孤独のクラシック ~私のおすすめ~

クラシックおすすめ曲のご紹介と、歴史探訪のブログです。クラシックに興味はあるけど、どの曲を聴いたらいいのか分からない、という方のお役に立ちたいです。(下のメニューは横にスライドしてください)

しきたりと監視に縛られた、遊び盛りの少女の1日とは。~マリー・アントワネットの生涯10。ハイドン:交響曲 第90番 ハ長調

ヴェルサイユ宮殿の王妃のアパルトマン(居室)

ヴェルサイユでの1日

14歳のフランス王太子マリー・アントワネットは、ヴェルサイユ宮殿での暮らしを始めました。

前回取り上げた、母帝マリア・テレジアデュ・バリー夫人への悪口を書いた3日後には、同じく母宛の手紙で、毎日のタイムスケジュールを報告しています。

マリー・アントワネットからマリア・テレジア(1770年7月12日)

お母様はおやさしくも私を気遣ってくださり、そればかりか、毎日どのように過ごしているかとお尋ねですので、お知らせいたします。

起きるのは10時か9時か9時半で、着替えて朝のお祈りを唱えます。それから朝食をすませ、叔母様がたのところへ参ります。普段ですとそこで陛下にお目にかかります。そこには10時半までいます。そのあと、11時にお化粧と身支度が始まります。昼になると宮内官が呼ばれ、このときからは貴族であれば誰でも私たちのところまで入ってこられます。私は紅をさし、みんなの見ている前で手を洗います。それを合図に殿方はすべて退出し、ご婦人たちだけになって、その方たちの前で衣服を身につけます。また、昼にはミサがあります。陛下がヴェルサイユにいらっしゃるときは、私は陛下とごいっしょに、殿下と叔母様がたはあとに続いて、礼拝堂に参ります。いらっしゃらないときは殿下と私だけですが、時刻はいつも同じです。ミサのあと、みんなの見ているなかで、殿下とごいっしょに午餐をとります。しかし、二人とも食べるのがとても速いので、1時半には終わります。そのあと私は殿下のところへ参ります。殿下にご用がおありのときは、自分のアパルトマンに戻り、読書や書きもの、あるいは手仕事をいたします。じつは今、国王陛下のためにうわぎを作っているのですが、なかなかはかどりません。でも、神様のお助けを得て、何とか1年あるいは2年のうちには仕上げたいと思っています。3時になると、叔母様がたのところに参ります。この時刻には国王陛下もそこへいらっしゃいます。4時にはヴェルモン神父様が私のところへ来られます。毎日5時から、チェンバロもしくは歌を先生について練習いたします。6時半になると、ほとんど毎日叔母様がたのところへ行きますが、散歩をすることもあります。念のため申し上げれば、叔母様がたのところへ行くときは、たいていは殿下がいっしょです。7時から9時まではカード遊びです。でも、天気がよければ私は散歩に出掛けます。そのときは、カード遊びは私のところではなく、叔母様がたのところで行われます。9時に晩餐です。国王陛下がご不在のときは、叔母様がたが私のところへいらっしゃって晩餐をとります。しかし陛下がいらっしゃるときは、晩餐のあと私たちが叔母様がたのところへ行き、陛下をお待ちします。陛下はふつう10時45分に来られます。陛下のおいでになるまで、私は大きなソファーに横になって眠ります。陛下がヴェルサイユにいらっしゃらないときは、11時に床に就きます。これが私の1日です。日曜日と祝日をどんなふうに過ごすかは、つぎの機会にお知らせします。

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裸で寒さに震える王妃

映画『マリー・アントワネット』の寝室のシーン

フランス宮廷生活は、割と夜も朝も遅かったようです。

それも、太陽王ルイ14世が、王族の生活を公開し、それを権威の象徴として扱ったため、多くが衆人環視のもとで行われました。

王太子妃や王妃の身支度はその中でも重要で、これに高位の貴婦人たちが参画するのがしきたりでした。

彼女が王妃となってからの話で、これはソフィア・コッポラ監督の映画『マリー・アントワネット』でもユーモラスに描かれていますが、ある寒い冬の日、裸になった王妃にシュミーズを着せようと、寝室係の女官カンパン夫人が準備していると、そこに女官長が入ってきました。

