忘れられた、幼き日の思い出
これまで、マリー・アントワネットの幼い頃のピアノ教師で、オペラ改革を手がけたグルックのオペラを聴いてきました。
マリー・アントワネットがフランスに嫁ぎ、王太子妃、そしてフランス王妃にまでなると、グルックはその庇護を頼りに、パリで次々に改革オペラを上演し、センセーションを巻き起こしたのです。
一方、グルックの遥か後輩で、幼い頃、神童ともてはやされたモーツァルト。
6歳のとき女帝マリア・テレジアの御前で演奏したとき、シェーンブルン宮殿のツルツルの床ですってんころり。
駆け寄って助け起こしてくれた7歳の皇女、マリア・アントニア、のちのマリー・アントワネットに、『御礼に、大きくなったらお嫁さんにしてあげる』と言ったのは有名な話です。
しかし、大きくなったマリー・アントワネットは、モーツァルトにはまったく関わりませんでした。
10で神童、15で才子、20過ぎればただの人…
小さなザルツブルクの町で鬱屈していたモーツァルトは21歳のとき、1777年に職を辞し、西方に就活旅行に旅立ちます。
立ち寄ったマンハイムでは、音楽好きの当地の君主、プファルツ選帝侯カール・テオドールのもとで、カンナビヒ率いる宮廷楽団が、ヨーロッパ一といわれる音色を奏でていました。
そのオーケストラの素晴らしさは、「将軍たちで編成された軍隊」と讃えられたものです。
モーツァルトは、こここそ、自分の音楽を活かすべき地、と張り切り、また当地で出会った若い歌手アロイジア・ウェーバーに恋し、結婚、転職を同時に成し遂げて、新たなステージに進むんだ、と意気込んでいました。
しかし、選帝侯カール・テオドールは、いっこうに職を与えてくれません。
それもそのはず、ヨーロッパ一の品質を維持するためマンハイムの宮廷楽団には多額の経費がかかり、これ以上の増員は予算的にできなかったのです。
もはや就職の見込みがないのに、いたずらに滞在を引き延ばし、借金ばかりかさんでいく状況に、故郷ザルツブルクにいた父レオポルトは苛立ちます。
そして、すぐパリに立ちなさい!と、パリでの就活に切り替えよ、と息子に厳命します。
モーツァルトは、アロイジアに後ろ髪を引かれるようにして、しぶしぶパリに向かいます。
冷たいパリの街
しかし、神童の頃、あれほど熱狂して迎えてくれたパリの街は、大人になったモーツァルトには冷淡でした。
貴族の館に招かれても、『素晴らしい演奏だ!天才だ!』と口では褒めたたえてくれますが、それだけです。
それでも、貴族のひとりが、モーツァルトにヴェルサイユ宮殿での王室礼拝堂オルガニストの職を斡旋してくれました。
しかし、モーツァルトは、興味がない、といってそれを断ってしまいます。
父レオポルトは、とんでもない、せっかくのもったいない話を、と次のように書き送ります。
ザルツブルクの父レオポルトから、パリのモーツァルトへ。(1778年5月28日付)
ルドルフがおまえにヴェルサイユのオルガン奏者の地位を提供してくれたって?彼の意向どおりになるのか?彼はおまえを助けて、それを得させてくれようというのか!おまえはそれをそうすぐに断ってはいけない。半年で83ルイ・ドールを稼げること、おまえは残り半年は別の収入を上げられることを、じっくり考えてみなくてはならない。たぶんそれは定職なのだから、病気でも元気でもよいのだろう。おまえはこの職をいつでも辞めることができる。宮廷にいるのだから、つまり毎日国王や王妃のお目にとまるのだから、それによっておまえの幸福にいっそう近づけるのだ。ふたりの楽長のうち一方でも辞めでもしたら、おまえはその地位を得ることもできる。いずれのちに、王位継承でもあれば、おまえは王子のクラヴィーア教師にでもなれるだろう。これは大いに収入があるはずだ。