
ローズ・ベルタン嬢
流行を生み出す「モード商」
王太子妃マリー・アントワネットのお抱え髪結い師となったレオナール・オーティエ。
彼との〝コラボ〟を持ちかけてきたのは、パリで流行りのモード商、ローズ・ベルタン嬢(マドモワゼル・ベルタン)(1747-1813)。
モード商とは、ファッションデザイナーの先駆で、服飾品商人・仕立屋などを兼ねる生業です。
彼女は、王妃となったマリー・アントワネットのお気に入りとなり、ふたりで打ち合わせをして生み出したファッションは、すぐに全パリの貴婦人が真似をしました。
それは、まるで王妃が勅令のように『これを今の流行とする』と定めているかのようで、ベルタン嬢は「モード大臣」と呼ばれました。
王室、また貴族たちは流行に乗せられ、競ってファッションに巨財を投じたので、これもフランス革命の遠因となりましたが、現代につながるモードのあり方というものは、ふたりが生み出したと言っても過言ではありません。
ベルタン嬢の物語も、平民が自分の才能で貴族社会に乗り込み、逆に征服してしまうという、次の時代を切り拓く「市民」の活躍そのものです。
紡績の町に、平民として生まれる
ローズ・ベルタンの名前、「ローズ」というのは、19世紀につけられたあだ名のようなもので、本名ではなく、また生前は使われませんでした。
「ヴェルサイユのばら」と同じような意味でつけられたと思われます。
本名はマリー=ジャンヌという平凡なものでした。
彼女は1747年に、ピカルディ地方のアブヴィルという町で生まれました。
父は騎兵憲兵隊の射手でした。
一兵士ですので、貧窮というわけではありませんが決して裕福ではありません。
ベルタンが6歳のときに亡くなってしまったので、8人の子供を抱えて母マリー・マルグリットは家計のやり繰りに苦労することになりました。
子供たちは早く自分で生計を立てられるようにならねばなりません。
アブヴィルの町は毛織物産業で栄えていました。
王立の紡績工場もあり、職工が1500人もいました。
彼女もそこで働くかと思いきや、工場ではなく、親戚のバルビエ女史が営んでいたモード店で働くことになりました。
この店で、縫製やデザイン、また髪結いに非凡な才能を発揮したといいます。
パリのお針子たちの実態とは

パリのモード店(ディドロ、ダランベールの『百科全書』より)
バルビエ女史は彼女を田舎で埋もれさせるのは惜しいと考え、パリの店に紹介し、ベルタンは1766年頃、大都会パリに出て働き始めました。
パリのモード店でのお針子たちは、外から見える店内で針仕事をしながら接客をしていました。
いわばブティックの店員で、小ぎれいにしているため、紳士たちは街路から店内を眺めては可愛い子を物色していました。
彼女たちも薄給なため、貴族や裕福な人に声を掛けられるのを期待して、色目を使う子も多かったといいます。
しかし、多くは愛人や娼婦のような関係で終わってしまい、捨てられることになってしまいます。
実はデュ・バリー夫人も、ベルタンと同じアブヴィルの出身で、仕立て屋の娘でした。
そして、ベルタンと同じようにパリのモード店でお針子となり、その美貌から高級娼婦のようになりましたが、最後は貴族どころか、国王の公妾にまで昇りつめたのです。
でもそれは例外的なシンデレラ・ストーリーでした。
ベルタン嬢はというと、容姿がお世辞にも優れているとはいえないこともありましたが、自分の才能で稼げるという信念がありましたので、身を落とすことはありませんでした。
パリ一流の名店で働く
彼女の腕前は好評で、やがてサントノレ通りに店を構える「トレ・ガラン」の店員となります。
サントノレ通り、フォーブル・サントノレ通りには、今でもシャネル、ロンシャン、バカラ、イヴ・サン=ローラン、ランバン、エルメス、ピエール・カルダン、ソニア・リキエルなど、一流ブランドの本店がありますが、18世紀からファッションの発信地だったのです。
一流店なので、貴賓からの受注が多くありましたが、デザイナーとしてのベルタン嬢の名声を一気に高めたのは、1769年のシャルトル公爵の結婚式で、花嫁ルイーズ・マリー・ド・ブルボン=パンティエーヴルの花嫁衣裳を手がけたことでした。
