首脳会談での密議とは
母帝マリア・テレジアを若き日から苦しめ続けた、プロイセン王フリードリヒ2世(大王)。
ところが息子のヨーゼフ2世は、あろうことか、大王に憧れ、心酔してしまいました。
そして、1769年には、母が止めるのも聴かず、大王の招待に応じて、元々オーストリア領で、大王に奪われたシュレージェンのナイセに会いに行ってしまいました。
その1年後には、ヨーゼフ2世は招待の答礼として、大王をオーストリア領メーリッシュ=ノイシュタットに招きました。
今度は、マリア・テレジアの懐刀で、フランスとの同盟を推進して外交革命を成し遂げた名宰相、カウニッツ侯爵も同席しました。
そのため、儀礼的だった前回のナイセの会見より、より政治的なものになったのです。
もちろん、マリア・テレジアは、あんな悪党の顔など見たくない、とウィーンを動きません。
首脳会談では、前回はフリードリヒ大王が一方的にしゃべって若いヨーゼフ2世を圧倒しましたが、今回は海千山千の老獪で熟達した外交官カウニッツ侯爵の、立て板に水のような弁舌に、大王は圧倒された、といわれています。
会談の地ノイシュタットは、カウニッツ侯爵の所領アウステルリッツの近くでしたので、宰相のホームグラウンドだったというわけです。
ちなみに、このアウステルリッツは、後にナポレオンがオーストリアとロシアの連合軍を打ち破った「三帝会戦」の地です。
この会談では、表向きの議題には上りませんでしたが、秘密裡に「ポーランド問題」について密議が行われたとされています。
その「ポーランド問題」とは、ロシア女帝エカチェリーナ2世が、ポーランド支配をもくろみ、その保護国化をどんどん進めている、ということでした。
ポーランド王国は、近世にリトアニア大公国と同君連合となり、「ポーランド=リトアニア共和国」を形成していました。
領土の広さからいっても、ヨーロッパ有数の大国だったのです。
ところが、世襲王朝だったヤゲヴォー朝(ヤゲロー朝)が断絶してから選挙王制になったものですから、王が亡くなるたびに次の王をめぐって大貴族同士で争いとなり、周辺諸国の介入も招きました。
1697年に、ドイツのザクセン選帝侯アウグスト2世(強王)がポーランド王を獲得したのは、王位が国内を超えて、諸国で争われるようになったことを示しています。
ポーランド人はスタニスワフ・レシチニスキを王位に推戴し、一時期はアウグスト2世から王位を取り戻しましたが、再び奪われたりしました。
スタニスワフ・レシチニスキは、アウグスト2世没後、フランスの後援を得て王位を取り戻そうとしましたが、結局、ロシアとオーストリアに支持された息子のアウグスト3世に奪われてしまいました。
アウグスト3世はバッハの主筋にあたり、王のライプツィヒ訪問に際して歓迎カンタータを作曲したのは以前の記事に書きました。
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国を喪ったスタニスワフ・レシチニスキは、娘婿のフランスのルイ15世のもとに身を寄せ、そのルイ15世に圧力をかけてもらって、マリア・テレジアの夫ロレーヌ公フランツ・シュテファンを追い出してロレーヌ公国を譲り受けることになったのです。
ロシア女帝の野望に対抗して
一方、アウグスト3世も、ロシア女帝エカチェリーナ2世の圧力で子にポーランド王位を継がせることはできませんでした。
女帝が夫をクーデターで葬り去って即位したことも以前の記事に書きました。
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女帝は、即位前から不能の夫に満足できず、若いイケメンをとっかえひっかえ、自分の寝所に連れ込んで愛人としましたが、その中でも若きポーランド貴族、スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキは特にお気に入りで、しばらく他の愛人を捨てていたほどでした。
彼はその後、ロシア宮廷での陰謀で失脚して故国に帰っていましたが、女帝は、この元愛人をポーランド王にして影響力を強めようと、ザクセン選帝侯の対抗馬として支持しました。
大国ロシアを後ろ盾としたスタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキは、国王選挙で勝利し、ポーランド王スタニスワフ2世アウグストとなりました。
ロシア女帝はこれを足掛かりに、ポーランドの保護国化を進め、さらにその領土を東側からロシア領に編入しようとしていたのです。
これに危機感を持ったのは、プロイセンのフリードリヒ大王。
ポーランド全土がロシアの勢力下に入ったら、次にその脅威に直面するのはプロイセンです。
一方、フリードリヒ大王も、ポーランドに領土的野心を持っていました。
昨今のロシア・ウクライナ情勢で、東欧の地図を見る機会が多くなりましたが、バルト海沿岸にロシアの飛び地があるのに気づき、ここは何だろう?と思った方もおられると思います。
ここは今はカリーニングラードと呼ばれますが、第二次大戦前はケーニヒスベルクといい、プロイセンの発祥の地でした。
哲学者エマニュエル・カントの出身地です。
元は中世以来、ドイツ騎士団が東方植民の根拠地としており、騎士団領がプロイセン公国となって、ホーエンツォレルン家の世襲となりました。
同家が絶えると、同族のブランデンブルク選帝侯が公国を継ぎ、ドイツ国内とドイツ国外両方の領土をもつことになりました。
神聖ローマ帝国の一諸侯に過ぎなかったブランデンブルク選帝侯は、王になることを夢見ていましたが果たせません。
ところが、三十年戦争のとき、ハプスブルク家の皇帝に味方したことの見返りに、帝国外の「プロイセンにおける王」(プロイセン全土を支配する「プロイセン王」ではない)の称号をまんまと得ることに成功しました。
これがプロイセン王国のはじまりです。
このような成り立ちから、この時期のプロイセン王国は、ケーニヒスベルクを中心とした「東プロイセン」と、ブランデンブルク選帝侯領のふたつに分かれていて、その間にはポーランド王国領がありました。
今はロシアの飛び地であるカリーニングラードは、東プロイセンとして、ドイツの飛び地だったのです。
独り占めは良くないから、みんなでポーランドを分けよう!
