 フィナーレ:ヴィヴァーチェ
弦楽器だけのニ長調の弱奏で始まる、自由なロンド形式です。A-B-A1-C-A2-コーダという構成になります。Bはニ短調の激しい嵐です。A1はAとほぼ同じですが、旋律の担当楽器の変更で変化をつけています。Cはロ短調で畳み掛けますが、ほどなく平和なA2に戻ります。しかしA2もA1に比べると大胆に楽想が変化されており、コーダではフォルテッシモで元気に曲を閉じます。
動画はジュネーブの若手バロック・オーケストラのものです。
www.youtube.com
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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