バッハの息子、二人目は、同じく前妻マリア・バルバラから生まれたカール・フィリップ・エマヌエル・バッハです。C.P.E.バッハと略します。
息子の中でもっとも成功し、死後の評価も高い人物です。
生前の幸運は、大学卒業後、フルート好きのプロイセン王太子に仕えたことから始まります。
王太子は即位後、世界史上でも指折りの名君、フリードリヒ2世となります。(その業績からフリードリヒ大王とも呼ばれます)
フリードリヒ大王の物語
フリードリヒ2世の王子時代は、父王との激しい確執の中で過ごしました。
父王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は、粗野で無教養でしたが、プロイセンの富国強兵に努めました。
特に軍隊を強くすることに異常なまでに力を入れ、〝兵隊王〟とか〝冠をかぶった伍長〟などとあだ名をつけられています。
贅沢を禁じ、国家財政を切り詰めて軍隊につぎ込んだのですが、長身の兵士を集めることに狂奔し、ただ背が高いというだけで多額の給与を払ったり、あるいは無理やりさらって来たりして、〝巨人軍〟を編成するという奇行もありました。(某球団とは関係ありません 笑)
身長216cmのスコットランド人の大男を獲得するために、8,000ターラーという巨額を支払ったという記録が残っていますが、ただ身長が高いというだけで強いとは限らず、これは単なる王の趣味でしかありませんでした。
王子のフリードリヒは、父とは反対に芸術家気質であり、前述のようにフルートを好み、演奏会を開いたりしました。
それを聞いた父王は怒り狂い、王子を杖で打ちすえたといわれます。
父王は王子の教育係に『オペラや喜劇などのくだらぬ愉しみには絶対に近づけぬこと』を命じ、王子がこれに従わないときは、容赦なく暴力をふるい、食事を与えない、蔵書を取り上げる、など、指導というよりは虐待をしていました。
王子はそんな境遇に耐えかね、縁談が来た機会に父のもとから逃亡を図りました。
近衛騎兵のカッテ少尉とカイト少尉に手引きを頼んだのですが、すぐにつかまって連れ戻されてしまいました。
王子は幽閉され、カイト少尉はイギリスに逃げられたのですが、カッテ少尉は捕らえられ、斬首刑となりました。
処刑前、王子は幽閉された窓からカッテ少尉に『私を許してくれ!』と叫ぶと、少尉は『私は殿下のために喜んで死にます!』と答えました。
王子はいましめのため、カッテの処刑を見るよう強制されましたが、正視できずに失神したといいます。
カッテの遺書には『私は国王陛下をお怨み申し上げません。殿下は今までどおり父上と母上を敬い、一刻も早く和解なさいますように。』とありました。
フリードリヒ王子はこれに従い、父王に詫び状を書いて許されました。
戦争とジャガイモ
父王が亡くなったのち、即位してフリードリヒ2世となったときには、プロイセンはヨーロッパ有数の強国になっていました。(ただし、例の巨人軍だけは役に立たないのですぐ解散させました)
フリードリヒ2世も、軍隊好きは父ゆずりで、プロイセンをさらに大国にするべく、戦争を始めました。
そして、オーストリア女帝マリア・テレジアの宿敵となり、オーストリア継承戦争、七年戦争を戦いました。
七年戦争では、長年のライバルであったオーストリアのハプスブルク家とフランスのブルボン家が、対プロイセンでまさかの同盟を結ぶという大誤算があり(外交革命といいます)、ヨーロッパ中の国を敵に回すことになって、さすがのフリードリヒ2世も、もはやこれまで、というところまで追い詰められますが、新しいロシア皇帝がフリードリヒ2世の大ファン、という珍事に助けられ、窮地を脱したばかりか、領土拡大に成功します。
その間、フリードリヒ2世は自ら軍隊の先頭に立って戦い、乗馬は2頭も銃弾に当たって死に、自身も傷が絶えませんでした。
そんな勇ましいフリードリヒ2世ですが、戦争がないときは芸術に親しみ、首都ベルリン郊外のポツダムに、ヴェルサイユ宮殿を模したサン・スーシ宮殿を建て、ロココ文化を花開かせました。
その宮殿で、もう怖い父上の目をはばかることなく、大好きなフルートを存分に吹き、そのチェンバロ伴奏を務めたのが、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハです。
ちなみにですが、飢饉を防ぐため、ドイツにジャガイモを普及させたのもフリードリヒ2世です。
国民の関心をひくため、ジャガイモ畑をわざと軍隊に守らせることまでしたそうです。
そのおかげで、ドイツビールのお供と言えば、ソーセージにザワークラウト、そしてマッシュポテトですね。
ああ、食べたい!飲みたい!
