前回の続きです。
田舎から、取っておきの鼈甲の櫛一本で身を立てるべく、大都会パリに出てきた髪結い師レオナール・オーティエ。
場末の芝居小屋、「ニコレ座」の売れない駆け出し女優、ジュリーの髪を斬新に結い上げたことで、パリ中の評判となります。
そして、アンブリモン伯爵夫人はその場末の劇を自邸で見たいと、一座を招き、レオナールも一緒に訪ねます。
公演は大成功。
妖精を演じるジュリーの髪形はさらにブラッシュアップされており、大絶賛されます。
伯爵夫人はレオナールを連れて、客たちの部屋を紹介して回ります。
貴族たちは、この身分の低い髪結い師を歓迎したり、冷たくあしらったり、様々な反応でしたが、最後に引き合わされたのは、なんと、フランス王国の外務大臣、ショワズール公爵でした。
彼は、今は亡き、王の愛妾ポンパドゥール夫人のお引き立てのもと、オーストリア・フランス同盟を推進、マリー・アントワネットとフランス王太子との政略結婚を実現した立役者でした。
女帝マリア・テレジアも、マリー・アントワネットも頼りにしていたフランス政界の大物です。
芝居好きだった公爵は、次の出し物の準備をしていた、自分のひいきの女優4人の控室に、レオナールを連れていきなり闖入します。
着替え中でキャーッと騒ぐ女優たちをいなして、彼を紹介すると、その評判を聞いていた彼女らは、また別な意味でキャーッ。
さっそく彼は魔法の櫛をとり、次のパントマイムのために、彼女たちを最高に美しい修道女に変身させ、これも大好評をとります。
ショワズール公爵はその後、レオナールを多くの貴族、貴婦人に紹介してまわります。
最新のゴシップに囲まれた美容師
しかしレオナールは、公爵と近づきすぎると危険、という情報も得ていました。
美容師という職は、髪のスタイリングだけでなく、今も昔も、ご婦人方の話を聞くという役割の仕事でもあります。
多くの貴婦人たちの髪を結いながら、彼は、パリ中の噂話、ゴシップを聞くことになります。
またそれが、最新のモードを知り、新たな流行を生み出していく肥やしともなります。
その中で、以前、国王ルイ15世の愛妾として国政を牛耳ったポンパドゥール夫人派が、夫人亡きあと後ろ盾を失い、新たな王の愛妾、デュ・バリー夫人派が追い落としを図っている、という情報を得ます。
レオナールは公爵のお引き立てを受けつつ、その派閥と見られないよう慎重に距離をとるようにします。
実際、王太子妃が嫁いできてまもなく、ショワズール公爵はデュ・バリー夫人の策謀によって罷免、失脚します。
火遊び好きな侯爵夫人
公爵から紹介された貴族たちの中に、ランジャック侯爵夫人という貴婦人がいました。
20代半ばの美しい、しかしちょっと遊び好きな貴婦人でした。
彼女はレオナールを気に入り、自分の髪を結わせながら誘惑し、愛人にしてしまいます。
美男で、ウィットの富んだ会話のできたカリスマ美容師レオナールは、時にはホストのような役割も務めなければならなかったのです。
レオナールは、お互いの出世の糸口となった女優ジュリーとも関係をもっていましたが、当時の女優は庇護や援助を求める中でどうしても枕営業になりがちでもあり、上流階級に食い込む上では距離を取らざるを得なくなりました。
事実、それまでパリの髪結い界を牛耳り、若い彼をライバル視したルグロは、彼の評判を落とそうと、顧客の貴婦人たちに、レオナールはいかがわしい女優たちと関係をもっている、と中傷してまわりました。
ただ、上流階級の男女関係の乱れは下層以上だったかもしれません。
彼の評判は上がる一方で、ルグロは、王太子夫妻の初のパリ入城の際、興奮した市民のパニックに巻き込まれ、あわれ群衆に踏みつぶされて命を落としました。
レオナールの噂を聞きつけたデュ・バリー夫人は、彼を自分のところにも寄越すよう、ランジャック侯爵夫人に求めます。
今や国王の寵愛を一身に集めた夫人の要求には、侯爵夫人も逆らえません。
レオナールは時々、デュ・バリー夫人の髪を結うことになりますが、さすがに王の愛妾である夫人とは特別な関係にはならなかったようです。
そんな中、オーストリアから皇女マリー・アントワネットが王太子妃として嫁いできます。
ランジャック侯爵夫人は、その側近に取り立てられましたが、男性関係がだらしなくて享楽的な夫人は、王太子妃の取り巻きにはふさわしくない、という声も上がりました。
しかし、ヴェルサイユ宮殿の堅苦しい儀礼から逃れたい王太子妃は、このちょっと不真面目なところのある侯爵夫人を気に入ります。
ほどなく、王太子妃とデュ・バリー夫人の確執が激しくなり、レオナールも侯爵夫人とデュ・バリー夫人の間で苦しい立場になりますが、さすがは天性の世慣れたカリスマ美容師、そこはうまく立ち回ります。
王太子妃の髪形はダサい?
