マリー・アントワネットのフランスへのお輿入れの旅の続きです。
17日目、5月7日。ついにフランス入り。
朝、シュッテルン修道院を出発し、ほどなくライン河畔のドイツの町、ケールに到着します。
ここから橋でライン川を渡ると、フランスです。
オーストリアからフランス側に、どこで王太子妃を受け渡すか。
この些細にして重大な問題に、両国の重臣たちは大いに頭を悩ませ、出口の見えない交渉を続けました。
ドイツ側、フランス側、どちらも譲れない大国同士ですから、両国のメンツがかかっています。
マリー・アントワネットの姉たちのような、格下の相手への〝降嫁〟ではないのです。
妃を引き渡すだけのために作られた宮殿
両国の大臣たちは、奇跡のようでいて、至極単純な解決策を導き出しました。
国境であるライン川の中洲の島で引き渡す。
これなら両国納得です。
その中洲は、エビ島とか、ベックリングアウ島とか呼ばれていますが、今は残っていません。
そこに、突貫工事で仮宮殿が建てられました。
東に2部屋あり、これがオーストリア領で、西の2部屋がフランス領。
中央の花嫁引き渡しの儀式を行う大広間が国境というわけです。
オーストリア皇女マリア・アントニアは東からこの部屋に入り、西から出てくる時にはフランス王太子妃マリー・アントワネットになっている、というわけです。
室内造作にはとても時間がなかったので、館内は周辺からかき集めたタペストリー、天蓋、家具で何とか装飾されました。
いよいよ、フランス人に
マリー・アントワネットの馬車は、前輪が橋に、後輪がドイツ領である陸にある位置で停まり、皇女はそこで降りて、しずしずと橋を渡って引き渡しの館に入っていきます。
肌寒い、小雨交じりの日でしたが、河岸は黒山の人だかり。
他国に嫁ぐ皇女に別れを告げました。
館に入った皇女は、そこで簡単な食事を摂り、引き渡しの儀式に臨みます。
まず、控えの間で、オーストリアから着て来た衣装をすべて脱ぎます。
フランス王太子妃になるので、故国のものは一糸たりとも身に着けてはならない、というしきたりだったということですが、当時としても古いしきたりだったので、よく言われているように全裸にまではされなかった、という説もあります。
いずれにしてもフランスの衣裳に身を包み、オーストリア代表のシュターレンベルク伯爵にエスコートされて、中央の引き渡しの間に入室します。
オーストリアからはるばる皇女に従ってきた随行員たちとは、ここで全員お別れとなりますが、振り返ることも許されません。
そこにはルイ15世から遣わされたフランス側の重臣たちが待ち構えており、重々しく式辞を述べ、両国の代表が議定書に調印します。
これで儀式は済み、両国の国境を象徴する、赤いベルベットがかけられたテーブルを回り、フランス側の随行員が迎えます。
これで名実ともに、マリア・アントニアはマリー・アントワネットとなりました。
さっそくのマナー違反
フランス側の部屋では、女官長となるノアイユ伯爵夫人が挨拶し、跪いて王太子妃のスカートにキスしようとしますが、マリー・アントワネットは驚いて『そんなことをなさらないで』と叫び、助け起こすや伯爵夫人に抱きつき、『どうか、どうか私をお守りください。どうぞ私をよろしくお導きください!』としゃくりあげてしまいます。
これは、フランスの宮廷儀礼ではありえない失儀でした。
ブルボン家の王族が、人前で目下の者にそのように接することはなく、また感情的になることもなかったのです。
フランス絶対王政を築いた太陽王ルイ14世は、王者の生活をすべて公のものとし、一般公開しました。
自らの、威厳に満ちた立ち居振る舞いで国民を畏服せしめ、それまで、ともすれば王権に反抗していた中世以来の大貴族、封建領主たちを、廷臣として飼い慣らすことに成功したのです。
昔の日本の天皇が代々持っていた神秘性を、前面に出したものといえるかもしれません。
天皇は奥の奥にいて姿が見えなかったからこそ神秘でしたが、フランス王は目の前に神授された王権をヴィジュアルとして現出したのです。
公の場では威厳は保ちつつも、アットホームなプライベート時間を持っていたハプスブルク家の宮廷とはあり方が違うのです。
初っ端から人前で感情を露わにしてしまったマリー・アントワネットは、これからもフランス人たちの顰蹙を買うことになりますが、彼女は彼女で、フランスの大仰で意味の分からない儀礼に反発していきます。
これも、ポーランド出身のルイ15世の王妃マリー・レクザンスカのような、フランスより小さな国の出身なら従うしかないでしょうが、今回の婚礼でも対等、対等としつこいぐらい強調されてきた大国オーストリア、しかも、格としては王より上の皇帝の娘ですから、フランス流に無条件で従うのには抵抗もあったのです。
このあたりは彼女の悲劇の伏線といえます。
