孤独のクラシック ~私のおすすめ~

クラシックおすすめ曲のご紹介と、歴史探訪のブログです。クラシックに興味はあるけど、どの曲を聴いたらいいのか分からない、という方のお役に立ちたいです。(下のメニューは横にスライドしてください)

息苦しい!コルセットで締めつけられたお妃。~マリー・アントワネットの生涯17。モーツァルト:フルート四重奏曲 第4番 イ長調

ヴェルサイユの礼装グラン・コール

女性を物理的にも束縛したコルセット

王太子マリー・アントワネットが、母帝マリア・テレジアの反対を押し切って乗馬に熱中したのは、最初は自分と距離をとっている王太子の狩りの趣味に付き合うためでした。

しかし、いざ始めてみると、ヨーロッパ一堅苦しく、衆人環視のもとエチケットやマナーを厳守しなければならない、ヴェルサイユの宮廷生活からの解放感に酔いしれるようになりました。

夫が狩りや趣味の錠前作りに熱中しているのも、必ずしも自分を避けているのではなく、彼も宮廷から、できる限り逃れたいからだ、と理解できてきました。

また、彼女を束縛しているのは「コルセット」でした。

フランス貴族の子女は、男女ともに2歳からコルセットを着用する習慣でしたが、男の子は6歳で外されます。

しかし、女の子はずっと着用しなければなりません。

それは、中国で行われていた「纏足」と同じく、女性だけに課された苦難といえます。

なんで私だけ毎日!?

グラン・コールのコルセット

なかでも、もっとも格式の高い、コルセットは「グラン・コール」と呼ばれ、礼装用でした。

これは、肩ひもがなく、幅の広いリボンで背中を締め付けるようになっており、その結果、美しい肩のラインと、ギュッと絞られたウエスト、高い胸を作り出すことができました。

しかし、まさにこれは人間をフランス人形のようにするもので、不自由極まりなかったのです。

腕は自由に動かせず、食べ物は喉を通らず、呼吸さえ困難。

あやうく気を失いかけるほどでした。

この大礼装が貴婦人に許されるのは、国王や王妃に初めてお目通りするときや、特別な儀式のときだけでした。

しかし、王妃、王太子妃、王女はこれを常に、日常的に着用しなければならなかったのです。

王太子妃の反抗

男装した16歳のマリー・アントワネット(ヨーゼフ・クランツィンガーによるパステル画)

マリー・アントワネットはこれを嫌がり、嫁入りしてからの最初の夏、この着用を拒否しました。

これは、王太子妃が宮廷で顰蹙をかうように仕向け、ウィーンに送り返そうという叔母、アデレード王女の差し金でした。

彼女は、王太子妃がグラン・コール着用を嫌がっているのを知ると、止めてもだいじょうぶ、と唆したのです。

王太子妃から〝マダム・エチケット〟と陰で呼ばれた女官長ノアイユ夫人は大いにあわて、国王ルイ15世に、王太子妃がエチケットを破ったと訴えましたが、面倒ごとにかかわりたくない王は、不快感は示したものの、本人に注意はしませんでした。

しかし、新しい王太子妃は身なり、容姿に気を遣わない、という噂は、パリの街角にも広がり、ブリュッセルあたりでもささやかれ、やがて、メルシー大使によって母帝マリア・テレジアにも注進されます。

叔母の目論見通り、フランスの儀礼を無視したとんでもないドイツ女、ということで、非難の声が上がっていたのです。

たかが服装の話ですが、オーストリア・フランス同盟を揺るがしかねない事態でした。

母帝はさっそく、叱責の手紙を娘に送ります。

フランスから帰ってきたある貴婦人を問い詰めて白状したところによると、という文脈です。

マリア・テレジアからマリー・アントワネット(1770年11月1日)

