孤独のクラシック ~私のおすすめ~

クラシックおすすめ曲のご紹介と、歴史探訪のブログです。クラシックに興味はあるけど、どの曲を聴いたらいいのか分からない、という方のお役に立ちたいです。(下のメニューは横にスライドしてください)

お妃様の新しいヘアスタイルとは。~マリー・アントワネットの生涯20。モーツァルト:ピアノ協奏曲 第8番 ハ長調《リュッツォウ》

貴婦人の髪を結うレオナール・オーティエ

レオナール、ついにヴェルサイユ

前回の続きです。

大嫌いな国王の愛妾、デュ・バリー夫人から、美容師を変えた方がよろしいのでは?と、嫌みなのか、それともお追従なのか分からない忠告をもらった、王太子マリー・アントワネット

今、パリで評判の髪結い師、レオナール・アレクシス・オーティエの噂は、その愛人でもある側近、ランジャック侯爵夫人からもかねて聞いていて、興味もあったと思われます。

また、母帝マリア・テレジアからあてがわれた髪結い師、ラルセヌールもそろそろ変えたいと思っていた彼女にとっては、渡りに船だったかもしれません。

1772年、ランジャック侯爵夫人は、レオナールを連れてヴェルサイユ宮殿に参内します。

ちょうど王太子マリー・アントワネットは、義理の妹であるプロヴァンス伯夫人に着替えを手伝ってもらっていましたが、夫人が誤って彼女の髪を崩してしまったところでした。

午前の衣裳から昼用の衣裳への着替えは、彼女が大嫌いな日課のひとつです。

これは、王太子妃が義姉と示し合わせ、宮廷儀礼(エチケット)に厳しい女官長ノアイユ伯爵夫人を欺くための作戦でした。

髪を整えるエチケットは、王太子妃の手を女官長が清め、寝室付き第一侍女が水気を拭き、新しい肌着を差し出すのもノアイユ夫人の特権でした。

これをまた繰り返さなければなりません。

王太子妃は笑いながら椅子に身を投げ出し、女官長に言います。

『ノアイユ夫人、未来のフランス王妃は乱れた髪で臣下の前に現れなければならない、と礼儀作法で定められていないのであれば、髪を整えたく思います。』

そのタイミングで、これまた示し合わせていた第一侍女、カンパン夫人が、『妃殿下、髪結いレオナールが控えの間に参っております。』と告げます。

マリー・アントワネットは、『さあ皆さん、半神のお出ましですよ。』と入室を許可します。

レオナールは既に〝髪型の神様〟と呼ばれていたからです。

ノアイユ夫人は叫びます。

『レオナールですって!この部屋では女性以外からお世話を受けることは許されないことを、妃殿下はお忘れなのですか?』となじります。

王太子妃は反抗します。

『許されていないですって?未来のフランス王妃が、女だろうと男だろうと、髪結いを雇うのに臣下の許可を求めなければならないのかしら?』

レオナールの初仕事

来年のヴェルサイユ宮殿創建400周年を記念して初公開された、マリー・アントワネットの私室

ノアイユ夫人を追い出すと、レオナールを導き入れ、王太子妃は彼に語りかけます。

『あなたの評判はここまで届いています。でもレオナール、自分の評判を保つのは、非常に難しいということはお分かりかしら?』

彼はうやうやしく答えます。

『妃殿下、お約束いたします。私は、自分の評判を保つために、全力で努力いたします!』

そしてさっそく仕事に取りかかります。

彼は、ピンクの薄い紗だけを使って、王太子妃の髪を見事に結い上げました。

これは、外出の際帽子を嫌ったマリー・アントワネットの心に叶うものでした。

妃は満足のあまり手を叩き、あなたは芸術家だわ、と褒めたたえました。

この瞬間、レオナールは王太子妃の専属美容師となり、他の人の仕事をする際は、「王太子妃が貸す」ということになったのです。

宮廷に登場したマリー・アントワネットの新しいヘアスタイルはセンセーションを巻き起こし、詩人たちはこれを題材にした詩文を発売して儲けたほどでした。

大ピンチ…泥酔しているのにお妃のお呼び出し

それ以後、レオナールは毎日のように妃に呼ばれ、さらにヴェルサイユ宮殿内に狭い部屋をあてがわれ、まるで軟禁状態のようでした。

あまりの寵愛ぶりと不自由さに音を上げたレオナールは、かつて、ニコレ座に自分を紹介してくれた親友フレモンを呼び出し、自分のマネージャーになってくれるよう頼みました。

