〝この支配からの卒業〟をしたいのは自分だけ?
堅苦しく厳しい宮廷儀礼と、コルセットに締め付けられ、息が詰まる思いの王太子妃マリー・アントワネット。
まだ10代なので無理はありませんが、もともと出身は、嫁ぎ先のフランス・ブルボン家よりも格上の、ヨーロッパ一の名家ハプスブルク家。
平民がいきなり玉の輿に乗ったわけのとはわけが違います。
代々の王太子妃、王妃たちも窮屈な思いをしたはずですが、運命と自らに課された過酷な使命に抗うすべなどありませんでした。
なぜ、彼女だけ激しい抵抗をみせたのか。
それは、変化を求めていた時代の雰囲気にあったのかもしれません。
ヴェルサイユ宮殿を築いた、バロックの太陽王ルイ14世が、ヨーロッパに君臨した絶対王政は、そろそろ限界を迎えていました。
宮廷儀礼は、絶対王政の維持装置そのものです。
18世紀後半、世に広まった啓蒙思想は、人の権利、自由を説き、新しい時代への変革を叫んでいました。
ヨーロッパの面白いところは、これが必ずしも危険思想とはとらえられず、最先端の教養として、絶対王政を担う君主、貴族たちにも広がったことです。
フリードリヒ2世、ヨーゼフ2世、エカチェリーナ2世といった君主たちは、絶対王政の権力をもって、啓蒙思想を実践しようとしました。
〝啓蒙専制君主〟という、自己矛盾をはらんだ存在でしたが、ルイ16世、その王妃マリー・アントワネット夫妻も、実はそれに近い考えだったのです。
ただ、ふたりとも、それを実践するほど政治に興味もなく、政治力もありませんでした。
マリー・アントワネットは、旧弊な儀礼、慣例を打破し、自由になりたい、という思いを、自分の解放だけに向けました。
これを国民、国家、社会の解放にも向けていれば、フランス革命は起こらず、自分も断頭台に登ることはなかったことでしょう。
解放の原動力、「市民」
さて、このような時代の変化の原動力となったのは、「市民」でした。
その中でも「職人」階級は、その卓越した技で君主や貴族に取り立てられたり、後援を受けたりして、宮廷社会、貴族社会に食い込み、「寄生」しながら、新時代を切り開いていったのです。
平民であり、裕福でもありませんが、農民や一般労働者に比べて、一定の知性、教養があり、運さえよければ、王侯貴族とコネクションを持つこともできたのです。
音楽家では、ハイドン、モーツァルトの人生がまさにその典型です。
そして、マリー・アントワネットも、新しい時代(自分)を模索するのに、「市民」の力を大いに利用したのです。
彼女が〝寵愛〟した市民として有名なのは、まずは、美容師レオナール・オーティエ(1746-1820)。
そして、ファッション・デザイナーで服飾商ローズ・ベルタン(マリー=ジャンヌ・ベルタン)(1747-1813)。
また、女流宮廷画家、ルイーズ・ヴィジェ・ルブラン(1755-1842)。
マリー・アントワネットの生涯を彩る、有名な脇役たちで、時には、彼女を破滅に導いた悪役扱いをされますが、それは一面的な見方です。
音楽家たちと同様、彼ら、彼女らの歴史的役割は極めて重要なのです。
元祖カリスマ美容師への道
まずは、〝王妃専属の髪結い〟となった、レオナール・オーティエから取り上げましょう。
かれの人生は、まさにひとつの冒険物語、立志伝です。
マリー・アントワネットといえば、高く聳え立ち、奇抜な装飾をゴテゴテつけた、常軌を逸した髪型「プーフ」で有名ですが、まさにそれを考案した人物です。
彼は、1746年頃、ピレネー山脈に近いガスコーニュ地方で生まれました。
パリから見たら、とんでもない田舎ですが、頑固でうぬぼれが強く、虚栄心の高い土地柄といわれ、レオナールもそのような性格でした。
両親は使用人でしたが、彼は髪結い師を目指して家を出ます。
ボルドー、トゥールーズ、マルセイユで腕を磨き、賞賛を得て、自分には特別な才能があると確信します。
そして、ボルドー時代からの知り合いで、パリに行って雇用先を見つけたフレモンという同業の友人のつてをたどり、パリで一旗上げてやろうと、勇躍乗り込んできました。
