〝もっていた〟ハイドン青年
引き続き、ハイドンの青年時代を追っていきます。
6階建てのアパート「ミヒャエラーハウス」の屋根裏部屋で、虫喰いのチェンバロに向かい、作曲の独学を続けています。
無名の青年が世に出るには、「実力」と「コネ」が必要。
前者はもって生まれた才能と努力次第といったところですが、後者は「運」が大きくモノを言います。
ハイドンは「運」も持っていました。
はからずも、ハイドンの住んでいたアパートの3階に、オペラ台本作家の大家、ピエトロ・メタスタージオが住んでいました。
メタスタージオは、これまでも何度も触れた偉大なる桂冠詩人で、バロック、古典派時代のオペラ台本のうち、かなりの数を書きました。
その作品に音楽をつけた作曲家は、二コラ・ポルポラから始まって、ヴィンチ、ガルッピ、カルダーラ、ペルゴレージ、ヴィヴァルディ、ヨメッリ、ハッセ、ヘンデル、グルック、クリスティアン・バッハ、パイジエッロ、チマローザ、そしてモーツァルト。
ベートーヴェンも歌曲にしています。
『デモフォンテ』というオペラはなんと73通りの音楽がつけられました。
彼はローマ出身でしたが、1790年、マリア・テレジアの父帝、カール6世から宮廷詩人として迎えられ、ウィーンにやってきました。
俸給は年俸3,000フローリン。
〝音漏れ〟がクレームじゃなくてチャンスに!
しかし、その名声とは裏腹に、商人の子という生まれから、貴族の社交界に迎えられることはなく、ハイドンと同じアパートに住んでいたのです。
もちろん、屋根裏ではなく、ちゃんとした部屋でしたが。
このアパートには、メタスタージオの友人で、スペイン人のマルティネスという裕福な商人も住んでいました。
彼にはふたりの娘がいて、長女のマリアンネは音楽の才能に恵まれていました。
これはちゃんとした教師をつけた方がいい、ということで、父親は、誰かいい音楽教師を紹介してくれるよう、メタスタージオに頼みました。
メタスタージオは以前から、屋根裏から聞こえてくる、かすかなチェンバロの即興演奏が、かねてから気になっていたのですが、この機会にその音の主、つまりハイドンに声をかけてみたのです。
現代なら、集合住宅での楽器演奏はトラブルになりかねませんが、ハイドンには幸運をもたらしたのです。
こうしてハイドンは、10歳のマリアンネに家庭教師として歌とクラヴィーアを教えることになり、3年間、ただで食事をもらうことができたのです。
このマリアンネは、ピアニスト、歌手、作曲家として大成し、後にウィーンにやってきたモーツァルトも、彼女とピアノのデュエットをするのを好んだほどでした。
同時にハイドンは、この偉大なる大詩人の知遇を得て、『真摯で上品なメタスタージオの優雅さは、若い教師の挙措によき影響を与えた』と伝えられています。
イタリアオペラの巨匠ともお近づきに
さらに、メタスタージオの紹介で、同じアパートに住んでいた大作曲家、二コラ・ポルポラにも出会うことができました。
ポルポラは、イタリア出身でしたが、一時期ロンドンで、反ヘンデル派から担ぎ出され、ヘンデルとオペラで競いました。
そのエピソードは、映画『カストラート』でも描かれています。
ヘンデルとの競争には敗れましたが、彼のオペラはメタスタージオの台本とともに全ヨーロッパで上演され、押しも押されぬ大家でした。
しかし、この時期にはもう70歳の高齢となり、かつての栄光は見られませんでしたが、偉大な声楽教師としての腕は衰えておらず、ハイドンを伴奏者として、マリアンネ嬢に歌を教えることになりました。
ハイドンはこの縁で、ポルポラの助手を務めることになり、彼からイタリア・オペラの作曲を学ぶことができ、またその人脈から、グルックをはじめとした大作曲家と知り合うことができ、またその賞賛を勝ちうることができたのです。
グリージンガーはハイドンの伝記にこのように記しています。
メタスタージオを通じてハイドンは、年取ったカペルマイスターのポルポラを知るようになった。ポルポラは、ヴェネツィア大使コレルの愛人に歌を教えていた。ポルポラは自分でフォルテピアノを弾いて伴奏するには、あまりにも身体が大きく、あまりにも鈍重だったので、この仕事に我らがジュゼッペ(ハイドン)を連れていった。
夏になるとコレルはこの婦人を同伴して、当時温泉地として賑わっていたマナースドルフに行った。ブルックからあまり遠くないところである。ポルポラも教授を続けるためにそこへ行った。そしてハイドンを連れていったのである。この地で3ヵ月のあいだ、ハイドンはポルポラの従僕をつとめた。コレルの従僕たちと同じ卓で食事をし、1ヵ月に6ドゥカーテンの手当をもらった。この地で彼はヒルトブルクハウゼン王子のひとりの家で、ポルポラのためにクラヴィーアの伴奏をしなくてはならなかった。その場には、グルックやヴァーゲンザイルや、そのほか有名な音楽家たちが居合わせた。しかもそうした音楽愛好家たちの喝采が、彼にとって特別な激励となったのである。*1
