貴族を遠ざけ、平民を近づけた王妃
フランス王太子妃、のちの王妃マリー・アントワネットは、アットホームなところのある実家のハプスブルク家とは違った、堅苦しいフランス王家の宮廷儀礼、無意味に思えるしきたりに反発します。
もっと自分の思うようにやりたい、という自由への欲求がつのります。
彼女は、宮廷ルールや慣例を次第に無視し、才能ある平民を近づけ、自分のやりたいことを実現していきます。
それは、自己顕示欲と特権への執着しかない、貴族や廷臣たちへの反発でもありました。
そして、平民の髪結いレオナールや、モード商ベルタン嬢を取り立て、ファッション界を自分の力でリードしていきます。
音楽家もほとんど平民出身ですが、髪結いに比べたらはるかに地位は高く、何世紀も前から宮廷に出入りが許されていました。
しかし、エステルハージ侯爵家に30年仕えたハイドンのように、身分としては基本的には従僕と変わらなかったのです。
マリー・アントワネットは、パリで音楽の世界でも自分のわがままを通し、贔屓の音楽家に傍若無人に振る舞わせて、貴族たちのど顰蹙を買ったのです。
その傍若無人な音楽家とは、クリストフ・ヴィリバルト・グルック(1714-1787)。
モーツァルトの先輩として、これまでも名前は度々出てきましたが、その音楽を取り上げるのは初めてです。
彼は、クラシックの作曲家としては大変有名で、音楽史では「オペラの改革者」として高い評価を得ています。
19世紀になってから、ベルリオーズが崇拝し、常に『わがオリンポス山の諸神のうち、ジュピター(ゼウス)はグルックである。』と言っていました。
バッハ、ヘンデル、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンのような〝諸神〟より上だ、と言っているのです。
また、リヒャルト・ワーグナーの楽劇には、グルックのオペラが生み出した近代オペラの世界観が見出せます。
しかし、現代ではグルックの音楽はほとんど演奏されることはありません。
作品のほとんどがオペラで、演奏しやすい器楽曲やピアノ曲がほとんどないことも影響しています。
ただし、オペラも生涯で50曲以上書いたといわれますが、現代上演されるのは、今回から取り上げる『オルフェオとエウリディーチェ』のみと言っても過言ではありません。
あとは、このオペラの中の『精霊の踊り』だけが、フルートの独奏曲として演奏されるのが、例外といっていいでしょう。
その理由については、おいおい考えていくとして、まずはその生い立ち、キャリアと、マリー・アントワネットとのかかわりを見ていきます。
国際キャリアを積んだグルック
グルックは1714年7月2日に、西南ドイツのエラスバッハで生まれました。
父は、ボヘミアの大貴族ロプコヴィッツ侯爵家に仕える林務官でした。
ロプコヴィッツ侯といえば、代々音楽好きの家系で名高く、次々代の当主フランツ・ヨーゼフ・マクシミリアン侯は音楽の熱心な保護者として有名です。
特にベートーヴェンを熱狂的に崇拝し、《英雄》《運命》《田園》といった大シンフォニーは、彼の後援のお陰で誕生したといっても過言ではありません。
代々音楽好きの貴族に仕える家に生まれたというのは運命的です。
彼の幼少時代の記録はあまり残っていませんが、きちんとした教育を受けたようで、プラハ大学にも通いました。
20歳のときにウィーンに出て、おそらくロプコヴィッツ家のウィーン邸で音楽家としてキャリアをスタートさせます。
ついで、同家の紹介でイタリアに留学。
ミラノで、高名な作曲家ジュゼッペ・サンマルティーニに師事します。
1741年にミラノで最初のオペラ、メタスタージオ台本の『アルタセルセ』を上演しました。
ドイツの作曲家がイタリアの劇場でオペラを作曲するというのは、相当な名声がなくてはできないことです。
その後、8年間イタリアにとどまり、少なくとも8本のオペラを作曲しましたが、ほとんど楽譜は残っていません。
ただ、伝統的なイタリア様式にのっとったオペラでした。
その後、ロンドンに渡り、ヘンデルとお近づきになります。
ドイツに生まれ、イタリアで名声を確立し、ロンドンで活躍する、というのは、ヘンデルのキャリアと全く同じです。
ロンドンではミドルセックス卿の委嘱でイタリア歌劇団のために2つの作品を上演していますが、これもグルックの評価が既に国際的に確立していたことを示します。