(前略)その者の話では、あなたは背が伸び、お太りにもなった由。でも、鯨骨のコルセットをつけて私を安心させてくれないかぎり、太ったというのは心配です。(中略)私が質問しますと、本当のことを隠していることはできず、こう打ち明けました。あなたはひどく投げやりで、歯もきれいに磨いていない、と。きれいな歯は体型に劣らず大切なことです。ヴィンディシュグレッツ夫人はその体型についても、以前より見劣りがすると申しておりました。今のあなたはちょうどからだができていく年頃で、こうしたことはとても危険な兆候です。夫人はさらに付け加えて、お召し物も感心いたしかねましたので、思い切ってお付きの女官たちにもそう申しました、と話してくれました。夫人の話では、嫁入り支度として持っていった服を着ていることもあるとか。いったいどんな服を取っておいたのですか。寸法を知らせてくれれば、こちらで鯨骨の胴着あるいはコルセットをあつらえます。パリのものはきつすぎるそうですからね。出来上がったら使いの者にそちらへ届けさせます。(後略)*1

周囲の非難、母帝の叱責、義父国王の不興などから、マリー・アントワネットは、しぶしぶ再びグラン・コールを着用することになりました。

母の送ってくれた、やや締め付けの甘いオーストリア製のコルセットが届いたからかもしれません。

しかし彼女は、このようなルイ14世時代の慣習をいつまでも続けてゆくことに我慢がなりませんでした。

まるで時代劇の中にいるような気分だったと思われます。

彼女は、逃避として着用した乗馬服「ルダンゴット」から、さらに宮廷でのモードの変革を志していくようになります。

モーツァルト:フルート四重奏曲 第4番 イ長調 K.298

Wolfgang Amadeus Mozart:Flute Quartet no.4 in A major, K.298)

演奏:バルトルド・クイケンフラウト・トラヴェルソ/アウグスト・グレンサー~ルドルフ・トゥッツによるコピー)、シギスヴァルト・クイケン(ヴァイオリン/ジョヴァンニ・グランシーノ:1700年ミラノ製)、ルシー・ヴァン・ダール(ヴィオラ/サムエル・トンプソン:1771年製)、ヴィーラント・クイケン(チェロ/アンドレア・アマティ:1570年製)【1982年録音】

第1楽章 アンダンテ:テーマ・コン・ヴァリアツィオーネ

モーツァルトの最後のフルート四重奏曲です。この曲の成り立ちも、長い間諸説ありました。

少なくとも、これまでの3曲(第1番~第3曲)のように、1778年にマンハイムド・ジャン氏のために書かれたものではなく、また、その後作曲してド・ジャン氏に送ったものでもありません。ただ、自筆譜に同時代の他人(I.F.V. モーゼル)の手で『W.A. モーツァルトが1778年にパリで作曲したオリジナルな四重奏曲、ジャカン男爵より受領した作曲者の自筆譜』と書き込みがあるため、マンハイムを離れてパリに到着した後に書かれた、と長い間受け止められてきました。

しかし、戦後になってから、新モーツァルト全集の校訂者、J. ポハンカにより、もっと後のウィーン時代の作品と訂正されました。このことは、すでに1939年に研究者ド・サン=フォアが1787年の成立という説を出しており、これが正しいと結論つけたのです。理由としては、第3楽章のテーマが、1786年の初めにナポリで初演されたジョヴァンニ・パイジエッロのオペラから取られていることです。逆にパイジエッロモーツァルトの旋律を借用したのだ、という人もいましたが、この四重奏曲は出版もされていないですし、それはあり得ないことです。自筆譜の筆跡も、ウィーン時代のものです。

そもそも、この四重奏曲は、3つの楽章全てのテーマが、一般に知られたポピュラーなメロディーから取られています。これは、1770年代にパリで好まれ、1780年代にはウィーンでも流行した「Quatuors d'airs dialgues」という、既存のよく知られたテーマを使って作るという作品ジャンルなのです。それは、たいてい四重奏曲で作られ、誰もが知っている旋律なので、とても楽しく、演奏会で盛り上がったのです。

