孤独のクラシック ~私のおすすめ~

クラシックおすすめ曲のご紹介と、歴史探訪のブログです。クラシックに興味はあるけど、どの曲を聴いたらいいのか分からない、という方のお役に立ちたいです。(下のメニューは横にスライドしてください)

お妃さまは乗馬で欲求不満解消?王太子妃~マリー・アントワネットの生涯16。モーツァルト:フルート四重奏曲 第3番 ハ長調

ルイ・オーギュスト・ブラン『乗馬姿のマリー・アントワネット』1783年

不完全な夫婦

王太子ベリー公(のちのルイ16世王太子マリー・アントワネットは、1770年5月16日に結婚式を終え、国王ルイ15世、司祭と廷臣たちの衆人環視のもと、夫婦の寝室にて、新婚初夜を祝福する儀式が行われました。

王家の生活が公開されているヴェルサイユ宮殿にあっても、さすがに儀式が終われば皆退室し、天蓋つきベッドのベールが降ろされ、ふたりだけの空間となります。

しかし、新婚夫婦はそのまま寝てしまい、何もありませんでした。

翌朝、シーツを交換した女官が、国王に「何もなかった」ことを報告します。

それはすぐに、全宮廷に知れわたり、さらに外交官によってヨーロッパ各国に急報されます。

ハプスブルク家はかつては戦争ではなく、結婚によって他国を併呑してきましたが、今が逆の局面となることが増えていました。

18世紀初頭、スペイン系のハプスブルク家は、最後の国王カルロス2世に跡継ぎがいなかったため断絶、スペイン継承戦争の結果、王位をフランスのブルボン家に奪われました。

そしてオーストリア系のハプスブルク家マリー・アントワネットの母、マリア・テレジアは、父に男性の跡継ぎがいなかったために、即位を諸国が認めず、オーストリア継承戦争が起こりました。

国が滅亡する寸前まで戦い、かろうじて夫を帝位につけるということで、実質的な女帝の地位を確保しました。

このように、王家に跡継ぎが生まれるか否かは、1国の行く末に関わる、重大な国際的関心事だったのです。

今でも、子供のない夫婦は、親や周囲に『まだなの?』などと言われて嫌な思いをすることもあるのに、子供ができなければ戦争が起こるかもしれない、というストレスはいかばかりか。

気の毒に、そのような巨大で不条理なプレッシャーを与えられたのは、15歳の夫と14歳の妻なのです。

長らく子供ができなかったわけ

初夜に限らず、ふたりは夫婦関係を結ばないまま何ヵ月も経過しました。

オーストリア大使メルシー伯爵はふたりの様子を女帝に報告し、母帝からはどうしたら夫に相手にされるようになるか、余計なアドバイスが矢のように届きます。

フランス側でも、国王ルイ15世王太子の妻への無関心さを医師に相談します。

女好きのルイ15世としても、孫の行動(無行動)は異常としか思えませんでした。

夫が自分に指一本触れないので、マリー・アントワネットもさすがに心配になり、母からの催促もあって、なかなか女性から切り出しにくいこの案件を、7月8日にふたりっきりになった際、彼女の方から申し出てみました。

夫は、きまり悪そうにしながらも、言ってくれてありがとう、結婚に何が伴うかは分かっており、義務を避ける気持ちもないので、8月になったらもっと親しくする、と答えました。

周囲、いや全世界からのプレッシャーや陰口に耐えていた彼女はうれしくて、この夫の言葉を叔母たちに報告したところ、たちまち全宮廷に知れ渡り、夫はさらに妻との夜を避けるようになってしまったのです。

実に、4年ものあいだ夫婦関係はなく、はじめての子供ができたのは、結婚7年目のことです。

ルイ16世が長く妻と関係を持たなかったのは、子作りに不都合な若干の身体的欠陥があったからでした。

それが恥ずかしいのと、子作りをすると痛みを感じるのとで、とても夫婦生活をする気になれなかったのです。

マリー・アントワネットはそれをどこかの段階で知り、手術をするように夫を促しますが、彼はその勇気もなかなか出ませんでした。

ついには、マリー・アントワネットの兄、皇帝ヨーゼフ2世がお忍びでヴェルサイユ宮殿に乗り込み、義弟と男同士の直談判をして、ようやく手術を受けることになり、結果、7年越しで3人の子宝に恵まれることになったのです。

歴史を変えたすれ違い夫婦

マリー・アントワネットが欲求不満で奢侈や享楽に身を任せて国庫を傾けた、という見方は必ずしも正しくありませんが、夫が、遊びに目覚めてしまった妻の行状に目をつぶるどころか、承認さえしていたのは、妻への後ろめたさゆえ、ということはありそうです。