おまえが劇場やコンセール・スピリチュエルなどのためになにか書き、楽譜を版刻させ、それをお偉方に献呈するのを妨げる者はだれもおるまい。ヴェルサイユには、多くの大臣たちが、少なくとも夏には滞在しているのだから。ヴェルサイユそのものが小さな都会だし、あるいは少なくともたくさんの住人がいるのだから、場合によっては、一人二人弟子を取れるだろう。それに結局はそれが王妃のお引き立てを頂戴し、また好きになっていただく一番確実な道なのです。この手紙をフォン・グリム男爵に読んで差し上げ、彼の意見を伺いなさい。*1
ヴェルサイユ宮殿でオルガンを弾いていれば、国王や王妃の目にとまり、優遇が得られるだろう、と、父レオポルトはすっかり舞い上がってしまっています。
彼が、『王妃のお引き立てを頂戴し、好きになっていただく』のを、息子の大きな目的としているのが分かります。
グルックしかり、また髪結い師レオナールやモード商ベルタン嬢しかり、マリー・アントワネットが身分にかかわらず、お気に入りを引き立てているのは、遠くザルツブルクにも聞こえていたのでしょう。
しかし、モーツァルトは、『このパリでは、王に仕えている者は忘れられてしまいます。』とすげなく父に返しています。
確かに、この当時は、王妃マリー・アントワネットからして、ヴェルサイユを嫌い、大都会パリに入り浸っていました。
新国王ルイ16世も、狩りや錠前作りに夢中で、宮廷は嫌い。
もはや、先代の宮廷中心の文化生活は時代遅れとなり、文化の発信源は市民中心の都市に移りつつありました。
モーツァルトは、そんな現地の空気を感じ取り、都市と離れていたヴェルサイユでの職に魅力を感じなかったものと思われます。
音楽家は宮廷に雇われてなんぼのもの、という父の感覚とは、世代ギャップが生じているのを見ることができます。
しぶしぶ故郷で再就職
ともあれ、グルックと同じオーストリア出身にも関わらず、モーツァルトがマリー・アントワネットの御前に出るチャンスはついにありませんでした。
モーツァルトのパリ旅行で、就活には失敗するわ、同行してきた母は亡くなってしまうわで、散々な結果となりました。
父が一生懸命、主君のザルツブルク大司教に息子の復職を願い出てくれて、ついに容認されます。
優秀な音楽家を雇っていることは、貴族、君主のステイタスですから、大司教も内心はモーツァルトに戻ってきてほしかったようです。
給与も増額してくれましたが、当のモーツァルトは、ヨーロッパを股にかけて活躍したかったのですから、また田舎の宮廷であたら才能を埋もれさせるのか…と不平たらたらで、宮仕えに出戻ります。
そんなモーツァルトに、再び世に出るチャンスが来ます。
マンハイムで可愛がってくれた(でも雇ってはくれなかった)、プファルツ選帝侯カール・テオドールが、跡継ぎの無いまま逝去した同族のバイエルン選帝侯のあとを相続し、バイエルン選帝侯を兼ねることになり、宮廷をマンハイムから、ザルツブルクの近くのミュンヘンに移しました。
皇帝ヨーゼフ2世が、これに乗じてバイエルンを併合しようとし、プロイセンのフリードリヒ大王を怒らせ、バイエルン継承戦争が起こった経緯は、以前の記事で取り上げました。
マリー・アントワネットも戦争が起こったことを大いに心配し、夫ルイ16世にフランスは味方してくれるよう頼みましたが、夫王は「ご実家のなさっていることはただの侵略ですよ」と取り合ってくれません。
結局、ヨーゼフ2世の母帝マリア・テレジアが乗り出し、恥を忍んでフリードリヒ大王に陳謝の手紙を出し、戦争を収めます。
フランスに近く、フランスの洗練した宮廷文化を模倣していたマンハイムから、大国ではあるものの、武骨で粗野なバイエルン、ミュンヘンに移りたくなかったカール・テオドールでしたが、こうなるとしぶしぶ宮廷を移さざるを得ませんでした。