しかし、ポケットにはわずか30フランしかなかったといいます。
彼は、フレモンの紹介で、当時、パリ一の髪結い師として名高かったルグロに会うことができました。
ルグロは、ルイ15世王妃マリー・レクザンスカや、ポンパドゥール夫人のお抱え美容師であり、著書『フランス女性の髪形芸術』は美容師の教科書として流布していました。
ルグロは、田舎から出てきたばかりの若者、レオナールを軽侮しながらも、弟子にしてやってもよい、と横柄な返事をしました。
レオナールは、パリ一の巨匠の知遇を得て、成功の足掛かりを作った・・・ということにはならず、逆に、彼こそが旧弊な髪形の保守派の親分と見抜きました。
そして、その手法を自分の技で時代遅れにしてやろう、と心の底の野心に火をつけたのです。
パリ中の評判となった「ニコレ座の妖精」
ただ、いきなりの顧客なしのフリーランスでは生活できません。
フレモンは、今パリで評判の劇場で、女優たちの髪を結ってみたらどうか、と提案します。
当時のパリには、王立の劇場、オペラ座のほかに、小さな芝居小屋がいくつもできていました。
1760年にジャン=パプティスト・ニコレという興行主が創設した「ニコレ座」は、そんな場末の芝居小屋のひとつで、当初は綱渡りや曲芸をやっていました。
それが、評判が高まり、運よく国王ルイ15世の御前で演じる機会があってお褒めにあずかり、それ以降、座の女優たちは「王の偉大なダンサーたち」と呼ばれていました。
フレモンはレオナールに、ニコレ座の女優のひとり、ジュリー・ニエベールを紹介しました。
彼女はその夜、新作パントマイムで妖精の役をやることになっていました。
レオナールは化粧台で、ジュリーの金髪をいくつかの房に分け、区画ごとに模造のエメラルド、真珠、小さな花をあしらいました。
そして最後に、ごく細い針金に星をつけ、これを一列に並べて髪に留めました。
まるで、頭の上にふんわりと星の列が並んでいるようです。
ジュリーはそれほど演技はうまくなく、評判はイマイチの女優でしたが、舞台に出ると、観衆の目はその奇抜なヘアスタイルに釘付けになりました。
客たちには星たちがどうして頭上の空中に留まっているのか不思議でならず、大いに注目。
彼女が登場する度に大喝采となり、これまで拍手をもらったこともなかったジュリーは、公演がはねると何度も舞台に呼び出されたのです。
すぐに新聞はこの斬新なヘアスタイルの評判を書き立て、場末のニコレ座に、貴族や金持ちまでが押しかけました。
座長はこれまで、自分の劇場にそんな貴賓が来たことは見たことがありませんでした。
2回目の公演では、レオナールはさらにジュリーの髪形を大胆にし、まさにパリ中の評判となりました。
ルグロは、若造の評判を聞きつけてニコレ座を訪れ、妖精の驚異的な髪形を見て真っ青になり、『ああいう奇妙な、大げさな、徹底的な馬鹿さ加減は、ヤジか喝采かどちらかしかなく、危険な実験だ!』と叫びましたが、その実験は大成功したのです。
アンブリモン伯爵夫人は、評判のニコレ座の妖精をぜひ自邸で見たい、ということで、一座を招きました。
その邸には要人が集まり、包丁1本、ならぬ、櫛1本でパリに出てきた一市民レオナールの前に、大きな登竜門が開かれたのです。
門の先には、王太子妃が待っていた、というわけです。
それは次回に。
さて、ここから、マリー・アントワネットの王妃なりたての頃に、モーツァルトが作曲したピアノ・コンチェルトを聴いていきます。
モーツァルトとマリー・アントワネットとの接点は、神童時代にマリア・テレジア女帝の御前演奏のときに起こった、『大きくなったら僕のお嫁さんにしてあげる』事件以来、ありませんでした。
1778年、モーツァルトは職を求めてパリに6ヵ月間滞在しますが、王妃マリー・アントワネットは何の反応もしていません。
自分のかつてのピアノ教師だったグルックがパリに来た際には大歓迎し、オペラ座での公演を全面的に支援し、パリ中に賛否両論の『グルック=ピッチンニ論争』を巻き起こしたのとは正反対です。