夜、ルイ16世は就寝の儀式を終え、夫婦のベッドに入ると、しばらくして別室に出ていくのが通例となりました。

妻もその後ベッドを出て、深夜の馬車で夜のパリに出掛けてゆく、ということになります。

確かに、この夫婦に早く子供が授かっていたら、歴史は変わったかもしれません。

マリー・アントワネットは、子供ができる前とできた後では、別人のように人格が変わるのです。

乗馬にハマり込んだ王太子

ルイ・オーギュスト・ブラン『乗馬服のマリー・アントワネット』1783年

そんな、結婚当初のマリー・アントワネットが熱中したのは、乗馬でした。

結婚した年の夏、彼女は乗馬の練習を希望しますが、メルシー伯爵に危ないと止められ、最初はロバでの練習を始めます。

なぜ彼女は乗馬をしようと思ったのか。

それは、夫が狩りが趣味で、それに熱中していたからでした。

その年の11月には、彼女は夫に、狩りで毎日遅くなるのはやめて、と強い口調で抗議します。

夫は素直に謝罪しますが、行動を改めることはありませんでした。

狩りに熱中したのは、妻を避けるためでもあったからです。

そこで彼女は、国王に乗馬の許可を願い出ます。

乗馬をして、夫と同じ趣味をもち、関係を縮めたい、と健気に思ったのです。

当時、妊娠の可能性のある女性に乗馬はよくない、と言われていました。

また、落馬の危険もあります。

ハプスブルク家がヨーロッパの広大な領土を得たのは、マクシミリアン1世の皇后で、ブルゴーニュ公国の相続人であったマリー・ド・ブルゴーニュが落馬事故で亡くなったからでした。

要人女性が馬に乗るのは大変リスキーなことなのです。

しかし、女性に甘いルイ15世はそれを許可しました。

それどころか、乗馬費用として2万4000リーブルを支出したのです。

激怒したのは母帝マリア・テレジアです。

自分も乗馬を楽しみ、オーストリア継承戦争での勝利は、騎馬民族をルーツにもつハンガリー人を、その華麗な乗馬姿で魅了し、女王として受け入れてもらったことによります。

しかし、娘には跡継ぎを産むことを優先してもらわなければなりません。

いくら義父国王が認めたといっても、私はぜったい認めません!という激烈な叱責の手紙を何度も書きますが、皇女はのらりくらりと返事して、乗馬を続けました。

残念ながら妊娠するはずがないことは、彼女だけが知っていたからです。

www.classic-suganne.com

時代のファッション・リーダー、誕生

最初は夫との関係を近づけるために始めた乗馬ですが、だんだんと、その解放感の虜になってゆきました。

国王や夫が狩りをしないときでも、彼女は毎日乗馬に熱中したのです。

そして、フランスでは当たり前とされていた、ペティコートで片鞍乗りする、女性の乗り方をやめて、ドイツ流の、男と同じくズボンをはき、またがって乗るやり方に変えました。

これは当時、フランスではとてもはしたない行為とされていました。

しかし、天性の優美極まりない容姿と立ち居振る舞いを身につけているマリー・アントワネットの乗馬姿には、国王も夫の王太子も魅了され、人々の間でファッショナブルであるとの評判が高まりました。

彼女は、男性風の乗馬服を普段着としても使いはじめました。

堅苦しくて窮屈な宮廷ドレスをもう着たくない、という思いからでしたが、これが人々の間で「ルダンゴット」と呼ばれ、大流行したのです。

女性の男装は、男尊女卑の風の強いフランスの男性陣からは嫌われていましたが、鬱屈していた女性陣に受けたのです。

そしてそれが流行になると、男性陣もそれを賞賛せざるを得なくなります。

王太子マリー・アントワネットが、政治のリーダーではなく、ファッション・リーダーとして、旧弊な社会を変えはじめたのです。

モーツァルト:フルート四重奏曲 第3番 ハ長調 K.Anh.171(285b)

Wolfgang Amadeus Mozart:Flute Quartet no.3 in C major, K.Anh.171(285b)

演奏:バルトルド・クイケンフラウト・トラヴェルソ/アウグスト・グレンサー~ルドルフ・トゥッツによるコピー)、シギスヴァルト・クイケン(ヴァイオリン/ジョヴァンニ・グランシーノ:1700年ミラノ製)、ルシー・ヴァン・ダール(ヴィオラ/サムエル・トンプソン:1771年製)、ヴィーラント・クイケン(チェロ/アンドレア・アマティ:1570年製)【1982年録音】