部屋の最上位の者が王妃にシュミーズを渡す特権があるため、カンパン夫人はシュミーズを女官長に渡します。

女官長が王妃に着せようとすると、そこにオルレアン公爵夫人が入室してきます。

権利は公爵夫人に移りますが、女官長は夫人に直接渡すことはマナー違反のため、シュミーズはいったんカンパン夫人に戻り、夫人があらためて公爵夫人に渡そうとします。

するとそこに、王弟プロヴァンス伯爵夫人が入ってきたため、オルレアン公爵夫人は権利を伯爵夫人に譲りました。

プロヴァンス伯爵夫人は、ずっと裸で震えている王妃を見て、とっさの機転で手袋を外す儀礼を省略し、ハンカチを拡げてシュミーズを受けとった、とのことです。

ヴェルサイユではすべてにおいてこのような、儀礼や特権、エチケットが設けられておりました。

それは、フランス絶対王政維持の根幹ともいえる所作なのですが、マリー・アントワネットにとっては、まったく無意味に感じられました。

彼女もヨーロッパ一の名家の出ですが、ハプスブルク家の宮廷では、公私がきっぱりと分かたれ、公の場でしっかり威厳を保つのは彼女もお手の物でしたが、ひとたび扉が閉じられ、私的な場所と時間になれば、庶民同様、大いに羽を伸ばし、羽目を外すこともできたのです。

しかし、フランスでは王族にはほとんど私的な時間はありませんでした。

特に王族の食事の公開は重要で、田舎から出てきた人が、ヴェルサイユ宮殿で感銘を受けたのは、その豪壮な建築ではなく、国王ルイ15世がフォークの背を使って半熟卵の殻を見事に剥く、その手先の器用さだった、と伝わっています。

マリー・アントワネットには、こんなヴェルサイユ宮殿のしきたりがアホらしく思えて仕方がありません。

また、彼女はまだ14歳。

もともと遊び好きで勉強嫌いのやんちゃ娘ですから、耐えられるはずもありません。

母親の監視カメラ役

マリーアントワネットのお目付役、駐仏オーストリア大使フロリモン=クロード・ド・メルシー=アルジャントー伯爵(1727-1794)

母帝は、そんな彼女の性格は既にお見通しですから、心配でなりません。

側近として送り込んだ駐フランスのオーストリア大使、メルシー伯爵に、しっかり娘を見張り、なんでも報告するよう命じていました。

この忠臣は、誠実に女帝の命に従いましたが、王太子妃は彼が母のスパイであるとは思ってもいませんでした。

彼は次のように女帝に報告しています、

わたくしは王太子妃付きメイドのうち3人を手中におさめましたし、ヴェルモン神父には毎日皇女を観察させております。デュルフォール公爵夫人からは、皇女が叔母上たちと話す内容を一語残らず聞いています。さらには王太子妃が王とごいっしょのとき、そこで起こることなども、いろいろ手段を講じて知るようにしています。その上わたくし自身の観察もありますので、皇女が何をされ、何をお聞きになっているか、推測できないような時間は1日に1時間たりとございません。わが女帝陛下にご安心いただけるほど、探査網は十分広がっております。*2

マリー・アントワネットがうまく立ち回れない事態になれば、両国の同盟が揺らぎかねないばかりか、彼女の振る舞いによってフランス王家が傾けば、自らを破滅に追い込みかねません。

マリア・テレジアは、国のためにも、愛する娘のためにも、まるで監視カメラのように探査網を確立し、彼女の行動を把握し、適切でないことがあれば手紙でどんどん注意を与えたのです。

皇女は、なんで遠いウィーンにいる母親が、自分のなすことを全て知っていて、細かくお説教してくるのか不思議に思わなかったのが不思議です。

しかし、母帝の叱責には、手紙では表面的には従順に従っていますが、そんなことでこのおてんば娘がおとなしくなるわけがありません。

まさに面従腹背

義務付けられた読書は、神父に代読してもらって上の空で聞くだけ。

女官長の目を盗んで、年下のやんちゃ坊主、夫の弟たち、プロヴァンス(のちのルイ18世)や、アルトワ伯(のちのシャルル10世)と遊びまわっていました。

まだ子供なのだから仕方がありませんが、表面的には、毎日のように届く母帝の訓示の効果もあってか、母帝の存命中には、破滅的な事態には至らなかったのです。

ただ、デュ・バリー夫人との確執を除いては。

ハイドンの『ドーニ・セット』

ハイドン『パリ・セット』または『パリ交響曲と呼ばれる、第82番から第87番の6曲セットは、パリの公開演奏会組織「コンセール・ド・ラ・ロージュ・オランピック」で演奏され、大好評を博しました。

あまりの人気に、その組織の理事的な役割を果たしていたドーニ伯爵は、第2弾として、さらに3曲のシンフォニーをハイドンに注文しました。

ドーニ伯爵は、パリとマルセイユ間の郵便事業を独占しており、貴族というよりは実業家でした。

王侯貴族が自分の趣味や権威づけのために音楽を注文していたのに対し、ドーニ伯爵は、パリという巨大マーケットを利用して、音楽興行事業のためにハイドンを利用したのです。

