結婚式の定番曲、4曲目もバッハのカンタータの曲です。『目覚めよと呼ぶ声が聞こえ』。前回の『主よ、人の望みの喜びよ』と同じくらい有名ですが、結婚式で奏でられる機会はやや少ないように感じます。
この曲も、原曲は『カンタータ第140番〝目覚めよ、とわれらに呼ばわる物見らの声〟BWV140』の第4曲の合唱曲(コラール)なのですが、バッハ自身がオルガン独奏用に編曲しています。
バッハのマイベスト
バッハは、自作カンタータのコラールの名曲を6曲集めてオルガン用に編曲して出版したのです。発行者の名をとって〝シュープラー・コラール集〟と呼ばれますが、今でいう〝マイベスト〟を出したといったところでしょうか。
その中でもよく演奏されるのがこの『目覚めよと呼ぶ声が聞こえ』です。
まずはこのオルガンバージョンをお聴きください。
バッハ『コラール〝目覚めよと呼ぶ声が聞こえ〟BWV645』
J.S.Bach:Six “Schubler”Chorales Wachet auf , ruft uns die stimme , BWV645
演奏:トン・コープマン(オルガン)Ton Koopman (Organ)
先行し、繰り返される副旋律に乗り、コラールはペダルの低音で合わされます。まったく違う旋律が合体する奇蹟は、まさにマリアージュといってよいでしょう。
〝コラール〟については前回も軽く触れましたが、〝コーラス〟とは違います。プロテスタント特有の賛美歌で、その成り立ちにはルターの宗教改革が関係しています。いや、関係しているというより、改革そのものと言ってもいいかもしれません。
マルチン・ルターは、サン・ピエトロ寺院の造営費の捻出などのために売り出した有名な免罪符(贖宥状)をはじめとしたカトリック教会の腐敗に対して、1517年にヴィッテンベルクの教会に『95ヶ条の論題』を貼りだして宗教改革をはじめました。
ルターの主張は、これまでカトリック教会が言っていた、ローマ教皇や聖職者を通してのみ神の恵みが与えられる、ということを否定し、聖書のみをよりどころとした〝聖書にかえれ〟というものでした。
当然大弾圧を受けますが、カトリック教会は主にドイツから搾取を行っていたこともあり、ルターらプロテスタントはドイツ諸侯の多くの支持を得て、ドイツ、そして北欧に広がります。
カトリック教会には、聖職者の権威や神秘的な儀式で信者に畏敬の念を起こさせる、という外面的な要素がありましたが、プロテスタント教会は、純粋に聖書を読んで神の言葉を聞き、生活を正しくして救いを待つ、という内面重視でした。
日本の仏教って・・・?
そのような宗教の二面性は、今の日本にもありますね。
お葬式や法事にお坊さんを呼びますが、読んでくれるお経の意味はさっぱり分かりません。
目覚めた人ブッダの教えですから、なにか人生の糧になる内容かもしれないのに、聖職者の神秘性を守るため、わざと分からなくしているのでは、と勘ぐりたくなります。
ただ、法事で法話のある宗派もあり、それはそれで、早く終わってくれないかな、などと思ってしまうので、勝手なものですが。笑
でも、戒名つけてもらうのにもランクに合わせたお布施が必要、となるとさすがに、地獄ならぬ極楽の沙汰も金次第なのか、今の仏教界にはルターは出ないのか?と思ってしまいます。
一方、座禅は内面的な何かを追求しているようで、イメージ的には本来の宗教的な感じがします。
神社でもらうお札やお守り、お寺の御朱印も、ルターに言わせれば免罪符と一緒でしょう。
でも、お経をあげてもらうと、故人になにかしてあげられたような気がして心が安まりますし、お守りも、つらいときに心の支えになってくれるのも事実です。
ですから、外面的なもの、内面的なもの、どちらを宗教に求めるかは人それぞれ、ということに尽きますね。
宗教でどちらが正しい、どちらが間違っている、ということにこだわりすぎると、いつかは殺し合いに、ひいては戦争になってしまうのは、歴史の示すところですし、残念ながら今でも起こっていることです。
さて、内面を追求したルターは、ラテン語で書かれていて、お経と同じように一般人には意味が分からず、聖職者の独占物であった聖書を、庶民でも分かるドイツ語に訳しました。
聖書が、折しも発明されたグーテンベルクの活版印刷術で広く普及して、宗教改革を大きく前進させたのは有名な話です。
そして、これまで教会で司祭(神父)や司教、大司教が神秘的に重々しく挙行していた儀式、ミサの代わりに、みんなで心をひとつにして歌い、神の国に近づこう、というのがコラールでした。
ですので、誰もが歌えるよう、シンプルな旋律になっています。また、シンプルだけに心に響きます。ドイツで力強く歌われるコラールは、まるで石造りの大聖堂が震えるような感動を人に与えます。
ルターは自分でも、有名な『神はわがやぐら Ein' feste Burg ist unser Gott』というコラールを作詞、作曲しています。
カトリック教会でも、中世以来歌われてきたグレゴリオ聖歌は、シンプルで心に染み入るものですが、時代が下がるにつれ、だんだんと派手になってきて、バロック時代にはほとんどオペラのように劇場化してきました。例のカストラートも、教会から劇場に進出していきました。
