マリー・アントワネットの夫、ルイ16世の生い立ちについて見ていくことにします。
彼は、清教徒革命で斬首刑にされた英国のチャールズ1世と並び、革命によって裁判にかけられて死刑となった数少ない国王のひとりです。
なかなか子供を作れなかったことや、優柔不断でやや無頓着な性格などから、当時から揶揄、嘲笑された国王でしたが、常識と教養をもっており、祖父ルイ15世よりよほどマシな君主でした。
ただ、既に破綻していた国家や社会の救済、破滅に瀕した王朝の存続、そして世界史的な時代の変化に対応するような、英雄的な資質までは持ち合わせていなかったのです。
けっして「暗君」ではなかったのですが、王妃ともども、「平凡な普通の人」だったため、荒波を乗り越えることができず、悲劇的な最後を迎えることになったのだと思います。
夭折した兄たち
彼は1754年8月23日、フランス王太子ルイ・フェルディナンの3男として生まれました。
母は大バッハが形式上仕えていたポーランド王兼ザクセン選帝侯アウグスト3世の娘、マリー=ジョゼフ・ド・サクスです。
名はルイ・オーギュスト。
儀礼称号として「ベリー公」が与えられました。
王太子夫妻の長男、すなわち将来のフランス王は、3つ上の兄、ブルゴーニュ公ルイ・ジョゼフ・グザヴィエでした。
彼はハンサムで聡明、そして優しくて、将来を嘱望されていました。
しかし、9歳のとき、遊び仲間によってふざけて木馬から落とされ、軽いケガをしました。
優しい彼は、学友が罰せられるのを心配して、それを隠していましたが、だんだんと体調が悪くなり、寝込んでしまうようになりました。
ケガが原因かは分かりませんが、彼は9歳で肺外結核で亡くなってしまいました。
次男のアキテーヌ公グザヴィエ・マリー・ジョゼフは、ブルゴーニュ公より先に、5ヵ月で夭折。
ルイ・オーギュストは7歳で、将来のフランス王となる運命が決まったのです。
11歳のときに、父の王太子ルイ・フェルディナンが亡くなってしまい、あれよあれよという間に王太子となってしまいました。
もともとは王位にはやや遠い存在だったのに、運命は彼に白羽の矢を立てることになりました。
内気だけど、文武両道に優れた少年だった!
彼は強くて健康でしたが、とても内気で、内向的な性格でした。
学業も優れ、ラテン語、歴史、地理、天文学に強い趣味を持ち、イタリア語と英語も堪能でした。
趣味は狩猟と錠前作りという、対称的なものです。
狩猟は、現代のサラリーマンのゴルフよろしく、当時の王族、貴族としては当たり前の趣味であり、祖父である国王ルイ15世に従ってよく出かけましたが、付き合いではなく、彼自身大好きでした。
内向的な性格ではありましたが、その発散先だったようです。
錠前作りは有名で、マリー・アントワネットも王族にふさわしくないと呆れていましたが、当時の啓蒙主義的雰囲気の中では、技術の開発は奨励されており、少年の趣味としては賞賛されるべきものでした。
今の中学で学ぶ「金工」に熱中したということです。
自分専用の鍛冶場を作って、技術の工夫にいそしみました。
決して〝変人〟というわけではないのです。
ただ、自分をほったらかしにして鍛冶場にこもる夫を、マリー・アントワネットはギリシャ神話の鍛冶の神ウルカヌス(ヴァルカン)になぞらえ、自分をその夫アフロディーテ(ヴィーナス)にたとえました。
これは実にぴったりですが、ヴィーナスは夫が鍛冶場にいる隙に軍神マルスと不倫をするわけですから、夫婦のたとえとしてはあまりにもブラックすぎます。
彼の教育の責任者は、父ルイ・フェルディナンによって、「フランス児童総督」であるヴォーギュヨン公爵が受け持ちました。
父は、享楽的で退廃したルイ15世とはまったく対照的な、敬虔で厳格な人物でしたから、教育方針も保守的で厳しいものとなりました。
そして、将来の国王として、人に利用されないよう「感情、心の内面を表に現わさない」ことを教え込まれました。
教育の影響は大きいです。
マリー・アントワネットは、夫が何を考えているのかなかなか理解できませんでしたし、後のフランス革命時には、市民も王の考えが分からず、不信感を募らせることになってしまうのです。
感情を押し殺し、とにかく慎重に、慎重に、と厳しく抑圧されたルイ・オーギュストは、ストレスを狩りと錠前作り、そして食べることで発散しました。