ポーランド王国領の「西プロイセン」を手に入れれば、離れたふたつの領土がつながるというわけで、フリードリヒ大王としては〝のどから手が出るほど〟欲しい地でした。
そこで、大王は一計を案じ、オーストリアのヨーゼフ2世にも声をかけて、ロシアと合わせて三国でそれぞれポーランドの地を得ることにしよう、と持ちかけたのです。
フリードリヒ大王は、『このままでは、どのみちほおっておいてもロシアが一方的にポーランドを蚕食することになってしまう。それを防ぐためには、ロシアが領土を取るなら、プロイセンやオーストリアにも権利がある。独り占めは許さない、ということをロシア女帝に認めさせなければならない。』という理屈で、若きヨーゼフ2世を説得したのです。
三大国の合意があれば、誰も文句は言えないだろう、というわけです。
ロシアを牽制する、という大義名分を立てて、表向きはロシアを悪者にしながら、自分も以前から狙っていた領土を得る、という、ちゃっかりというには狡猾すぎる構想でした。
ヨーゼフ2世とフリードリヒ大王の二度目の会談、ノイシュタットでの会見で行われた密議は、まさにこの件でした。
オーストリア宰相カウニッツ侯爵はこの席で、ならばかつてプロイセンが奪ったシュレージェンをオーストリアに返還せよ、それならばプロイセンがポーランド領を得るのを認めてやってもよい、と大王に迫ったのです。
この案ならば、オーストリアとしては、奪われた領土を取り戻すだけで、侵略者の汚名は着せられずに済みます。
しかし大王は、宰相の弁舌にタジタジになりながらも、豊かなシュレージェンをいまさら返還するのは拒否。
オーストリア側も、すでに要塞化まで済んだシュレージェンを、プロイセンが手放すわけもないことを受け入れざるを得ず、ポーランド領のうちザトル、オシフィエンチム、クラクフ県やサンドミェシュ県の一部とマウォポルスカ、現在はウクライナになっているガリツィアの大半を得ることになりました。
マウォポルスカには、中世ポーランド王国を強盛にした富の源泉で、世界最初の12の世界遺産のひとつ、ヴィエリチカとボフニャの岩塩坑も含んでいます。
これは、三国が得た領土の中で最大です。
フリードリヒ大王はヨーゼフ2世を懐柔するために花を持たせた格好ですが、これはまさに毒まんじゅうでした。
自分が得た西プロイセンは、面積こそ最小でしたが、海に面し、港を多くもつ国際的、経済的に重要な地域でした。
ポーランドから海を没収する形となり、ポーランドから高い関税を取ることになりましたので、実は利益は最大だったのです。
東西プロイセンを手に入れ、彼は「プロイセンにおける王 König in Preußen」から、名実ともに「プロイセン王 König von Preußen」となることができました。
ヨーゼフ2世は、領土拡大に成功したということで意気揚々。
さらに、当時ロシアは南下政策でオスマン・トルコと戦い、その領土を侵食していました。
オーストリアも野心をもっていたルーマニアも、ロシアの標的になっていました。
この分割条約によって、ロシアにルーマニアは諦めさせ、黒海方面への侵略に集中させることにも成功しました。
その結果、ウクライナ、クリミア半島はロシアの支配下となりました。
今、プーチン大統領は、ウクライナは歴史的にロシアと一体だと主張していますが、ロシアが支配下に入れたのはそんなに昔ではないこの時期であり、それも侵略によってなのです。
さて、そんな〝大成果〟を持ち帰ったヨーゼフ2世は、1772年、批准書交換という段になって、共同統治者である母帝マリア・テレジアに署名を求めましたが、女帝は断固としてこれを拒否しました。
これは、ポーランド国民からしてみれば、3人の盗賊に不法に土地を奪われるのにほかなりません。
大国同士の勢力均衡を図る、という以外に、何の大義名分も、法的正当性もありません。
昨今でいえば、ロシアがウクライナを併合するのを認めてやる代わりに、中国は台湾を、米国はキューバを併合するから、お互いに三国で承認し合おう、というようなもの。
マリア・テレジアの父カール6世は、『ハプスブルク家の領土は分割してはならない』という原則を明示した国事詔書を発布し、諸国に承認させ、現状変更の企てを阻止しようとしました。