モーツァルトの方も、ある貴族の口利きで、ヴェルサイユのオルガニストの職を斡旋されますが、宮廷務めなどしたら、パリの誰からも忘れられてしまう、と言って断っています。
父レオポルトは、なんてもったいないことをするのか!と怒りますが、その頃は国王・王妃自身が、ヴェルサイユでの宮廷生活を敬遠していたのですから、モーツァルトが嫌がったのも無理もありません。
そのあたりは、王妃になってからのマリー・アントワネットの行動をこれから見ていけば分かるでしょう。
そんなわけで、パリへの就活旅行は失敗しましたが、旅に出る前、モーツァルトはザルツブルクでの宮仕え時代に、数曲のピアノ協奏曲を作曲しています。
ピアノ協奏曲は、オペラと並んでモーツァルト芸術の真骨頂であり、私にとってもかけがえのない曲たちで、2017年に始めたこのブログで真っ先に取り上げましたが、それはウィーン時代の作品、具体的には第11番以降で、それ以前の作品は取り上げていませんでした。
第1番から第4番はいわば習作で、これはこれで素晴らしいのですが、他の作曲家の作品の編曲です。
第5番が最初のオリジナル作品ですが、これは以前の記事で取り上げました。
(ご興味のある方はヘッダーの「紹介楽曲一覧」からアクセスください)
これから、未掲出の第6番から第10番を聴いていきたいと思います。
この時期のモーツァルトは、当時ヨーロッパで流行していた、フランス流の「ギャラント様式(スチール・ギャラン)」、つまり〝優美な様式〟の影響を強く受けていました。
「バロック音楽」に対して「ロココ音楽」と呼んでもよいかもしれません。
まさに、マリー・アントワネットの若い頃の同時代音楽なのです。
残念ながら、ハイドンのシンフォニー《フランス王妃》のように、彼女のお気に入りにはなりませんでしたが。
Wolfgang Amadeus Mozart:Piano Concerto no.6 in B flat major, K.238
演奏:マルコム・ビルソン(フォルテピアノ:1780年初頭のアントン・ヴァルター製の複製)、ジョン・エリオット・ガーディナー(指揮)、イングリッシュ・バロック・ソロイスツ【1987年録音】
第1楽章 アレグロ・アペルト
最初のピアノ・コンチェルト、第5番 ニ長調 K.175を書いてから、約2年間、このジャンルが書かれることはありませんでした。K.175は各地に広がって人気だったのに、不思議ではありますが、この間モーツァルトは、5曲のヴァイオリン・コンチェルトを一気に書いていたのでした。しばらく〝ヴァイオリン・モード〟だったわけです。しかし、ヴァイオリン・コンチェルトは第5番 イ長調 K.219《トルコ風》で頂点に達したあと、生涯2度と書かれませんでした。たまたま機会がなかったということでしょうが、〝父の楽器〟ヴァイオリンは敬遠し、自分のメイン楽器はピアノである、という考えもあったでしょう。
そして1776年、ピアノ協奏曲が1年の間に4曲が立て続けに誕生し、その最初がこの第6番 変ロ長調 K.238です。
この作品は、初めて5オクターブの音域を持ち、従来よりも大型の楽器を必要としました。当時の〝クラヴィーア・コンチェルト〟はまだまだチェンバロで演奏される方が多かったはずで、この曲の自筆譜にもイタリア語で『騎士アマデーオ・ヴォルフガンゴ・モーツァルト氏のチェンバロ協奏曲』と書かれていますが、この曲はピアノを意識して作曲されています。4曲のうち2曲は、生徒や注文主が弾けるようにピアノパートが幾分初心者向けに書かれていますが、この曲は技巧的に難しく、自分や姉ナンネルのような〝プロ〟が弾くことが想定されています。
実際、モーツァルトは就活のための〝マンハイム・パリ旅行〟にこの曲を携え、ミュン1777年10月4日にはミュンヘンで、10月22日にはアウクスブルクの大富豪フッガー家の大ホールで演奏を披露した記録が残っています。フッガー家のコンサートでは、モーツァルトが惚れ込んだシュタイン製のピアノが使われています。1778年2月13日には、マンハイムの宮廷楽長カンナビヒ邸でのコンサートで、令嬢ロジーナが独奏を務めました。
