ハイドンとモーツァルト。
このふたりの音楽はよく比較されます。
クラシックに興味のない人が聴けば、両者の音楽は、ほとんど同じに聴こえると思われます。
私がジャズが同じに聴こえるのと同様に。
ハイドンは、モーツァルトより23年早く生まれ、モーツァルトの死の18年後に亡くなりました。
モーツァルトは、先輩ハイドンに啓示的な影響を受け、ハイドンも後輩モーツァルトに大きな影響を受けました。
ハイドン晩年の12曲の大シンフォニー『ロンドン・セット』は、モーツァルトの音楽を聴いて得たインスピレーションに満ちています。
そのため、同じように聴こえるのも無理はありません。
しかし、ふたりの個性は強烈な違いがあり、似て非なるものでした。
ルネサンスの巨匠に比べたら、私はハイドンがミケランジェロ、モーツァルトがラファエロ、というイメージをもっています。
以前も引用しましたが、近代日本の文芸批評の確立者、小林秀雄(1902-1983)は、音楽評論『モオツァルト』で、次のように評論しています。
僕はハイドンの音楽もなかなか好きだ。形式の完備整頓、表現の清らかさという点では無類である。併し、モオツァルトを聞いた後で、ハイドンを聞くと、個性の相違というものを感ずるより、何かしら大切なものが欠けた人間を感ずる。外的な虚飾を平気で楽しんでいる空虚な人の好さと言ったものを感ずる。この感じは恐らく正当ではあるまい。だが、モオツァルトがそういう感じを僕に目覚ますという事は、間違いない事で、彼の音楽にはハイドンの繊細ささえ外的に聞こえる程の驚くべき繊細さが確かにある。心が耳と化して聞き入られねば、ついて行けぬようなニュアンスの細やかさがある。一と度この内的な感覚を呼び覚まされ、魂のゆらぐのを覚えた者は、もうモオツァルトを離れられぬ。
ハイドンも凄いけれども、モーツァルトの方が凄すぎる、というわけで、これに共感する人は多いと思われます。
ただ、芸術については、優劣を論じても意味はなく、個性の違いを論じるべきです。
男爵になった音楽家
まさにふたりが活躍した時代、両者の音楽を日常的にリアルに聴いていた、皇帝ヨーゼフ2世が、ハイドンとモーツァルトの音楽について、大いに語ったという貴重な証言があります。
記したのは、当時、オペラでモーツァルトを凌ぐ人気を誇っていた作曲家、カール・ディッタース・フォン・ディッタースドルフ(1739-1799)です。
彼の父は、女帝マリア・テレジアの父、皇帝カール6世のもとで、宮廷劇場の衣裳デザイナー、刺繍職人を務めていました。
カール6世に招かれてウィーンでオペラを上演しようとした、晩年のヴィヴァルディとも仕事をしたかもしれません。
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子のディッタースドルフは、幼い頃から父の仕事場である劇場に出入りするうち、音楽に興味をもちました。
父は息子に音楽の才能があることに気づき、その人脈の音楽家たちに教育を頼みました。
彼はメキメキと才能を現し、22歳には楽長グルックのもとで宮廷劇場オーケストラに入団しました。
26歳には、ハイドンの弟、ミヒャエル・ハイドンの後任として、ハンガリーのグロースヴァルダイン司教の楽長に就任。
31歳にはオーストリア領シュレージェンの領主シャフゴチ伯爵がパトロンになってくれます。
この頃までにイタリア・オペラを9曲も作曲し、ローマ教皇からも黄金拍車勲章をもらいましたが、これは後にモーツァルトがもらったものより下位のものでした。
ところが1773年、33歳のときに、彼は女帝マリア・テレジアから貴族に叙され、男爵の爵位をもらいます。
ハイドンやモーツァルトはもちろんのこと、宮廷楽長にまでなったグルックやサリエリでさえ貴族に取り立てられなかったのに、極めて異例のことです。