さて、この引き渡しの儀式には、また別の、悲劇の伏線がありました。
大広間に架けられたゴブラン織りのタペストリーが、この上なく不吉なものだったのです。
そこに描かれていたのは、ラファエロの下絵に基づいた、ギリシャ神話の『イアソンとメディアの物語』だったのです。
これは、ギリシャ神話の中でも、とびきり禍々しい物語です。
ギリシャのイアルコスの王アイソンは、王位を弟ぺリアスに奪われて幽閉されます。
ぺリアスは密かに王子のイアソンを賢者ケイローンに預け、王子は長じて立派な若者となり、叔父ペリアスに王位の返還を求めます。
神託で、イアソンに王位を奪われる、と聞いていたアイソンは、神託を無効にするため、彼に、黒海の果てにあるコルキスにあるという、「金の羊毛」を取りにいくという難題を課します。
これを実現したら、王位を譲ろう、というのです。
イアソンは、人々の協力を得て、アルゴ号という巨大な船を建造し、乗組員を募集します。
アルゴ号の冒険
大冒険に対し、意気に感じたヘラクレスやカストールとポリュックス兄弟、オルフェウスといった英雄たちが参加します。
この冒険メンバーを「アルゴナウタイ」と呼びます。
ギリシャ神話でも有名な物語です。
アルゴ号は、様々な困難を乗り越え、ついに目的地コルキスにたどり着きます。
今のジョージア(旧グルジア)あたりとされます。
でも、コルキスの王には、宝物である金羊毛を渡す義理などありません。
とはいえ、敵に回すと厄介そうな面々なので、金羊毛を得るための条件として難題を出して追い払おうとします。
普通であったら命を落とすような難題でしたが、コルキスの王女メディア(メデイア)が、イアソンに一目惚れし、自分と結婚してくれるなら、ということで助力を申し出ます。
メディアは魔術を駆使する王女で、イアソンが承諾すると、魔法の力で彼に金羊毛を奪わせることに成功させるのです。
嫉妬に狂った魔女
しかし王女は父王を裏切ったので、もう故国にはいられない。
しかし、愛する人と一緒の道を選ぶということで、アルゴ号に一緒に乗り込み、出帆すると、父王の追っ手が迫ってきます。
メディアは、連れてきた弟を殺し、遺体をバラバラにして海に撒きます。
驚いた追っ手が王子の遺体を集めている間に、イアソンは逃れることができましたが、王女のあまりの酷いやり方に彼はドン引き。
故郷に帰る途中で約束通りふたりは結婚し、帰国してイアソンはペリアスに約束通り王位の返還を求めますが、叔父はこれを拒否。
メディアは魔術で叔父の命を奪いますが、またしてもあまりの惨いやり方に、国民もドン引きし、こんな魔女を王妃とは認められない、ということでイアソン夫妻は追放されます。
亡命した隣国コリントスの王はイアソンを歓迎し、娘グラウケを娶らせ、自分の跡継ぎにしようと彼に提案します。
イアソンはメディアの残酷さに嫌気が差していたこともあり、この良い話に飛びつき、メディアに離婚を言い渡します。
メディアは表向き承諾し、グラウケに祝福の結婚衣装を贈りますが、花嫁がその衣装を着たとたん燃え上がり、その父ともども焼け死んでしまいます。
そして、イアソンへの復讐のため、イアソンとの間に出来たわが子ふたりまでも殺し、名実ともに魔女となって、2匹の蛇の曳く車に乗って天高く飛び去ります。
全てを失ったイアソンは年老い、アルゴ号の残骸を眺めながら孤独な晩年を送っていましたが、朽ちて落ちてきた船首像の下敷きになって死んだということです。
神話の中でも不幸な結婚の代表といわれている不吉な題材の絵を、よりにもよって婚儀の部屋に飾ったのか。
当時シュトラスブールに留学していた若きゲーテは、この国家的祝事にあたり、門番に多額の袖の下を渡して、事前にこの引き渡しの館を見学していました。
そして、このタペストリーを見て『これはどういうことだ!』と叫びます。
若い王妃がお輿入れなさろうというそのときに、しかも結婚の第一歩を踏み出されようとするその場所で、かつて行われたもっとも戦慄すべき結婚例をお目にかけるなど、許されてよいものだろうか?いったいフランスの建築家や室内装飾家や壁紙貼りたちの中には、絵が感情や感覚に訴え、印象を作り出し、予感を引き起こすと知っている者はひとりもいなかったのか?これはまるで、あの美しい、そして聞くところによれば、生きる喜びに満ちあふれた貴婦人のお出迎えに、わざわざ国境までおぞましい化け物をよこしたのと同じではないか。*1
これに気づいていた人は何人かいたようで、これを見たマリー・アントワネットが『まあ、なんと縁起が悪いタペストリーでしょうか!』と言ったという話もありますが、おそらくは壁掛けなど見る余裕はなかったでしょうし、一瞬でテーマが分かるほど彼女は勉強していなかったかもしれません。
現実になってしまった、不吉
