前回はマリー・アントワネットの夫、ルイ16世の生い立ちについて取り上げましたが、今回から彼の弟たちについて見ていくことにします。
弟はふたりいて、両方とも、ルイ16世夫妻がフランス革命に倒れ、ナポレオンが登場しフランスのみならずヨーロッパを席巻したあげく退場したあと、ブルボン復古王朝の国王として相次いで即位しました。
5人兄弟を整理すると次のようになります。
長男 ブルゴーニュ公 ルイ・ジョゼフ・グザヴィエ(9歳で逝去)
次男 アキテーヌ公 グザヴィエ・マリー・ジョゼフ(1歳で逝去)
三男 ベリー公 ルイ・オーギュスト(のちのルイ16世 在位 1774-1792)
四男 プロヴァンス伯 ルイ・スタニスラス・グザヴィエ(のちのルイ18世 在位 1814-1824)
五男 アルトワ伯 シャルル=フィリップ(のちのシャルル10世 在位 1824-1830)
それぞれ儀礼称号を持っていますが、王子ですから一般貴族の爵位とは違います。
これらの称号は、ベリー公以外は、初期中世にはフランス王国外の独立国の君主号でした。
フランス王国が拡大するに従って、征服や相続によって版図に組み込まれたのです。
この時代には完全にフランス王領となっていますが、支配の歴史を示すために、あえて王子に与えられたわけです。
英国で、王太子に「プリンス・オブ・ウェールズ(ウェールズ公)」の称号が与えられるのと同じです。
四男のプロヴァンス伯、アルトワ伯が、兄たちの「公爵」より二段階も下の「伯爵」なのは違和感があるかもしれませんが、プロヴァンス伯といえば、中世初期には広大な領土をもった独立諸侯でしたから、そんじょそこらの伯爵とは違い、歴史的にきわめて重い称号なのです。
ベリー公だけは、王弟に一代限りで与えられた爵位ですが、富裕な領地を与えられ、初代のジャン1世作った装飾写本「ベリー公のいとも豪華なる時祷書」はその富の大きさを今に伝えています。
以前、ヴィヴァルディの《四季》とともに取り上げました。
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危険な義弟たちとの遊び
さて、マリー・アントワネットが輿入れすると、夫の王太子ベリー公が、シャイで新妻となかなか打ち解けようとしないため、ふたりの義弟、プロヴァンス伯、アルトワ伯が当面の遊び相手となりました。
彼女も異国の地で孤独なため、彼らを頼りにしていました。
しかし、この義弟たちとの付き合いが、じわじわと彼女の立場を悪くしていきます。
プロヴァンス伯は、凡庸で野心のない兄ベリー公よりも、自分の方が国王にふさわしい、と考えていました。
ベリー公自身も国王になど全くなりたくなかったので、やる気も見えません、
それなら俺が、と野心を燃やしました。
プロヴァンス伯は、兄夫婦に子供ができなければ、自動的に自分に王座が転がり込んできますので、なんとか兄夫婦を引き離し、仲が悪くなるように画策しました。
アルトワ伯は王位に野心はありませんでしたが、賭け事と女に目がない〝超遊び人〟でした。
マリー・アントワネットをこれらの〝悪の道〟に誘い込み、堕落させたのは、アルトワ伯のせいです。
彼女は、故郷を離れ、マナー、エチケット、儀礼にギチギチに縛られた自由のない生活、夫に相手にされないストレスなどから、彼ら悪い義弟たちの誘いにのめり込んでいったのです。
結果的に、ルイ16世とマリー・アントワネットは革命で破滅し、結果的には兄夫婦の死後、ふたりとも王様になることができました。
今回は、プロヴァンス伯についてみていきます。
ルイ・スタニスラス・グザヴィエは、ルイ15世の王太子ルイ・フェルディナンとマリー=ジョゼフ・ド・サクスとの間に4男として1755年11月17日にヴェルサイユ宮殿にて生まれました。
生誕と同時にプロヴァンス伯の儀礼称号を授けられます。
1771年、兄ベリー公の結婚の翌年、イタリアのサルデーニャ王の王女マリー・ジョゼフィーヌ・ド・サヴォワと結婚します。
兄になかなか子が生まれなかったため、次代の王位継承者としてみなされ、政治にも積極的に関与しますが、1781年に兄に王太子が生まれると、王位が遠のいてしまい、陰で兄夫婦の足を引っ張る陰謀にかまけるようになりました。