司教からある役職を任じられるにあたり、貴族の資格が必要だったからですが、それにしても破格で、プロイセンと係争していたシュレージェンに対する、女帝マリア・テレジアの政治的配慮なのかもしれません。
これによって、ディッタースドルフの名前には、貴族を表す「フォン」が付け加えられたのです。
1788年、ヨーゼフ2世の命令で作曲し、ケルントナートーア劇場で初演したオペラ『医師と薬剤師』は大成功し、1786年に初演されたモーツァルトの『フィガロの結婚』、1788年の『ドン・ジョヴァンニ』をすっかり影の薄いものにしてしまいました。
『フィガロの結婚』はウィーンではあまり評判になりませんでしたが、その後ボヘミアの都プラハで大ヒットしました。
プラハの聴衆から、ぜひ第二弾を、と求められ、『ドン・ジョヴァンニ』を作曲、上演するのですが、モーツァルトはこれを皇帝にも観てもらいたいと、翌年ウィーンで再演しました。
しかし、ヨーゼフ2世の感想は次のようなものでした。
『このオペラは絶妙である。あるいは「フィガロ」よりもさらに美しいかもしれない。しかし、我々ウィーン人の口に合う食物ではない。』
軽妙洒脱なものを求めるウィーンの人々にとって、モーツァルトの音楽は〝重すぎ〟だったのです。
ハプスブルク家の支配にずっと屈していたプラハの人々は、モーツァルトのオペラに、〝支配からの脱却〟の精神を感じ、大いに共感しました。
しかし、支配者側の皇帝、ウィーン人にとっては、もっと軽い娯楽性の高いものが好まれ、ディッタースドルフは見事にそれに応えた、というわけです。
皇帝、音楽について大いに語る
さて、男爵であるディッタースドルフは、いつでも皇帝に拝謁できる立場でした。
そしてある時、ヨーゼフ2世と次のような音楽談義を行ったというのです。
皇帝:君はモーツァルトの演奏を聴いたことがあるか?
ディッタースドルフ:すでに3回ございます。
皇帝:気に入ったか?
ディッタースドルフ:専門家なら誰でも気に入るように、私も気に入りました。
皇帝:それではクレメンティを聴いたことは?
ディッタースドルフ:ございます。
皇帝:モーツァルトより彼の方を評価する人もいる。その筆頭はクライビッヒだ。君の意見はどうだ。忌憚なく言いたまえ。
ディッタースドルフ:クレメンティの演奏は、ただ技術が支配しているだけですが、モーツァルトには技術と美的趣味があります。
皇帝:私もまさしくそう言ったのだ。まるで我々は同じ本から学んだようだ。
ディッタースドルフ:それも、経験という偉大な書物からでございましょう。
皇帝:モーツァルトの作曲についてはどう思うか。
ディッタースドルフ:争う余地もなく、彼は最も偉大な独創的天才のひとりでございます。あれほど豊かな楽想をもっている作曲家を私は知りません。あんなに惜しげもなく使わなくてもよいのでは、と思うくらいです。彼は聴く者に息つく暇も与えないのです。なぜなら、ひとつの楽想についてじっくり味わおうとしても、すぐ次に別の、もっと素晴らしいのが現れて、前のを押しやってしまうからです。それがいつまでも続くものですから、せっかくの美しい楽想が、結局はひとつも頭に残らないのです。
皇帝:彼は劇場作品において、唯一の誤りを犯している。歌手たちがいつも嘆くように、盛りだくさんの伴奏で歌手の声を聞き取りにくくしてしまうのだ。
ディッタースドルフ:どうしてそうするのか不可解なことでございます。歌唱性を損なうことなしに、ハーモニーや伴奏をつけることはできるはずですが。
皇帝:その技量は君の優れているところだ。私はそのことを君のふたつのオラトリオ、『ヒオブ』と『エステル』で気がついた。ところで、ハイドンの作曲については君はどう思うか。
ディッタースドルフ:彼の、劇場のための作品はひとつも聴いておりません。
皇帝:それは何のハンディにもならない。彼はモーツァルトと同じことをやっておるから。でも彼の室内楽作品はどう評価するか?