マリー・アントワネットの容貌は、当時から微妙と言われていました。
近親結婚を繰り返したハプスブルク家の人々は、顎がしゃくれていたり、額が高すぎたり、といった、遺伝的に特徴ある顔をしていました。
彼女にはあまりひどい遺伝は出ませんでしたが、それでも額の高さはアンバランスで、髪質もよくなく、金髪ではありましたが、少し赤味かかっていて、デュ・バリー夫人からは、当時〝ブス〟というような意味合いで使われた〝赤毛〟という陰口をたたかれていました。
何より、マリー・アントワネット自身、身なりに気を配らない性格でした。
身についた天性の優雅な仕草、立ち居振る舞い、身のこなしは、会う人だれもが、時には群衆までもが魅了され、百難を隠していました。
しかし、女帝マリア・テレジアは、娘を嫁がせるのに、外見も気にして、特に髪について悩んでいました。
そこで、パリで通用するように、ショワズール公爵に頼んで、亡きフランス王妃マリー・レクザンスカ付きの美容師、ラルセヌールをわざわざウィーンに招聘し、その髪のスタイリングを担当させたのです。
しかし、ラルセヌールは、もはや流行おくれの美容師でした。
マリー・アントワネットの欠点を覆い隠す技量はとてもなく、レオナールによれば『想像を絶する下手さ』とのことでした。
しかし、身なりに気を遣わない王太子妃は、パリに来ても、髪は母帝から指名されたこのラルセヌールに任せっきりだったのです。
敵に回し過ぎて、今度はご機嫌取り
これを、デュ・バリー夫人が政治利用します。
以前取り上げた、王太子妃が彼女に声をかける、かけないの大騒動は、墺仏同盟の危機にまで至りましたが、マリー・アントワネットが泣く泣く譲歩して収まりました。
デュ・バリー夫人は勝利したものの、その後、何とかして王太子妃との関係を修復しようとしていました。
あのときは、宮廷における主導権争いで譲るに譲れなかったけれど、夫人の頼みの綱、国王はもう60歳を過ぎています。
王が亡くなれば、王太子妃は王妃となり、自分の失脚は目に見えています。
悪くすれば、バスティーユ監獄に投獄されるかもしれません。
何とかして王太子妃のご機嫌を直してもらおう、という思惑の中で、次のようにマリー・アントワネットに進言したのです。
『お若い妃殿下に極めて重要なことを申し上げます。お側に仕えるランジャック侯爵夫人が、どうして妃殿下に、その魅惑的なお顔立ちとの調和を欠いた、時代遅れなヘアスタイルをさせているのか、理解できません。』
デュ・バリー夫人を嫌い抜いていた王太子妃は、なぜかこの忠言に従い、すぐにラルセヌールを解任。
ランジャック侯爵夫人に、評判の高いレオナールとやらを連れて来て、と命じます。
マリー・アントワネットが、このようにすばやい判断をしたのは謎です。
デュ・バリー夫人のお抱え美容師を引き抜いてやろう、という意趣返し。
遠いウィーンからうるさく身の回りに口を出してくる母帝への反抗。
かねてランジャック侯爵夫人からレオナールの評判を聞いていたことへの好奇心。
どの理由かはわかりません。
ともあれ、貴婦人同士が足を引っ張り合い、派閥争いの陰謀渦巻くヴェルサイユにあって、両派閥から気に入られていたレオナールの世渡り技は、その名高い美容技術以上に高度なものだといえます。
次回、いよいよレオナールは、王太子妃マリー・アントワネットに謁見します。
