孤独のクラシック ~私のおすすめ~

クラシックおすすめ曲のご紹介と、歴史探訪のブログです。クラシックに興味はあるけど、どの曲を聴いたらいいのか分からない、という方のお役に立ちたいです。(下のメニューは横にスライドしてください)

独学で作曲を学んだハイドン青年。C.P.E. バッハ『ハンブルク・シンフォニー 第1番 ト長調』

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カール・フィリップエマニュエル・バッハ

作曲を独学したハイドン青年

6階建てのアパート「ミヒャエラーハウス」のみすぼらしい屋根裏部屋に、ようやく〝自分の城〟を持った18歳の青年ハイドン

ここで、虫喰いのチェンバロを手に入れ、作曲の猛勉強に打ち込みます。

もちろん、教師につくお金などありませんから、独学です。

作曲理論の教科書としては、フックスの厳格対位法の教本『グラドゥス・アド・パルナッスム』、マッテゾンの『完全な楽長』、ケルナーの『ゲネラルバス教程』の3冊を使ったと伝えられています。

特にフックスの本は、はるか後にハイドンベートーヴェンを弟子に取った際に、彼に教えるのに使いました。

自分が習った教科書を、弟子に与えたわけです。

また、大きな影響を受けたのが、大バッハの次男、カール・フィリップエマニュエル・バッハでした。

彼は、マリア・テレジアの宿敵、プロイセンフリードリヒ大王に仕えていました。

ハイドンは、エマニュエル・バッハの6曲のソナタを手に入れたときのことを、のちにこのように述懐しています。

それから私は、これらの曲をすっかり弾いてしまうまでは、自分のクラヴィーアから離れることができなかった。そして私をよく知っている人は、私がエマニュエル・バッハに非常に多くのおかげを受けていること、私が彼を理解し熱心に勉強したことをわかってくれるにちがいない。そのことについて、エマニュエル・バッハ自身も一度、私に挨拶を送ってきたことがある。*1

エマニュエル・バッハは、『音楽家が自分自身感動しないで、ひとを感動させることはできない』という有名な言葉を残し、音楽に深い感情を込め、そのスタイルは『感情過多様式』と呼ばれました。

彼は、バロックと古典派と橋渡しをした功績として、『前古典派』と呼ばれますが、さらに先のロマン派を先取りしたとも言えるのです。

ハイドンは、エマニュエル・バッハから大きな影響を受け、そのピアノ・ソナタとシンフォニーに色濃く反映しています。

モーツァルトは、〝神童〟時代に、ロンドンに演奏旅行した際、大バッハの末子、クリスティアン・バッハの薫陶を受け、その影響を大きく受けました。

そのため、ハイドンの初期のシンフォニーはエマニュエル・バッハの、モーツァルトの初期のシンフォニーはクリスティアン・バッハのものによく似ています。

ふたりとも、大バッハの息子たちに大きな影響を受けているのは、歴史の妙です。

いきなり、初のオペラ作曲!

ハイドンは、独学の中、生計のために、巷流しも続けていましたが、それは、彼の音楽が世に出るチャンスでもありました。

ある美しい宵、ハイドンは、自作の三重奏のセレナーデを、ふたりの仲間と奏でて歩いていました。

その頃、クルツ・ベルナルドーネという喜劇役者が評判を取っていました。

彼は美しい妻をもっていたので、ハイドンたちはその窓辺に寄って演奏しました。

すると、ベルナルドーネが飛び出してきて、これは誰の曲だ?と尋ねました。

ハイドンが、私のです、と答えると、『ブラヴォー!オペラを1曲作らないか?上がってきなさい』。

そして、オペラの台本が示され、ふたりで制作が始まりました。

ベルナルドーネはこだわりが強く、なかなか彼を満足させることは難しいことでした。

オペラの場面に、海の嵐がありましたが、ふたりとも海を見たことがありません。

ハイドンは当惑しましたが、ベルナルドーネは、『想像してみろ』と手を振り回し、チェンバロに座っている彼に周りを飛び回ります。

『波の山がもくもくと上へ盛り上がっていく。それから谷が下へ下へと沈んでゆく。それからまた山と谷にもどる。山、そのあとに谷が続く。雷の轟き、稲妻、狂風、そのなかで悪魔の家のようにもまれて大騒ぎだ。しっかりしろ!悪魔の家の騒ぎをきかせてくれ。だが上がったり、下がったりしているのを、はっきりとだ!』

ハイドンは試行錯誤を繰り返しましたが、なかなかOKが出ません。

彼は途方にくれて、最後にはやけくそになり、手を裏返して指をすぼめ、ふたつの箒で掃くように鍵盤を反対側にむかって急速にすべらせました。

ベルナルドーネは驚喜して叫びました。

『ブラヴィッシモ!!』

そして飛び上がってハイドンに抱きつき、強く抱きしめてキスを浴びせました。

ハイドンは『ですがあなたは、私の息をつまらせてしまいそうです』と答えるのがやっとでした。

この場面は成功を収めましたが、老年になってロンドンを訪れた際、荒天のドーバー海峡ではじめて海の嵐を体験したとき、あのときの音楽とは全然違っていたので、ハイドンはそれを思い出して大笑いし続けた、ということです。

このオペラは『せむしの悪魔』というジングシュピール(ドイツ語歌劇)で、1752年にケルントナートーア劇場で上演されました。

10年前にヴィヴァルディがオペラを上演し、後にベートーヴェンが第九を初演した名門劇場です。

ハイドンは19歳でオペラ作曲家としてデビューしたわけです。

夜の街のセレナーデ流しから、すごい飛躍です。

駅前のストリートミュージシャンが、いきなりスカウトされて武道館で演奏したようなものです。

しかし惜しいことに、その音楽は失われて今は残っていません。

女帝の執念

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クネルスドルフの戦い

さて一方、マリア・テレジア七年戦争の推移です。

マリア・テレジアの同盟軍により四面楚歌となったフリードリヒ大王は、ロスバッハの戦いでフランス軍、ロイテンの戦いでオーストリア軍を、ツォルンドルフの戦いでロシア軍を破ります。