ただ、毒舌家のヘンデルは、グルックに対して『自分の料理人の方がグルックよりも対位法を心得ている』とからかったということです。
でもこれは、グルックが対位法が苦手だったことを示すというより、彼が、厳格で壮麗な対位法が評価されるバロック時代のスタイルではなく、よりシンプルで直截的な表現が好まれる新しい時代、古典派の先駆者であったことを示すエピソードととらえた方がよいでしょう。
グルックの方はヘンデルを終生崇拝し、晩年、ウィーンの自宅の寝室にヘンデルの肖像画を掲げ、いつも指さしながら『あれはわが芸術の最も偉大な巨匠の肖像画だ。私は毎朝、目を開くと尊敬と畏怖の念で彼を見つめ、偉大な巨匠として認識する。』と言っていたということです。
ベートーヴェンが死の床で、ロンドンの出版社から贈られたヘンデル全集40巻に狂喜し、気分の良いときにはこの楽譜を読みながら、『古今、最高の作曲家はヘンデルだ』と畏敬していたのと重なります。
ロンドンを後にしたグルックは、ハンブルク、ライプツィヒと遍歴し、ドレスデンでは1747年にバイエルンとザクセンの両選帝侯家の結婚を祝うオペラ・セレナーデ『ヘラクレスとヘベの結婚』を上演。
翌1748年にはウィーンでマリア・テレジアの誕生日とアーヘンの和約の成立を祝うためにオペラ『セミラーミデ』をブルク劇場で上演し、大成功しました。
ヘンデルがロンドンで『王宮の花火の音楽』、ラモーがパリでオペラ『ナイス』を上演し、七年戦争が終結したアーヘンの和約を祝ったのと同じタイミングです。
ただ、この頃からグルックは新しい手法で作曲し始めており、ウィーン宮廷詩人で台本作家のメタスタージオは、自分の台本につけられたグルックの音楽を『非常に野蛮で耐え難い音楽』と酷評したということです。
メタスタージオの台本は、イタリア語の韻に忠実な、イタリアの伝統的バロックオペラのためのものでしたから、グルックのドラマチックな音楽に嫌悪感を示したのです。
〝逆玉〟に乗ったおかげで
1749年、グルックはウィーンの銀行家の娘と結婚。
妻の実家の援助もあって、グルックは以後お金に困ることはなくなりました。
これによって、彼は注文主の王侯貴族や聴衆におもねる必要はなくなり、余計な口出しは拒否して自分の芸術の深化に邁進することができるようになりました。
当時の作曲家にとって、例外的に恵まれた創作環境です。
この〝逆玉の輿〟によって、グルックは「オペラ改革」が可能となったわけです。
奥さんには完全にお尻に敷かれていましたが、文句は言えません。
マリア・テレジアに気に入られ、1752年にはウィーン宮廷の音楽監督に任命。
1756年にはローマ教皇ベネディクトゥス14世から「黄金拍車騎士団」の騎士に叙され、勲章をもらいました。
これ以後、彼は「シュヴァリエ・グルック(騎士グルック)」と自称するようになりましたが、あくまで名誉称号であって、貴族になれたわけではありません。
のちにモーツァルトも同じ騎士団の勲章をもらいますが、グルックのものよりはるかに上位だったようです。
音楽史上に残る「オペラ改革」
さて、グルックの「オペラ改革」とは、どのようなものだったのでしょうか。
それまでヨーロッパ中を風靡していたイタリアのバロック・オペラは、なんといっても歌手がその技巧を披露する場でした。
あくまでも「歌手」が主役であって、作曲家とその音楽はそれを引き立てる存在。
聴衆も、ひいきの歌手目当てでオペラを見に来ます。
歌手は、自分の声の特長が一番目立つように、勝手にテンポを変えたり、調を変えたりし、伴奏者はそれに臨機応変に合わせなければなりませんでした。
オペラでも、アリアではドラマの流れが中断し、筋とは無関係に歌手の超絶技巧が長々と披露されます。
バロック・オペラのダ・カーポ・アリアはその典型で、前半は作曲者の作曲通りに歌い、短い中間部を経て、再び後半で前半が繰り返されますが、ここが歌手の見せ場で、即興的に作曲されたものを展開し、自由自在に変えてしまいます。
むしろ、それが目玉となっていました。
現代で再現しようとしても、歌手は楽譜通りに歌ってはならず、自分で即興しなければならないわけですから、よほどバロックに通じた歌手しか歌えません。
それが、バロック・オペラのリバイバルを難しくしています、