ディッタースドルフ:それらは全世界にセンセーションを巻き起こしております。それも当然でございましょう。
皇帝:彼はときどきあまりに戯れが過ぎないか?
ディッタースドルフ:彼は芸術の価値を落とすことなく、戯れる才能をもっております。
皇帝:それは君の言う通りだ。(しばらく間をおいて)私は最近モーツァルトとハイドンを比較してみた。君も何かひとつ比較してみたまえ。そうして、君の考えと余の考えが一致するかどうか試そうではないか。
ディッタースドルフ:(しばらく間をおいて)陛下、その前にこちらからご質問をするのをお許しくださいますでしょうか。
皇帝:よろしい。
ディッタースドルフ:陛下は、クロプシュトックとゲレルトにどんな違いがあると思し召されますか?
皇帝:ふむ。ふたりとも大詩人だが、クロプシュトックの全ての美を理解するには、作品を何回か読まなければならないが、ゲレルトの美は、最初に読んだときにすぐ分かる。
ディッタースドルフ:陛下、それが私の答えでございます。
皇帝:すると、モーツァルトがクロプシュトックで、ゲレルトがハイドン、というわけか?
ディッタースドルフ:少なくとも私自身はそのように考えております。僭越でございますが、陛下のお考えをお伺いできますでしょうか。
皇帝:即答しよう。私はモーツァルトの作品を、パリで製作された黄金の嗅ぎタバコ入れに、そしてハイドンの作品はロンドンで製作されたものにたとえたのだ。
この会話は、ディッタースドルフが1799年に世を去る前に、病床で息子に口述筆記させた「自叙伝」によるものです。
ネタは多少盛ってあるかもしれませんが、ヨーゼフ2世が音楽に高い鑑賞眼をもっていたのは、他の証言からも窺い知ることができます。
さすがは、芸術の保護者として名高いハプスブルク家の皇帝です。
ちなみに、話に出てくるクロプシュトックとゲレルトは、いずれも18世紀ドイツ文学の興隆に大きな貢献をした詩人です。
「ドイツ国民」を創出しようとしていたヨーゼフ2世は、ドイツの音楽家をドイツの詩人にたとえているわけです。
この詩人たちについては次回取り上げたいと思います。
いずれにせよ、彼の政策は芸術、文化の分野にまで絡んでいたことが窺い知れます。
モーツァルトをフランス製、ハイドンをロンドン製の製品(嗅ぎタバコ入れ)になぞらえているのも興味深いです。
確かに、モーツァルトの音楽には、フランス宮廷文化の優雅な香りと、近づく革命への地下のマグマの胎動のような激しさが混在しており、ハイドンの音楽には、いち早く産業革命を起こした英国の最新の工業製品のようであり、近代市民社会を実現しつつあったロンドン社会の幅広い聴衆に分かりやすく伝わる普遍性を感じます。
ハイドンがロンドンに旅立ち、大いに歓迎されるのはヨーゼフ2世の崩御の翌年、1791年のことですから、ハイドン=英国のイメージを抱いていた皇帝の慧眼には驚かされます。
ハイドンに熱狂していた英国
1780年代、すでにハイドンの音楽は、もはやハンガリーのエステルハージ侯爵家宮殿を出て、ヨーロッパ中に広がっていました。
特にハイドンの音楽をもてはやしていたのは、英国でした。
裕福な市民が生まれ、音楽の消費者の幅が、大陸諸国よりも広がっていたのです。
ロンドンのあちこちで、毎晩のようにコンサートが開かれていました。
当時の証言です。
『重要な音楽会やソロ・リサイタルで、エステルハーザの作曲家の曲を演奏しないものはほとんどなかった。(ガイリンガー)』
1764年から1765年にかけて、英国初(ということは世界初)の予約制定期演奏会として、大バッハの末子ヨハン・クリスティアン・バッハと、カール・フリードリヒ・アーベルによる、有名なバッハ・アーベル・コンサートが開かれていました。
ここでも既にハイドンの作品は演奏されていました。
1774年には、ロンドンの代表的なコンサート会場、ハノーヴァー・スクエア・ルームズが建設されます。