ハイドン自身も次のように回顧しています。
(ポルポラは)まったくもってロバで、下品で、無頼漢だったうえに、豚のあばら肉みたいなやつだったが、そんなことを全部差し置いても、私はポルポラのおかげで声楽や作曲やイタリア語が上達した。
恩師は人格に問題があったらしく、さんざんにこきおろしていますが、海千山千のイタリアオペラの世界を、この巨匠から直々に学んだのは非常に貴重だったのです。
ハイドンは後に、ハンガリーのエステルハージ侯爵家に仕え、その居城エステルハーザで、この経験を生かしてイタリアオペラをたくさん作曲しました。
そして、エステルハーザに行幸した女帝マリア・テレジアから、『私は良いオペラを聴きたいと思ったら、エステルハーザに行きます!』とまで絶賛されたのです。
しかし、度重なる宮殿の火事によって、オペラの楽譜の多くは失われてしまい、後世、ハイドンにはオペラ作曲家というイメージはなくなってしまいました。
師、ポルポラの作品の動画です。カストラート用の作品を、カウンターテナーのジャルスキーが歌っています。ポルポラがヘンデルに対抗して作ったオペラの美しい1曲です。
〝もっている〟フリードリヒ大王
さて一方、女帝マリア・テレジアと七年戦争の推移です。
マリア・テレジアは、宿敵フリードリヒ大王を、ロシア軍と連合して1759年8月12日にクネルスドルフの戦いで破り、プロイセン王国を滅亡寸前に追い詰めます。
フリードリヒ大王は絶望して何度も自殺を図ろうとし、〝もうおしまいだ。永遠にさようなら〟と大臣に手紙を書きます。
しかし、オーストリア軍、ロシア軍は、相互不信から、グズグズとプロイセンに止めはさせずにいました。
滅亡を覚悟したフリードリヒ大王は、首の皮一枚でつながったのを〝ブランデンブルクの奇跡〟と呼びました。
プロイセン王家のホーエンツォレルン家は、もともとブランデンブルク選帝侯家だったためです。
ロシア女帝エリザベータは、『フリードリヒ2世は隣国にとって無害化されなければならず、その唯一の方法は彼を選帝侯の地位まで落とすことである』という考えで、七年戦争に参戦していました。
もともと、ブランデンブルク選帝侯は、王号が欲しくて、神聖ローマ帝国外のプロイセンを領有、スペイン継承戦争のときに皇帝側につくのと引き換えに、〝バロック大帝〟レオポルト1世から『プロイセンにおける王』という称号を得ました。
その頃は西プロイセンを領有していなかったので、そのような微妙な称号になったのですが、フリードリヒ2世の頃にはプロイセン全土を手に入れたので、『プロイセン王』となっていました。
ロシア女帝は隣国ポーランドに野心がありましたから、プロイセンの勢力伸長は邪魔であり、マリア・テレジアとの同盟、参戦に踏み切ったのです。
大王の大ファンだった、ロシア新帝
ところが、1762年1月5日。
かねて立ちくらみに悩まされていた女帝エリザベータが崩御しました。
彼女は未婚で子供がいなかったため、女帝の姉で、ドイツのホルシュタイン=ドットルプ公に嫁ぎ、出産で亡くなっていたアンナの、その出産で生まれた長男カール・ペーター・ウルリヒが、故女帝の甥ということで、ロシアに迎えられ、ピョートル3世として即位しました。
このピョートル3世は、ドイツ人ということもあり、英雄フリードリヒ大王の大ファンであり、熱狂的といえるほど崇拝していました。
彼はロシア皇帝に即位するやいなや、戦いを止め、プロイセンとサンクトペテルブルク条約を結んで、単独講和したばかりか、これまでの全ての占領地を無償で返還したのです。
さらに、逆にプロイセンと軍事同盟を結び、援軍を派遣し、マリア・テレジアに対して、プロイセンの要求をすべて受け入れなければ宣戦布告する、と脅しました。
フリードリヒ大王は〝第2のブランデンブルクの奇跡〟と狂喜しますが、マリア・テレジアは、いきなり味方が敵に回ったのですから、茫然自失。
しかし、それ以上に収まらなかったのは、これまでフリードリヒ大王と死闘を繰り広げ、多大の犠牲を払ってきたロシア軍と貴族たちでした。
あの流血はなんだったのか。
命をかけて領土を拡大してきたのに、それを全く無駄にするとは。
当然、新皇帝への不満が高まります。
それを受け止めたのが、なんと、新皇后のエカチェリーナ。
彼女もドイツ諸侯であるアルンハルト=ツェルプスト侯の娘でしたが、ロシア皇太子妃となってからは、ロシア語を、高熱でぶっ倒れるほど勉強し、ロシア正教に改宗し、ロシア貴族や国民に支持される努力を続けていました。
それに引き換え、ドイツ式の兵隊ごっこに熱中し、ロシアを嫌っていた夫ピョートル3世。
皇帝に対するクーデターは、皇后が主導することになったのです。
皇后のクーデター
もともとこの夫婦は、結婚当初からずっと愛し合うことはなく、お互いに愛人を作るなど、関係は破綻していました。
皇帝が即位して6ヵ月後、近衛連隊はクーデターの火の手を上げ、将校は皇后の寝室に飛び込んで『夫人、あなたが統治するときがきました』と告げます。