これはフランス側の故意による嫌がらせ、とされていますが、おそらく偶然ではないか思われます。
これほどの大きさの高級なゴブラン織りタペストリーは早々あるものでもなく、また時間の無い中で借り受けなければなりません。
急いで運べるもの、ということでは選ぶ余地も少なく、とりあえず豪華でさえあればいい、ということになったのではないでしょうか。
さらに、この結婚はフランス側の運命を左右するものですから、フランス人が呪いをかけたら自分に返ってきます。
国王自身が命じたのならともかく、もし誰かがこんなものを飾った、ということが王の耳に入ったら、王室の慶事にミソをつけたということで、その者は罰せられたでしょう。
いくら元敵国とはいえ、そんなリスクを負ってまで、オーストリアに嫌がらせをする者がいるでしょうか。
ゲーテの言うように、文学や芸術の知識、教養の無い者の仕業、ということだと思われます。
しかし、偶然というならなおのこと、運命の恐ろしさに慄然とします。
フランス革命はすべてマリー・アントワネットのせいということではありませんが、彼女を迎え入れたフランス王室は破滅することになります。
まさに、王女メディアと結婚したことによってすべてを失ったイアソンと、同じ運命をたどることになるのです。
そんな不吉な予兆も背負いながら、王太子(ラ・ドーフィーヌ La Dauphine)マリー・アントワネットは誕生します。
ハイドンのシンフォニー『フランス王妃』
ハイドンの『パリ・セット』の4曲目、交響曲 第85番 変ロ長調には、『フランス王妃(ラ・レーヌ・ド・フランス La Reine de France』という愛称がついています。
略して『王妃(ラ・レーヌ)』と呼ばれることもあります。
他ならぬ、マリー・アントワネットのことです。
それは、この曲が彼女の愛好曲だったことによります。
1787年の、パリでのラ・ロージュ・オランピックでの初演には王妃として臨席し、6曲の中でも、彼女は特に気に入ったようです。
当時の新聞での評判です。
演奏会では、毎回ハイドン氏の交響曲が演奏された。日を重ねるごとに、この大天才の作品の人気は高まり、感嘆する者が増えている。いずれの作品においても、氏はたったひとつの主題から、あれほど豊かで多彩な展開を引き出す。それは、つぎつぎと楽想を並べるだけで変化に乏しい形式しか提示することができず、人目を引く効果だけを機械的に、脈絡もなく味わいもなく積み重ねるしか能のない作曲家たちとは、まったく異なるものである。ハイドン氏の交響曲はいつも確実に感銘を与えるが、会場の音響が良ければさらにその効果は増すことだろう。(メルキュール・ド・フランス)
当時のパリの人々の熱狂が伝わってきます。
マリー・アントワネットはハイドンと個人的な面識は無かったはずですが、故国の作曲家の最新曲が、パリでここまでもてはやされているのは誇らしかったでしょう。
特にこのシンフォニーは大人気で、当時から、ピアノや室内楽でも演奏できるように編曲された楽譜が10種以上も出回っていたということです。
不幸のさなかに、王妃の心の支えとなった曲
中でも、彼女の名前がつくというからには、余程のお気に入りだったようで、後年、フランス革命が起こって、家族で宮殿を追われ、タンプル塔に幽閉されたとき、部屋のピアノにこのシンフォニーの第2楽章 ロマンスの楽譜が置いてあったそうです。
そして、訪ねてきた友人に、『この曲を弾くと、幸せだった頃を思い出すの』と漏らしていたということです。
このシンフォニーに『フランス王妃』という題名がつけられたのは、早くもフランス革命前の1788年に、パリのアンボー社から出版された楽譜からです。
もちろん、出版社がプロモーション用につけたタイトルで、作曲者の命名ではありません。
同社は、新聞広告で次のように宣伝しました。
これらの交響曲は、内容が立派な上に手際も驚くほど鮮やかであり、幸運にもこれらの曲を聴いたことがある人々はもちろん。まだ知らない方々にもぜひ急いで求められたい。ハイドンの名声はまったくそれにふさわしいものだからである。
ハイドンの旧作、シンフォニー 第48番には、彼女の母帝の名、『マリア・テレジア』がつけられていますが、このシンフォニーについては王妃が在位中の命名出版ですから、実名を付けるのははばかられたでしょう。
死後であれば、『マリー・アントワネット』と題されたかもしれません。
いずれにしても、ハイドンのシンフォニーには、それぞれこの母娘の名前のついた曲があるというわけです。
それでは、王妃お気に入りの曲を聴いていきましょう。
Joseph Haydn:Symphony no.85 in B flat major, Hob.I:85 "La Reine de France"
演奏:ジュリアン・ショーヴァン指揮 ル・コンセール・ド・ラ・ロージュ(古楽器使用)