第1楽章 アレグロ

モーツァルトは、1778年にマンハイムド・ジャン氏のために、「ふたつの協奏曲と3つの四重奏曲」を作曲したと、父レオポルトへの手紙で報告しています。その3つの四重奏曲とは、今私たちが聴けるどの曲にあたるのか、謎となっています。完全な3楽章をとる第1番はまず疑いないのですが、第2番とこの第3番は中途半端な2楽章だけとなっており、第4番は後年のウィーン時代の作ではないか、とされています。

その中でも特に謎なのが、この第3番です。完全な自筆譜は残っていないのですが、第1楽章の第149小節から第158小節までが、1782年に作曲されたオペラ『後宮からの誘拐』K.384のためのスケッチ用紙に書きつけられてるのです。音楽学者のR.リーヴィスは1962年に、今残っている第1楽章は、このスケッチこそオリジナルの自筆譜の一部であり、曲は第158小節で未完成となっていて、それ以降は第3者が加筆完成したのだ、という説を提唱しており、今のところそれを否定する説は出てきていません。確かに第158小節までできていれば、それまでの素材で違和感なく補筆することも可能かもしれませんが、あまり信じたくない夢のない説です。ただ、第2楽章も1784年作の管楽器のための大セレナード『グラン・パルティータ』K.361(370a)の第6楽章とほぼ同一であり、どちらが先にできたと考えれば、13楽器のために書かれたセレナードの方が先と考えるのが自然ですから、これも「誰か」が編曲して、2楽章のフルート・クァルテットに仕立てて売り出した、という可能性も高くなります。ただ、出版はモーツァルトの生前の1788年ですので、その「編曲」を彼が知らなかったというはずもありません。この頃自分で記していた「自作品目録」にこの曲がないため、彼が自分で編曲をしたのではないと考えられますが、実によくできた編曲のため、モーツァルトの監修のもと、弟子の誰かが行ったのかもしれません。

実はこの頃、くだんのド・ジャン氏がパリからウィーンに来て住んでいた可能性があるので、モーツァルトと再会して旧交を温めた際、『あの中途半端で終わった曲を最後まで作ってくれよ』と頼まれ、『ごめんごめん、忙しくて。弟子に手伝わせるから』といって編曲させ、フルート好きの氏に渡したのかもしれません。実際、モーツァルトは父に、注文に応えられなかった分を『あとの作品はいずれ送るつもりです』と言い訳していますので、それが4年後にようやく実現した、という可能性もあるのです。

第1楽章は、第1番に勝るとも劣らない魅力をもったテーマで始まります。弦の8分音符の刻みに乗る、フルートの温かい春風のような旋律。それをヴァイオリンがなぞる優しさ。第2主題はニ長調で、フルートが高いところから下りてくる分散和音です。再び、伴侶と言うべきヴァイオリンがそれを反復、拡げていきます。展開部は一転、暗いト短調となり、提示部とは無関係に思えるテーマが、シンコペーションをもつカノンで出てきますが、実はこれは第1主題の3拍目を拡大したものです。緊張感をはらんでニ短調からイ短調に進み、やがて再び明るい春の陽のもとに帰ってきます。そのまま終わるかと思いきや、新しいテーマが現れ、さすがモーツァルト、といった感じです。モーツァルトの知らないところで補筆がされた形跡は微塵も感じません。

第2楽章 アンダンティー

前述のとおり、〝謎の大曲〟といわれる大セレナード『グラン・パルティータ』K.361(370a)の第6楽章とほぼ同一の曲です。セレナードは1時間にわたる大曲で、13の管楽器(コントラバス含む)によるものです。リート風のテーマと6つの変奏曲です。編曲と言ってもただの焼き直しではなく、第1変奏はフルート、第2変奏はヴァイオリン、第3変奏はチェロと主役が移っていき、第4変奏の短調モーツァルトの好んだヴィオラの渋さが光ります。第5変奏のアダージョは、たゆたうような弦の伴奏の上で歌うフルートがどこまでも優しく美しく、万感を込めて心に沁みます。第6変奏は、セレナードのもつ遊園地のメリーゴーランドのような賑やかさと華やかさで、楽しく終わります。

どんな作曲の経緯があろうとも、名曲は名曲。この曲もフルートという楽器の魅力を堪能させてくれるのは紛れもない事実です。

『グラン・パルティータ』の記事はこちらです。

www.classic-suganne.com

動画は、いかにも室内楽といった雰囲気の寛いだ演奏です。(現代楽器) 


www.youtube.com

今回もお読みいただき、ありがとうございました。

 

Listen on Apple Music


にほんブログ村


クラシックランキン