師匠をだました?
ベートーヴェンが最初に出版したピアノ・ソナタ集『作品2』のうち、残りの2曲、第2番 イ長調と第3番 ハ長調を聴きます。
『作品1』のピアノ・トリオは最初のパトロンであるリヒノフスキー侯爵に献呈されましたが、この『作品2』は師ハイドンに捧げられました。
栄光の『作品1』を、なぜ大恩あるハイドンに献呈しなかったのか、様々な憶測がなされています。
作品1の中で一番自信のあった第3番をハイドンに批判されたから、という見方も強いですが、平民である師匠より、目下一番経済的にもお世話になっている貴族の方を優先したというのは特に不自然ではありません。
ただ、ハイドンがベートーヴェンに図った便宜は多大なものがありました。
物価の高いウィーンで留学生活を送るベートーヴェンの経済状態を心配し、ボンの選帝侯マクシミリアン・フランツに対し、作品を同封して、給付額を上げるよう手紙を書いてくれました。
そこには、前々回取り上げたように『私は自分が彼の師と呼ばれることを光栄に思うようになるでしょう。』という最大級の賛辞があったのです。
そして『自分も彼に500フローリンを用立てているが、彼の支給額500フローリンを倍にして1000フローリンにしてやっていただきたい』と要請しました。
これに対する選帝侯の返事はハイドンを驚かせました。
そこには、『彼が受け取っている留学の給付額は確かに500フローリンだが、別に通常の俸給400フローリンがあるはず。また、ウィーンでの成果として送られてきた曲は、ボン時代に作曲されたものがほとんどだ。彼はそろそろ帰る準備をした方がよいのではないか?』と書かれていたのです。
ベートーヴェンは通常の給料が別にあることを師匠ハイドンには黙っていて、お金を借りたことになります。
年収500フローリンと思っていたのが、実は900フローリンだったわけです。
また、ハイドンに自作として渡した作品は、これまで紹介した『八重奏曲』を含め、ほとんど旧作。
ハイドンは大恥をかき、まさに恩を仇で返された形ですが、これで師弟関係が破綻したという記録はありません。
ベートーヴェンは別にハイドンをだます意図はなく、聞かれなかったから答えなかっただけ、あるいは作品を出せと言われたから出しただけで、ハイドンが勝手に勘違いした、ということも考えられます。
その頃のハイドンは第2回ロンドン訪問の準備に忙しく、大シンフォニーを3曲も書かねばならず(第99番、第100番『軍隊』、第101番『時計』)、これ以上弟子に関わっている暇も無かったでしょう。
芸術の前には義理を欠く?
ベートーヴェンはこの3曲のピアノ・ソナタをハイドンの不在中に完成させ、1795年8月にリヒノフスキー侯爵邸で開かれたサロン・コンサートに帰国した師匠を招き、自ら弾いて聴かせました。
作品1のときと違って、ハイドンの感想は伝わっていませんが、満足していたと思われます。
このソナタはハイドンに献呈出版されることになりましたが、ハイドンは楽譜の表紙に『ハイドンの弟子ベートーヴェン作』と記載されることを期待していたといわれるからです。
しかし、ベートーヴェンはその文言を入れませんでした。
ベートーヴェンは、後年『ハイドンに教えてもらったことは何もない』と語っていましたので、その気持ちの表れだったのでしょう。
しかし、彼の作品は、シンフォニーにしても、弦楽四重奏にしても、ピアノ・ソナタにしても、ハイドンの作品を元に発展させていますから、その言葉は、ハイドンに直接指導されたことだけを指すと思われます。
世間には、ベートーヴェンはハイドンの弟子ということで知られており、それはベートーヴェンの社会進出に大きく寄与しましたが、ベートーヴェンの芸術家としての矜持として、そのような色のついた見られ方をされることに強烈に反発したのは十分理解できるところで。す。
芸術の前には、義理人情など入る余地はなかったのです。
鍵盤上でシンフォニーを