スケジュール管理をしてくれないと、さすがに倒れてしまう、というわけです。

ふたりは嬉しい悲鳴を上げるほどの大成功、大出世を祝い、昼からワインを飲みました。

ヴェルサイユ宮殿の料理も酒も、今の彼には望み通りに与えられたのです。

あまりのうれしさに、ふたりは何本もワインを空けました。

ところが、やがて、呼び鈴がけたたましく鳴り、王太子妃の従僕がやってきて、こう告げました。

王太子妃殿下が、ただちにおいでいただきたい、とのことです。妃殿下は今夜急遽、パリのオペラ座でオペラをご覧になることになりました!』

オペラ座では、大都会パリの大衆に髪を見せることになります。

これまでの、ヴェルサイユ宮殿内で廷臣たちに披露していたのとはわけが違います。

しかるに、レオナールは、まっすぐ立っていられないほどの泥酔状態。

これから、王太子妃の一世一代の髪を結うことなどできるのか。

それは次回に。

城塞司令官夫人のためのコンチェルト

ミラベル庭園から見る、丘の上のホーエンザルツブルク城

前回に引き続き、モーツァルトの、フランスの香りがたっぷり漂う〝ロココ・コンチェルト〟を聴いていきます。

今回は、《リュッツォウ》という愛称がついた、ピアノ・コンチェルト 第8番 ハ長調 K.246です。

この曲も、モーツァルトの初期のピアノ・コンチェルトの中でも佳品といわれ、当時も、そして今も人気の作品です。

《リュッツォウ》という愛称は、これも前回の《ロドロン》と同じように、ザルツブルクの貴族、アントニア・リュッツォウ伯爵夫人のために作曲されたことによります。

伯爵夫人は、ザルツブルク大司教コロレードの姪にあたり、ホーエンザルツブルク城塞司令官、ヨハン・ゴットフリート・リュッツォウ伯爵の妻でした。

ホーエンザルツブルク城塞は、ザルツブルクの町のどこからでも望める、ランドマークです。

映画『サウンドオブミュージック』でドレミの歌が歌われた、ミラベル庭園の背後に聳えるお城は、ザルツブルクを代表する景観です。

この城の歴史は古く、中世、ローマ教皇神聖ローマ皇帝が、ドイツの聖職者をどっちが決めるのか?で激しく争った、聖職叙任権闘争の時代に築かれました。

ザルツブルク大司教は、聖職者でありながら、塩を産出した要地を領土とした、独立国の君主で、配下の司教まで任命できる権限を持っていました。

司教の任命は教皇の専権事項でしたから、「小教皇」と呼ばれたのです。

当然、教皇と皇帝の戦いでは教皇側でしたから、皇帝からの攻撃に備えるため、堅固な要塞を、町を見下ろす高台に築いたのです。

ちょうど、有名な「カノッサの屈辱」で教皇グレゴリウス7世が皇帝ハインリヒ4世を屈服させたあとでしたから、皇帝の巻き返しを防がなければならない時期でした。

その後、この要塞は難攻不落を誇り、歴代の皇帝やハプスブルク家、隣国バイエルンの攻撃にも耐え抜き、モーツァルトの時代までも、ザルツブルクは聖都として独立を保っていました。

この町がついに陥落したのは19世紀になってから、ナポレオンによってです。

マリー・アントワネットの兄、皇帝ヨーゼフ2世が、ザルツブルク大司教お抱えの宮廷音楽家モーツァルトを厚遇して引き抜いたのも、領土拡大を目論んでいた彼の、ザルツブルクへの圧迫策のひとつであり、実に政治的な動きなのです。

ホーエンザルツブルク城は、トリップアドバイザーの「世界の名城25選」に選ばれています。

険峻な山上の要塞に物資を運ぶために作られたケーブルカー、「ライスツーク」は、できたのが1495年とも1504年ともされ、動力は人力または馬力であるものの、現存する世界最古の鉄道とも言われています。