今も、フリードリヒ大王の墓にはジャガイモがお供えしてあるのです。
出世した次男坊
カール・フィリップ・エマヌエル・バッハの音楽は、兄フリーデマンと同様、感情を込めた多感様式と呼ばれますが、時代の好みに合った曲で人気を博し、後輩であるハイドンやモーツァルトにも多大の影響を与えました。
バロックと古典派の間をつないだ前古典派として、音楽史上も重要な存在です。
父バッハは、そんな息子の活躍を喜ぶでもなく、『あいつはベルリン色に染まっている。メッキがはげるさ』と評したそうです。
バッハの息子たちは、みんな中二病にかかることなく、父の命じるままによくおとなしく音楽家になったなぁと感心しますが、エマヌエルは、音楽性では父に従わなかったということでしょう。
しかし、父バッハは息子の紹介でフリードリヒ2世に謁見し、その際、自ら作曲もした大王からテーマを与えられ、父バッハはそれをもとにその場で見事な即興演奏を行って、大王を喜ばせました。
父バッハはその後、大王から与えられたテーマを元にあらためて曲集を作り、大王に献上しました。
これが『音楽の捧げもの』です。
なんだかんだ言いながらも、息子の出世がうれしくなかったはずはありません。
C.P.E.バッハは〝ベルリンのバッハ〟と呼ばれますが、晩年は当時ヨーロッパ一の作曲家とされたテレマンの後任として、大都市ハンブルクの音楽監督に就任し、栄光のうちに生涯を閉じましたので、〝ハンブルクのバッハ〟ともいわれます。
それでは、C.P.E.バッハの曲を聴いてみましょう。
Carl Philipp Emanuel Bach : Symphony in E-flat major, Wq179
ハルトムート・ヘンヒェン指揮カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ管弦楽団
Hartmut Haenchen & Kammerorchester C.P.E. Bach
第1楽章 プレスティッシモ
演奏は、その名も〝カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ管弦楽団〟です。
疾走感はハイドンやモーツァルトのシンフォニーを先取りしており、父バッハとは明らかに時代の違いを感じます。しかし、唐突な転調が聴く人を驚かせるのは、時代の先端を走る前衛音楽だったことをうかがわせます。
Carl Philipp Emanuel Bach : Concerto doppio in E-flat major, Wq67, H.479
ラインハルト・ゲーベル指揮ムジカ・アンティクワ・ケルン
Reinhard Goebel & Musica Antiqua Koln
このコンチェルトの独奏楽器は、チェンバロとフォルテピアノという、まさにバロックと古典派の代表楽器の競演です。両時代をつないだC.P.E.バッハならではの曲といえます。曲調は優美で、多感様式の激しさは見られず、末弟のクリスチャン・バッハに近いロココの響きです。それぞれ2台のフルート、ホルンも独奏楽器に加わります。
Carl Philipp Emanuel Bach : Sonata A minor“Wurttembergische Sonata”no.1
グレン・グールド(ピアノ)
Glenn Gould, Piano
第2楽章 アンダンテ
第3楽章 アレグロ・アッサイ
最後は、変人にして天才ピアニスト、グレン・グールドの弾くC.P.E.バッハです。グールドについては、また別稿でたっぷり触れたいと思いますが、彼の演奏は現代ピアノでありながら、当時の響きを追求しているように私は感じています。しかも、それが彼の手にかかると、クラシックの域を超えて現代的に響くのが不思議としかいいようがありません。こちらは、多感様式全開の情熱を秘めたソナタで、他の作曲家にはない独特な転調で、何度も聴きたくなる魅力があります。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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