それは過食症ともいえるもので、狩りに出かける朝はカツレツ4枚、鶏1羽、ハム1皿、ソースをつけた1ダースの卵を食べ、シャンパンを1瓶半飲んだということです。
さすがに消化不良に苦しみ、妃に看病されましたが、それでも空腹を訴え、まだ食べたりない、と不満を訴えました。
革命が起きて、民衆にパリに連行されたときも、ヴァレンヌ逃亡事件のときも、王家の危機、命の危機というのに、食べることにこだわっていたということです。
ルイ16世の肖像画は、でっぷりと太って太鼓腹、いかにも食いしん坊、といった感じですが、満腹中枢に異常があったのかもしれません。
マリー・アントワネットが結婚してしばらくの間、夫と距離を置き、自分の時間を楽しんだのも、無理からぬことかもしれません。
ただ、フランス国王の夫婦関係は政治的な影響が大きく、国内外から常に注目され、各国大使はスパイ行為をしてまで把握しようとしました。
母帝マリア・テレジアが、この若すぎて軽率な夫婦を身を削らんばかりに心配し、時には激怒することにもなったのも、また無理からぬことでした。
モーツァルトのフルート・コンチェルト 第2番
今回は、モーツァルトのフルート・コンチェルトの、第2番 ニ長調を聴きます。
第1番の作曲のいきさつは前回取り上げました。
第2番もド・ジャン氏からの「フルート協奏曲3曲と2曲のフルート四重奏曲」という注文から作曲されました。
モーツァルトにしては珍しく苦吟し、がまんのならない楽器のための作曲は気が乗らない、などと父レオポルトに言い訳しながら作曲します。
そして、できたのは「協奏曲2曲と四重奏曲3曲」。
ド・ジャン氏は、注文通りでなかったことから、約束の報酬200フローリンを値切って、モーツァルトには96フローリンしか支払いませんでした。
フルート・コンチェルトとしては2曲目の第2番 ニ長調は、過去に作曲したオーボエ・コンチェルトの編曲版でした。
モーツァルトと父との過去の手紙のやりとりから、マンハイムに旅立つ前に、ザルツブルク宮廷楽団のオーボエ奏者に着任したフェルレンデスのために、オーボエ・コンチェルトを作曲し、その楽譜を旅に携えていったことがわかります。
作曲時期は、フェルレンデスが着任した1777年の4月から、旅立つ9月までの間ということになります。
しかし、その楽譜は長く見つかりませんでした。
20世紀になってから、1920年に、モーツァルト学者のパウムガルトナーが、ザルツブルク・モーツァルテウムに保存されていたモーツァルトの息子の遺品の中から、オーボエ・コンチェルトの筆写パート譜を見つけたのです。
それは調性が違っていましたが、知られていたフルート・コンチェルト 第2番とほぼ同じ曲でした。
そのため、モーツァルトはこのオーボエ・コンチェルトを長二度高く移調し、フルートで演奏しやすいように編曲したことがほぼ確実となりました。
また、編曲であることを示す傍証としては、最初からフルートのために作曲された第1番 ト長調では、当時のフルートの最高音である3点ト音がしばしば使われているのに、この曲では3点ホ音を超えていないこと、そしてそれは当時のオーボエの最高音3点二音にあたること、また、ヴァイオリン・パートも一番低い弦のイ音より下に入ってこないこと、が挙げられます。
この編曲の理由については、モーツァルトがド・ジャン氏をだまし、過去作を流用して新作と偽って渡したのがばれ、半分以下の報酬しかもらえなかった、というように語られることがありますが、それは違います。
モーツァルトの手紙によれば、このオーボエ・コンチェルトは、マンハイムのオーボエ奏者ラムによって当地で5回も演奏され、大変な評判となっている、と記されているからです。
同じく当地に滞在していたド・ジャン氏が聴いていないはずはありません。
モーツァルトは、新作ができない代わりに、人気作をフルート用に編曲して渡したのでしょう。
逆に、ド・ジャン氏のリクエストだったかもしれません。
いずれにしても、だましたわけではないのです。
フランス・ブリュッヘンは、原曲のオーボエ・コンチェルトが、そもそもフルート用だったのではないか、という説を唱えていますが、それくらい、この曲はフルート・コンチェルトとして素晴らしく、第1番以上の人気を博しているのです。