王妃マリー・アントワネットが、浪費をしている、不倫をしている、特定の人物と癒着をしている、などといった誹謗中傷のパンフレットがたくさん出回りましたが、そうした〝文春砲〟の情報源のひとつが彼だった、とも言われています。
フランス革命が起こり、兄ルイ16世がヴァレンヌ逃亡事件を起こすと、そのタイミングで彼もドイツ・コブレンツに亡命します。
長い亡命生活
そして、兄が処刑されると「摂政」を、その子ルイ=シャルル(ルイ17世)が死去すると「ルイ18世」を名乗り、革命政府を引き継いだ第一執政ナポレオンに自分を担ぐよう打診をしたりしますが、拒否されて長く亡命生活を送ることになります。
ナポレオン自身が皇帝に即位して帝政が始まると、フランス王への復帰は絶望的になります。
1814年3月、ナポレオンが諸国民の戦いに敗れて退位し、エルバ島に流されると、宰相タレーランによって、ようやくフランス王として迎えられ、58歳で正式にルイ18世として即位します。
ただし、絶対王政の復活は支持を得られないため、立憲民主政を取ります。
翌年、ウィーン会議の最中にナポレオンがエルバ島を脱出、再びパリを占領すると、ベルギーに避難します。
ワーテルローの戦いでナポレオンの百日天下が終わると、連合軍の荷馬車に乗ってパリに帰還。
民衆からは歓呼の声を浴びますが、彼らは少し前にはナポレオンの帰還に熱狂しており、どうにもパリ市民の感覚が分かりませんが、とにかく戦争はこりごりなので、安定させてくれる為政者ならだれでも歓迎、ということなのでしょう。
意外と安全運転の治世
ルイ18世は陰険な面もありましたが、政治的にはバランスが取れており、長年の国内対立、流血の時代を終わらせるべく、民主派と王党派の融和に努めました。
さすが、以前ナポレオンに「ルイ16世から実直さを引き、機知を足したもの」と評されただけのことはあります。
贅沢はせず、ヴェルサイユ宮殿にも住まず、パリ市内のチュイルリー宮殿で実直に政務を執っていました。
戦敗国にもかかわらず、フランスが第一次世界大戦のときのように過酷な賠償は求められず、国際的に寛大な扱いを受けたのは、名宰相タレーランの手腕と言われていますが、ルイ18世の資質もあったのです。
彼は若い頃から糖尿病を患い、中年以降は肥満、痛風、壊疽などの疾患が重なって苦しみましたが、晩年はさらに低下する体力に過度な食欲が加わり、高度肥満がひどくなって、杖と車椅子に頼らなければ、自ら歩行することさえ困難になりました。
1824年に薨去し、子供がいなかったので、次の国王には弟アルトワ伯がシャルル10世として即位します。
しかし、シャルル10世はただの遊び人で、マリー・アントワネットと遊んでいた頃を懐かしんで、絶対主義を復活しようとしたため、再度の革命を引き起こし、ついにフランスのブルボン朝は終焉となってしまうのです。
モーツァルトのフルート・カルテット 第1番
モーツァルトがマンハイム滞在時に、ド・ジャン氏から注文された「フルート協奏曲3曲と2曲のフルート四重奏曲」。
そして、できたのは「協奏曲2曲と四重奏曲3曲」。
ド・ジャン氏は、注文通りでなかったことから、約束の報酬200フローリンを値切って、モーツァルトには96フローリンしか支払いませんでした。
コンチェルト2曲は既に取り上げましたので、これからカルテットの方を聴いていきます。
ただ、3楽章制の、楽章編成がちゃんとした、いわば完成形は「第1番 ニ長調 K.285」だけです。
「第2番 ト長調 K.285a」「第3番 ハ長調 K.Anh.174(285b)」は2楽章から成り、いかにも不完全です。
第2番に至っては、モーツァルトの死後の初版では、第1番の第1楽章にくっつけられていました。
ちゃんとした自筆譜が残っているのは第1番だけで、あとは不完全な資料から第2番、第3番とされているのです。
この不完全さが、注文主から値切られてしまったほどの、モーツァルト自身の仕事ゆえなのか、後世の散逸、混乱なのか、よく分かっていません。
ともあれ、形式は不完全でも、モーツァルトがお金のために嫌々書いたのかもしれない、という史料があっても、これらの音楽が古今のフルート音楽の最高峰のひとつであり、フルートの超貴重なレパートリーである事実は揺らぎません。
モーツァルト:フルート四重奏曲 第1番 ニ長調 K.285
