コーヒーで酔い覚まし
前回の続きです。
王太子妃マリー・アントワネットの髪を見事に斬新に結い上げ、まんまとお抱え髪結い師となったレオナール・オーティエ。
これまであまりヘアスタイルに気を遣っていなかった王太子妃は、がぜん、髪形にこだわるようになり、レオナールは毎日のように呼び出されるようになります。
あまりの多忙さに、相棒のフレモンにマネージャーになってもらいます。
ある日、仕事終わりにふたりで大酒を飲み、成功に酔い、美酒に酔います。
泥酔しているふたりのところに、王太子妃から使者が来て、急にオペラ座に出掛けることになったので、急遽正装用の髪を整えるように、と呼び出されます。
まっすぐ歩くこともできないふたり。
フレモンは、この王太子妃のリクエストに応えられなかったら、せっかくのご寵愛もだいなし、逆に大変な不興を買うかもしれない、と絶望します。
これはレオナールの自叙伝に書いてあることですが、彼は、酔い冷ましに濃いコーヒーを3杯飲み、『ぼくらの運命が危機に瀕している。この危険な冒険がぼくらとその夢を簡単につぶしてしまうことになるかもしれない』とフレモンに告げて出かけます。*1
泥酔中に降りてきたインスピレーション
マリー・アントワネットの居室に入ると、王太子妃はレオナールの状態に気づかないようでした。
そして、急に呼び出した言い訳として、今夜は外出の予定はなかったのに、来仏中のスウェーデン王太子とその弟君が急にオペラを観に行くことになり、国王から同席するよう言われた、と説明しました。
困った風を装っていましたが、彼女が、スウェーデンの貴公子フェルゼン伯爵に好意を持っていることはすでに知られていましたので、会える機会として張り切っていたかもしれません。
ウキウキして、美容師が酒臭いことなど気づかなかったのかも。
レオナールは、王太子妃の髪を分けながら、酩酊した頭の中でどうしたものか考えていましたが、さすが天才、斬新なインスピレーションが降りてきました。
『白い羽飾りはいかがですか』と提案。
王太子妃は、『試してみてもいいけど、人の目を釘付けにするようなのにしてね』と答えます。
目立つ気満々です。
レオナールは髪を高く巻き上げ、3本の白いダチョウの羽をあしらい、真ん中に大きなルビーをつけ、蝶結びにしたリボンでまとめました。
鏡を見たマリー・アントワネットは、最初はしばらく眉をひそめ、『完璧だし、見事に考えられているけど、おそろしく大胆ね…』とつぶやいていましたが、さらにためつすがめつ眺めるうち、だんだんと気に入ってきて『ああ、レオナール!この髪、きっと高さが1メートルはあるわね!』と興奮して叫びました。
レオナールは『確かに思い切ったものですが、明日の晩にはもっと高さのある髪形がパリ中で200は誕生するでございましょう』と請け合います。
レオナールは王太子妃を見送ると、フレモンのところに戻ります。
頭痛に耐えながらどうなることかと生きた心地がしなかったフレモンに、王太子妃の髪を1メートル以上の高さにした、と報告します。
彼は仰天し、酔っぱらった勢いでそんなとんでもないことをしでかして、俺たちは明日にはバスチーユ送りか縛り首だ、と青ざめます。
レオナールは、いや、俺たちは金持ちになる!2年後には億万長者になるぞ!と息巻いてみせます。
実際、オペラ座の貴賓席に王太子と現れた王太子妃のヘアスタイルに、満座の観客は総立ちになり、熱狂したのです。
平土間の客などは、何とかして王太子妃を見ようと踏みつけ合い、怪我人が出たほどでした。
マリー・アントワネットの聳え立つピラミッドのような髪形は、熱狂の渦となりました。
レオナールの予言通り、パリ中の貴婦人たちは、王太子妃のヘアスタイルを真似しようと、彼に注文を殺到させました。
彼はその人気を利用して、中世以来業界を牛耳っていたかつら職人組合から独立すべく、フレモンと「アカデミー・ド・コワフュール(美容学校)」を開校。
弟子を養成するとともに、ふたりの弟、ピエールとジャン=フランソワを呼び寄せて、需要に応え、事業として確立させました。
王太子妃マリー・アントワネットの頭は、逆に、レオナールの新作ヘアスタイルの発表の場とされてしまったのです。
そんな彼に、同じく平民出身のファッションデザイナーが近づいてきて、コラボを求めます。
それは次回に。
パリから来た謎の女性ピアニスト
モーツァルトの、フランスの香りが漂う〝ロココ・コンチェルト〟を聴いていきます。
今回は、《ジュノーム》という愛称がついた、ピアノ・コンチェルト 第9番 変ホ長調 K.271です。
この曲は、モーツァルトの初期のピアノ・コンチェルトの最高傑作といわれ、音楽学者のアインシュタインは、『モーツァルトは生涯、この曲を凌駕することはなかった』とまで評しています。
確かに、後のモーツァルトのピアノ・コンチェルトのひな型になったといえる曲なので、あながち大げさでもありません。
これまでのコンチェルトとは明らかに一線を画した、充実した作品です。
この曲は、ザルツブルクを訪れた、パリから来た女性ピアニスト、『ジュノーム嬢(マドモワゼル・ジュノーム)』のために書かれた、とされています。
日本語では、より発音に近い〝ジュノム〟〝ジュノンム〟とも表記されますが、〝ジュノーム〟という呼び方が昔からポピュラーかと思われますので、ここではこれを使います。
しかしこの〝ジュノーム嬢〟。
いったい誰なのか、長年謎でした。
そもそも、フランス語で "Jeune homme"ですから、単に〝若者〟という意味です。
女性の名前にしても不自然です。
20年前に〝ジュナミ嬢〟と判明!