「パリ・セット」の1曲として1785年か翌年に書かれました。ハイドンの指示した並び順からすると第2番です。11小節の短い序奏がついていますが、中頃に3回出てくる音型は第1主題の終結動機として用いられます。パリの新聞が書き立てたハイドンの有機的な構成のひとつです。コード進行も凝っていて、変ロ音のユニゾンで始まり、ト短調になるかと見せて変ロ長調の下属和音に、ト短調の属和音に進むとみせて、変ロ長調の属和音に落ち着いてすっきり、とした構成をとっています。
第1主題はヴァイオリンのユニゾンで静かに始まりますが、序奏に出てきた終結動機がフォルテで強調されます。これが繰り返され、絶頂に達したあと、突然ヘ短調に転じますが、これがなんと、旧作のシンフォニー、第45番 嬰ヘ短調《告別》の第1楽章のテーマなのです。これは過去の作品の使いまわしではなく、よく知られたフレーズを出して聴衆を喜ばせようというハイドン一流のサービスです。《告別シンフォニー》はハイドンの代表作としてパリでもポピュラーだったようで、聴衆たちは〝出た~〟と拍手喝采したことでしょう。モーツァルトも以前、パリでのシンフォニー初演で、『パリの人々が好きそうなフレーズを途中に仕込んでおいたら、大喝采だった』と述べていますので、もしかすると、パリ向けのシンフォニーを作っているハイドンに対してモーツァルトがアドバイスしたのかもしれません。
第2主題はオーボエで歌われますが、これも第1主題の派生で、新聞の批評家が『たったひとつの主題から』と賛嘆しているように、単一主題といってもよいかもしれません。
展開部は〝告別のテーマ〟から始まり、その持つ悲劇的な性格を深掘りしつつ、第1主題をからめて、多彩な転調で深い世界を現出します。再現部では、第2主題が主役を務め、充実の中に音楽を閉じます。
第2楽章 ロマンス:アレグレット
変ホ長調のテーマと5つの変奏で、各変奏が反復を伴う2部形式です。テーマは当時のフランスでの流行曲『やさしい若いリゼット La Gentille et jeune Lisetto』という歌から取られたものです。歌謡曲由来だけあって、分かりやすく親しみやすいものなので、マリー・アントワネットも好んだのでしょう。ただ、これを暗い塔の中で、ポロンポロンと弾く王妃の姿を思い浮かべると、何とも切なくなります。第1変奏はフルートがメロディラインに加わり彩り豊かになります。第2変奏は短調になり、哀愁を帯びます。第3変奏は長調に戻り、フルートがオブリガートを務めます。第4変奏は木管楽器が加わってより色彩が華やかに。最後はメインテーマが回想され、静かに終わります。まさに、幸せだった頃を思い出すかのように。
第3楽章 メヌエット:アレグレット&トリオ
木管楽器の彩りが豊かな、充実したメヌエットです。ヴァイオリンが、鳥のさえずりのような合いの手を入れるのが実に典雅です。トリオはヴァイオリンとファゴットがレントラー風に呼び交わし、さらに木管の独奏がかわるがわる入る凝りようです。パリ・セットの中でも白眉の充実したメヌエットです。
第4楽章 フィナーレ:プレスト
ハイドンの編み出したロンド・ソナタ形式の素晴らしいフィナーレです。第1主題はヴァイオリンとファゴットがユニゾンで勢いよく走りだします。第2主題は例によって第1主題由来で、単一主題に近いのですが、かえって展開の豊富さに圧倒されます。ピアノとフォルテ、長調と短調が鮮やかに交代し、手に汗握ります。そして、急に我に返ったように立ち止まる、シンコペーションによる休止の効果も見事です。運動会の徒競走のBGMになりそうなテーマですが、こうした休止があると使えないですね。コーダは簡潔で、すっきりと終わります。ハンガリーの田舎で生み出された音楽とは思えない洗練さに、パリ人たちはすっかり魅了されたのです。
この動画は、取り上げているジュリアン・ショーヴァン指揮 ル・コンセール・ド・ラ・ロージュの演奏風景ですが、フィナーレ(最終楽章)のみです。ショーヴァンはヴァイオリンを弾きながらの指揮で、ハイドンのエステルハーザ宮殿での演奏スタイルと同じです。
www.youtube.com
こちらは全曲で、マシュー・ダースト指揮 アルス・リリカ・ヒューストンの演奏です。ダーストはチェンバロを弾きながらの指揮で、こちらは後年ロンドンでのハイドンの指揮スタイルに近いものになります。
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今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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