出世の糸口はウェディングドレス

シャルトル公爵夫人
シャルトル公爵は髪結い師レオナールの出世の糸口も与えましたが、稀代の遊び人、放蕩児で、のちに父の跡を継いでオルレアン公ルイ・フィリップ2世となります。
オルレアン公家はフランス王家が絶えたときに跡を継ぐ「宮家」でしたので、彼はルイ16世およびマリー・アントワネットの失脚を狙っていました。
みずから「平等公(フィリップ・エガルテ)」と号し、絶対王政をよく思わない自由主義者たちを自分の邸宅パレ・ロワイヤルに集め、気炎を上げていました。
マリー・アントワネットの評判を落とす風評が拡がったのも、彼が黒幕といわれています。
のちにフランス革命で王政が倒れたとき、ルイ16世の裁判で死刑に賛成までしますが、自分も国王にはなれず、ギロチンにかけられてしまいます。
ただ、その息子、ルイ・フィリップ3世は、7月革命でシャルル10世が亡命したあと、念願叶って国王になります。
しかし、さらに2月革命で王位は追われてしまいますが。
さて、シャルトル公爵夫人となった花嫁は、マリー・アントワネットに先駆けて、パリのモードをリードする存在となりました。
贔屓のタバコ屋の店先で、わざと『このお店のタバコはパリ一ね』と聞えよがしにつぶやくと、翌日にはそのタバコ屋の商品が売り切れる、といった調子。
夫人は、大評判となったウェディングドレスを作ってくれたベルタン嬢を、当然のように贔屓にします。
そして彼女は、ベルナールとタッグを組み、さらなる高みへと昇っていくことになります。
モーツァルトの2台のピアノのためのコンチェルト
モーツァルトが前半生に作ったピアノ・コンチェルトを聴いていますが、今回が最後の曲となります。
それは、「2台のピアノのためのコンチェルト」で、この編成の曲はこの作品だけです。
第7番の「3台のピアノのためのコンチェルト K.242」はアマチュア向けに作られ、第3ピアノのパートは特に易しくなっていましたが、このコンチェルトでは2台のピアノは対等の扱いです。
まさに、名人同士が火花を散らして競演するのです。
この作品は、1777年から1779年にかけての、「マンハイム・パリ就活旅行」から帰郷して直後の作、とされていますが、音楽学者アラン・タイソンが、カデンツァの五線紙が1775年から1777年によく使っていた紙だということで、出発前の曲だ、という新説を出しています。
しかし、ザルツブルク帰郷後に、以前使っていた五線紙のストックに書いたかもしれませんし、決定的証拠にはなりません。
また、他のコンチェルトと違って、旅行中に演奏された記録がないのもおかしいです。
何より、複数のソロ楽器を使ったコンチェルトは、当時のパリで流行っており、モーツァルトはパリで、また帰郷後に「サンフォニー・コンセルタント(シンフォニア・コンチェルタンテ・協奏交響曲)」を2曲、「フルートとハープのためのコンチェルト」といった曲を書いていますので、その流れでこの作品を創った、と解釈するのが自然です。
何より音楽はさらに充実しており、他の地での就職という目的は達成できなかったとしても、その旅行の成果が十分反映していることを実感します。
ザルツブルクでの演奏記録も残っていませんが、おそらく名ピアニストだった姉のナンネルと協演したことでしょう。
後年ウィーンで、弟子のヨゼフィーネ・アウエルンハンマー嬢と、1781年11月23日にはアウエルンハンマー邸での予約演奏会で、1782年5月26日には第1回アウガルテン音楽会において、競演したて大成功を収めました。
アウエルンハンマー嬢のことは、モーツァルトは可哀そうに「ブス」「汗臭い」などとけなしていますが、その腕前は誰もが認めるところでした。
ドラマ『のだめカンタービレ』で、千秋先輩とのだめが競演した「2台のピアノのためのソナタ K.448」も彼女との共演のために作られ、2台のピアノが追いかけ合って駆けていくような趣は共通のものがあります。