ここでもJ.C.バッハ、アーベルらによってコンサートが開かれ、ハイドンのシンフォニーも盛んに演奏されましたが、1782年にJ.C.バッハが亡くなると、興行としてはいったん破綻してしまいました。
アビントン卿が経営を引き継ぎ、同年に『プロフェッショナル・コンサート』を設立。
音楽学者で、ヨーロッパ中の音楽家をあまねく訪ねた大旅行をし、見聞録を出版したことで有名なチャールズ・バーニーが、ハイドンをその指揮者として招聘することを企画します。
しかし、ハイドンの雇用主であるニコラウス・エステルハージ侯爵は、ハイドンに長期休暇を与えることに難色を示しました。
ハイドン自身も、だいぶ悩んだようですが、最終的には自分を全面的に信頼してくれた大恩ある主君の元を離れる決断はできませんでした。
ただ、英国行きはかなり前向きに検討していたようで、シンフォニー 第76番、第77番、第78番は、英国旅行にたずさえ、向こうで演奏するために3曲セットで作曲されました。
そのため、この3曲は『イギリス交響曲』とも呼ばれます。
いずれもフルート1、オーボエ2、ファゴット2、ホルン2、弦五部という小編成で、いかにも旅行向き、といった趣です。
演奏旅行は実現しませんでしたが、ハイドンは1783年にパリの楽譜出版者であるシャルル=ジョルジュ・ボワイエにこの3曲を売り、1784年にはロンドンのフォースター社にも売り、瞬く間に大人気となりました。
後に実現したハイドンのロンドン訪問の記事はこちらです。
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それでは、1曲目の第76番 変ホ長調から聴いていきます。
この3曲はまだ古楽器による録音はないため、アダム・フィッシャーのハイドン交響曲全集から取り上げます。
Joseph Haydn:Symphony no.76 in E-flat major, Hob.I:76
演奏:アダム・フィッシャー指揮 オーストリア・ハンガリー・ハイドン管弦楽団(現代楽器使用)
1782年の作曲です。冒頭、弦がクルクルとはしゃぐように細かい動きをし、それにフルート、オーボエ、ホルンが柔らかく呼応します。第2主題はゆっくりと天に昇っていくようですが、第1主題に含まれているモチーフを元に作られたもので、主題の関連性を持たせているのが斬新です。そして、展開部では第1主題を助ける素材となり、英国人はこのあたりに新しさを見出したことでしょう。リズムは多様に変化し、珍しいファゴットのソロも出てきます。
第2楽章 アダージョ・マ・ノン・トロッポ
変ロ長調の静かで叙情的な調べで始まります。第2楽章が属調というのも珍しい選択です。しかし、新しい旋律が次々と出てきます。だんだんと管楽器が悲し気に歌い始め、寂寥感が広がります。やがてそれを拭い去るようにヴァイオリンのソロが元の調べを取り戻しますが、それも独自に展開していきます。すると、いきなりの嵐。弦が吹きすさぶ風のよう。モーツァルトのニ短調のピアノ・コンチェルト(第20番)のロマンツェを思い起こします。モーツァルトはこの楽章にインスパイアされたかもしれません。嵐が去ると再び静謐な世界が戻り、ソロ・ヴァイオリンのカデンツァが華麗に曲を閉じます。オペラの一場面のようなドラマチックな楽章です。
第3楽章 メヌエット:アレグレット&トリオ
実際の舞曲に近いような、踊れるメヌエットです。でも、どこか落ち着いている雰囲気が、このシンフォニーの特徴です。トリオは管が楽しく伴奏し、まるでメリーゴーランドのようです。純真無垢な童心を感じさせます。
第4楽章 フィナーレ:アレグロ・マ・ノン・トロッポ
第1主題は、前打音のある逆付点リズムに近い特徴的なものです。第2主題も同じ特徴をもっています。ひととおり、第1主題と第2主題のからみが終わると、両者一体となって疾走し始めます。その中で、オーボエや弦がチャチャを入れたり、突然意味もなく立ち止まったり、ハイドンの、人を喜ばせるユーモアたっぷりの仕掛けが随所に施されています。ユーモア好きの英国人のために作った音楽なのです。
