
クネルスドルフの戦いの勝者、ラウドン将軍
女帝に仕えた勇将たち
1779年5月13日にテッシェンの講和で終わった不毛な〝ポテト戦争〟、バイエルン継承戦争は、戦争続きだった女帝マリア・テレジアの生涯の、最後の戦いとなりました。
今回の戦争は、息子の皇帝ヨーゼフ2世の〝暴挙〟に抗議したプロイセンのフリードリヒ2世(大王)が攻め込んで始まったのですが、戦闘らしい戦闘が行われないまま長い膠着状態の末に終わったのは、開戦早々に息子のメンツを顧みず女帝が大王に講和を求めたことと、オーストリア軍の将軍がよく敵を防いだことでした。
マリア・テレジアの即位から始まった40年前のオーストリア継承戦争(1740-1748)、そしてそのリベンジとなった七年戦争(1756-1763)も、いずれもヨーロッパ最強の軍国主義国家プロイセンが相手でしたが、苦戦に陥りながらも、旧装備、旧体制のオーストリア軍が善戦したのは、マリア・テレジアの思い切った人材登用と、部下の心を惹きつけるカリスマ性によって、優秀な将軍たちが活躍できたことによります。
その代表格は、以前も取り上げたダウン元帥(1705-1766)で、女帝の右腕となって活躍しました。
ただ、戦いぶりとしては〝慎重居士〟で、勝つというより敗けないポリシーでした。
一見弱腰に見えますが、兵法としては十分理にかなっています。
それにダウンは、オーストリア軍の近代化で大きな功績を残し、そのお陰で七年戦争ではフリードリヒ大王に自決を覚悟させるほど追い詰めたのです。
しかしながら、大衆に人気があったのはダウン元帥の部下にあたるラウドン将軍でした。
ラウドン将軍の前歴

ラウドン将軍
エルンスト・ギデオン・フォン・ラウドン(1717-1790)。
生まれは今のバルト三国のひとつラトヴィアです。
遠祖はスコットランド人といわれています。
父も軍人で、当時バルト海を支配していたスウェーデン軍に所属していました。
しかし、大北方戦争の結果、このあたりはロシア帝国の支配下に入ったので、ラウドンもロシア軍に入隊しました。
そして、ポーランド継承戦争や露土戦争に従軍しましたが、ロシア軍ではこれ以上出世はできないと見切りをつけ、軍隊を増強していたプロイセン軍に志願しました。
しかし、フリードリヒ大王に面会できたものの、その容貌がパッとしない、ということで採用されませんでした。
第1印象が悪くて面接で落ちてしまったのです。
仕方なく、オーストリア軍の面接を受けたところ、合格。
第2志望で再就職できた、というわけです。
このあたりの成り行きは、マリア・テレジアの祖父レオポルト1世や父カール6世に仕えたオーストリアの歴戦の英雄、オイゲン公(1663-1736)に似ています
彼も、最初はフランスに仕官しようとしてルイ14世に面会したところ、醜男だという理由で不採用。
敵国オーストリアに仕えて、フランスを大いに苦しめました。
人は見かけで判断してはいけません。
赫赫たる戦功
ラウドンが頭角を表したのは七年戦争です。
1758年のドームシュタットルの戦いでは、オルミュッツを圧倒的な兵力で攻囲するプロイセンに対し、その補給部隊を奇襲。
その結果、補給不足になったフリードリヒ大王はオルミュッツの囲みを解いて撤退せざるを得なくなりました。
同年のホッホキルヒの戦いでは、慎重に守りに徹する方針だった上司のダウン元帥を、攻撃に転ずるよう説得。
自ら明け方5時に奇襲し、どうせダウンは攻めてこない、とタカをくくっていたフリードリヒ大王を敗走させました。
1759年のクネルスドルフの戦いではプロイセン軍を完膚なきまでに負かし、フリードリヒ大王は自決を覚悟しました。
続く1760年のランデスフートの戦いでも大勝利。
ラウドン将軍の威名は轟き、オーストリア国内では〝ラウドンは来る、ラウドンは攻撃する〟といった歌詞の俗謡が流行ったのです。
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独断専行の功罪

ラウドン将軍
これは、守る一方でなかなか攻撃しないダウン元帥への当てこすりも含まれていました。