モーツァルトの3台のピアノのためのコンチェルト
前回に引き続き、モーツァルトの、フランスの香りがたっぷり漂う〝ロココ・コンチェルト〟を聴いていきます。
今回は、珍しくも3台のピアノで演奏されるコンチェルトです。
なぜ3台ものピアノが必要だったのでしょうか。
この曲も、前回の第6番と同様、パリ・マンハイムに旅立つ前に、ザルツブルクで書かれました。
同地の貴族、ロドロン伯爵夫人が、ふたりの娘と一緒に弾くために、モーツァルトに特注したものです。
そのため、この曲には《ロドロン》という愛称がつきました。
上の令嬢はアロイジア、下の子はジュゼッピーナといいます。
ジュゼッピーナはまだ幼く、ピアノの技術が母や姉に劣るため、彼女のための第3ピアノ・パートは平易に書かれています。
お母さん、お姉さんと一緒に、本格的なピアノ・コンチェルトが弾けるなんて、どんなにうれしかったことでしょう。
子供のための、その家庭的なひとときだけのためにピアノ作品を特注するなんて、当時の貴族の贅沢さに驚かされますが、モーツァルトも半ば友情で作ってあげたと思われます。
最初はチェンバロ、のちには最新のピアノで
1776年2月に書かれた自筆譜には、『3台のチェンバロのためのコンチェルト』と書かれています。
この当時、ピアノはまだ発展途上の高価な楽器で、いくら伯爵夫人でも3台も所有しているはずはなく、チェンバロで弾かれたはずです。
もしかすると、娘たちが使用したのはチェンバロより小型で、より普及していたクラヴィコードだったかもしれません。
モーツァルトはこの作品の楽譜をマンハイム・パリ旅行に携えていきました。
そして、その途上、アウクスブルクにて、前回取り上げたフッガー邸でのコンサートの3日後、市内の公開コンサートで演奏されました。
このコンサートは当地の新聞でも絶賛され、そのプログラムが伝えられています。
1曲目 シンフォニー
2曲目 3台のピアノのためのコンチェルト
3曲目 ピアノ・ソナタ(伴奏なし)
4曲目 1台のピアノのためのコンチェルト
5曲目 教会様式のフーガを伴う幻想曲
6曲目 シンフォニーのフィナーレ
シンフォニーがどの曲かは分かりませんが、室内楽的な曲が中心のプログラムから考えると、直近の作品ではトランペットやティンパニが入っている第28番や第30番ではなく、第29番 イ長調 K.201ではないかと思います。(私の想像です)
3曲目のピアノ・ソナタにわざわざ「伴奏なし」と断り書きがあるのは、当時のピアノ・ソナタはヴァイオリンが伴奏するのが通例だったからです。
今のヴァイオリン・ソナタの逆の概念ですね。
そして、今回のコンチェルトは2曲目ですから、前半の目玉だったのです。
演奏者は、第1ピアノが当地のオルガニスト、J.M.デンムラー、第2ピアノがモーツァルトでした。
で、第3ピアノはというと、当地のピアノ製作者、シュタインだったのです。
シュタインが作ったピアノにモーツァルトは惚れ込み、その画期的な素晴らしさを父に手紙で長々と報告し、値段も高いがそれ相応の価値がある、と大絶賛しています。
今回のコンサートはシュタインの新作ピアノのお披露目も兼ねていたかもしれません。
そして、そのピアノを製作者自身が弾くという趣向。
シュタインは製作者であってプロ演奏者ではありませんから、お子様向けの第3ピアノパートがぴったり、というわけです。
けっして駄作ではない!
