愛妻への挽歌
前回に続き、バッハの6曲あるオブリガート・クラヴィーア(チェンバロ)つきのヴァイオリン・ソナタのうち、今回は第4番と第5番を聴きます。
前回少し触れましたが、バッハがこの曲を書いた頃、大きな不幸に見舞われます。1720年、主君レオポルト侯に従って、保養地カールスバートに滞在中、最初の妻、マリア・バルバラが亡くなったのです。
バッハが知ったのは帰宅後で、すでに埋葬も終わり、4人の子供が残されていました。
バッハが受けたショックは想像に余りあります。前年には4男も亡くしたばかりでした。
この4番と5番の悲痛な響きには、その影響があるといわれています。バッハのようなこの時代の職人作曲家が個人的な感情を創作に盛り込んだかどうかは疑問もありますが、曲を聴くと、そんなバッハの心のうちも聞こえてくるような気がします。
モーツァルトも、パリへの就活旅行中に同行していた母を亡くし、故郷の父に会わせることもできず、異国の地に葬らざるを得ませんでした。その心境が、ピアノ・ソナタ 第8番 イ短調 K.310に反映していると言われています。就活も失敗し、故郷へ帰る途中でプロポーズしたアロイジアにも振られます。人生、辛いことがこれでもか、と重なる時期があるものです。モーツァルトは短調の曲を作ることがめったにないので、余計にそのように聞こえてしまうのです。
グレン・グールドの演奏で第1楽章をお聴きください。どのように感じられるでしょうか。
聖ペトロの嘆き
さて、バッハに戻りますと、第4番の第1楽章の旋律は、後年のバッハの大作、宗教音楽の最高峰で人類の宝ともいわれる『マタイ受難曲』の中の、特に印象的なアリアに用いられています。
それは、新約聖書の有名な『ペトロの否認』という場面で歌われます。
イエスの身に大祭司たちの陰謀の危険が迫る夜、ペトロはイエスに『主よ、私はあなたと一緒に牢に入って死んでもいいと覚悟しております!』と勇ましくタンカを切ります。
ところがイエスは『ペトロよ、言っておくが、あなたはきょう、鶏が鳴くまでに三度わたしを知らないと言うだろう。』と予言します。
そしていざ、ユダの裏切りによってイエスが捕らえられると、ペトロは怖くなってしまいます。周囲の人がペトロを見つけ、『この人はあの連中の仲間ではないか』と言います。結局3回問われ、ペトロはその度に『わたしはあの人など知らない』と答えるうち、夜明けの鶏が鳴きます。
ペトロはイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた、というエピソードです。
使徒といえども、人間の弱さを示す話として有名で、バッハはこの場面で、本当に人間はどうしようもない存在です、神よ、憐れんでください、というアリアを作るのです。
そして、その曲に、かつて愛妻を亡くしたとき、絶望の中で作曲したメロディを使った、というのは、証拠は何もありませんが、想像したくなるストーリーです。このアリアは、ヴァイオリンのオブリガートがついているので、なおのこと、このソナタとの関連を思わせるのです。
マタイ受難曲のその曲を掲げます。第39曲アルトのアリア『憐れみたまえ、わが神よ』、ジョン・エリオット・ガーディナー指揮イングリッシュ・バロック・ソロイスツの演奏で、アルトはカウンター・テナーのマイケル・チャンスです。
さて、ヴァイオリン・ソナタは、前回同様、チェンバロとピアノの二種類の聴き比べです。
バッハ:ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ 第4番 ハ短調 BWV1017
J.S.Bach : Sonata for Violin & Cembalo no.4 in C minor, BWV1017
演奏【チェンバロ版】:イザベル・ファウスト(ヴァイオリン)、クリスティアン・ベズイデンホウト(チェンバロ)
Isabelle Faust & Kristian Bezuidenhout
演奏【ピアノ版】:ハイメ・ラレード(ヴァイオリン)、グレン・グールド(ピアノ)
Jaime Laredo & Glenn Gould
第1楽章 シチリアーノ(ラルゴ)
バッハのシチリアーノはどれも心に沁みますが、これはその白眉といっていいでしょう。ただ泣くしかなかったという聖ペトロの嘆きと、同じく愛妻の死というバッハの切望がオーバーラップします。
半音階が多用され、より哀しさが増しています。しかし、形式としては壮大な3声のフーガで、しっかりした構成をもった労作です。悲しみを創作にぶつけたのでしょうか。
左手の控えめな支えのハーモニーの上に、穏やかな哀歌が奏でられます。ピアノとフォルテの対比も効果的です。
3声のフーガです。充実した響きの中にも沈痛な趣きが支配的です。
バッハ:ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ 第5番 ヘ短調 BWV1018
J.S.Bach : Sonata for Violin & Cembalo no.5 in F minor, BWV1018
第1楽章 テンポ指定なし(ラルゴ)
この曲も、全楽章が憂愁に満ちています。テンポの指定はなく、写譜によってはラメント(哀歌)と書かれていますが、バッハが指定したものではなさそうです。この曲の情感から、他の人が書き込んだのでしょう。この曲のテーマも、バッハは宗教曲(6声のモテット)に流用しており、音型は、苦悩からの解放と平安への憧れをあらわす、といわれています。
コレッリ風の颯爽としたフーガですが、ここでも悲壮感に満ちています。2部に分かれており、後半はさらに思いが深くなります。
クラヴィーアが寄せてはかえす波のような音型を奏で、その上にヴァイオリンが重音奏法で苦悩に満ちた厳しい音を刻んでいきます。現代的な響きをもった不思議な楽章です。
半音階で不安に満ちながら上下を繰り返す悲痛な曲です。様式としては舞曲のジーグの形をとっています。この曲はめずらしく全楽章が短調をとっていて、そこにもバッハの心情を思わざるを得ません。
悲しいとき、つらいときには明るい曲を聴く気にはならないものです。むしろ、どっぷりと悲しい曲に浸ってこそ、慰めを感じるように思います。そして、バッハはその中にも希望の光を盛り込んでいてくれているのです。
朝の来ない夜はない、といいますが、辛いときにこそ励ましてくれる曲だと思います。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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