実際、ラウドン将軍は、勝機を見るや、上司にホウレンソウはせず、独断専行して行動するところがあり、それが勝利につながっていました。
確かに、勝つためには敵の一瞬の隙を衝く必要があり、いちいち上司に連絡していてはチャンスを逃しかねません。
しかし、上司や、マリア・テレジアは、ラウドン将軍の勝手な行動を苦々しく思っていました。
孫子の兵法に『将、外にあっては、君命も奉ぜざるあり』とありますが、満洲事変以降の日本陸軍の暴走にもこの理屈が当てはめられたのです。
続く1760年のリーグニッツの戦いでは、ラウドン将軍は敗れて退却。
ところが、上長のダウン元帥は手元に無傷の連隊があったのに、これを静観して増援しませんでした。
1761年の第三次シュヴァイトニッツ包囲戦では、勝利はしたものの、あまりの独断専行にマリア・テレジアの逆鱗に触れ、軍法違反で危うく処罰されるところでしたが、女帝の夫帝フランツ1世の、〝これまでの手柄に免じて〟というとりなしで何とか不問に付される、という一幕もあったのです。
敵国の王様からの賞賛

古代ローマの英雄に擬せられたラウドン像
皇帝フランツ1世が崩御し、ヨーゼフ2世が帝位を継ぐと、共同統治者マリア・テレジアは、軍の最高指揮権は息子の皇帝に譲りました。
血気盛んな若い皇帝は、勇猛なラウドンが好きで、重用して元帥に任命します。
そして、マリア・テレジアの反対を顧みず、フリードリヒ大王と会見を行った際、ヨーゼフ2世はラウドンを伴います。
そして、会談のテーブルについたかつての敵将ラウドンに対し、大王は『元帥殿、あなたには私の正面よりもむしろ、私の隣に座っていただきたい。』と述べたと伝えられています。
彼を採用しなかったのを覚えていたのかどうか。
バイエルン継承戦争(ポテト戦争)でも、ラウドン元帥は、ラシ元帥とともにオーストリア軍を率いました。
女帝の不信感
その動きに対し、マリア・テレジアは不満があったようで、娘マリー・アントワネットへの手紙に次のように書いています。
マリア・テレジアからマリー・アントワネットへ(1778年8月6日)
いよいよ軍事行動が始まり、深い悲しみを味わっています。ハインリヒ王子がザクセンとの国境のあらゆる地点から強引に侵攻してきたので、ラウドン元帥はとても対抗できないと考え、イーザル川の反対側にあるコノマノスまで退きました。こうして元帥は五つのまことに美しい地域を敵の手に渡し、蹂躙にまかせました。この退却の際にそこここでいくらか損害も出ました。元帥はしかし、いずれ高地に陣取っている本隊と合流するために、同じ高さの地点まで軍を進めました。しかしながらこの有利な陣地ももはや守り通すことは困難ではないかと思われます。敵が二方面から迫っているからです。今後厄介な展開となる可能性があります。ですから、どうかお願いです、メルシーに手を貸してあなたの家と家族を救ってください。私は国王陛下(引用注:ルイ16世)にたいして、この不幸な戦争に引き込むことになるようなお願いはいっさいしないつもりです。しかし、示威行動をお願いしたいのです。
この戦争を引き起こすきっかけを作った軍事好きのヨーゼフ2世と、そのお先棒を担っていると思われたラウドン将軍への不信感がありありとしています。
しかし、ラウドン将軍のこの行動は、プロイセン軍の別動隊であるハインリヒ王子の軍と、フリードリヒ大王の本軍との合流を阻止するための作戦であり、その結果、プロイセン軍の牽制に成功したのです。
マリア・テレジアは後にこの真意を知って、ラウドン元帥への信頼感を回復しています。
ハイドンのシンフォニー《ラウドン将軍》
さて、ハイドンは1775年から1776年にかけて、1曲のシンフォニーを作曲しました。
ハ長調の派手で軽快な曲です。
1784年に、ウィーンの出版社であるアルタリア社が、このシンフォニーのヴァイオリン伴奏つきのピアノ編曲版を販売することになりました。
そして、この勇壮な曲に《ラウドン将軍》という名前をつけたい、とハイドンに手紙を書きました。
これに対し、ハイドンは次のように返信しています。
最後の、つまり第4楽章は実際的にみて鍵盤楽器向きではないし、また、私はそれを編成に加える必要性も感じない。また、《ラウドン》という言葉は10のフィナーレを書くことより、売り上げには大きな力になるだろう。