ドーニ伯爵はハイドンでがっちり!というわけです。

シンフォニーは、ハイドンの『パリ・セット』によって、貴族のものから大衆のものへと、革命的に変貌を遂げました。

ハイドンの新作がもつ大衆への訴求力は、これまでの音楽にないものでした。

ハイドンは、1788年にシンフォニー 第90番 ハ長調第91番 変ホ長調、1789年に第92番ト長調《オックスフォード》の3曲を作曲し、ドーニ伯爵に売り渡しました。

この3曲は「ドーニ・セット」と呼ばれます。

大枚はたいて、独占権を手に入れたつもりが…

今もロマンティック街道沿いに残るヴァラーシュタイン城

一方で、前回ご紹介した、マリーアントワネットの姉の夫、ナポリ王をはじめ、王侯貴族からの引き合いもエスカレートしていきます。

南ドイツ、ロマンティック街道の真ん中あたりに所領をもつ、エッティンゲン=ヴァラーシュタイン侯爵は、その美しい居城のヴァラーシュタイン城に有名な楽団を所有していました。

かねて、ハイドンの後援者のひとりでしたが、そのシンフォニーの評判が高まるにつれ、自分の楽団用に作曲してもらいたいと、ウィーン駐在の侯爵の代理人を通じて、ハイドンに依頼していました。

しかし、とても別に3曲もシンフォニーを書く余裕はありませんでした。

そのため、ドーニ伯爵のために作曲したばかりの3曲を、侯爵の方にも送ったのです。

ふつうはこのような注文に対しては自筆譜を送り、それが真作かつ他に渡していない証拠となるのですが、パリの方に送ってしまっています。

そこでハイドンは侯爵に対し、『視力が弱っていて、自筆譜は非常に読みづらいため、筆写譜を送ります。』と言い訳し、さらにその証拠として、判読しづらい自筆譜のサンプルまで添付しました。

しかし侯爵は、友人が、自身が特注した、独占的であるはずの作品の写しを持っていることを知り、さらに既に世間に出回っていることを知ります。

騙されたけど、巨匠だから仕方ない?

完全にハイドンに騙されたわけですが、しかし、彼は、怒ったり訴えたりするどころか、何とかして自分のための作品を書いてもらおうと、代理人を通じてハイドンに50ドゥカーテンもの金を贈り、さらに純金の嗅ぎ煙草入れまで添えました。

そして、旅費を全額負担するので、居城にお越しいただけないか、と腰を低くして招待までしたのです。

ハイドンは、まだ立場上はエステルハージ侯爵家の一使用人に過ぎませんが、その名声はヨーロッパ中に轟いていて、いくら裕福でもドイツの一諸侯からの依頼は適当にあしらっていたことが分かります。

古来、この話は、誠実なハイドンの人物像に傷をつける、残念なエピソードとされていますが、既に取り上げた、第88番と第89番の2曲の「トスト・セット」シンフォニーで、ハイドンは信頼するトスト氏に楽譜を流用、転売されて大損をした経緯がありますので、逆のこのくらいはさせてもらおう、という思いになったとしても不思議はありません。

著作権が確立していない時代、作品が無断使用、転売されても、作曲者が依頼者に売り渡した作品をさらに他に売っても、違法とはいえなかったのです。

エッティンゲン=ヴァラーシュタイン侯爵のところには、1790年に、ハイドンがロンドンに行く途中に立ち寄った、という記録があります。

この寛大な侯爵は、過去に騙されたことなど水に流し、この巨匠を自分の城に迎えるという、名誉の念願が叶ったことを大いに喜んだと思われます。

一平民が、自分の芸術的才能だけで、王侯と立場が逆転し、このような好待遇で扱われることになったことは、この時期の市民革命(アメリカ独立革命フランス革命)、産業革命と並んで、「芸術革命」と呼んでもいいのではないでしょうか。

それでは、「ドーニ・セット」の1曲目、第90番 ハ長調を聴きましょう。

ハイドン交響曲 第90番 ハ長調

Joseph Haydn:Symphony no.90 in C major, Hob.I:90

演奏:ブルーノ・ヴァイル指揮 ターフェルムジーク古楽器使用)

第1楽章 アダージョアレグロ・アッサイ

非常に重々しい序奏から始まります。ハ長調の主音が、全楽器のユニゾン、フォルテッシモで奏されます。第4小節目から、第1ヴァイオリンがゆっくりと奏でる旋律は、実はこの直後の主部、アレグロ・アッサイの第1主題なのです。序奏はその予告というわけです。このパターンはこれまでもありましたが、ここまであからさまなのはこの曲だけです。