そして、ミュンヘンの音楽を盛り上げようと、白羽の矢を立てたのがモーツァルトでした。
彼は、1781年の謝肉祭(カーニバル)に宮廷劇場で上演するオペラを、モーツァルトに作曲させようと注文してくれたのです。
モーツァルトは勇躍、主君の大司教に2ヵ月の休暇をもらって、1780年11月初頭、ミュンヘンに向かいます。
ザルツブルクからミュンヘンに向かう駅馬車は、クッションの効かない堅い座席で、モーツァルトはお尻が痛くて一睡もできないばかりか、両手をお尻の下にいれて、腰を浮かして何とかたどり着いた、ということです。
オペラの題材は、『クレタの王イドメネオ、またはイリアとイダマンテ』というものでした。
ギリシャ神話をもとに、フランス人のアントワーヌ・ダンシェが台本を作り、アンドレ・カンプラが1712年に作曲したオペラを翻案したものです。
これを、ドイツでの上演用にイタリア語の台本を、ザルツブルクのイタリア人宮廷司祭ヴァレスコが改変しました。
ただ、ヴァレスコ師は韻文には長じていましたが、劇台本作りはいわば素人で、モーツァルトのドラマ作りにはあまり合わず、台本をめぐってふたりはかなり対立しました。
特に、彼の作る歌詞が長すぎ、ドラマを停滞させるのがモーツァルトには我慢ならず、父を通じて何度も改変を要求したのです。
このやり取りからは、モーツァルトのドラマ作りのコンセプトが分かって興味深いです。
ともあれ、〝フランスかぶれ〟のカール・テオドールからの注文ですから、モーツァルトはフランスの題材を選び、音楽もグルックの改革オペラの様式を取り入れたのです。
物語も、奇しくも一世を風靡したグルックの『オーリードのイフィジェニー』、『トーリードのイフィジェニー』と関連もあるのです。
モーツァルトの数あるオペラのうち、今でも盛んに上演されるのは「7大オペラ」ですが、この作品はその嚆矢にあたります。
7大オペラのうち、イタリア語喜劇の「オペラ・ブッファ」である、『フィガロの結婚』『ドン・ジョヴァンニ』『コジ・ファン・トゥッテ』、ドイツ語のジングシュピール(歌芝居)『後宮からの誘拐』『魔笛』は昔からとても人気があります。
しかし、残る2作、イタリア語悲劇「オペラ・セリア」である、この『クレタの王イドメネオ』と『皇帝ティトゥスの慈悲』は、親しみにくいと、昔はほとんど敬遠されていました。
でも、1991年のモーツァルト没後200年あたりから、見直されるようになり、そのドラマの迫力は人々を圧倒してきました。
それでは、まずは、高貴な感情を宿した序曲から聴いていきましょう。
※イタリア語表記、()内はギリシャ語
イドメネオ(イドメネウス):クレタの王
イダマンテ:イドメネオの息子
イリア:トロイア王プリアモスの娘
エレットラ(エレクトラ):ミケーネ王アガメムノンの娘、イピゲネイア、オレステスの妹
アルバーチェ:イドメネオの家来
Wolfgang Amadeus Mozart:Idomeneo, Re di Creta, K.366
演奏:ジョン・エリオット・ガーディナー(指揮)イングリッシュ・バロック・ソロイスツ、モンテヴェルディ合唱団、アンソニー・ロルフ・ジョンソン(テノール:イドメネオ)、アンネ・ゾフィー・フォン・オッター(メゾ・ソプラノ:イダマンテ)、シルヴィア・マクネアー(ソプラノ:イリア)、ヒラヴィ・マルティンペルト(ソプラノ:エレットラ)、ナイジェル・ロブスン(テノール:アルバーチェ)、グレン・ウィンスレイド(バス:祭司長)【1990年録音】
序曲
