父親の支配
就職と結婚。
この人生の2大転機は、自分自身で決断しなければならないことですが、えてして、親からも口を出されがちなことです。
またえてして、こうした転機は重なることもあります。
モーツァルトの場合もそうでした。
就職も結婚も父に大反対されたのです。
職の方は逆で、定職を捨ててフリーターになる!ということでしたから、なおさらです。
モーツァルトは5歳のときから神童ともてはやされ、父レオポルトに連れられて、ヨーロッパ中の王侯貴族の間を猿回しの猿のように連れ回され、芸を披露させられました。
しかし〝十で神童、十五で才子、はたち過ぎればただの人〟という俗諺に反し、モーツァルトの天才ぶりは年を経るごとに成熟していきました。
安定した職とは
父は〝神童時代〟が終わったモーツァルトを、一人前の『宮廷音楽家』とすることに尽力しました。
一流の王侯の「宮廷楽長」が、当時の音楽家の一番安定した職でした。
父はザルツブルク大司教宮廷の副楽長で、安定はしていましたが、ザルツブルク大司教は、異例の司教叙任権を保持して〝小教皇〟といわれる権威をもっていたものの、領主としては小さく、それほどの財力はありませんでした。
その宮廷音楽家は、安定はしているけれども薄給で、世間的名声とは無縁の地方公務員ですから、父も非凡な才をもつ息子は、もっと大きな宮廷の職に就けると思い、母とともにマンハイム・パリ就活旅行に出したのでした。
しかし、モーツァルトが求めていたのは名声であって、さらに自由を求める気質でもあり、恋する娘アロイジア・ウェーバーをイタリアに連れて行って、プリマ・ドンナとするべく自らプロデュースする、といった若気の至りの夢想的な計画を実行に移そうとするなど、脱線しまくりでした。
パリでも、ヴェルサイユ宮殿のオルガニストという名誉な職の話があったのですが、モーツァルトは、王に仕えてる者はパリでは忘れられてしまう、といって、父がもったいながるのをよそに断ってしまいます。
父は、もうこりゃだめだ、と思い、借金もかさんだので、モーツァルトの外での就活をあきらめ、ザルツブルク大司教に復職を願い出ます。
大司教は、自ら辞職するという不義理をはたらいたモーツァルトを、旅に出る前より良い待遇で復職させることにします。
外から聞こえてくるモーツァルトの名声から、大司教も、自分のもとから天才が離れていってしまったことを少なからず恥に感じていたふしがあり、意外な低姿勢だったのです。
父レオポルトは大司教のこの好意に喜び、モーツァルトにザルツブルクに戻るよう促します。
ところが、窮屈なザルツブルクに舞い戻るのは最悪の選択肢と思っていたモーツァルトは、何かと言い訳をして戻ろうとしません。
ついに業を煮やした父の怒りの手紙を引用します。
大事な息子よ!私は何を書けばいいのか、本当に分からない。それどころか、気が狂うか、やつれて死んでしまいそうだ。お前がザルツブルクを立って以来頭の中に持っていて、私に書いてよこした計画はすべて、思い出すだけで、私の常識までも、どうにかなってしまうようなものばかりだ。どれもこれも単なる提案、からっぽな言葉、そして結局は無に終わった。マンハイムで就職ができそうだって?就職だと?なんのつもりだ?マンハイムだろうと、一体全体どこだろうと、今は就職してはいけない。就職という言葉は聞きたくもない。選帝侯がきょうにも死んだら、ミュンヘンとマンハイムにいる音楽家の大部隊が、広い世間へ出て行って、パンを求めることにもなりかねないのだ。現在のバイエルン選帝侯国マンハイム楽団には年八万フローリンもかかるのだから。(中略)肝心なことは、お前が今すぐザルツブルクへ来ることだ。もしかしたら40ルイドール稼げるかもしれない、などという話は、聞きたくもない。お前のもくろみは、けっきょく、宙に浮かんでいるようなお前の計画を実行したばかりに、私を破滅させようとするものだ。(中略)要するにだ!私はお前のために恥をかき借金を作っては、絶対に死にたくない。それ以上に、お前の哀れな姉さんをみじめにして後に残したくない。(中略)要するにだ!これまで私の手紙は、父としてだけでなく、友人としても書かれたものだ。私は、お前がこの手紙を受け取ったら、直ちにお前の旅を早めるだろうと思う。そして、私がお前を喜んで受け入れ、非難をもって迎える必要がないように、ふるまってくれるものと思う。いや、お前の母さんが折あしくパリで死ななければならなかった上に、お前がお前の父さんの死を早めることによっても良心に重荷を背負おうとはしないだろうと思う。*1