主部のチチチチチ、という8分音符は、単独なようでいてちゃんと属和音で装飾されており、拡がる可能性を内包しています。無骨な調子の中に響くオーボエの、鳥のさえずりのような柔らかいソロとの対比感が見事です。弦は上昇と下行を繰り返し、ジェットコースターのような疾走感と力強さを増していきます。

展開部は、第1主題の8分音符がハ短調に転調し、嵐の前のような不穏な空気となります。嵐の予感はすぐにオーボエの囀りで打ち消されますが、ハイドン得意の畳みかけるような盛り上がりを見せます。

再現部も単純ではなく、展開風の凝ったものです。コーダも、例の8分音符の連続フレーズを豊かに膨らまして曲を閉じます。

第2楽章 アンダンテ

静かなテーマで始まる変奏曲です。ふたつのテーマを組み合わせた二重変奏曲となっています。まず、ヘ長調で第1ヴァイオリンとファゴットが第1テーマをつぶやくように奏でます。続いて、ヘ短調で、第2テーマが、するどく切り込むようなトゥッティと、弱音の哀愁漂う部分が対照されます。そのあと、第1テーマの第1変奏が、フルートのソロが虚空に響きます。次に、第2テーマの第1変奏(ややこしい!)が、弱音部分の自由な拡大という形で展開されます。そして、第1テーマの第2変奏は、チェロの独奏となりますが、またフルートとは違った渋い味わいです。コーダは、管楽器たちがカデンツァ風に歌い、何ともいえない余韻を残します。

第3楽章 メヌエット

トランペットとティンパニを伴った力強いメヌエットで、宮廷の祝祭を思わせます。確かに着飾った貴族たちの舞踏会を彷彿とさせますが、これは貴族音楽への回帰ではなく、あくまでも演出とみるべきです。トリオではオーボエのソロが活躍します。このシンフォニーはオーボエの美しさに重点が置かれているようです。

第4楽章 フィナーレ:アレグロ・アッサイ

ユーモアたっぷりの、ちょっとふざけすぎではないか?とヨーゼフ2世が眉をひそめそうな楽章です。愉快なテーマを第1ヴァイオリンが奏でると、それをオーボエファゴットが繰り返します。まるでピーヒャララ、村の音楽隊、といった趣です。やがて全管楽器がファンファーレのように斉奏すると、第1ヴァイオリンが伴奏風に盛り上げ、すぐに主役に躍り出るという、まったく手に汗握るような展開となります。展開部もト短調で息つく暇もなく再現部に突入しますが、信号ラッパの音型でいったん曲は終わったかに聞こえます。当然、聴衆は拍手しますが、実は曲はまだ終わっておらず、4小節もの休止ののちに、しれっと再び音楽が始まり、ひとしきり盛り上がって、本当の終わりとなります。聴衆は、みんな騙された!と大笑い、という冗談音楽となっているのです。

 

私は初めてこの曲を、1988年6月25日に聴きました。私の古楽器体験の原点といえるコンサートで、古楽器によるモーツァルトのシンフォニー全集録音という金字塔を打ち立てた、クリストファー・ホグウッド指揮によるアカデミー・オブ・エンシェント・ミュージックの来日公演でした。憧れの楽団が、自分が住む市内のコンサートホール(パルテノン多摩)に来るということで、夢のような思いでした。プログラムは、1曲目がこのハイドンの第90番、2曲目がモーツァルトのヴァイオリン・コンチェルト 第5番《トルコ風》(ソリストはサイモン・スタンデイジ)、3曲目が《ジュピター》という、これまた夢のようなプログラム。ハイドンの第90番など、当時はレコードもCDもなく、聴いたこともなかったので、聴衆全員、フィナーレで騙されて拍手をしてしまいました。その時の団員たちの、気の毒そうな表情が忘れられません。私は、憧れの楽団に対し、自分も含めて無教養な聴衆ぶりを見せてしまったと、とても恥ずかしい気持ちになりましたが、後年、それはハイドンの仕掛けだと知って、少し胸を撫でおろしました。ハイドンの悪戯には、これからもたくさんの人が騙されることでしょう。

Symphonies 88-90

Symphonies 88-90

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動画は、バーバラ・ハンニガンがジュリアード・オーケストラを振った最終楽章です。例の偽終止では、例によって拍手が起こります。ハンニガンは、まだ続くわよ、と客席を睨みつけ、全曲を閉じますが、そのあと、展開部のダ・カーポが行われます。(私はこの曲にはダ・カーポは無いと思っていましたが、楽譜を見たらありました)そして、2度目の偽終止では、ハンニガンは挨拶までして拍手の中退場してしまいます。すると、残されたオーケストラが指揮者無しで演奏を続ける、という演出です。いったいこの曲はいつ終わるのか?ハイドンのユーモアをさらに拡大させたわけです。


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今回もお読みいただき、ありがとうございました。

 

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