皇后は近衛連隊から忠誠の誓いを受けると、ロシア軍伝統の緑色の軍服に身を包み、男装で馬にまたがり、クーデターを指揮します。
夫の皇帝はあっさり捕らえられ、軍隊、重臣、貴族たちもことごとく皇后に従い、クーデターはほぼ無血で成功しました。
皇后は、エカチェリーナ2世として即位します。
一方、廃位されたピョートル3世の処遇には、新女帝も悩みましたが、まもなく監視役の将校に殺されました。
公式には、『先帝は持病の痔が悪化して急逝した』と発表されましたが、女帝の関与は明らかではありません。
ただし、エカチェリーナ2世は国内を掌握することを優先し、再び参戦することはありませんでした。
こうして、3人の〝女帝〟による対プロイセン共同戦線の一角が崩れました。
もう一方の味方であるフランスも、英国との植民地戦争でことごとく敗れ、厭戦気分が広がっていました。
マリア・テレジア自身も、長引く戦争で戦費に窮乏し、自分の装身具や馬車まで売りに出してしまっていました。
さすがの女傑も、ついに父の遺領、豊かなシュレージエン(シレジア)の奪還を、最終的にあきらめざるを得なくなりました。
そして、1763年2月15日、ライプツィヒ郊外にて、フベルトゥスブルク講和条約が結ばれ、七年戦争は終結したのです。
マリア・テレジアは、数十万の人命を失いながら、目的を達することができず、大いなる挫折感を味わいました。
しかし、その間に、オーストリアは、中世的な領邦の集まりから、近代国家に変貌を遂げていたのです。
それにしても、ロシアの統治者が突然代わることによって、急転直下、戦争が終わった歴史が、再び繰り返されることを願ってやみません。
それでは、同じころのハイドンの初期の作品を聴いていきましょう。
『哲学者』というニックネームのあるユニークなシンフォニーです。
作曲は推定、1764年で、七年戦争が終わった翌年です。
エステルハージ侯爵のニコラウス・ヨーゼフ侯が、毎週2回のアカデミー(演奏会)用にハイドンに作らせたシンフォニーです。
侯はマリア・テレジアの忠臣としてハンガリー軍を率いて七年戦争に従軍、コリンの戦いでは功績を立て、後に帝国元帥に叙されていますから、宮殿でハイドンの音楽に耳を傾けながら、平和をかみしめていたのかもしれません。
Joseph Haydn:Symphony no.22 in E flat major, Hob.I:22
演奏:ジョヴァンニ・アントニーニ指揮 イル・ジャルディーノ・アルモニコ
緩-急-緩-急という、シンフォニーの定番ではなく、コレッリのようなバロック時代の教会ソナタの楽章編成になっています。まだこの時代が、バロックと古典派の過渡期であるのが分かります。調性も、全楽章が変ホ長調で統一されているのも古風です。
楽器編成には際立った特徴があり、オーボエ2本の代わりに、コール・アングレ(イングリッシュ・ホルン)2本が使われているのです。この楽器はハイドンのシンフォニーには二度と出てこず、なぜエステルハージ宮廷楽団に登場したのか謎です。珍しい楽器のため、この曲の出版譜や筆写譜には、オーボエ、あるいはフルートと書かれています。
でも、オーボエより5度低いコール・アングレのくすんだ独特の響きは、この曲を特徴づけています。愛称の《哲学者》の由来は分かりませんが、ハイドンの生前からつけられていました。
第1楽章は、全弦楽器がピアノで8分音符を刻む上を、まずホルンが、それに続いてコール・アングレがフォルテッシモで朗々とコラール風の旋律を吹きます。それはまるで、哲学者が沈思黙考しているかのようです。同時代の偉大なる哲学者、イマヌエル・カントは、毎日同じ道を同じ正確な時間で散歩するので、通り道の家では、彼の姿を見て時計の狂いを直した、という有名な話がありますが、まさにカントの散歩の情景が浮かぶ曲です。
第2楽章 プレスト
ヴァイオリンは弱音器を外して、前楽章での抑制を一気に爆発させます。低弦のわくわくするようなリズムに乗って、縦横無尽に駆け回ります。そして、ヴァイオリンの旋律をコール・アングレが追いかけていきます。実に流麗な音楽です。
素朴でひなびたメヌエットです。トリオでは、コール・アングレがまず奏で、ホルンが続きます。
第4楽章 フィナーレ:プレスト
哲学者の黙考はどこへやら、といった底抜けに明るいフィナーレです。低弦の刻みに乗って、ホルンが、まるで狩の音楽のように軽快に活躍します。コール・アングレとヴァイオリンの掛け合いも聴きどころです。展開部は第1主題を調性的に不安定にしながら、対位法を駆使する工夫が凝らされ、若いハイドンが、新しい時代に新しい音楽を生み出そうとしている意欲が感じられます。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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