ここまで言われては息子も従わざるを得ません。
最悪の選択肢、復職
ちょうどこれより前、ミュンヘンに都を置いていた、ヴィッテルスバッハ家のバイエルン選帝侯マクシミリアン3世ヨーゼフが逝去し、マンハイムの君主であり、同族のプファルツ選帝侯カール・テオドールが、バイエルン選帝侯位を兼任することになりました。
カール・テオドール侯は、その宮廷所在地を、より大都会のミュンヘンに遷すことになり、ヨーロッパ一と名高いマンハイム楽団も一緒にミュンヘンに移りましたが、マンハイムに残る者もいて、マンハイムの音楽黄金時代は終焉を迎えたのです。
ウェーバー家もマンハイムからミュンヘンに移っており、モーツァルトは愛するアロイジアにマンハイムで会えず、ザルツブルクに戻る途上、ミュンヘンでようやく再会できたのです。
アロイジアとの結婚に反対していた父レオポルトも、この時点では理解を示し、むしろザルツブルクとミュンヘンは近いので、いつか彼女とイタリアに行けるチャンスもあるだろう、と、モーツァルトをザルツブルクに戻すエサにさえ使っていました。
しかし肝心のアロイジアの心は既にモーツァルトにはなく、モーツァルトは失恋してしまい、さんざんな気持ちでザルツブルクに戻り、踏んだり蹴ったりの状態で再び宮仕えを始めました。
しかし、モーツァルトには職はくれなかったものの、好意はもっていたバイエルン選帝侯カール・テオドールは、ミュンヘンでモーツァルトにオペラを作曲、上演することを依頼しました。
ザルツブルク大司教コロレードも、隣国の大国君主からの依頼は断れず、モーツァルトに休暇を与えます。
そしてモーツァルトがミュンヘンで上演したのが、本格的なオペラ・セリア(正歌劇)『クレタの王イドメネオ』です。
これはそれなりに成功し、ミュンヘンで休暇が切れてもぐずぐずしているモーツァルトに、コロレード大司教から、至急ウィーンにくるよう命じられます。
大司教はウィーンに滞在中で、客をもてなすのにクラヴィーア奏者が必要だったのです。
パワハラ上司とダメな部下?
ウィーンではそれほどクラヴィーア、つまりピアノが大人気で、駆けつけたモーツァルトはあちこちで引っ張りダコとなりました。
モーツァルトのピアノの腕前は、間違いなく当時のヨーロッパで最高でしたから。
しかし、雇い主の大司教コロレードはモーツァルトの個人行動を許さず、モーツァルトは方々の招待から得られたであろう謝礼のチャンスを逃しまくりました。
モーツァルトが招かれたのに大司教のせいで行けなかった演奏会には、皇帝ヨーゼフ2世も来ていた、ということもありました。
逸失利益は、大司教からの俸給の何倍もの額と思われました。
モーツァルトは、大司教の窮屈な従僕でいるより、ウィーンの方がはるかに稼げると実感してしまったのです。
コロレード大司教の方も、勝手な行動ばかりとるモーツァルトに対し、ザルツブルクへの帰還を命じました。
ところが、モーツァルトはウィーンにいたいので、何かと言い訳をして出発を遅らせます。
ついに大司教はブチ切れて、聖職者とは思えない言葉で直接、モーツァルトを責めました。
そのやりとりは、モーツァルトの父宛ての手紙にリアルに報告されています。
ぼくが部屋に入っていくと、いきなりこう言われたのです。『で、若僧、いつ立つのか?』ぼく『今夜立つことにしていましたが、座席がもう満員でして。』すると、息もつかずに言い立てました。『お前ほどだらしない若僧は見たこともない、お前のような勤めっぷりの悪い人間は一人もいない、きょうのうちに立つならいいが、さもないと国元へ手紙を書いて、給料を差し止める』というのです。かんかんになってまくし立てるのですから、口を挟むこともできません。ぼくは平然として聞いていました。ぼくの給料が500フローリンだ、などと、面と向かって嘘をつき(注:実際は450フローリン)、ぼくのことをならず者、悪たれ、馬鹿者、と言うのです。ああ、とても全部は書きたくありません。とうとう、ぼくの血が煮えたぎってきたので、言ってやりました。『では、猊下は私がお気に召さないのでしょうか。』『なんだと、貴様はわしを脅す気か?馬鹿め、馬鹿め!出て行け、よいか、貴様のような見下げはてた小僧には、もう用はないぞ』とうとう、ぼくも言いました。『こちらも、あなたには用はありません』『さあ、出て行け』そしてぼくは出しなに『これで決まりました。明日、文書で届け出ます』最上のお父さん、おっしゃってください。ぼくがこれを言ったのが、早すぎるよりは、むしろ遅すぎたのではないでしょうか?
