フランス王太子妃マリー・アントワネットは、さっそくにフランス宮廷での権力争いに巻き込まれました。
今は亡きポンパドゥール夫人派の流れをくむ、親オーストリア派。
この婚儀を進めたショワズール公爵が中心人物です。
それに対する、新たな寵姫、デュ・バリー夫人を担ぎ上げた、反オーストリア派。
正確には、反・親オーストリア派といった方がよいかもしれません。
こちらは王太子の師、ヴォーギュイヨン公爵が中心人物。
これに、ルイ15世の未婚の娘たち、アデライード王女、ヴィクトワール王女、ソフィー王女の三姉妹が絡みます。
マリー・アントワネットの義理の叔母たちになりますが、王妃マリー・レクザンスカ、王太子妃マリー・ジョゼフ、宰相級に権力を握った公妾ポンパドゥール夫人がいずれも故人となった今、彼女が輿入れしてくるまでは、ヴェルサイユ宮廷における最も高位の女性たちでした。
彼女たちには格下の嫁ぎ先しかなかったので、それよりは威張っていられるヴェルサイユに留まっていた方がよい、ということで、独身を通しており、「メダム」と呼ばれました。
ところが、ルイ15世が新たに年甲斐もなく、元娼婦のデュ・バリー夫人を公妾として迎え入れ、彼女がまるで王妃のように、傍若無人に振る舞い始めます。
これにはメダムたちは我慢がなりませんでした。
小姑たちの陰謀
もともと好色極まりないルイ15世は、デュ・バリー夫人の言いなりで、彼女にも大金をつぎこみました。
王からの給付金は年額15万リーブル。
貴族が十分贅沢ができる金額は3万リーブルといわれました。
また、彼女が身に着けた有名なダイヤモンドの胸飾りは45万リーブルの価値がありました。
叔母たちは、嫁いできたマリー・アントワネットの抱き込みを図り、彼女にデュ・バリー夫人の悪口を吹き込みます。
しかし、叔母たちは、親オーストリアというわけでもなく、逆に、新しく宮廷第一位の高位となった王太子妃も邪魔者でした。
願わくば、子のないまま、王の不興を買ってオーストリアに送還されることを願っていたのです。
そこで、陰湿な叔母たちは、マリー・アントワネットがデュ・バリー夫人と対立するよう仕向けました。
まだ少女だった王太子妃は、宮殿で幅を利かせている夫人に違和感を持っていましたが、叔母たちに、元娼婦だということを聞かされ、決定的な嫌悪感を抱きます。
母帝マリア・テレジアは風紀に厳しく、ウィーンの街角の娼婦を捕らえてむち打ち、追放したほどです。
彼女を嫌うことは、母帝の心にも叶うと思われました。
女同士の諍いが政治的危機に
しかし、女帝は、ヴェルサイユ駐在大使メルシー伯爵の報告から、事態が複雑なことを知ります。
叔母たちは、マリー・アントワネットとデュ・バリー夫人の対立をあえて煽り、ルイ15世の怒りを招いて、この結婚と両国の同盟を解消させるのが目的だったのです。
そうなると、女帝が心血を注いで実現した外交革命が破綻してしまいます。
折しも、女帝の仇敵、プロイセンのフリードリヒ大王が、ロシア女帝エカチェリーナ2世と、あろうことか息子の皇帝ヨーゼフ2世をそそのかして、ポーランド王国の領土を分割しようとしていました。
女帝は信義にもとり、泥棒のような侵略だとして大反対しますが、ヨーゼフ2世と宰相カウニッツが、これに応じないとプロイセンと再び戦争になりかねない、との説得に応じ、泣く泣く、この不正義な条約にサインしたところでした。
この、大国が力で現状変更する試みに、大国フランスが反対したら大変です。
プロイセンに対抗するためにフランスと結んだのに、フランスとの間が昔のように敵対関係に戻ってしまったら、マリア・テレジアの帝国は再び四面楚歌になってしまいます。
まさに、親の心子知らず。
息子の皇帝と娘の王太子妃が、母帝が築いてきたことを揺るがしているのです。
まだ少女である王太子妃マリー・アントワネットは、そんな複雑な政治事情は理解できていません。
ヴェルサイユのしきたりでは、自分より高位の女性には自分から声をかけてはいけないことになっていました。
あくまでも、声をかけていただくことが恩寵であり、名誉でした。
ヨーロッパ一の名家の皇女にして、将来のフランス王妃といえば、ヨーロッパ最高位の女性です。
そんな私が、なぜ汚らわしい娼婦上がりなんかに声をかけなきゃならないの、と、叔母たちの唆しもあって、マリー・アントワネットは徹底的に夫人を無視しました。
これに、王を篭絡して、大臣の任免まで左右し、権力を握っていたデュ・バリー夫人は激怒します。
そして、あの生意気な王太子妃を何とかして、と老王に訴えます。
ルイ15世は最初は、まあまあ、小娘なんか相手にしないでも、と宥めますが、状況は変わりません。
あまりにうるさいので、国王は、ついにオーストリア大使メルシー伯爵をデュ・バリー夫人の居室に呼び、王太子妃に態度を改めさせるよう依頼しました。
母帝の葛藤
国王が王太子妃に不興を感じている!