初めて聴いても楽しめてしまう、ヨーゼフ2世の言うところの〝分かりやすさ〟の典型例ともいえるでしょう。
さて、ディッタースドルフ自身の音楽も聴いてみましょう。
彼は3曲の『コントラバス協奏曲』をはじめ、普段は縁の下の力持ちである楽器、コントラバスをソロ楽器として扱った曲を何曲も書いています。
いずれも現代でも、コントラバス奏者にとって貴重な楽曲になっています。
そのため、コントラバス奏者だと誤解されることもありますが、これらの曲は1760年代にグロースヴァルダイン(現ルーマニア領オラデア)の宮廷楽師をした際、その宮廷楽団にはシュペルガーという名コントラバス奏者がおり、その人のために作曲したもので、自身はブルク劇場で定期的なリサイタルを開くほどのヴァイオリンの名手でした。
モーツァルトの友人である、マイケル・ケリーというアイルランド出身のテノール歌手(『フィガロの結婚』の初演でドン・バジリオ、ドン・クルツィオ役を歌う)の回想録によれば、英国の作曲家スティーヴン・ストーラスが1784年にウィーンを訪れた際、弦楽四重奏による音楽会を開催。なんとそのカルテットは、第1ヴァイオリンがハイドン、第2ヴァイオリンがディッタースドルフ、ヴィオラがモーツァルト、チェロが当時の人気作曲家ヴァンハルといった、信じられない超豪華メンバーによるものだったということです。
いったい、どんな音色だったのか。
当時、録音機器がなかったことが残念でなりません。
Carl Ditters Baron von Dittersdorf : Concerto in E Major for Double-bass and Orchestra
演奏:エデン・ラーチ(コントラバス)、アムステルダム・フランツ・リスト室内管弦楽団
コントラバスは音が低いため、遠くに響くような強い音は出せません。また大型なため、指を押さえる位置が離れていて、速いパッセージを弾くのは困難です。そのため、ソロの楽器として扱われることはなく、ハイドンのシンフォニーでも、初期の「朝」「昼」「晩」で、自己紹介のように登場するのみです。そのため、この曲では、高音の旋律を演奏するために「ウィーン式調弦」と呼ばれる特殊な調弦法(3度と4度の混合調弦)でチューニングされています。
作曲時期としては、ハイドンの初期のシンフォニーの頃ですから、優雅なロココ調の音楽です。高音部はチェロのようにも聞こえますが、より奥深いところから響いてくる感じがします。硬派な楽器が明るい旋律を奏でるというギャップは癖になります。最後のカデンツァは伸びやかで心に沁みます。
動画も同じメンバーです。
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ゆったりと深呼吸をするかのようなオーケストラに伴奏されて、コントラバスがじっくりと奏でます。波乱にとんだ人生を歩んできた老人が語る、往時の思い出を聞くようです。
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オーケストラが華やかに幕を上げ、続いて優しくも楽しいテーマが繰り出されます。どこかヘンデルのオルガンコンチェルトの趣があります。ここでのコントラバスは実に軽やかで、この楽器の意外な一面を見せてくれます。
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次回も、ハイドンとモーツァルトの聴き比べをしていきたいと思います。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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