私が初めてザルツブルクを訪れた30余年前、城は古色蒼然とした石の色でいかにも中世の古城の趣がありましたが、今では白く綺麗に塗られてしまっていて、個人的には少し残念です。

ホーエンザルツブルク城の「ライスツーク」

マチュア向けだけど、充実した作品

さて、リュッツォウ伯爵夫人は、アマチュア演奏家でしたので、この曲は弾きやすいハ長調で、プロ演奏家用に書かれた第6番や第9番に比べると弾きやすくなっています。

モーツァルトも後にウィーンで教え子に課題曲として与えていますが、技巧もそれなりに凝らされ、内容的にも充実していて、決して初心者向けというわけではありません。

弾きやすさと充実さのバランスがうまく取れたこの作品は、モーツァルトも便利使いしていて、マンハイム・パリ旅行でも度々演奏し、手紙でもよく言及されています。

旅行中の1778年1月17日付の手紙では、マンハイムの副楽長、フォーグラー氏という人物が、自分の技量を自慢しようと、このコンチェルトを初見で弾いた、としるされています。

ところが彼は、テンポの指示を無視して速く弾きすぎ、音符も飛ばし、ひどい演奏だったと愚痴っています。

これでは、初めて聴いた人が、これは大した曲じゃない、と受け止めてしまう、と危惧しているのです。

文面は下記ですが、彼の演奏観が垣間見える貴重な記述でもあります。

マンハイム滞在中のモーツァルトから父レオポルト(1778年1月17日)

(前略)食事の前に、彼はぼくのコンチェルト(その家のお嬢さんが弾いている、例のリュッツォウのための曲)を、初見で、弾きまくりました。第1楽章はプレステッィシモで飛ばし、アンダンテはアレグロ、そしてロンドーはまさにプレステッィシモです。低音部はたいてい書かれたものとは違って弾き、ときどき、まったく異なった和声やメロディさえも弾いていました。あの速さでは、そうするほか仕方ないでしょう。目が譜面を見ることもできないし、手が捉えることもできません。ぼくにとっては、初見で弾くなんてウンコをするのと同じことですが。聴き手たちは(その名に値する人たちのことを言っているのですが)音楽とクラヴィーア演奏を、〝見に来た〟と言うよりほかにありません。彼らはその間、彼と同様に、ほとんど聴くことも、考えることも、また感じることもできません。とてもがまんできる代物でなかったことは、容易におわかりでしょう。ぼくは『あまりにも速すぎる!』と彼に言う気にさえならなかったのですから。それに、ゆっくりと弾くよりも速く弾く方がずっと楽です。パッセージのなかのいくつかの音符を見落としたって、誰も気づきません。でも、それが美しいでしょうか?速い箇所で右手と左手を変えたって、誰も見も、聴き分けもしません。それが美しいでしょうか?そして、初見で読むという技術はいったいなにから成り立っているのでしょうか?要するに、その作品をしかるべき正しいテンポで演奏するということです。すべての音符、前打音などを、それにふさわしい表情と様式感で表現して、演奏者自身がそれを作曲したかのように思わせることです。彼の運指法もみじめなもので、左の親指は今は亡きアードルガッサーそっくりですし、右手の下降音階はすべて人差指と親指でやっています。このつぎの手紙で、もっとこのことについて話しましょう。(後略)*1

モーツァルトの音楽を弾く人は、あたかも自分が作曲したかのように弾くべし、というわけです。

これは演奏家にとってみたら相当なハードルの高さですが、現代では多くのピアニストが、それぞれの個性を競い合っていますので、どの演奏がモーツァルトの「表情」と「様式感」に近いのだろう?と思いを巡らしながら聴くのは、なんとも贅沢な時間です。

モーツァルト:ピアノ協奏曲 第8番 ハ長調 K.246《リュッツォウ》

Wolfgang Amadeus Mozart:Piano Concerto no.8 in C major, K.246 "Lützow"

演奏:マルコム・ビルソン(フォルテピアノ1780年初頭のアントン・ヴァルター製の複製)、ジョン・エリオット・ガーディナー(指揮)、イングリッシュ・バロック・ソロイスツ【1987年録音】