そもそもの、自筆譜へのモーゼルの書き込みの、「1778年にパリで作曲」は誤りでしたが、「ジャカン男爵より受領」、というのは、モーツァルトがウィーンで親しかったゴットフリート・フォン・ジャカン男爵のことで、この楽譜が男爵所有のものだったのは間違いないようです。1787年8月5日に、モーツァルトはジャカン家で催されたケーゲルシュタット(今でいうボーリング)の会に参加し、この機会のために『ケーゲルシュタット・トリオ K.498』を作曲、演奏していますが、同じ時期、あるいは同じ機会のために書かれた可能性は高いです。さらには、一連のフルート四重奏曲を注文したド・ジャン氏も、この頃ウィーンにいてジャカン男爵家に出入りしていますから、このボーリング大会にもいたかもしれません。そして、モーツァルトは、ド・ジャン氏のために、フランス趣味で、かつて書いたフルート四重奏曲シリーズの続きとして書いた、ということさえ考えられます。そうなると、この曲はケッヘル番号でいえば、本来は400番台後半、ということになります。

さて、第1楽章の優しく穏やかなテーマは、フランツ・アントン・ホフマイスター(1754-1812)作曲のリート(歌曲)『自然に寄す』から取られています。自筆譜の3ページ目の上のほうには、別人の筆跡で、このテーマが書き込まれています。これはジャカン男爵の手によるものかもしれず、モーツァルトが「お題」をもらって書き始めたことが分かります。俳句の会のようですね。モーツァルトが作ったと言われても遜色ない、むしろ第1番に通じるような、フルートの醸し出すアットホームな雰囲気が素敵です。

このテーマをもとに、4つの変奏がなされます。第1変奏はフルートがややかしこまった調子で装飾的に演奏します。第2変奏の主役はヴァイオリンで、細やかに、名人芸的な動きをします。第3変奏は脇役ヴィオラがメインを務め、落ち着いた中低音域で渋い音色で語ります。第4変奏はテーマがフルートに戻りますが、チェロが活発なオブリガートでまた新しい趣を添えます。

第2楽章 メヌエット

フルートが主導する愛らしいメヌエットとなりますが、トリオのテーマが、フランスの古い民謡、バスティアンは長靴履いてる Il a des bottes, des bottes Bastienから取られています。メヌエットは、このトリオに合わせて作られたことも分かります。

第3楽章 ロンドー:アレグレット・グラツィオーソ

前述のように、当時の大人気オペラ作曲家、ジョヴァンニ・パイジエッロ(1740-1816)がナポリで1786年春に作曲し、同年9月1日ウィーンで上演されたオペラ『勇敢なる競演 Le Gare generoseのアリエッタ『優しい恋人はどこにいるの』から採られています。当時のウィーンでヒットした、いわば流行曲です。

モーツァルトは、「ロンドー」を通常の「Rondeau」ではなく、ふざけて「Rondieasoux」とおおげさに綴り、アンダンテ・グラツィオーソの指示のあとに、「ma non troppo presto, pero non troppo adagio. Cosi cosi con molto garbo ed espressione. (しかしあまり速すぎず、さりとてあまりゆっくりでもなく。そうそう、そんなふうに思いきり気取って、表情たっぷりと。)」と書き込んでいて、この曲が、気のおけない仲間うちで楽しまれたことがうかがい知れます。ロンドーのテーマは巧妙にモーツァルトによって加工され、エピソードの中でも、指示通り自在に表情豊かに展開していきます。

ボーリングに興じながら、ゲームとゲームの間に、ド・ジャン氏がモーツァルトにウインクしながらお茶目に演奏し、みんな大ウケ…といったひとときが目に浮かびます。

 

ご参考に、原曲のパイジエッロのオペラのアリエッタはこちらです。

演奏:ジョヴァンニ・パイジエッロ・フェスティバル

 

動画は、名盤中の名盤と言われた今回のアルバムと同じ、クイケン兄弟を中心とした演奏です。(古楽器


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こちらは、第3番と同じモーツァルト・カルテットの演奏です。(現代楽器)


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今回もお読みいただき、ありがとうございました。

 

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*1:マリー・アントワネットマリア・テレジア 秘密の報復書簡』パウル・クリストフ編・藤川芳朗訳(岩波書店