さて、どうもギクシャクした師弟関係ではありますが、ハイドンやモーツァルトがピアノ・ソナタでは作らなかったこのような4楽章構成こそ、ハイドンの交響曲や弦楽四重奏曲にインスパイアされたものです。
急ー緩ー急の3楽章構成に、第3楽章のメヌエットを加えることで、起・承・転・結のドラマに仕立てたのは、ハイドンです。
ベートーヴェンは、これをもとに、第3楽章をより自由なスケルツォに差し替えることによって、〝転〟を際立たせ、より論理的な構成としたのです。
この『作品2』では、第1番はメヌエットですが、第2番、第3番では初めてスケルツォが取り入れられ、新しい音楽を生み出す意欲が感じられます。
さらに、ベートーヴェンのソナタには、マンハイム楽派の影響が強く出ていると言われています。
マンハイムは、ボンにほど近い、同じライン川沿いのプファルツ選帝侯の都で、青年期のモーツァルトが訪れた頃には、ヨーロッパ最高のオーケストラを擁していました。
その楽団は〝将軍で構成された軍隊〟と讃えられ、一糸乱れぬ統制された運弓で、そのシンフォニーは、ピアニッシモから一気に駆け上がるクレッシェンドといったダイナミックな表現で聴く人を圧倒しました。
そのディナーミクはまさに近代オーケストラの嚆矢となり、ハイドンと並んで、オーケストラ音楽の発展に寄与しました。
ちょうどベートーヴェンがウィーンを訪れた頃と同じ20歳前後のモーツァルトは、就活のために母とこの地を訪れ、この音楽に魅せられ、大きな影響を受けました。
その成果をもってパリに乗り込み、シンフォニー第31番〝パリ〟を上演した話は、このブログの最初の頃に書きました。
www.classic-suganne.com
ベートーヴェンの青年時代には、マンハイムの音楽自体はもうマンネリ化していましたが、ボンの宮廷楽団は依然としてその影響下にありました。
ベートーヴェンのピアノ・ソナタには、初期から強烈なピアノとフォルテの交替が見られますが、それはマンハイム楽派の影響とされています。
マンハイム楽派の影響というと、まずモーツァルトが思い浮かびますが、実はベートーヴェンこそ、マンハイム楽派の近代的な側面を継承したといえるのです。
ベートーヴェンは、この時期にはまだ1曲もシンフォニーを書いていません。
まずは、ピアノの鍵盤の上で、これら先人のシンフォニーと同じドラマを展開することに挑戦したわけです。
Ludwig Van Beethoven:Piano Sonata no.2 in A major, Op.2-2
演奏:ロナルド・ブラウティハム(フォルテピアノ)
Ronald Brautigam (Fortepiano)
第1番 ヘ短調の第1楽章と比べると2倍の長さを持つ、大規模な楽章です。ケコッ、というニワトリの鳴き声のようなユーモラスな動機ではじまります。そのあと、音階の上昇と下降がめくるめくように華麗に続きますが、第2主題はホ短調の悲壮感漂うもので、ここで、あ、ベートーヴェンだ!と感じます。続く右手のパッセージにはわざわざ指番号が書かれていますが、ベートーヴェンの指示通りに弾くのは、鍵盤の幅が広い現代のピアノではほぼ不可能とされています。当時のフォルテピアノでも難しく、ベートーヴェンは自分にしか弾けないように書いたのかもしれませんが、楽譜を買った人は途方に暮れたことでしょう。そのあと再び上昇と下降が力強く交錯し、展開部に入ります。展開部冒頭は謎の悲し気な和音進行があって、一瞬あれ?と思いますが、すぐに提示部の展開に入ります。ここでは上行音型が転調を繰り返し、複雑に盛り上げていきます。コーダは静謐な雰囲気で鎮まって楽章を閉じます。
第2楽章 ラルゴ・アパッショナート