それを踏みにじり、一方的に侵攻してきたフリードリヒ2世。
マリア・テレジアの生涯は、オーストリア継承戦争、七年戦争と、戦いの連続でしたが、それは好んで行った戦争ではなく、不法な現状変更に対する正義の抵抗でした。
しかし、何と息子は、その侵略者と全く同じことをしようとし、あろうことか手柄顔をしているのです。
『私は恥ずかしさで顔も赤くなるほどです』と言って、マリア・テレジアは批准書に署名しようとしませんでした。
しかし、ここで批准できなければ、オーストリアは領土を得られなくなってしまいます。
ヨーゼフ2世とカウニッツ宰相は、何度も血相を変えて女帝に迫り、署名しなければ大変なことになる、と訴えました。
若い皇帝ならいざ知らず、自分の懐刀として、ともに長年プロイセンの野望に立ち向かってきたカウニッツ侯爵が、今や老い先短いと見放したのか、自分に従わず、若気の至りにはやっている皇帝のお先棒を担いでいるのには、女帝は大きなショックを受け、最後には投げやりになってしまいました。
『わかりました。これほど多くの慧眼な男性がたが、そのようにしたいとお望みなのですから。でも私が死んでからずっと後になって、世の人々は、これまで神聖で公正と思われていたことをすべて抹殺してしまうこのようなことをして、その結果がどうなるかを知ることになるでしょう』と言って、しぶしぶ署名したのです。
残念ながら、この女帝の予言は当たってしまいました。
フリードリヒ2世はこれを聞いて、『彼女は泣きながらでも受け取る』と皮肉を言ったということです。
王たちが切り分けたケーキ
この「第一次ポーランド分割」は大国のエゴがヨーロッパの秩序を破壊し始めたはじまりとして悪名高く、世界史の教科書に出てきます。
当時出回った有名な風刺画は『王たちのケーキ』と題され、エカチェリーナ2世、ヨーゼフ2世、フリードリヒ2世がポーランドの地図を見て、領土分配をケーキを切り分けるように相談している光景です。
ポーランド王スタニスワフ2世アウグストは、ずり落ちかけている王冠を支えるのに必死です。
上空で天使がラッパを吹いているのは、領土分割が流血を伴わず、話し合いによって平和裏に行われたことを祝福しているのです。
マリア・テレジアはこれで晩節を汚した、という評価になってしまっているのは、気の毒としか言いようがありません。
1793年の第二次分割、1795年の第三次分割を経て、ポーランドという国はいったん地上からなくなりました。
ショパンの音楽は、亡き祖国への思いで満たされています。
ポーランドが復活するのは第一次世界大戦のあとであり、その後も第二次世界大戦、冷戦期と、辛い時代が続きます。
そして今も、対ロシアの西欧側最前線の国として、侵略に立ち向かっているのです。
ちなみに、前述のケーニヒスベルクは、第二次世界大戦でナチス・ドイツが倒されたあと、旧ソ連がポツダム協定によって暫定的に統治していたのが、そのままなし崩しにロシア領となったものです。
ソ連建国時の指導者ミハイル・カリーニンの名をとってカリーニングラードと改称され、ドイツ系住民を追放して現在に至ります。
ロシアとしても、ロシア海軍としても、バルト海に面した貴重な港なので、手放すことはあり得ません。
地域としてはポーランドとリトアニアの中間にあり、長くドイツ領ではあったものの、元はといえばドイツも植民地として占領した地ですので、ロシアは関係ないとはいえ、はっきりと歴史的にどの民族の土地ともいえず、現在では帰属問題にはなっていないのです。
プロイセン、ひいてはドイツ騎士団領の名残、というわけです。
今もロシアの飛び地であり、ウクライナ侵攻の制裁で、ポーランドは陸上でのロシアとの交通を一部遮断していますから、今後火種となるかもしれません。
それでは、ハイドンのシンフォニーを聴いていきましょう。
Joseph Haydn:Symphony no.59 in A major, Hob.I:59 “Fire”
演奏:トレヴァー・ピノック指揮 イングリッシュ・コンサート(古楽器使用)
第1楽章 プレスト
このシンフォニーも、第59番という新しい番号が振られていますが、作曲はもっと前の1769年以前とされています。
