今回から、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタを聴いていきたいと思います。
通し番号が振られた曲は10曲ありますが、ポピュラーなのは第5番の『春(スプリング・ソナタ』と、第9番の『クロイツェル・ソナタ』でしょう。
これらの曲は、実は比較的若い時分に、集中して書かれました。
第1番を書いたのが1797年、26歳あたりで、ヴァイオリン・ソナタの王者というべき『クロイツェル』を書いたのは1802年から翌年にかけて、32歳前後です。
5年くらいの間にほとんどの作品を書いてしまったわけです。
最後の第10番は、『クロイツェル』の10年後に、有名なヴァイオリニストを迎えたパトロン、ルドルフ大公のために特別に書かれて、ヴァイオリン・ソナタはそれで打ち止めになってしまいます。
ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタは、モーツァルトのスタイルからスタートし、独自の世界を模索して、『クロイツェル』で頂点に達したあとは、芸術表現の媒体としては他のジャンルにいってしまったかのようです。
しかし、『春』と『クロイツェル』以外の曲も実に魅力的です。
最初の作品の評判
1799年、ベートーヴェンは最初のヴァイオリン・ソナタを3曲セットで、「作品12」としてウィーンのアルタリア社から出版しました。
前年の1798年3月29日に、リヒノフスキー侯爵お抱えのヴァイオリニストで、後に、初めてのプロの四重奏団といわれるラズモフスキー伯爵の私設四重奏団を率いるイグナーツ・シュパンツィヒと、ベートーヴェンが『伴奏つきのソナタ』をコンサートで演じたという記録があるので、このセットのどれかの曲と考えられます。
モーツァルトのヴァイオリン・ソナタのところでも以前書きましたが、当時のヴァイオリン・ソナタは、ピアノの方が主役で、正確には「ヴァイオリン伴奏つきのピアノ・ソナタ」でした。
令嬢や貴婦人が弾くピアノに、父や夫、婚約者が優しくヴァイオリンでエスコートするのがもともとの姿だったのです。
モーツァルトの最初の頃のソナタも、ヴァイオリンが無くてもピアノだけで成り立つものでしたが、だんだんと両パートが対等になっていきました。
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ベートーヴェンのこの最初の曲は、そんなモーツァルトの歩みの延長線上にあり、ベートーヴェン自身がピアノを弾くこともあって、まだどちらかというとピアノ・パートの方が難しくなっています。
そんなジャンルですから、ベートーヴェンの作品も実に優雅で愉楽に満ちていて、サロン向きに感じるのですが、これでも当時としては、例によって保守的な人を当惑させました。
出版後の新聞評です。
ベートーヴェン氏が独自の道を歩んでいることは否定できない。しかし、ひたすら難解で、自然さや歌がない!風変わりな転調を追究し、難解の上に難解を積み重ねているので、耐えられないし、喜びも失せる。
「総合芸術新聞」1799年6月5日号
作品12は、まだモーツァルトの影響が濃い、習作的な軽い音楽と感じる人が多いのではないかと思いますが、当時の識者にとってみたらとんでもない前衛作なのです。
この曲でそんなことを言っていたら、5年後の『クロイツェル』を聴いたらどうなってしまうとかと思いますが、ベートーヴェンの新しい試みが満ちた作品なのは事実です。
もうひとつ、作品12の驚くべきところは、アントニオ・サリエリ(1750-1825)に献呈されているということです。
映画『アマデウス』で、モーツァルトを死に追いやったとされている、あのサリエリです。
ベートーヴェンは、ハイドンに師事すべくウィーンに出てきましたが、ハイドンは年を取るほどに人気が高まっていましたので、とても弟子をしっかり教える余裕がありませんでした。
そのため、ベートーヴェンはハイドンに内緒で、テーマ別に他の先生のところに通って勉強しましたが、そのひとりがサリエリでした。
当時、イタリア・オペラを作曲しないと一流の作曲家とはいえませんでしたので、イタリア人楽長のサリエリのもとで、イタリア語歌曲の作曲法を学んだのです。
その期間はちょうど1799年後半から1801年頃といわれていますので、ちょうどこの曲集を出版した頃です。
サリエリは、モーツァルトとの確執で後世の評判は悪いですが、モーツァルトの手紙を読む限り、それほど仲が悪いようには思えません。
その死の間際、サリエリが『魔笛』を観に来てくれて、1曲1曲を絶賛してくれたのを嬉しそうに書いています。
サリエリは教育者としても一流だったのは間違いないと思われます。
指導もうまく、熱心だったようで、シューベルトも師事してその薫陶を受けています。
また後年、1813年にベートーヴェンが戦争交響曲『ウェリントンの勝利またはビトリアの戦い』を上演したときには、サリエリは副指揮者として大砲(空砲)や太鼓の合図を行いました。
ウィーン楽壇の長老である宮廷楽長サリエリが、はるか後輩のベートーヴェンのコンサートで効果音の担当をしてくれたのです。
モーツァルトの才能を妬み、潰そうとしたサリエリ像と、若手や後進の育成や助力を惜しまなかったサリエリ像、いったいどちらが真実なのでしょうか。
いずれにしても、この献呈には、ベートーヴェンのサリエリに対する感謝の気持ちが示されています。
以前取り上げたイタリア語のアリア『ああ、不実な人よ!』こそ、サリエリの指導の成果のはずですが、声楽曲でなく、ヴァイオリン・ソナタを献呈したのは不思議ではありますが、ちょうどタイミングが合ったということでしょう。