現代のパワハラ上司と部下のやり取りをみているようですが、なにしろ絶対主義時代ですから、君主相手にモーツァルトもよくぞまあ、こんな不遜な態度ができたものです。
しかし、モーツァルトはウィーンの王侯たちにちやほやされている最中で、皇帝の支持も勝手にあてにしていましたから、こんな田舎君主なんかこわくない、という心情だったのでしょう。
『フィガロの結婚』での、フィガロと伯爵のやり取りを地でいっていますが、まさに時代は革命の世紀を迎えていたともいえます。
とはいえ、雇用関係からすれば、モーツァルトの勤怠不良ぶりには、大司教のお怒りにはごもっともな面もありますが。言い方は別として。
この手紙を受け取った父レオポルトの狼狽ぶりは目に浮かびます。
父はまだ大司教に仕えている身ですから。
モーツァルトに翻意を命じる手紙を送るとともに、大司教の近侍のアルコ伯爵にとりなしを頼みます。
アルコ伯は、モーツァルトの説得にかかり、そのやり取りもモーツァルトの手紙に残されています。伯は、次のように説きます。
『私の言うことを信じなさい。君はここであまりにも目がくらんでいる。ここでは一人の人間の名声はそう長続きがしない。はじめのうちは、ありとあらゆるほめ言葉をかけられ、お金もたくさん手に入ることは確かだが、それがいつまで続くことか?何ヵ月かたてば、ウィーン人はまた新しいものが欲しくなる。』
これはまったく本当のことでした。モーツァルトの人気は、数年は続きましたが、だんだんと凋落し、最後は窮乏のうちに世を去ることになるのです。
現代のミュージシャンや芸能人に似た境遇です。息子がバンドで生計を立てる、と言い出したら、親は同じく止めることでしょう。
しかし、多くの息子と同様、モーツァルトもこればかりは従いませんでした。これまでの旅でも、度々父の意に反した行動はとりましたが、最後は従っていたのに。
しかし、モーツァルト、25歳。もはや父から独立の時が来ていました。
モーツァルトは、最後にはアルコ伯爵からお尻を蹴られて追い出され、ザルツブルクと縁を切ります。
このあたりは映画『アマデウス』でも、大司教が閉めさせた扉にお尻をぶつける、というシーンで象徴されています。
ウィーンでの自活、第1歩
このようにして、モーツァルトはウィーンでフリーの音楽家としての活動を始めます。
それは、君主と父、ふたつの強大な支配からの卒業でした。
まずは、自活できることの証明をしなければなりません。
貴婦人たちへのレッスン料で日銭を稼ぐ一方、ウィーンで作品の出版を行います。
それが、『ヴァイオリン伴奏つきのクラヴサンまたはピアノのための6曲のソナタ 作品2』です。
1781年11月に、楽譜出版社アルタリアから出版されました。
ウィーンで名を売り、収入を得るためにも出版を急ぎ、マンハイムやザルツブルクで作った旧作も加えての出版でした。
ちなみに、かつて取り上げた女弟子で、モーツァルトが〝ブス〟と酷評し、のだめカンタービレにも関わっているアウエルンハンマー嬢に献呈されています。
容姿については酷いことを言っていますが、そのピアノの腕前はモーツァルトの認めるところでした。もちろん、金持ちの令嬢でしたから、収入面も期待しているわけですが。
また、この曲集は、現代ではヴァイオリン・ソナタに分類されていますが、ピアノ伴奏つきのヴァイオリン・ソナタではなく、逆で、ヴァイオリン伴奏つきのピアノ・ソナタであることも注目点です。
それほど、当時のウィーンではピアノがもてはやされていたのです。
上司のパワハラに遭ったら、余計に仕事などうまくやれなくなるものですが、こんな優雅な曲を作れるとは、モーツァルトのメンタルの強さは驚くばかりです。
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Mozart : Sonata for Pianoforte & Violin in C major, K.296
演奏: テメヌシュカ・ヴェッセリノーヴァ(フォルテピアノ)、キアラ・バンキーニ(ヴァイオリン)
Temenuschka Vesselinova (Fortepiano) & Chiara Banchini (Violin)