第1楽章 アレグロ・アペルト

第6番 K.238と同じく「アレグロ・アペルト」という速度指示です。第1主題はハ長調の主音連打のあと、第1主題は同じ音型を少し食い気味に繰り返すことで、疾走感を出しています。第2主題は優しく撫でられているように感じるくらい可愛らしく、まさにロココ、といった感じです。ヴァイオリンのからかうような、鳥の囀りのようなフレーズは、『雀のミサ K. 220 (196b) 』を思わせます。ピアノ・ソロは玉を転がすように優美。ピアノだけの半音階的なフレーズが出て来て、内容を濃くしています。展開部は伴奏は控えめとなり、ソロ・ピアノの見せ場が続きます。再現部は流れるようで、やがてそのまま自然にカデンツァへ。モーツァルトはこの曲のカデンツァを3種類書いており、ザルツブルク、ロンドン、ミラノそれぞれに伝わっており、この曲がいかに実用的であったかが窺えます。ミラノに残っているものが一番長く技巧的で、現代でもよく使われています。

第2楽章 アンダンテ

第6番と同じく、フランス風のギャラント様式で書かれた優美な楽章ですが、どこか落ち着き払った風情を感じます。ピアノ・ソロは非常に表情豊かに語り掛けます。確かに、これをアレグロで弾き飛ばされたら、モーツァルトがブチ切れたのも無理もありません。第1主題はピアノ・ソロ、第2主題はヴァイオリンとピアノの対話です。展開部では短調の陰影が差すのも、第6番と違うところです。カデンツァも第1楽章と同じく3種類あり、ミラノのものが一番凝っているとされています。

第3楽章 ロンドー:テンポ・ディ・メヌエット

3台のピアノのための《ロドロン》コンチェルトと同じく、メヌエットのテンポのロンドですが、メヌエットっぽいところは少なく、自由自在に展開しています。音楽学者のニール・ザスロウは、これはアンシャンレジーム(フランス革命以前の旧体制)への痛烈な皮肉、と評しています。メヌエットは、ヴェルサイユにおいて、太陽王ルイ14世が確立した宮廷儀礼の象徴ともいうべき、もっとも格式の高い舞曲です。しかしこの時期、新しい世代にとっては、古さの象徴になっていました。当時のパリの舞踏会でも、まずはおじいさん、おばあさん世代に敬意を表して、メヌエットから始めるものの、それは数分しか続かず、あとはもっぱら若者に流行っていたコントルダンスばかりになっていた、という証言があります。なんだか、今の紅白歌合戦のようです。(順番は若者の曲から始まり、演歌、歌謡曲は後の方に出てくるので、逆ですが。)まさに、マリー・アントワネットの、儀礼にこだわらず、自由にやらせてもらうわよ、といった生き方と同じなわけで、これは変革前の時代の音楽といえるかもしれません。

構成はA-B-A-C-A-B-Aで、冒頭のAは気取った調子のメヌエット。何度かロンドーのテーマとして戻ってきますが、B、Cは短調の陰も差し、ファンタジーが自由に飛翔し、格式ばったメヌエットと実に対照的です。まさに、ギャラント様式の古さの中に、新しい時代を感じさせる音楽なのです。

 

第6番と同じように、この曲が作曲された頃に作られたピアノで演奏された、スホーンデルヴィルトによる少人数の演奏も掲げておきます。

モーツァルト:ピアノ協奏曲 第8番 ハ長調 K.246《リュッツォウ》

演奏:アルテュール・スホーンデルヴィルト(フォルテピアノ:1770年頃のシュペート&シュメール製の複製)、クリストフォリ・アンサンブル【2014年録音】

第1楽章 アレグロ・アペルト

第2楽章 アンダンテ

第3楽章 ロンドー:テンポ・ディ・メヌエット

 

このコンチェルトも古楽器での演奏動画は見つからなかったのですが、ドイツの若き天才ピアニスト、ヴァイオリニスト、作曲家のアルマ・ドイチャーが10歳のときの演奏がありました。第1楽章だけですが、モーツァルトの時代、多くの貴族令嬢がこの曲を演奏していた光景はかくや、と思わせます。長大なカデンツァは彼女の作曲です。


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今回もお読みいただき、ありがとうございました。

 

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*1:海老澤敏・高橋英郎編訳『モーツァルト書簡全集Ⅲ』白水社