孤独のクラシック ~私のおすすめ~

クラシックおすすめ曲のご紹介と、歴史探訪のブログです。クラシックに興味はあるけど、どの曲を聴いたらいいのか分からない、という方のお役に立ちたいです。(下のメニューは横にスライドしてください)

まるでパビリオン!聳え立つ髪型。~マリー・アントワネットの生涯23。モーツァルト:ピアノとオーケストラのためのロンド イ長調

流行の髪形「サンティマン・プフ」

マリー・アントワネットの口癖から生まれた髪型

シャルトル公爵夫人のウェディングドレスを手がけたことで、一躍有名となったモード商、ローズ・ベルタン嬢

夫人に気に入られた彼女は、その後援のもと、サントノレ通りについに自分の店を開店します。

店の名は、「オ・グラン・モゴル」

インドを支配していた〝ムガール帝国〟という大仰な名ですが、当時のオリエンタリズム(東洋趣味)に乗っているとともに、彼女の野心も感じられます。

お店はパレ・ロワイヤルの向かい、シャルトル公爵夫人の邸宅のすぐ近くです

公爵夫人は、才能ある若手の平民を自分のプロデュースで世に出すことによって、パリの流行をリードしていったのです。

名だたる貴賓が次々と店の顧客になってゆきました。

最終的な狙いは、王太子マリー・アントワネットです。

ちょうどその頃、王太子妃は「ケサコ?」という言葉が口癖になっていました。

「それは何?」という意味ですが、その頃の流行作家で、戯曲セビリアの理髪師フィガロの結婚を書いたカロン・ド・ボーマルシェが、最新刊『回想録4』で登場人物に使わせた言葉です。

正確なフランス語では「ケ・ス・ク・スラ?」ですが、これのプロヴァンス方言でした。

〝ギャル言葉〟のようにマリー・アントワネットが面白がって使うと、皆もまねするようになり、流行語に。

流行に敏感なベルタン嬢は、大きな羽飾りを曲げ、まるでクエスチョンマークのようにして頭の後ろにつけるファッションを考案し、「ケサコ」と名付けました。

これが大ヒットし、パリの貴婦人たちがこぞって真似をしたのです。

髪型「ケサコ ques-à-co?」

聳えたつ貴婦人の髪

しかし、流行はすぐに廃れます。

ベルタン嬢は、すでに一世を風靡していた王太子妃つきの髪結い師、レオナールを訪ね、一緒にコラボしてファッション界をリードしよう、と持ちかけます。

ふたりは、羊や馬の毛で作ったクッション「プフ」を髪の中に仕込み、聳え立つような〝盛り髪〟に、その人の好みにちなんだテーマの飾りをつけるという、「愛着プフ(サンティマン・プフ」というヘアスタイルを生み出しました。

最初に試したのは、やはりシャルトル公爵夫人で、夫人が可愛がっていたオウムの像を真ん中に、生まれたばかりの息子ルイ・フィリップ(のちのフランス王)の像をあしらい、下段には夫のシャルトル公、実父のパンティエーブル公、義父のオルレアン公がいるという、とてつもないものでした。

名付けて「伝記風プフ」。

奇抜極まりない大胆なこの髪形は、すぐに大流行しました。

ボーマルシェは次のように書いています。

『「ケサコ」はもはや廃れて、「サンティマン・プフ」と題した別の頭飾りが流行だ。雑多な品物を乗せるのにプフというクッションを使い、自分の最愛の人や事物を連想させる品物が乗っている』

『この奇抜な頭飾りにどのご婦人も夢中だ』

平民を寵愛した王妃

プフの再現

マリー・アントワネットは、王太子妃でいる間は、さすがに立場上このような髪形はできなかったのですが、1774年にルイ15世薨去し、王妃となると、自分のやりたい放題にできるようになりました。

そんな王妃に、ついにシャルトル公爵夫人はベルタン嬢を紹介します。

王妃は彼女の提案する「モード」に夢中となり、週に2回、ベルタン嬢を自室に呼んで、新しいファッションについての打ち合わせをします。

母帝マリア・テレジアから手紙でたしなめられるくらい、身なりに気を遣わず、ダサいドイツ娘と陰口を叩かれていたマリー・アントワネットは、ベルタン嬢によって一転、オシャレに目覚めてしまったのです。