Wolfgang Amadeus Mozart:Flute Quartet no.1 in D major, K285
演奏:バルトルド・クイケン(フラウト・トラヴェルソ/アウグスト・グレンサー~ルドルフ・トゥッツによるコピー)、シギスヴァルト・クイケン(ヴァイオリン/ジョヴァンニ・グランシーノ:1700年ミラノ製)、ルシー・ヴァン・ダール(ヴィオラ/サムエル・トンプソン:1771年製)、ヴィーラント・クイケン(チェロ/アンドレア・アマティ:1570年製)【1982年録音】
モーツァルトのフルート音楽の中で、いやモーツァルトの全作品の中でも有名な曲のひとつでしょう。4曲のフルート四重奏曲の中でも白眉とされています。どこまでも平和で、暖かい春の陽だまりのような音楽は、かつて住宅メーカーのCMにも使われました。豊かで幸せな日常の日々を表すのに、これ以上の音楽はありません。このギャラント(優美)なスタイルが、当時のドイツ圏で流行していた〝フランス風〟なのです。モーツァルトですから、単に優美で終わらず、深遠さもはらんでいます。
フルート四重奏曲は、弦楽四重奏曲の第一ヴァイオリンをフルートに置き換えたものですが、モーツァルトの音楽は独奏フルートに主役を張らせ、さながらコンチェルトの趣きです。
弦の8分音符が刻む上に、初夏の鳥が早朝、麗しくさえずるかのようにフルートが歌います。モーツァルトの名高い〝歌うアレグロ〟です。ヴァイオリンとヴィオラがそれを受け継いで応じ、イ長調の第2主題が現れます。これが反復されたあと、フルートは16分音符で技巧的な流麗は技をみせます。提示部の結尾が独創的で、次第に音が弱められ、遠ざかってゆき、ピアニッシモで閉じます。これは、現代音楽におけるフェードアウトのはしりといえるかもしれません。その余韻たるや、心に沁みまくります。
展開部はイ短調に転じ、悲劇的な調子となります。強弱の対比も劇的です。しかしそれも長くは続く、あくまでもエッセンスのように終わり、再現部に移ります。再現部は輝かしいというよりは優しさにあふれ、提示部のフレーズに軽く装飾は施されます。そしてコーダは、提示部と同じようにフェードアウトになるかと思いきや、あらためて締めのフレーズが現れ、きちっと終わります。
明るく穏やかな前楽章とはうって変わって、フルートが悲しい旋律を歌い始め、弦のピチカートが寄り添うように伴奏します。ロ短調という、バッハのフルート音楽の白眉というべき、管弦楽組曲第2番と同じ調性です。3部形式になっており、中間部ではニ長調となって明るい陽射しが差しますが、再び憂愁の世界に戻ります。そして、最後に思いつめたようにフォルテとなり、曲の途中でアタッカ接続で途切れることなく第3楽章に流れます。
音楽学者のアインシュタインはこの楽章を、『グルックの《オルフェオとエウリディーチェ》の楽園の場面への前奏曲を除けば、かつてフルートのために書かれた最も美しい伴奏付の独奏曲』と評しています。グルックのその曲は一般には『精霊の踊り』と呼ばれています。これはマリー・アントワネットとのからみであらためて取り上げることになるでしょう。
第3楽章 ロンド
前楽章の憂愁から一転、明るくなりますが、まるで、絶望していた人が希望の灯を見出し、気を取り直して心機一転、前に進むことを決意したかのようなドラマです。フランス風のテーマが快活なロンド楽章です。ロンドのテーマは最初はフルートのピアノだけで、次にヴァイオリンを伴ってフォルテで反復されます。この楽章では弦も負けておらず、ヴァイオリンや高音域のヴィオラが応答句を度々奏します。その絶妙な応対が聴きどころです。中間部ではフルートが新しい第2エピソードを歌いはじめ、弦がそれをフーガ風に模倣するところは実に見事です。音楽は終盤に向けて、縦横無尽に展開し、盛り上がり、フルートが最初のテーマをおさらいで奏でると、ワイワイガチャガチャ、実に楽しくこの喜劇の幕を下ろします。
動画は、名盤中の名盤と言われた今回のアルバムと同じ、クイケン兄弟を中心とした演奏です。
www.youtube.com
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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