《火事》という愛称は、ある筆写譜に『1774年にエステルハーザ宮殿でヴァール一座による《大火事 Die Feuerbrunst》の幕間音楽として書かれた』と記されていることによります。《大火事》という劇の間に演奏された、ということです。
しかし、この説には異論があり、劇がエステルハーザで上演されたのは間違いないのですが、このシンフォニーの最も古い筆写譜には1769年という年代が記されているのです。劇の上演の5年前ということになります。
じゃあ劇の内容とは関係ない、ということになりますが、この第1楽章は、まさに〝火事〟というのにふさわしく聞こえます。すわ火事だ!早く消せ消せ!!とばかり、狼狽した人々が右往左往する、あわてた様子が目に浮かんでしまうのです。
実は関係ない、と研究者に言われても、この曲を火事と関係ないイメージで聴くのは、少なくとももう私には無理です。その真意はさておき、この時期のハイドンは多く劇場作品を手掛けていますがから、そのシンフォニーに劇場的な身振り手振りが加わっているのは事実です。
第1楽章は異例のプレストで、第1ヴァイオリンのフォルテの大胆な跳躍で始まり、弦とオーボエが激しく音階を上下させ、ヴァイオリンはスピード感をもつ同音反復を刻みます。これが、火事で慌てた人々のパニックを彷彿とさせるのです。すると突然、音楽はピアノになり、スピードを落として半終止します。これが劇場的、といわれるところです。
展開部は2つの部分からなり、主調のイ長調で始まり、大胆な転調を経て、第2主題の冒頭部分を拡大して変幻自在に変化を付けていきます。終わりの余韻もなんともいえません。
第2楽章 アンダンテ・ピウ・トスト・アレグレット
主短調であるイ短調の選択が異例ですが、イ短調は、モーツァルトもトルコ行進曲に使ったように、東洋的なエキゾチックさを表現するのに使われるので、ハイドンもハンガリー風を意識したのかもしれません。歌い出しは、訥々としたつぶやきのようですが、曲が進むにつれて、だんだんと伸びやかになってきて、カンタービレに表情豊かに展開していきます。厳密なソナタ形式をとらず、第3主題のようなものが重要な働きをしています。転調も特異で、ハイドンの自由な実験がここでも味わえます。
第2楽章の冒頭テーマを持ってきて、メヌエットにしています。楽章間を関連づけようとする、ハイドンの画期的な工夫です。トリオも第2楽章と同じイ短調で、ささやくようなヴァイオリンのさざ波が印象的です。
第4楽章 アレグロ・アッサイ
ホルン2本での開始は、後年のシンフォニー第103番《太鼓連打》の壮大なフィナーレを思い起こし、ここに源流があるのかと思うと感慨深いです。ホルンの歌い出しにはすぐオーボエが応え、ホルンはさらに陽気にトリルを奏でます。展開部は、それこそ《太鼓連打》と同じようなフーガになりますが、それはあまり発展させず、テーマの断片をうまく貼り合わせ、音の遊びに没入していきながら、軽く楽しく曲を閉じるのです、
私は、1989年にトレヴァー・ピノック指揮イングリッシュ・コンサートが、『ハイドンの疾風怒濤期のシンフォニー』というシリーズの録音を始めたとき、輸入盤を入手して初めてハイドンの初中期のシンフォニーを聴いたのですが、その第1曲がこの《火事》でした。
当時は、クリストファー・ホグウッド指揮アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージックの古楽器によるモーツァルトのシンフォニー全集が一世を風靡し、モーツァルトの初期のシンフォニーの素晴らしさに圧倒されていましたが、ピノックを聴いて、ひょっとして、初期のシンフォニーはハイドンの方が面白いのでは?と思ったことを記憶しています。
その底抜けに楽しい音楽にすっかり魅了され、新盤が出るたびに、宝箱を開くような思いだったのも懐かしいです。今回掲げた音源はそのピノックのものです。
動画はアンドレス・オロスコ=エストラーダ指揮、ウィーン交響楽団の演奏です。身振りの大きいこのシンフォニーの魅力が余すところなく表現されています。
www.youtube.com
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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