モーツァルトは別途、不足の曲を作って、残額をもらうつもりだったようですが、これは実現しませんでした。
モーツァルト:フルート協奏曲 第2番 ニ長調 K314(285d)
Wolfgang Amadeus Mozart:Flute Concerto no.2 in D major, K314(285d)
演奏:バルトルド・クイケン(フラウト・トラヴェルソ)、ジギスヴァルト・クイケン指揮 ラ・プティト・バンド(古楽器使用)
第1楽章 アレグロ・アペルト
「アペルト」というのは見慣れない指示ですが、「はっきりとした」という意味です。冒頭、ヴァイオリンとオーボエがさわやかな第1主題を風のように奏で、すぐ優しい第2主題をつなぎます。独奏フルートは登場するなり、高い二音を4小節に渡って引き延ばした末に、16音符の速いパッセージを奏でます。この名人芸には、誰もが魅了されることでしょう。その後、フルートは自由自在に天空を飛び回り、心に沁みる音色を、世界中に響けとばかり高らかに歌います。弦の伴奏も優雅の極致、独奏とピッタリです。展開部は短いのがかえって粋。カデンツァのあともすっきりと曲を閉じるのは、ザルツブルクでこれに先立ち続けて作曲した、5曲のヴァイオリン・コンチェルトの発展形ともいえます。まさに貴重なフルートのレパートリーです。
第2楽章 アンダンテ・マ・ノン・トロッポ
ソナタ形式で、深呼吸をするように深い叙情を秘めた緩徐楽章です。やや重々しい弦の前奏に続き、しっとりと歌うフルートの第1主題の美しさにはため息が出ます。第2主題は弦との掛け合いで、その静かな対話が心に沁みわたります。静かな中に、だんだん思いは高ぶり、ひとつの頂点に達します。カデンツァのあと、余韻を残しながら曲を閉じます。
第3楽章 ロンド:アレグロ
ロンドのテーマですが、形式はロンド形式というより変則的なソナタ形式です。第1主題の軽やかなテーマは、後年ウィーンでヨーゼフ2世の依頼で作曲、上演したドイツ語オペラ、『後宮からの誘拐』の第2幕で、侍女のブロンテが希望に満ちて歌うアリア『なんという喜び』に使われています。それだけ、モーツァルトがこのコンチェルトの人気に自信をもっていたことがわかります。テーマはオーケストラに反復されたあと、オーボエとホルンの先導で独奏フルートはまったく新しいフレーズを繰り出しますが、これは第2主題ではありません。第2主題はヴァイオリンで、第1主題の変形で、しかも同じニ長調で提示されます。それに続き、独奏フルートが第1主題を変化させ、華やかなパッセージを繰り広げます。これが中間部にあたります。フルートは、時にはオーケストラと対話し、時には天高く飛翔します。再現部では、第1主題は3度にわたって現れ、カデンツァのあと、もう一度繰り返されて締めくくられます。喝采が聞こえるようです。
『後宮からの誘拐』のアリアはこちらです。
www.classic-suganne.com
それでは、原曲のオーボエ・コンチェルトも聴きましょう。
この曲は『のだめカンタービレ』でも取り上げられ、登場人物たちの恋心が演奏に移って〝ピンクのモーツァルト〟になりました。
編曲のいきさつはあれど、オーボエにとっても貴重なレパートリーです。
Wolfgang Amadeus Mozart:Oboe Concerto in C major, K314(285d)
演奏:ミシェル・ピゲ(オーボエ)、クリストファー・ホグウッド指揮 アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージック(古楽器使用)
第1楽章 アレグロ・アペルト
第2楽章 アダージョ・マ・ノン・トロッポ
第3楽章 ロンド:アレグロ
動画はドロテア・ゼールのフラウト・トラヴェルソ、バロック・ゾリステン・ミュンヘンの演奏です。当時、貴族の館での演奏は、このような室内楽的な形が多かったでしょう。(古楽器使用)
www.youtube.com
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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