あのソナタは、このコンチェルトをさらに発展させたものともいえます。
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モーツァルト:2台のピアノのための協奏曲(ピアノ協奏曲 第10番) 変ホ長調 K.365
Wolfgang Amadeus Mozart:Concerto for Two Pianos no.10 in F major, K.365
演奏:マルコム・ビルソン、ロバート・レヴィン(フォルテピアノ:1780年初頭のアントン・ヴァルター製の複製)、ジョン・エリオット・ガーディナー(指揮)、イングリッシュ・バロック・ソロイスツ【1987年録音】
冒頭の独特な音型の動きは、モーツァルトの変ホ長調の曲に時々出てくる、定石のようなものです。第1主題はかなり長く、凝ったもので、強弱のメリハリをつけながら流れていきます。オーケストラ前奏の後半にはクレッシェンドもあり、ここにもマンハイム・パリ旅行で影響を感じます。独奏では、最初に2つのピアノが同時にトレモロで入ったあと、順番に第1主題を静かに奏でます。やがて、楽しく歩いていくようなフレーズになり、そしてさらに楽し気な変ロ長調の第2主題。曲は、第1主題、第2主題に関連した副主題を散りばめながら、ソロ・ピアノの技巧的な速いパッセージで聴く人を引き込んでいきます。カデンツァはモーツァルト自身のものです。
第2楽章 アンダンテ
優しく叙情的な緩徐楽章です。ソロの歌い出しは、第1ピアノの柔らかなトリルの上に、第2ピアノが控えめに合わせる、非常に優雅かつ繊細なものです。ピアノが主役ではありますが、この楽章では管楽器も活躍していて、これから続く、ピアノ・コンチェルトの傑作群の第2楽章のスタイルがここで生まれたのを実感します。中間部では、急にピアノの奏でる世界のスケールが大きくなり、哀し気な旋律が心を打ちます。2台のピアノの競演なのに、どこか底知れぬ孤独を感じるのはなぜでしょうか。再現部は前半と同じ主題なのですが、微妙に趣が異なり、もの悲しさを帯びます。
第3楽章 ロンドー:アレグロ
楽し気なロンドーの主題が、まずオーケストラのピアノで奏でられます。密やかながら爆発力を感じさせますが、案の定、すぐにフォルテで繰り返されます。そのまま走るかと思いきや、突然ストップし、フェルマータで立ち止まります。聴く人の意表を突く、モーツァルト一流の仕掛けです。やがて第1ピアノが副主題を奏し、続いて第2ピアノがこれを1オクターヴ下でこれを追いかけます。ふたりの間をオーボエが取り持つように、いや茶化すように合いの手を入れます。続いて、2台のピアノは互いに攻守交替しながら戯れます。タッララッタ、タッラ、という跳ねるような行進曲風のフレーズは実におしゃれ。突然、曲は短調となり、緊張感あふれるフレーズが交錯します。この現代的なくだりは、映画『アマデウス』でサリエリが初めてモーツァルトの自筆譜を見て、圧倒されるシーンで出てきます。まさに、当時の作曲家が思いつかない世界でした。音楽は再び明るい世界に戻りますが、もはや単なる楽しさだけではなく、深みを感じさせます。単なる2台のピアノの競演の域に留まらず、芸術が深化しているのです。カデンツァもモーツァルトの残されていますが、かなり長いものです。カデンツァが終わると、ピアノはこれでもか、とテーマを繰り返して、サッと幕を引きます。
動画は、アレクセイ・リュビモフとフベルト・ルトコフスキがポーランドで演奏したものです。指揮はマルティン・ハーゼルベックです。
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モーツァルトのピアノ・コンチェルトの過去記事はこちらです。
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今回もお読みいただき、ありがとうございました。


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