グルックのオペラ改革は、オペラをこれらの「歌番組」から、「音楽つきの演劇」としての「ドラマ」にしよう、というものでした。
今から思えば当たり前ではありますし、もともと17世紀初頭にフィレンツェでオペラが誕生したのも、古代ギリシャの歌つき演劇を再現しようとしたことに始まります。
娯楽に脱線したオペラを、正道の演劇に戻そう、というのが「改革」といえます。
音楽より台本が大事
しかし、この改革は厳密に言うと、グルックがひとりで考えついたものではありません。
古典主義の理想に燃えた台本作者、ラニエリ・ダ・カルツァビージ(1714-1795)が、そのようなコンセプトの台本を書き、グルックがそれに作曲するチャンスを得たのです。
プライドの高いグルックは、従来の歌手の横暴を長年苦々しく思っていましたから、カルツァビージの考えに大いに共感、コラボしたわけです。
グルックは、カルツァビージに対して次のように述べています。
もし私の音楽が、曲がりなりにも成功したとすれば、私は彼の恩義を受けていることを認める義務がある。なぜなら、私の芸術的天分を開発したのは彼であるからだ。作曲家がどれほど才能を持っていても、詩人が彼の中に熱意を吹き込まなければ凡庸な音楽しか作れないだろう。熱意というものがなければ、あらゆる芸術作品はひ弱で迫力に欠けるものにしかならない。
これは、『オペラでは、詩は、絶対に音楽の従順な娘でなくてはいけません。』というモーツァルトの言葉と正反対です。
ただ、モーツァルトも歌手の勝手は許しませんでしたが、歌手の声の特性に合わせて、音符を書き換えたり、曲を差し替えたりするのは、むしろ大好きで、積極的でした。
しかし、グルック、そして後のベートーヴェンにとっては、そんなことは論外でした。
ベートーヴェンは、あまり台本にこだわらなかったモーツァルトに対し、くだらない台本にせっかくの才能を浪費した、と批判しています。
ベートーヴェンの唯一のオペラ『フィデリオ』は、妻の夫に対する貴いまでの献身が描かれており、彼は劇の台本、歌詞がもつ崇高な精神を、最大限表現する音楽を目指したのです。
彼は、モーツァルトではなく、グルックの考え方を受け継いだといえます。
グルックは、歌手が舞台では、配役の人物になり切るべきだ、と主張しました。
つまり、演技に徹して、ドラマに無関係な歌手にならないように、ということです。
また、ダ・カーポ・アリアを廃し、または修正。
そして、アリアとアリアの間をつなぐレチタティーヴォは、チェンバロの通奏低音だけで伴奏する「レチタティーヴォ・セッコ」を使わず、全てオーケストラがドラマチックに伴奏する「レチタティーヴォ・ストラメンタート」としました。
モーツァルトも、ここぞ、という場面ではオーケストラ伴奏のレチタティーヴォ・アコンパニャートを使いましたが、セッコを廃止するところまではやりませんでした。
これは、作曲家のポリシーというより、喜劇と悲劇の違い、という面もあります。
モーツァルトのドタバタ喜劇は、筋をアップテンポに進めるためには、軽快なセッコが有用です。
グルックのは悲劇ですので、全てオーケストラでドラマチックに伴奏したわけです。
改革オペラ第一弾
そして、その「改革オペラ」第一弾が、今回から取り上げるオペラ・セリア(正歌劇)『オルフェオとエウリディーチェ』です。
マリア・テレジアの夫君、神聖ローマ皇帝フランツ1世(フランツ・シュテファン)の霊名日を祝って、1762年10月5日にウィーンのブルク劇場で初演されました。
この曲の理想は、グルックによれば次のようなものでした。
私の音楽作品中の声、楽器、音はおろか、沈黙でさえも、ただひとつの目標をもつべきであると私は信じた。すなわち、表現するということであり、音楽と言葉のつながりが密接となり、台本と音楽がいずれを主従ともせず、完全に平等一体となることであった。
音楽は同じ音色で統一され、余計な装飾もなく、登場人物の感情をストレートに表現しています。
このオペラは新しすぎて最初はウィーンの聴衆を戸惑わせましたが、やがて熱心な支持を獲得するに至りました。
現代でも、ふつうに上演されるグルックの唯一の作品です。
また、記念すべき「日本人が最初に上演した本格的な歌劇」でもあります。