この曲は、1778年3月12日、マンハイムにて、パリへ出立するモーツァルト父子の送別会でも演奏されました。
そのときの演奏者は、マンハイムの宮廷楽長カンナビヒの娘ロジーナ、ソプラノ歌手でモーツァルトが片思いをしていたアロイジア・ウェーバー、そしてテレーゼ・ピエロンという女性でした。
初心者向けパートつきのこのコンチェルトは、一度きりの用途と思いきや、何回もうまく使いまわされたわけです。
とはいえ、3台必要なケースはさすがにレアなので、モーツァルトはウィーン時代にこの曲を2台のピアノ用に編曲し、さらに用途を広げています。
そんな訳ありのコンチェルトですから、後世の評価は低めで、モーツァルトの駄作、という人までいます。
確かに絶対音楽としてとらえれば、第3ピアノの役割は低く、そのパートは無くてもよいともいえ、音楽的なバランスは取れていません。
しかしそれは、コンサート用に書かれた後年のソロ・コンチェルトや、大バッハの3台のチェンバロのためのコンチェルトと比べてのことです。
職人モーツァルトは、この曲を初心者を含んだ家庭的な場のために、顧客のニーズに合わせて書いたのです。
それを駄作、などと断じる人は、モーツァルトとその時代を理解していないと言わざるを得ません。
私はこの曲を聴くとき、母とふたりの娘が、目配せし合いながら演奏している光景が目に浮かび、胸の中があたたかいもので満たされる思いがするのです。
ちなみに大バッハの曲はこちらです。
www.classic-suganne.com
モーツァルト:3台のピアノのための協奏曲(ピアノ協奏曲 第7番)ヘ長調 K.242《ロドロン》
Wolfgang Amadeus Mozart:Concerto for Three Pianos no.7 in F major, K.242 "Lodron"
演奏:マルコム・ビルソン(第1ピアノ)、ロバート・レヴィン(第2ピアノ)、メルヴィン・タン(第3ピアノ)(フォルテピアノ:1780年初頭のアントン・ヴァルター製の複製)、ジョン・エリオット・ガーディナー(指揮)、イングリッシュ・バロック・ソロイスツ【1987年録音】
冒頭、オーケストラによって決然とした強い和音が鳴り、やがて柔らかく流れるフレーズが追いかけます。この強弱の対比が第1主題となっていて、ピアノパートに入ると、3台のピアノが一緒にユニゾンで、冒頭の和音を鳴らします。3つのピアノが揃ってみせるところが見せ場で、冒頭はそれをオーケストラが予告しているのです。第1主題は第1ピアノが奏でたあと、第2主題は3つのピアノに受け渡されますが、メインの動きは第1、第2ピアノが受け持ち、第3ピアノはそれに装飾を加えるなど、脇役に徹します。中間部で短調の陰も差し、技術的には初心者向けでも、内容は本格的であることを実感します。この曲のカデンツァもモーツァルトのものが残されていますが、自筆譜では第2楽章のあとに、第1楽章と第2楽章のものがまとめて書かれているということです。
フランスで流行したギャラント様式の典型である、強弱が頻繁に交代する甘美な旋律で書かれています。主調である変ロ長調の旋律は第1ピアノが、属調のものは第2ピアノが受け持ち、間に聞こえる第3ピアノが非常に繊細な趣を与えています。優しい春の雨だれを聴くようです。静かな緩徐楽章ですので、6つの手が奏でる音が混雑しないよう、絶妙な工夫が施されているのです。カデンツァもほとんど曲の一部のように自然に融け込んでいます。
第3楽章 ロンドー:テンポ・ディ・メヌエット
メヌエットのテンポのロンド、ということですが、ロンドのテーマはまさにメヌエットそのものです。A-B-A-C-A-B-Aという構成です。Bは、後年のコンチェルト、たとえば第18番 変ロ長調を予告するような充実した響きと奥深い展開を見せます。Cは短調でかなり激しい嵐。末娘がついていけたか心配になります。Aのメヌエットは3回戻ってくるわけですが、その前にソロ・ピアノの即興的なパッセージ、アインガングが挿入されています。1回目は第1ピアノ、2回目は第2ピアノ、3回目は第1、第2ピアノがユニゾンで受け持ち、カデンツァの代わりとなるこの技巧的なパッセージはさすがに第3ピアノには任されていません。末娘は、母と姉の弾くこのフレーズを、羨ましそうに眺めていたのか、いつかあれを弾けるようになりたい、と熱い思いを胸にしまっていたのか。曲はそんな幼い夢を乗せて、明るく陽気に閉じられます。
この室内的なコンチェルトは、音量の大きな現代のグランドピアノではなく、フォルテピアノで弾くのが望ましいのですが、そのような動画は見つかりませんでした。ただ、イタリアの奏者によるこの演奏は、第3ピアノを指揮者が弾き振りで受け持っていて、なるほど、と思わせる好演です。(冒頭、指揮者がメガネを忘れるというハプニングもイタリア人らしい…)
www.youtube.com
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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