4つの楽章のうち、フィナーレの第4楽章はピアノに編曲するのは無理がある、と指摘しているのです。
では、代わりに編曲譜のために新たにフィナーレを書く必要もなく、3つの楽章のままで充分だろう。
なぜなら、新しいフィナーレを書かなくても、《ラウドン》の名前を冠すだけで大いに楽譜は売れるだろうから、というわけです。
ハイドンのシンフォニーには多くの愛称がついていますが、これは本人がニックネームを承認した稀少な例です。
この曲は、同じハ長調の第48番《マリア・テレジア》に似た曲想で、冒頭の音の動きはいかにも軍隊調です。
しかし、直接ラウドン将軍をイメージして作曲したわけではなく、曲調から人々が将軍を連想したと考えられます。
でも、これが国民的英雄の名を冠するにふさわしい曲で、巷で『ラウドンは来る~♪ ラウドンは攻撃する~♪』などと子供も歌っているくらいだから、楽譜も売れるだろう、とハイドンがソロバンを弾いていたのは間違いありません。
ハイドンの国際的名声が高まり、楽譜が売れるようになって、侯爵家の単なる宮廷楽長から、「作曲家」として経済的基盤を確立しつつあることを示しています。
雇用主のエステルハージ侯爵も、家臣の名声は自分の名声と考え、寛容にこの「副業」を認めていたのです。
それでは、聴いていきましょう。
Joseph Haydn:Symphony no.69 in C major, Hob.I:69 "Laudon"
演奏:クリストファー・ホグウッド指揮 アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージック(古楽器使用)
トランペットとティンパニを伴った祝祭的な編成です。作曲の動機は不明ですが、エステルハージ侯爵家での、何らかの祝賀行事向けに作られたのでしょう。どこか、モーツァルトのオペラ『コジ・ファン・トゥッテ』の『軍隊の合唱』に似た雰囲気があり、軍事的勝利を祝っての曲かもしれません。そうすると、ラウドン将軍の名が後付けで冠せられたのも故なし、というわけではありません。
曲の構成は、明快、単純、透明といった感じで、この時期のシンフォニーによく見受けられるヒネリはありません。聴く人の分かりやすさ、楽しさ、娯楽性を優先した作りです。それだけに、聴くほどにワクワクし、思わず一緒に身体が動いてしまいます。
展開部も、短調には振れますが、遠隔調にはいきませんし、対位法も使われていません。それだけに、ピアノ編曲で誰もが弾け、楽しめるようになっています。
ウィーンっ子たちは、この曲を弾きながら、国を守ってくれる英雄に憧れ、親しんでいたのです。
第2楽章 ウン・ポコ・アダージョ・ピウ・トスト・アンダンテ
弱音器をつけたヴァイオリンが繊細な旋律を奏でます。そのあまり起伏のない平板なメロディはやがて、清澄な小川のように16分音符でゆらゆらと流れていきます。時々、低音部が、流れを阻む岩のように顔を出し、無骨な転調を行いますが、やがて何事のなかったかのように元の流れに戻ります。
展開部も定石通りですが、不思議な哀愁が漂います。
再びトランペットとティンパニが復活し、元気いっぱいのメヌエットになります。オーボエが活躍するトリオでは、3拍目にアクセントが置かれる逆転を行っており、やはりどこかで意表をつかないと気が済まないようです。
第4楽章 フィナーレ:プレスト
実に面白く充実したロンドのフィナーレです。第1主題はしつこいくらいに同じフレーズを繰り返しますが、それはわざとうんざりさせる仕掛けで、第2主題でトレモロと遠隔調の和音、シンコペーションのリズムを駆使して大いに盛り上げます。中間部は短調で燃えるかのように情熱的です。戻ってきたロンドテーマは、和音やリズムが変幻自在に拡大され、興奮のうちに幕となります。確かにこの楽章はピアノで弾いても十分な効果は上げられないのでしょう。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。


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