第1楽章 アレグロ・アッサイ
曲集の中では「第2番」になっていますが、一番古い曲で、1778年3月にマンハイムで作曲されました。マンハイムでピアノを教えていた、宮中顧問官の15歳の娘、テレーゼ・ピエロンとの別れにあたり、記念に贈った曲です。少女に与えたソナタらしく、明るく無邪気な楽想です。あくまでもピアノが主役、ヴァイオリンは引き立て役に徹しています。子供のチャレンジを、陰ながら温かくサポートする大人のようです。特にコーダ(終結部)はまるでおふざけ遊びをしているようで、秀逸‼︎
第2楽章 アンダンテ・ソステヌート
大バッハの末子で、モーツァルトの師匠というべきクリスティアン・バッハのアリア『甘きそよ風』からテーマが取られています。まさにそよ風を思わせる楽章で、ダ・カーポ・アリアそのままに、3部形式をとっており、中間部ではヴァイオリンが伸びやかに歌います。
第3楽章 ロンド:アレグロ
子供の遊びのように屈託のないロンドです。第1エピソードの二つ目のメロディは、ハッとするほど大人の香りがし、イ短調の第2エピソードはさらにシリアスな表情となります。少女はまさに、大人の入り口に立っています。
モーツァルト:『ピアノとヴァイオリンのためのソナタ 変ロ長調 K.378 (317d)』
Mozart : Sonata for Pianoforte & Violin in B flat major, K.378(317d)
曲集では『第4番』とされ、マンハイム・パリ旅行から帰ってきたあと、短いザルツブルクでの復職時代に書かれたとされています。ウィーンでの出版に際し、モーツァルトは姉ナンネルに、『6曲のうち2曲は姉さんの知っている曲です』と書き送っているのが、前曲のハ長調とこの曲と考えられています。パリ帰りらしく、優雅で繊細な曲想になっています。遠い花の都パリに思いを馳せるかのように、時々みせる切なさがたまらないソナタです。
ピアノの奏でる繊細な主題は、まさにカンタービレ(歌うように)です。中間部では、ヴァイオリンが代わって楽し気に歌いだします。後半には即興のカデンツァも用意され、最後は『バラ色の黄昏が静かに消えゆく』(アーベルト)ように終わります。
第3楽章 ロンド:アレグロ
フランス風の活発なロンド・フィナーレです。第2エピソードでは、3連符がふるえるように続き、奇抜な感じも受けますが、最後は深呼吸をして、すっきりとしめます。
モーツァルト:『ピアノとヴァイオリンのためのソナタ ト長調 K.379 (373a)』
Mozart : Sonata for Pianoforte & Violin in G major, K.379(373a)
曲集の第5番です。ここからウィーンで書かれた曲になります。この曲だけ、2楽章をとっていますが、第1楽章は2部になっており、実質は3楽章といってもいい内容があります。最初のアダージョは単なる序奏ではなく、この楽章の実質的な主部といっていいでしょう。冒頭のピアノのアルペジオは、まるで、アンダルシアのギターがかき鳴らされるかのように、情熱を秘めたエキゾチックなものです。それにヴァイオリンの甘い旋律がからんで、実にロマンティック。アダージョの後半は短調を予告し、主部のアレグロがおもむろに始まります。主部はモーツァルトの宿命の調、ト短調で、運命的な香りがしますが、夏の嵐のようにサッと過ぎ去っていきます。この楽章はこの曲集の白眉といえるでしょう。
テーマと5つの変奏からなる変奏曲です。テーマは昔話を語り始めるかのような素朴な調子です。変奏はいつもながら変幻自在で、ピアノとヴァイオリンが主役を交代したり、競演したりで、耳が離せません。劇的でありながら、どこか胸の奥の思い出に触れるような懐かしい趣きのある楽章です。
次回は、この支配からの卒業、結婚編です。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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