要人の令嬢のために
前回の第8番 イ短調ソナタ K.310は、第7番 ハ長調 K.309、第9番 ニ長調 K.311と3曲セットで出版されています。
例によって、明暗の対比が素晴らしいセットです。
いずれも、マンハイム・パリ旅行の途上で作られたので、故郷ザルツブルクにいる父や姉宛の手紙によって、作曲の事情や、モーツァルトの曲に対する考えなどがよく分かって興味深いです。
まず、ハ長調は、マンハイムの指揮者、クリスティアン・カンナビヒ(1731-1798)の娘ローゼのために作曲されました。
マンハイムのオーケストラは大編成で、当時ヨーロッパ最高水準とされ、〝将軍たちで構成された軍隊〟といわれ、もてはやされていました。
モーツァルトはこのオーケストラによる、2本のクラリネット、フルート、オーボエが織りなす効果に興奮し、翌年、パリ・シンフォニーで自ら試してみるのです。
モーツァルトは、当地マンハイムの君主、音楽好きのプファルツ選帝侯カール・テオドールに宮廷作曲家として雇われるよう請願していましたが、選帝侯からは社交辞令ばかりで、いっこうにはっきりした返事はもらえず、さんざん焦らされたあげく、最終的には、空席がない、とお祈りされてしまったのです。
その結末はさておき、マンハイムに到着してまもなく、モーツァルトは、父レオポルトに次のように書き送っています。
これはマンハイムから差し上げる第二の手紙です。ぼくは毎日カンナビヒの家へ行きます。きょうはママも一緒に行きました。あの人は以前とはまったく別人になりました。オーケストラの人もみんなそう言っています。ぼくにとても好意をもっています。娘さんが一人いて、これがピアノがなかなか上手です。ぼくはカンナビヒさんをしっかりぼくの友だちにしたいので、今そのお嬢さんのために、ソナタを一つ書いているところですが、もうロンドまで出来ています。最初のアレグロとアンダンテを書き終わった時、自分でそれを持って行って弾きました。そのソナタがどんなに喝采を博したか、パパには想像もつかないでしょう。*1
ここに出てくるソナタがこの曲です。つまり、土地の実力者に取り入るため、その令嬢向けに作曲したわけです。
この手紙を書いた10日後には、レッスンを始めた様子を書き送っています。
3日前からローゼ嬢にソナタを教え始めました。きょう、最初のアレグロが出来上がりました。ぼくたちはアンダンテでいちばん苦労するでしょう。エクスプレッション(表情)が一杯あって、書いてあるとおりに、味わいとフォルテとピアノをもって弾かなければならないからです。このひとはたいそう器用で、とても楽に覚えます。右手はたいへん良いのですが、左手は惜しいことにすっかりだめになっています。このひとは時々すっかり息を切らしてしまうほど苦労することもあるし、それが不器用なためではなく、そんなふうにしか教わらなかったので、そのようにしかできず、もうそれに慣れてしまっているのです。その様子を見ると、正直言ってひどく気の毒に思うことがあります。本人とお母さんにも言いました。『ぼくがお嬢さんの正規の先生だったら、楽譜なんかみんな仕舞い込んで、鍵盤をハンケチでおおい、手が完全に調整されるまで、右手と左手で、初めはとてもゆっくりと、パッサージュやトリラーやモルダントばっかりを、訓練させるでしょう。そうしたら、お嬢さんを立派なピアニストに仕立てることがきっとできると思います。残念なことです。お嬢さんは天分は大いにあるし、譜もけっこう読めるし、自然な軽快さを十分にもっていて、非常に感情をこめて弾きます』二人はぼくの言うことをもっともだと認めてくれました。
ヨーロッパ一のピアニストだったモーツァルトは、一流のピアノ教師でもありました。お偉方に取り入るためのレッスンであっても、プロとして遠慮なく、本気で指導しているのが伝わってきます。さらに、すべての良い教師の共通項として、基礎を徹底させているのもよく分かるのです。
さらにこの曲には、モーツァルトの手紙にある通り、当時としては異例の細かさで表情の指示がつけられている難曲なので、令嬢にいかに素質があっても〝息を切らしてしまう〟のも当然でした。
しかし、モーツァルトはこの子なら弾ける!と確信を得て、基礎からやり直すように真摯なアドバイスをしているわけです。モーツァルトの教えぶりが臨場感をもって伝わってきます。
W.A.Mozart : Piano Sonata no.7 in C major, K.309 (284b)
演奏:アーサー・スクーンダーエルド(アルテュール・スホーンデルフルト)(フォルテピアノ:ヨハン・アンドレアス・シュタインが1780年に製作したものの複製。白木のハンマー。)
Arthur Schoonderwoerd(Fortepiano)
第1楽章 アレグロ・コン・スピーリト
堂々としたユニゾンの開始のあとの、玉を転がすような優雅なメロディが対照的で、モーツァルトの手紙にあるように、強弱のメリハリのきっちりついた華やかな曲です。展開部ではハッとするほどの緊張感が満ちる場面も用意されています。
第2楽章 アンダンテ・ウン・ポコ・アダージョ
モーツァルトは別の手紙で、この楽章をローゼ嬢の性格通りに書いた、と言っていますが、ローゼはこのとき13歳でした。この少女の性格ってどんなだったんだろう、と思って聴き入ってしまいます。手紙にある通り、表情豊かで味わい深い曲ですが、なんという大人びた13歳でしょうか。ローゼ嬢がこの曲を弾いた感想も述べられています。『彼女はぼくのソナタをまったくすばらしく弾きました。アンダンテ(これは速くないように演奏しなければなりません)を彼女はまったく可能なかぎり感情をもって弾きました。』どうやら、先生を感嘆させるような出来栄えだったようです。天下のモーツァルトに教えられ、絶賛を受けた幸福な少女ですが、血のにじむような努力をしたことでしょう。
第3楽章 ロンド:アレグレット・グラツィオーソ
親しみやすい曲想ですが、相当な技巧を要求される曲でもあります。目くるめくようなパッセージが山盛りです。最後は、今でいうフェードアウトを思わせるような、粋で斬新な終わり方をします。
この曲も、グレン・グールドの演奏も掲げておきます。
W.A.Mozart : Piano Sonata no.7 in C major, K.309 (284b)
演奏:グレン・グールド(ピアノ) Glenn Gould
第1楽章 アレグロ・コン・スピーリト
第2楽章 アンダンテ・ウン・ポコ・アダージョ
第3楽章 ロンド:アレグレット・グラツィオーソ
本日もお読みいただき、ありがとうございました。

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