メルシー伯爵は仰天し、マリア・テレジアに急報します。
そして、王太子妃の説得に当たりますが、彼女は頑固にもそれに従いません。
女帝は悩みました。
娘に、元娼婦に対し、気を遣うように言わなければならないとは。
直接言えないので、まずは宰相カウニッツ侯爵からの訓令ということで、フランス王の意に従うよう王太子妃に伝えました。
それでも彼女は従いません。
そこでメルシー伯爵は、同盟が破綻したら、ヨーロッパ中が戦争に巻き込まれ、母国が破滅するかもしれない。
そうなれば、全てあなたの強情のせいですぞ、と強く諫めます。
ついに彼女は折れ、ある夜会の折、カード遊びが終わってから、メルシー伯爵がデュ・バリー夫人に声をかけ、そこに偶然通りかかった体で王太子妃が伯爵に話しかけるついでに、夫人にも声をかける。
そのような段取りが組まれましたが、ふたりの確執は全宮廷の知るところであって、この舞台のセッティングも全員が知っていることでした。
そして、どのような成り行きになるか、皆固唾を飲んで見守っていたのです。
当日、段取り通りに王太子妃がデュ・バリー夫人に近づいていくと、この場をぶち壊すべく、叔母、アデライード王女がやってきて、マリー・アントワネットの手を引き、『お戻りの時間です。さあ、妹のヴィクトワールの部屋で王をお迎えしなければ!』と言って連れていってしまったのです。
ついに夫人に声はかけずじまいとなりました。
デュ・バリー夫人はまた王太子妃に無視された…。
全宮廷人がこの事件を話題にし、夫人はこれまで以上の屈辱を味わうことになりました。
このあたりは、池田理代子の漫画『ヴェルサイユのばら』でもポピュラーな場面ですね。
国王は、荒れ狂う夫人を宥めるすべもありません。
大使メルシー伯爵を呼び、『残念ながらあなたの忠告は通じなかったようだな。この上は余が自ら介入する必要がありそうだ。』と告げます。
オーストリアから来た王太子妃が、フランス国王の命に従わず、王の面目を潰している。
もはや、同盟は風前の灯。
ついに、母帝マリア・テレジアが、直接厳しい手紙を娘に送ります。
マリア・テレジアからマリー・アントワネットからヘ(1771年9月30日)
(前略)私はあなたの叔母たちを立派な方々だと思いますし、とても好きです。しかしあの方たちは、家族の者からであれ世の人々からであれ、愛され敬われるためには自分から努力しなければならないということが、まったくおわかりになっていないのです。そしてあなたも、あの方々と同じ道をたどろうとしているのです。最良の父親である国王陛下にお話しするのに、あるいはあなたに仕える者たちに声を掛けるのに、何で物怖じすることがありましょう!それ以外にいったい誰と言葉を交わせというのでしょう!ほんの「こんにちは」を言うだけのことに、それほどまでに気後れや遠慮を覚えるというのですか!その日の服装や取るに足らぬことについて、何かひとこと口にするのに、あなたはそんなにしかめっ面をしなければならないのですか。正真正銘のしかめっ面を、あるいはもっとひどい顔を。つまり、あなたはそれほどまでに自分の弱さの虜になってしまっており、理性は、そればかりか義務感も、もはやあなたを納得させる力をもっていないというのですか。あなたはメルシーと話し合ったあとに、つまりメルシーから国王陛下のご希望をすべて聞いたあとに、またあなたは義務として何をしなければならないかを重々承知のうえで、あえて陛下を侮辱したのです。道理にかなったどんな理由を、あなたは挙げることができるのですか。できようはずがありません。デュ・バリー夫人にたいしては、陛下のお相手として宮廷に参内を許された女性だと見なし、そのように接すること、これをしっかりとわきまえなければなりません。あなたは陛下の第一の臣下であり、陛下に服従する義務があります。(後略)*1
マリー・アントワネットはこの厳しい手紙に反論しますが、いかにデュ・バリー夫人が悪者であるか、ということに終始していて、やはり目先のことしか見えていませんでした。
しかし、ついに1772年の元旦、彼女は折れます。
ヴェルサイユ宮殿の新年大祝賀会において、また全宮廷が見守る中、マリー・アントワネットはデュ・バリー夫人に声をかけます。
『きょうはヴェルサイユも大変な賑わいですこと。』
ついに王太子妃は負け、デュ・バリー夫人が勝った!