モーツァルトがザルツブルク大司教のためにしぶしぶ作曲していたミサ曲にも、かなり世俗的な華やかさがあります。
宗教曲を聴くときは、このような歴史も踏まえて、カトリック音楽とプロテスタント音楽の違いを意識して聴くと味わい深いと思います。
賢いおとめのたとえ
さて、カンタータに戻ります。
この曲の歌詞も、聖書の次の記述を元にしています。マタイによる福音書から引用します。
そこで、天の国は次のようにたとえられる。
十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。
そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。
愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。
賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。
ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。
真夜中に『花婿だ。迎えに来なさい』と叫ぶ声がした。
そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。
愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。
『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』
賢いおとめたちは答えた。
『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』
愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。
その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。
しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。
だから、目を覚ましていなさい。
あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。*1
〝天の国〟が来るときには最後の審判が行われて、正しい魂は天国へ、よこしまな魂は地獄に落とされる、ということになり、その時はいつ来るか分からないので、平素からちゃんと備え、よい心構えで生活していないと、この愚かなおとめのようになってしまうぞ、という教えです。
そもそも、花嫁を待たせて遅れる花婿の方が悪いのでは・・・と〝愚かなおとめたち〟が気の毒になってしまいますが、男女同権ではない頃のお話ですからね。
このカンタータは、この話を曲にしています。
バッハ『カンタータ第140番〝目覚めよ、とわれらに呼ばわる物見らの声〟BWV140』
J.S.Bach: Wachet auf , ruft uns die stimme , BWV140
演奏:ジョン・エリオット・ガーディナー(指揮)モンテヴェルディ合唱団&イングリッシュ・バロック・ソロイスツ
John Eliot Gardiner & The Monteverdi Choir , The English Baroque Soloists
第1曲 コラール合唱
ザッ、ザッという花婿たちが颯爽とやってくる足音。さあ来たぞ、という物見の声。いよいよ、という高揚感の裏で、眠り込んで起こされる花嫁たちの慌ただしさも伝わってくるような曲です。
目覚めよ、とわれらに物見らの声が呼びかける、
はるかに高く、望楼の上から。
目覚めよ、エルサレムの町よ!
今、時は真夜中。
彼らは明るい口調で呼びかける、
賢い乙女たちよ、君たちはどこにいるのか、と。
さあ、花婿がやってくる。
アレルヤ。
支度を整えなさい、
婚礼に向けて。
そして花婿を出迎えるのだ!
第4曲 コラール
オルガン曲になった有名なコラールはこちらです。テノールで歌われます。
シオン(エルサレムの古名)は物見らの歌うのを聞き、
その心は、喜びに踊る。
彼女は目覚め、急いで床を出る。
愛する友は、天から晴れやかにやってくる、
恵みを強さとし、真理を力として。
シオンの光は輝き、シオンの星は昇る。
さあ来てください、尊い冠よ、
主イエス、神の子よ!
ホサナ!
みんなで従っていこう、
喜びの広間へと。
そして晩餐をともに祝おう。*2
歌詞の意味、まつわるエピソードからすれば、『主よ、人の望みの喜びよ』よりも、婚礼にふさわしいのではないでしょうか。
待ちに待ったあの人がやってくる。まさに〝待ち人来る〟の縁起の良いカンタータといえるでしょう。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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