ところが、近年、2004年になって、音楽学者のミヒャエル・ローレンツにより、このピアニストが、モーツァルトの友人で著名なフランス人舞踏家、ジャン=ジョルジュ・ノヴェール(1727-1810)の娘、ヴィクトワール・ジュナミ(Victoire Jenamy)であることが判明したのです。
〝ジュノーム〟ではなくて〝ジュナミ〟が正しかったわけです。
父、ジャン=ジョルジュ・ノヴェールは、当時相当有名な舞踏家で、今でも「近代バレエの父」とされています。
その生誕日、4月29日は、1982年にユネスコによって国際ダンスデーにされているほど。
彼はフランスに生まれ、舞踏家として活躍していましたが、1745年には、フランス文化好きのプロイセン王フリードリヒ大王に招聘され、2年間その宮廷バレエ団に努めました。
その後パリに戻って、オペラ・コミックの振付師として大成功。
ベルリン、ストラスブール、リヨン、シュトゥットガルトと、各地でひっぱりだこになりながら、バレエ芸術の改革に取り組みました。
1766年から1774年まで、ウィーンでマリア・テレジアに仕え、宮廷バレエの監督をしながら、マリー・アントワネットを含む皇女たちにダンスを教えました。
モーツァルトとはいつ友人になったか分かりませんが、この時期に、娘のジュナミがパリとウィーンを往復する途中、ザルツブルクに立ち寄って、このコンチェルトをモーツァルトから捧げられたと思われます。
1775年、彼はフランス王妃となったマリー・アントワネットの要請でパリに招かれ、オペラ座のメートル・ド・バレエ(舞踏芸術総監督)に就任しました。
その後はフランス革命までオペラ座で活躍、〝舞踊界のシェイクスピア〟と呼ばれて近代バレエを確立していったのです。
〝ジュノーム〟が、まさかそんな偉大な父の娘だったとは、意外です。
さすが、お嬢さんも芸術センス抜群、大変な腕前のピアニストだったことは、このコンチェルトを聴けば一聴瞭然です。
モーツァルトも、単に友人の娘、というだけでなく、その腕前にインスピレーションを掻き立てられて、この作品を創ったのでしょう。
モーツァルト:ピアノ協奏曲 第9番 変ホ長調 K.271《ジュノーム》
Wolfgang Amadeus Mozart:Piano Concerto no.9 in F flat major, K.271 "Jeunehomme"
演奏:マルコム・ビルソン(フォルテピアノ:1780年初頭のアントン・ヴァルター製の複製)、ジョン・エリオット・ガーディナー(指揮)、イングリッシュ・バロック・ソロイスツ【1987年録音】
オーケストラが、曲の始まりを告げる簡潔なファンファーレを鳴らすと、それにいきなり独奏ピアノが答えます。ピアノ・コンチェルトの前奏からソロ・ピアノが登場する曲は、これ以後、ベートーヴェンの第4番 ト長調 作品58まで無い、とされています。ただ、ベートーヴェンのやり方は、まず独奏ピアノのつぶやきから始める、という芸術的理由ですから、この曲がその先駆けということはできません。この曲では、独奏者の粋な自己紹介、といった趣です。はるばるパリから来たジュナミ嬢をザルツブルクのみんなに紹介するため、ということでしょう。
そのあと、オーケストラの前奏の間は、ピアノは通奏低音だけで、ソロは弾きません。第1楽章は最初は控えめに歌い出しますが、やがて浮き立つように疾走します。そして第2主題はどこまでも優しく、聴く人に寄りそうかのようです。そのあとも、オーケストラは盛り上がったり、抑え目にしたり、見事なコントラストを描きます。
いよいよ、本格的なピアノ・ソロが、トリルで入ってきます。この入り方も、実に劇場チックで、独奏者が特別な主役であることを表現しています。そして、ピアノは、オーケストラの提示したテーマを縦横無尽に展開し、互角に対峙しながら駆け回ります。展開部では、ピアノの独奏に、オーケストラは管楽器やヴァイオリンで合いの手を入れるのがせいいっぱい、といった感じです。