戦術家としての大王の名声は頂点に達しました。

フリードリヒ大王は、これでマリア・テレジアシュレージエンをあきらめ、和平に応じるだろう、と思っていました。

しかし、不屈の女帝はあきらめません。

もはや情に流されているときではないと、断腸の思いで、戦下手の義弟カール・フォン・ロートリンゲンを総司令官から更迭し、ダウン将軍を元帥に任じ、後任にします。

そして、さらなる戦いを大王に挑みます。

大王、九死に一生を得る

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クネルスドルフの戦いにおけるラウドン将軍

1759年8月12日。

ラウドン将軍率いるオーストリア軍とロシア軍の連合軍7万1,000は、フリードリヒ大王のプロイセン軍4万8,000と激突します。

史上名高いクネルスドルフの戦いです。

当初はプロイセン軍が有利に戦局を進めていましたが、ハインリヒ王子が前進を止めるよう進言したのを却下したのをきっかけに、旗色が悪くなります。

激戦の中、大王の乗馬は2頭まで射殺され、大王の胸にも弾丸が当たりましたが、かろうじて胸ポケットに入れていた嗅ぎ煙草入れのおかげで助かりました。

ついに、疲弊したプロイセン軍は総崩れになります。

大王は捕虜になる屈辱には耐えられないと、常に携行していた毒薬をあおろうとしましたが、かろうじて退却できました。

しかし、周囲に残った兵はわずか3,000。

フリードリヒ大王最大の敗北でした。

もはや、首都ベルリンを防衛する力も残っていません。

大王は、ベルリンを守備している大臣フィンケンシュタインに有名な手紙を書き送ります。

今朝の11時、私は敵軍に攻撃を仕掛けた。…(中略)…私の兵士たちは驚くべき働きをして見せたが、その代償はあまりにも大きかった。我が兵は混乱しきっていた。私は3度も彼らを再編した。最後には私は捕縛の危険に晒され、逃走するほかなかった。銃弾が私の上着を掠め、私の2頭の馬は射殺されてしまった。私が生き残ったことは不運でしかない…(中略)…我々の敗北は甚大である。48,000名のうち留まったのはたった3000名でしかない。こうして私が手紙を書いている間にも、皆は次々に逃げて行く。私は既にこの陸軍の司令官ではない。ベルリンの皆の安全について考えるのは良い活動だ…(中略)…私が死んで行くのは悲惨な失態だ。戦いの結果は戦闘そのものよりもさらに悪くなるだろう。私にこれ以上の手段はなく、そして正直に言って、全ては失われたのだと思う。私は生きて祖国の滅亡を見たくはない。さようなら、永遠に!

しかし、勝利したオーストリア軍とロシア軍は、相互不信から進軍を止め、プロイセンに止めをさすことができませんでした。

フリードリヒ大王は、ブランデンブルク家に奇跡が起きた!』と喜びます。

とはいえ、プロイセンのジリ貧状態は変わらず、その後も大王は苦戦し、ついにはロシア軍によってベルリンは陥落。

首都は略奪されます。

同盟国の英国も、プロイセンを見捨てて、ついに援助を打ち切ります。

絶体絶命のピンチに、強運の大王には、もう一度『ブランデンブルクの奇跡』が起きるのです。

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クネルスドルフのフリードリヒ大王

さて、今回は、若いハイドンに大きな影響を与えたカール・フィリップエマニュエル・バッハのシンフォニーを聴きます。

エマニュエル・バッハは、王太子時代のフリードリヒ大王に仕え、即位後は宮廷音楽家に取り立てられ、フルートを好んで演奏する大王の伴奏役を務めました。

22年の間、大王に仕えますが、1767年に、ハンブルク音楽監督をしていた名付け親のテレマンが亡くなり、後任を打診されると、大王が止めるのもきかず、宮廷を飛び出して大都会ハンブルクに移ります。

大王の寵愛は厚かったものの、さすがに、長年の宮仕えには嫌気がさしていたのでしょう。

作品は、ハンブルクに移ってから作曲した6曲の『ハンブルク・シンフォニー』の第1番です。

ハイドンの若い頃の作品を聴いていきます。

C.P.E. バッハ:交響曲 ト長調ハンブルク・シンフォニー 第1番)

C.P.E. Bach:Symphony in G-Major, Wq182 no.1

演奏:トレヴァー・ピノック指揮 イングリッシュ・コンサート

第1楽章 アレグロ・ディ・モルト

おどけたような大きな身振りのテーマは、楽しげに進んでいきますが、いきなり短調に唐突に転調します。このような意表を突く表現は、これまでの優雅なロココ音楽では見られませんでした。展開部では激しさもはらみつつ、力強さを見せます。明らかに新しい表現で、ハイドンが大いに参考にしたのが、比較して聴くとよく分かります。 

動画は、ハイドン2032プロジェクトのアントニーニ&ジャルディーノ・アルモニコが、22年前、2000年にウィーン楽友協会ホールで開いたコンサートです。私がアントニーニと初めて出会ったDVDです。

(ブログ上では再生できませんがYouTubeに移ると再生できます)


www.youtube.com

 

 今回もお読みいただき、ありがとうございました。

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*1:大宮真琴『新版ハイドン音楽之友社