第1楽章は、いきなりの疾走から始まります。この意表を突く〝ツカミ〟には、誰しも魅了されてしまうことでしょう。音楽は優美で華麗なロココの装飾空間を、自在に飛び回ります。指示の「アペルト」は、あまり見慣れない表示ですが、この時期のモーツァルトは時々使った言葉で、「開放的な」というニュアンスです。まさに、縦横無尽に広がるこの曲のファンタジーにぴったりです。平明な第1主題、リズムをずらした第2主題が、強弱のメリハリをつけて展開していきます。数小節ですが、ピアノ・ソロがまったく伴奏なしで奏でられる瞬間もあり、これも当時としては斬新な試みでした。
3つの楽章のカデンツァはモーツァルト自身の作曲で、戦後、ザルツブルクの聖ペテロ修道院で発見されましたが、一説では、父レオポルトの筆跡ともいわれています。
第2楽章 アンダンテ・ウン・ポコ・アダージョ
オーボエ奏者がフルートに持ち替え、ヴァイオリンは弱音器をつけて三連音を奏で、ヴィオラ、チェロがピチカートで伴奏するという、新しい響きの絨毯の上で、ピアノが詩情あふれるテーマを存分に歌い上げる、という趣向になっています。展開部はありませんが、ため息のような音型、短調への揺らぎ、細やかな装飾が、単なる優雅さを超えて、深みを醸し出しています。
第3楽章 ロンドー:アレグロ
思わず体が動いてしまうような、ご機嫌なロンドのテーマです。進むにつれ、ホルンが入れる合いの手が、村のお祭りの楽隊のように楽しいです。主役は、出すぎというほどにピアノが一貫してリードしていきます。しかし、中間部で、何やら伴奏が急降下し、青天の霹靂のように短調に移行します。そして、ピアノは、まるで後年のニ短調シンフォニーのような深刻なドラマを繰り広げ、それまで気楽に聴いていた人の目を丸くします。それもつかの間、再び明るい光の中に戻り、大いに盛り上げて、絶頂でカデンツァの華麗な技を見せつけ、最後はあっさりと、実に粋に終わります。
後年のウィーン時代の傑作の森は、すでにこの曲で予告されています。
さらに当時に迫った演奏
先に取り上げたビルソン&ガーディナーの録音は、1980年代後半、モーツァルトのピアノ・コンチェルトを初めて全曲古楽器で演奏した画期的なものです。
35年前、高校生のときに聴いた私はまさに衝撃を受け、それ以来ずっと愛聴していて、その新鮮さは今でも褪せることはありません。
当時、グランドピアノの大音量に馴れた耳からは、フォルテピアノの音は小さくて聞こえづらい、通奏低音を弾くのは違和感がある、などといった批判もありましたが、モーツァルトの時代には今のような大ホールは無いのですから、正統な演奏として今では当たり前になりました。
ただ、使用楽器はすべて、ウィーン時代のヴァルター製のフォルテピアノの複製ですので、この曲の時期には存在しません。
次の、スホーンデルヴィルトによる演奏は、この曲が作曲された頃に作られたピアノで演奏されたものです。
よりチェンバロに近い響きがし、オーケストラも各楽器1名という少人数編成ですので、モーツァルトが旅先の貴族の館で演奏した音に近いといえます。
現代オーケストラが米を磨き抜いて作られた吟醸酒とすれば、様々な風味が混じり合ったプリミティブな濁り酒のような演奏ですので、ガチャガチャとして耳障り、という方もいるとは思いますが、当時を思い浮かべながら聴くのは格別です。
演奏:アルテュール・スホーンデルヴィルト(フォルテピアノ:1770年頃のシュペート&シュメール製の複製)、クリストフォリ・アンサンブル【2014年録音】
第1楽章 アレグロ・アペルト
第2楽章 アンダンテ・ウン・ポコ・アダージョ
第3楽章 ロンドー:アレグロ
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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