明治36年に、東京音楽学校(現東京藝大音楽学部)オペラ研究会と、東京帝大(現東大)の有志メンバーによって、東京音楽学校奏楽堂で上演されました。
エウリディーチェ役は三浦環が演じたということです。
それでは、グルックとマリー・アントワネットの関係を見ていきましょう。
『オルフェオとエウリディーチェ』の初演のとき、マリー・アントワネットは7歳になる頃でした。
初演はお父上の誕生祝いですから、彼女も同席しましたし、何度も観たことでしょう。
マリア・テレジアに評価されていたグルックは、皇女マリー・アントワネットの音楽教師に任じられ、クラヴィーアのレッスンをしました。
勉強嫌いのマリー・アントワネットはレッスンもさぼりがちで、「グルック先生」が困り果てている様子は、漫画『ヴェルサイユのばら』でも描かれていますが、王妃となってからハープを上手に弾きこなしていますから、それはグルックの指導の賜物だったかもしれません。
「改革オペラ」がウィーンでいまいち理解されないことを感じていたグルックは、悲劇の本場、パリで自分の芸術を世に問おうと考えました。
そして、かつての教え子で、フランス王太子妃となったマリー・アントワネットに援助を依頼します。
完璧主義の指揮者
ヴェルサイユで孤立していた王太子妃は、恩師がパリで自作を上演するという企てに飛びつき、全面的に後援します。
そして、新作『アウリスのイフィゲネイア(フランス語で「オーリードのイフィジェニー」)』が、王太子妃の肝いりで、パリ・オペラ座で上演されることになったのです。
演奏の完成度にとことんこだわるグルックは、これまでもオーケストラとのリハーサルで、しょっちゅう対立していました。
現代の指揮者がオーケストラに独裁的に指示指図するのは当たり前ですが、当時はそんな慣習はありません。
グルックは完全主義者で、オーケストラが自分の意図のとおりに表現できないと、20回でも30回でも繰り返し演奏させました。
ウィーン時代にも、オーケストラ団員が怒って、グルックの指揮では演奏できない!とストライキをして、皇帝ヨーゼフ2世が介入し、2倍の報酬を払うから、とオーケストラをなだめた、というエピソードがあります。
それも1回、2回ではなく。
グルックに怖いものなし、です。
グルックの方でも、当時のずさんな演奏ぶりは我慢ならず、リハーサルで自分の求めるレベルまで至らしめる苦労が並大抵ではないので、『作曲料が20ポンドなら、リハーサル料は20,000ポンド貰わなければ割に合わない!』とわめき散らしたといいます。
パリでのリハーサルは、さらに修羅場となりました。
リハを見学した人の証言です。
彼は狂人のように暴れまわった。今はヴァイオリンが悪い、次は木管が彼の楽想にしかるべき表現を与えなかった、と怒鳴り散らす。指揮の最中、彼は突然中断して、このように表現するのだと該当部分を自分で歌う。それから指揮をしばらく行うと、また中止して肺が張り裂けるような大声でわめく。〝これは出来損ないのヘッポコだ!〟私は、彼の頭をめがけてヴァイオリンやその他の楽器が飛んでいく有様を、心の中で想像した。
王妃の威を借りて、さらに怖いものなし
また、グルックは、ふたこと目にはマリー・アントワネットの名前を持ち出しました。
オーケストラに『私は今から王太子妃妃のところへ行って、私のオペラの上演は不可能だと申し上げる。それから馬車に乗って、まっすぐウィーンに帰ってしまうだろう!』と怒鳴ったといいます。
これまでちやほやされたことしかない女性歌手たちも、グルックにパワハラをされて、自分たちの庇護者である貴族たちに泣きつきます。
しかし、貴族たちも、王太子妃の肝いりであるグルックに何も文句は言えません。
ようやく、『オーリードのイフィジェニー』は、1774年4月13日に初演、と決定します。
ところが、初演直前に歌手のひとりが病気になり、代役を立てなければならなくなりました。
しかし、グルックは、完璧に練習した歌手以外での上演は認めない、延期だ!と主張します。
宮廷は大騒ぎ。
もう貴賓の席の割り振りから馬車の段取りまで整っています。
一平民の異国人の作曲家が、フランスの、いわば国家行事を延期させるなんて前代未聞。
しかしグルックは、不満足な形でオペラを上演するくらいなら、スコアを火にくべる方がましだ!とマリー・アントワネットに迫ります。
歌手が病気なら、延期すればいいじゃない!?