ギリシャ神話をもとにしたグルックの『オーリードのイフィジェニー』は、トロイア戦争の前、『トーリードのイフィジェニー』は戦争の後のお話ですが、この『イドメネオ』も戦後処理の話です。
10年に及んだトロイア戦争は、知将オデュッセウスの「トロイの木馬」の謀略により終結。
アジアの大都市トロイアは落城し、トロイアの王プリアモスは殺され、多くいた王子たちも殺害、王女たちはギリシャ諸将の戦利品として分け与えられます。
エーゲ海の島国、クレタ王のイドメネオも、総大将のミケーネ王アガメムノンに従い、多くの軍船を率いて参戦。
「トロイの木馬」の胎内に潜んでいた勇士のひとりです。
イドメネオは、プリアモス王の王女のひとりイリアを捕虜として、自分より先にクレタに送りますが、途中嵐に遭って遭難し、危うく海の藻屑となるところ、勇敢な若者に助けられます。
これが、イドメネオの息子、王子イダマンテ。
イダマンテはこの美しい亡国の王女を好きになってしまい、イリアも敵の王子とはいえ、自分の命を救ってくれたイダマンテに好意を抱きます。
また、島にはミケーネ王にしてギリシャ軍総大将、アガメムノンの王女、エレクトラが滞在していました。
彼女は、グルックのオペラのテーマとなった、イピゲネイアの妹です。
トロイア戦争から凱旋、帰還した父アガメムノンは、不倫をしていた母クリュタイムネストラと、その愛人アイギストスによって殺されてしまいます。
息子オレステスは、妹エレクトラの力添えを得て、父の仇である母と愛人を討ち果たしますが、母殺しの罪を復讐の女神に呪われ、気が狂い、アポロンのお告げに従って罪を清めるべく遠くタウリスの地に赴き、現地人に捕まって危うく生けにえになるところ、そこで祭司をしていた姉イピゲネイアによって命を救われます。
エレクトラは弟が母を殺したことによって、大混乱に陥っている祖国を脱出し、クレタ王のイドメネオのところに身を寄せていました。
イドメネオは、かつての上司の娘であるこのミケーネ王女を、息子イダマンテの妻にしようと考えていました。
しかし、トロイア戦争は10年に及びましたから、イドメネオも、息子のイダマンテも幼い頃に別れ、お互いの顔は分かりません。
イドメネオの本隊となる艦隊は、トロイアからクレタに向けて出帆しますが、大嵐に遭います。
海の藻屑となる恐ろしさの中、イドメネオは海の神ポセイドンに祈ります。
『神よ、お助けください!もし嵐を鎮めて命を救ってくださったら、陸に上がって最初に会う人間を、生けにえとして神に捧げます…!』
そうすると、みるみるうちに波風は収まり、イドメネオは無事に祖国に流れ着きます。
しかし、そこで最初に出会ったのは…?
序曲は、二長調のアレグロで、運命的な荘重なフォルテッシモで始まり、英雄的なマーチとなります。しかし、やがて第1ヴァイオリンに不安の陰が差し、陰鬱な表情が浮かびます。海の嵐と、イドメネオ王の心の中の不安を両方表しているのです。第2主題は、力強い第1主題とは対照的に、イ短調の弱々しいもので、大自然の掟の前で無力な人間を示しているかのようです。これまでのモーツァルトのオペラはイタリア風でしたが、この序曲ではフランス風が前面に出ており、最後の7小節はグルックの『オーリードのイフィジェニー』序曲の開始を思わせます。
動画は、アルノルト・エストマン指揮、スウェーデンのドロットニングホルム宮廷劇場の上演です。18世紀の上演スタイルを忠実に再現しています。
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今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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