〝アパッショナート〟というと、後年の『熱情ソナタ』を思い浮かべますが、必ずしも激しい感情だけを表す発想標語ではなく、内に秘めた熱情も指しているようで、この楽章はそのような性格をもっています。とぼとぼと歩くような低音の上に、静かに高音が流れるのは、平凡にも感じますが、だんだんとクレッシェンドになり、旋律は絡みはじめ、何かを訴えはじめます。この曲に宗教的なものを感じる人は多く、中間部のロ短調の懐かしい調べや、一転それを打ち破る教会の鐘のような不協和音は、葬儀を思い起こさせます。コーダは長めで余韻深いもので、内省的で印象的な楽章です。
第3楽章 スケルツォ(アレグレット)
ベートーヴェンのソナタではじめてのスケルツォです。その名の通り、遊び心いっぱいのフレーズです。しかし、主部の中にも緊張感をはらんだ嬰ト短調のミニ中間部があって、複合的な構造をしています。トリオはイ短調で、下降音型の連続がまるで滔々と流れる水を眺める思いです。
第4楽章 ロンド(グラツィオーソ)
音楽学者のドナルド・フランシス・トーヴィー(1875-1940)は、このソナタを『フィナーレ(第4楽章)を除いて完璧であり、調和的で劇的な思考においてハイドンとモーツァルトを完全に凌駕している』と評しました。この楽章だけ評価が低いわけですが、確かに〝優雅に〟とわざわざ表記されたこの楽章は、まるでモーツァルトのように華麗です。冒頭の、湧き上がるような上行アルペッジオのロンド主題にはまったく魅了されてしまいます。しかし、突然あらわれるイ短調の第3主題はまさしくベートーヴェンらしさに満ちていて、当時彼がウィーンを沸かせた即興演奏をほうふつとさせるものがあります。音楽はそれぞれの主題が組み合わされて盛り上がり、晴れやかな気分で曲を締めくくります。
Ludwig Van Beethoven:Piano Sonata no.3 in C major, Op.2-3
演奏:ロナルド・ブラウティハム(フォルテピアノ)
Ronald Brautigam (Fortepiano)
第1楽章 アレグロ・コン・ブリオ
作品2の3曲の中で一番大きな規模を持つ充実したソナタですが、試行錯誤のあとがややぎこちなさも感じさせる曲でもあります。第1主題はトリルを伴った遊び心たっぷりの雰囲気です。そしていきなりフォルテに移り、ひとりしきり暴れたあと、落ち着いた第2主題、そして第3主題ともいうべきテーマが現れます。この激しいフォルテとピアノの交替は、ボンで流行していたマンハイム楽派の影響といわれています。このふたつの主題は、実はボン時代のピアノ四重奏曲 ハ長調の第1楽章から転用されています。自分でもお気に入りのテーマだったので、ウィーンで広く世界に知らしめるこの機会に素材として利用したのでしょう。展開部、再現部は凝っていますが、後年の作品と比べるとちょっと不自然に聞こえる感じもなくはありません。コーダの直前にはカデンツァが置かれていて、モーツァルトにも先例がありますが、これも即興演奏を譜面化したものといえます。
作品2の中でも幻想的な雰囲気をもつ曲です。自由なロンド形式となっており、ハーモニーは実にロマンティックです。右手と左手が奏でる音型が対話風に流れていきます。ベートーヴェンならではの詩情といっていいでしょう。
第2番のスケルツォよりも凝っていて、対位法的な要素もあり、ウィーンでの勉強の成果も盛り込まれていると考えられます。トリオはト短調の流れるようなアルペッジオが波のように迫ってきて、圧倒されます。まさにベートーヴェンのスケルツォといえます。
第4楽章 アレグロ・アッサイ
第2番のフィナーレと同じような上行音型のロンドテーマですが、趣きはまるで違い、無骨な感じで、それが説得力を増して訴えかけてきます。第2主題は対照的な美しさで、第3主題は即興的に変奏され、多彩に変化していきます。華やかに、それで聴く人の意表を突いて圧倒したウィーン初期のベートーヴェンの演奏をまざまざと思い浮かべることができます。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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