彼女は恩師の味方となり、宮廷貴族たちの反対を押し切って、上演の延期を強行。
さらに、顰蹙を買っているグルックの上演の妨害をしないよう、宮廷警察に命じて、上演中に聴衆がヤジをとばしたり、口笛を吹いたりしないよう、取り締まらせます。
そして、オペラより狩りが大好きな夫、王太子も無理矢理臨席させます。
幕が開くと、この革新的なオペラは簡単には理解されず、拍手も起きませんでした。
そもそも、王家が臨席の際は拍手は自粛する慣例でした。
しかし、マリー・アントワネットは立ち上がり、自ら率先して拍手。
観客たちも、仕方なく同調して大拍手を送り、初演は大成功、ということになりました。
これは、嫁いできたマリー・アントワネットが初めて、公式の場で強く我を通した事件であり、オペラの成功は、グルックの勝利というより、彼女の勝利といえました。
さっそく、髪結いレオナールに、オペラのヒロイン、イフィジェニーにちなんだ髪形を作らせ、この「イフィジェニー風ヘアスタイル」はパリの貴婦人に大流行したのです。
「イフィジェニー」初演の数週間後、国王ルイ15世が薨去し、マリー・アントワネットは「王太子妃」から「王妃」となります。
喪が明けると、再びオペラの上演が再開。
マリー・アントワネットは、グルックに、ロングランヒット作の旧作『オルフェオとエウリディーチェ』をパリで上演することを提案します。
グルックは、12年前のこの作品をフランス語版に改作し、曲もフランス風に変えて上演。
もともと、フランスの悲劇を理想としたグルックの改革オペラは、だんだんと知性派のフランス人にも受けてきました。
そして、旧来のイタリア・オペラを支持する「ピッチ―ニ派」と、「グルック派」で、全パリを巻き込んだ大きな芸術論争が巻き起こるのです。
これは、「国王派」と「王妃派」の争いともいえる政治的な面もありましたが、それは後程触れることにします。
では、ここでは、改作の「パリ版」ではなく、ポピュラーな原典版「ウィーン版」を聴いていきます。
まずは、序曲からです。
Christoph Willibald Gluck:Orfeo ed Euridice, Wq.30, Overture
演奏:ルネ・ヤーコプス(指揮)フライブルク・バロック・オーケストラ、RIAS室内合唱団【2001年録音】
このオペラは、ギリシャ神話の音楽の神オルフェウスと、その妻エウリュディケの物語です。あらすじは次回から触れますが、その幕開けとなるこの序曲は、悲劇にふさわしくないどころか、あまりにも祝祭的で、序曲からドラマがはじまるという、グルックの「改革オペラ」の趣旨にも合わないという批判が昔からあります。確かに、後年のグルックのオペラでは、序曲がすでに悲劇の内容を予告しており、有機的な関連があって、そのまま切れ目なく第1幕に突入、というパターンが主流です。しかし、このオペラは「改革オペラ」の1作目ですし、皇帝の誕生日祝い、という祝祭の場ですから、こういった音楽になったのでしょう。オペラそのものも、原作の神話では悲劇ですが、無理矢理ハッピーエンドになっています。それでも、この序曲は力強く、明るい中に緊張感もはらんでいて、けっして通俗的ではありません。強弱の対比、たたみかけるようなフレーズは、新しい時代の幕開けを告げているのです。
動画はオンドレイ・ハヴェルカ演出の映画版です。映画版ですが、上演はチェコの中世の面影残る古都、チェスキー・クルムロフ城内に、1766年の創建当時のままに改修されたバロック劇場で、演奏や上演スタイルも当時さながらに再現されています。
演奏は、ヴァーツラフ・ルクス指揮の古楽器オーケストラ、コレギウム1704、コレギウム・ヴォカーレ1704(合唱)、オルフェオ役はベジュン・メータ(カウンターテノール)です。
冒頭、オルフェオ役の楽屋から物語は始まりますが、悲劇の主人公はすでに鬱々としています。その理由はいかに。
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今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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