国王は、よくできた、とばかり王太子妃を抱きしめます。
夫人の勝ち誇った高笑いが響き、叔母たちは憤懣やるかたない様子。
さらに、このひとことによって、ポーランド分割へのフランスの黙認が決まり、ひとつの国が地図から消えてゆくのです。
悔しさでいっぱいのマリー・アントワネットは、屈服はこの1度だけで、もう彼女に二度と声をかけることはないでしょう、と母帝に手紙を書き、さらに叱責を受けます。
しかし、デュ・バリー夫人の方も、自分の権力の源泉である王が60歳を超えていることを考え、次の権力者にこれ以上の嫌がらせは控えたようです。
ふたりが声を交わすことは二度とありませんでした。
それでは、ハイドンのシンフォニー、「ドーニ・セット」の2曲目、第91番 変ホ長調を聴きましょう。
Joseph Haydn:Symphony no.91 in E-flat major, Hob.I:91
演奏:ルネ・ヤーコプス指揮 フライブルク・バロック・オーケストラ(古楽器使用)
第1楽章 ラルゴ-アレグロ・アッサイ
フルート1、オーボエ2、ファゴット2、ホルン2に弦5部という、ドーニ・セットの中では一番小編成です。ドーニ・セットの3曲(第90番、第91番、第92番《オックスフォード》)は作曲当初はトランペットやティンパニのパートはありませんでしたが、第90番と第92番にはあとで追加され、この第91番にだけは付けられませんでした。外的なインパクトより、内的な充実が重視されていて、3曲の中で一番地味ながら、技巧の凝らされた職人的な作品です。古くは、「V字」と同じ理由で「T字」と呼ばれましたが、今では使われません。ニューヨークのピアポント・モーガン図書館にある自筆譜には、ドーニ伯爵に対する個人的な献辞が記されているとのことです。
序奏は、ちょっとぶっきらぼうな感じに変ホ長調の上昇和音が鳴らされ、今度は下降します。上り、下りを管楽器が豊かに彩りますが、これは主部の第1主題の予告になっています。
主部は弦だけで静かにゆったりと始まりますが、高音部が半音階上昇すると同時に、低音部が半音階下行するという二重対位法が使われています。トゥッティでひとしきり盛り上げたあと、再び第1主題が、今度は変ロ長調で奏でられ、それを第1ヴァイオリン、フルート、オーボエの順で対旋律を付けていくのです。第2主題は、4小節のフレーズをヴァイオリンが歌い、オーボエが合いの手を入れて、変ニ長調→変ホ短調→ヘ短調と1音ずつ上昇し、変ホ長調を経て変ロ長調で落ち着くという技巧的なものです。
展開部は、第1主題がハ長調を取り、提示部に出てきたフレーズを様々に組み合わせて進んでいきますが、これも非常に複雑で凝った作りです。管楽器の合いの手がなんとも印象的。提示部と展開部が混み入っている分、再現部はすっきり簡潔に流れ、テーマとふたつの対旋律を同時に奏するコーダで締めくくられます。
第2楽章 アンダンテ
変ロ長調の素朴なテーマからなる変奏曲です。第85番《フランス王妃》のように、元ネタとなった民謡はありませんが、何か、庶民的な歌から取られたような感じもします。テーマの最後は突然変ニ長調に転調し、強いアクセントが置かれ、キリっとしまっています。第1変奏はファゴットのソロに第1ヴァイオリンが絡みます。第2変奏は変ロ短調で、テーマにあまり基づいておらず、哀感たっぷりです。これをスラブ風だという人もいます。第3変奏は、もとの明るい調子に戻り、第4変奏は低弦が奏でるテーマをヴァイオリンがトリルで鳥のさえずりのように楽しく装飾しますが、そのトリルはだんだん他の楽器にも広がってゆき、にぎやかにコーダとなります。
第3楽章 メヌエット:ウン・ポコ・アレグレット
フランス風の典雅なメヌエットで、洗練されたものです。トリオは、弦のピチカートの上に第1ヴァイオリンとファゴットがオクターヴ重ねで歌いますが、レントラー風ですが、後年のウインナ・ワルツも思わせる近代的な響きです。
第4楽章 フィナーレ:ヴィヴァーチェ
2分の2拍子のソナタ形式ですが、軽くて愛らしい第1主題の最初の2小節の6音を徹底して発展させていきますので、単一主題的、ロンド形式的な自由なスタイルです。トゥッティはテーマを断片的に分解し、自在に組み合わせて進んでいきます。時にはカノンも使われるなど、構造が技巧に満ちていて、耳が追いつきません。第2主題は5小節の短いものですが、なぜかまったく展開されません。それほど第1主題の労作に集中しているのです。このあたりのハイドンのバランス感覚は見事です。展開部は変イ長調。提示部以上に縦横無尽に展開されていきます。コーダは、最初のテーマのモチーフが木管と弦に受け渡しつつ、せりげなく終わりますが、なぜか万感胸に迫る思いがします。
動画はアルフレッド・ベルナルディーニ指揮のテレジア・オーケストラ(古楽器使用)です。
www.youtube.com
さて、ハイドンのシンフォニーを、その生涯と、並行してハプスブルク皇室の物語をリンクさせながら聴いてきました。
第1番から順に、本日第91番に至りました。
最初の頃のシンフォニーには飛ばしたものもありますが、第38番以降は全曲取り上げたことになります。
第92番以降はかなり以前に取り上げましたので、いったんハイドンのシンフォニー・チクルスは終了です。
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今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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