カデンツァはモーツァルト作曲のものが、第1、第2楽章に2つずつ残っており、自筆譜のあるポーランド・クラクフのヤギエロ図書館と、ベルリン国立図書館に所蔵されています。それぞれ、1777年にミュンヘン、1781年にウィーンで演奏されたときのものと考えられています。それだけ、このコンチェルトが各地で演奏されたことを示しています。
第2楽章 アンダンティーノ
モーツァルトのピアノ・コンチェルトで初めての短調の緩徐楽章です。短調のものは少なく、このあとは第18番、第22番、第23番だけです。でも、第22番の初演では、極めて異例なことに第2楽章がアンコールされたという記録がありますので、当時の人々に深い感動を与えたのは間違いありません。とはいえ、毎回だと重いので、モーツァルトもここぞ、というときに短調を選んだのでしょう。この第2楽章は、第22番と同じハ短調で、通じる雰囲気をもっています。旧作をさらにグレードアップするつもりで書いたのかもしれません。
オーケストラの前奏は、弱音器付きのヴァイオリンによる、第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンの1拍ずつずれたカノンで始まりますが、まるで苦しみにあえぐようです。第1主題は、オペラのレチタティーヴォ風で、悲劇をコンチェルトで表わしているのは明白です。管楽器のファンファーレがさらにドラマチックさを演出しています。全体に、モーツァルトのハ短調に見られる「ため息」の音型が散りばめられています。そして、暗闇に明るい陽が差すような第2主題。慰めの音楽が広がり、聴く人の心を打たずにはいられません。そして展開部では再び悲劇が極まるかのよう。ピアノはさらに自在な変奏を続け、物語を紡いでいきます。そして、その伏線には、冒頭のカノンがひそやかに流れます。確かに、モーツァルトの作品でも頂点のひとつといっても過言ではないでしょう。
第3楽章 ロンドー:プレスト
前楽章が悲劇、オペラでいえば「セリア」にあたるとすれば、このフィナーレのロンドーは喜劇「ブッファ」にあたるかもしれません。冒頭からピアノはまるでフェスティバルが始まったかのように、賑々しく飛ばします。なんと34小節もの長さです。やがてオーケストラは、独奏ピアノについていくのがせいいっぱい、といった風情で追いかけます。例によってA-B-A-C-A-B-Aの構成ですが、そのそれぞれの部分の個性はこれまでのロンドーとは比になりません。2度目のAのあと、ピアノは即興的に自由に動きながら、自分で巻き起こした騒ぎを鎮めているかのようですが、やがてCが、なんとメヌエットで始まるのです。弦も優雅なピチカートで、このつかの間の夢の時間を演出します。そして今まで押され気味だったオーケストラが大きく、三度の平行による美しい旋律を奏で、逆にピアノが装飾に回ります。そして、一時の夢は覚め、再びお祭りの世界に戻ります。
ここでのピアニストは、まさに名人芸で人を圧倒するヴィルトゥオーゾです。そして、曲の内容は、1曲の中に喜劇と悲劇を盛り込んだ、ひとつのドラマの域に達しました。モーツァルトは、以後ピアノ・コンチェルトを、自らをタレントとして売り込む媒体にしていくことになります。
第6番、第8番と同じように、この曲が作曲された頃に作られたピアノで演奏された、スホーンデルヴィルトによる少人数の演奏も掲げておきます。
モーツァルト:ピアノ協奏曲 第9番 変ホ長調 K.271《ジュノーム》
演奏:アルテュール・スホーンデルヴィルト(フォルテピアノ:1770年頃のシュペート&シュメール製の複製)、クリストフォリ・アンサンブル【2014年録音】
第2楽章 アンダンティーノ
第3楽章 ロンドー:プレスト
動画は、ベルギーの古楽器演奏家、エルス・ビーセマンスのフォルテピアノによる演奏です。
www.youtube.com
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
にほんブログ村
クラシックランキン