平民がヴェルサイユの王妃の部屋に入るのは、当然儀礼違反です。

さらに、彼女は王妃の着付けも手伝うようになりますが、これは、貴婦人たちの神聖なる特権。

王妃となったマリー・アントワネットは彼女たちを完全に無視します。

彼女たちも、平民と同じ同席する屈辱に耐えられず、怒りに震えました。

王妃のベルタン嬢への寵愛は度を越し、打ち合わせはついに毎日のように行われるようになり、王妃に謁見を求めて朝から伺候した貴婦人、廷臣たちはずっと待ちぼうけを食うことになります。

マリー・アントワネットは、ファッションにのめり込むあまり、平民より先に貴族を敵に回してしまったのです。

小麦が手に入らず飢えているのに、巨大な髪に小麦の髪粉をふんだんに振りかけている、として平民の怒りを買うことになる日は、もうしばらくあとになります。

モーツァルト:ピアノとオーケストラのためのロンド イ長調 K.386

Wolfgang Amadeus Mozart:Rondo for Two Piano & Orcherstra in A major, K.386

演奏:マルコム・ビルソン(フォルテピアノ1780年初頭のアントン・ヴァルター製の複製)、ジョン・エリオット・ガーディナー(指揮)、イングリッシュ・バロック・ソロイスツ【1986年録音】

ピアノ・コンチェルトのフィナーレと思われる楽章ですが、他の楽章は発見されておらず、独立した曲となっています。作曲は1782年10月19日、場所はウィーンで、同時期に作曲されたピアノ・コンチェルト 第12番 イ長調 K.414(385p)と調性も形式も似ているので、これの終楽章として書かれた説が濃厚です。

ただ、第12番はそれで完結していますので、これが終楽章の差し替えや別ヴァージョンなのか、独立した曲なのかは分かっていません。第12番は室内楽でも演奏できるような簡潔な編成になっているのですが、このロンドではチェロが独立的な動きをしているので、それも?です。

モーツァルトは、旧作第5番をウィーンで再演するとき、ウィーンの人の好みに合わせて最終楽章のロンド K.382を新たに作曲していますので、演奏のTPOに合わせて作曲したのかもしれません。

また、この曲がモーツァルトの書いた通りに演奏できるのも奇跡といえます。というのも、モーツァルトの死後、お金に困った妻コンスタンツェは夫の自筆譜を売り払いました。この曲の楽譜は1799年にヨハン・アントン・アンドレという人に売ったのですが、なぜか最終ページが欠けていました。アンドレはこれでは出版できない、というので、またこれを英国に転売。1838年にチプリアーニ・ポッターという人が最終ページを補作し、ピアノ独奏曲に編曲して出版。自筆譜は用無しということでバラバラにして売られました。20世紀になってから、音楽学者のアインシュタインが数枚発見し、1936年にポッター版を元にして復元出版。1956年にまた6枚発見され、さらにそれをもとに復元出版されました。そして、1980年。モーツァルトの弟子、ジュスマイヤーの楽譜の中から、偶然に、コンスタンツェが見つけられなかった、最後の1ページが発見されるのです。これで、モーツァルトのオリジナルの自筆譜が全て発見され、作曲された通りにようやく演奏できたのが、この1986年の録音なのです。なんという数奇な運命の曲でしょうか。

ロンドの歌い出しにはフィナーレによくある高揚感はなく、落ち着いていて、癒しに満ちています。ロンドのテーマは3つの部分から成っていて、これをオーケストラが奏でたあと、独奏ピアノが入ってきます。ピアノはテーマをもとに、豊かに即興的なファンタジーを展開してゆき、オーケストラが優しく絡み合い、寄り添います。ロンドが繰り返されたあと、中間部の短調の世界に入ります。嬰ヘ短調となり、激しく悲劇的な調子は、このあとに続く2曲の短調のコンチェルト、第20番や第24番を予告しています。フ再び主調に戻るとカデンツァになりますが、モーツァルトのものは残されていません。最後は華やかに結びますが、全体として大人の雰囲気が感じられ、美味しいワインを飲んだあとのような余韻が味わい深いです。

 

動画は、ツィモン・バルトのピアノ、指揮はクリストフ・エッシェンバッハです。このロンドの繊細さをとことん追求した演奏です。


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今回もお読みいただき、ありがとうございました。

 

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