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演奏は、少し古い録音ではありますが、1年ちょっと前、2019年12月31日に94歳で亡くなった古楽器ヴァイオリニスト、ヤープ・シュレーダーがインマゼールのフォルテピアノと組んだ名演です。
シュレーダーは、80年代に古楽器ブームに火をつけた、クリストファー・ホグウッドとアカデミー・オブ・エンシェント・ミュージックのモーツァルト・シンフォニー全集でコンサート・マスターを務めました。
個人的には、ここまで自分好みの、納得できる演奏をしてくれる人はいませんでした。
Ludwig Van Beethoven:Sonata for Violin & Piano no.1 in D manor, Op.12-1
演奏:ヤープ・シュレーダー(ヴァイオリン)、ジョス・ファン・インマゼール(フォルテピアノ)
Jaap Schroeder (Violin), Jos Van Immerseel (Fortepiano)
第1楽章 アレグロ・コン・ブリオ
力強い、ファンファーレのように決然としたテーマから始まります。やや武骨なヴァイオリンに対し、山から清流が流れ出るようなピアノが素晴らしい対比を見せてくれます。両者の掛け合いや、互いにポジションを変えて盛り上げていくやり方は、チェロ・ソナタ同様、実にエキサイティングです。展開部では、ヘ長調からニ短調、変ロ長調、ト短調と3度転調し、イ短調に至ります。このあたりが当時の評者を当惑させ、何がやりたいのか?と当惑させたのでしょう。でもそのあとの再現部の輝かしさは、展開部の混沌があってのことですので、ベートーヴェンの狙いは実に凝っているのです。
第2楽章 テーマと変奏:アンダンテ・コン・モート
主題と4つの変奏です。テーマは実に優美で、ヴァイオリンとピアノが8小節ずつ旋律を受け持ちます。第1変奏はピアノが主奏で、ヴァイオリンは助奏に回りますが、ピアノをしっかり支えます。第2変奏は、ピアノが刻む心地よいリズムに乗って、ヴァイオリンがテーマを豊かに変奏しながら歌います。第3変奏は一転、イ短調のドラマティックな音楽になります。ヴァイオリンが叫び、ピアノがそれに応える、情熱的な時間が繰り広げられます。第4変奏は穏やかなイ長調に戻りますが、元のテーマはピアノのシンコペーションの内声に巧みに織り込まれています。そして、ゆっくりと、沈む夕日を惜しむかのように終わります。
第3楽章 ロンド:アレグロ
のどかで田園的なロンドです。A-B-A-C-A-B-コーダ、という構成です。Aは実に楽し気にピアノが語り、ヴァイオリンが続きます。Bはやや複雑で、聴きごたえのある第2テーマです。Cはヘ長調からト短調、変ロ長調という転調のうちに揺れる思いを美しく歌い上げます。コーダでは、これまで出てきたフレーズが形を変えて次々に登場し、ユーモアも感じさせながら曲を閉じます。
動画は、若々しい躍動感あふれる演奏です。コロナ禍の中の演奏で、マスクで表情が見えないのが残念です。
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Ludwig Van Beethoven:Sonata for Violin & Piano no.2 in A manor, Op.12-2
演奏:ヤープ・シュレーダー(ヴァイオリン)、ジョス・ファン・インマゼール(フォルテピアノ)
Jaap Schroeder (Violin), Jos Van Immerseel (Fortepiano)
3曲の中で一番モーツァルト的といわれますが、冒頭テーマの可愛く軽快なリズムとフレーズが、確かにロココな雰囲気を思わせます。ヴァイオリンパートも他の曲よりも平易なため、最初に書かれたと考えられています。しかし、第2主題はがっしりした感じで、何かを問いかけているようです。展開部も短いながらも緊張感が走り、ベートーヴェンらしさも十分も感じます。最後はピアノとヴァイオリンが何か言い合いをしているかのようです。
第2楽章 アンダンテ, ピウ・トスト・アレグレット
前楽章の屈託のなさから一転、イ短調の深刻な音楽になります。ヴァイオリンがしめやかに哀歌を歌い、ピアノが和します。アレグレットに近いアンダンテ、という微妙な速度表示です。時々暖かい光も差しますが、それを打ち消すヴァイオリンの鋭い響きが印象的です。第2主題はカノンのように掛け合いの中で進んでいき、昔語りが終わるかのように閉じます。
ロンドとは書かれていませんが、A-B-A-C-A-B-Aというロンド形式です。第1テーマ(A)は軽やかで小粋な感じ、第2テーマ(B)は少しの哀感を秘めた伸びやかで優美、第3テーマ(C)はヴァイオリンがニ長調でスケールの大きさを感じさせる歌を歌い、ピアノが合いの手を入れます。Aが帰る度に再びロココの優雅な世界に戻る思いがして、実に凝った作りの楽章です。
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Ludwig Van Beethoven:Sonata for Violin & Piano no.3 in E flat manor, Op.12-3
演奏:ヤープ・シュレーダー(ヴァイオリン)、ジョス・ファン・インマゼール(フォルテピアノ)
Jaap Schroeder (Violin), Jos Van Immerseel (Fortepiano)
第1楽章 アレグロ・コン・スピーリト
ベートーヴェンがその雄大さを発揮する変ホ長調だけあって、3曲中もっともスケールが大きな作品です。冒頭はさりげなく、ピアノの指ならしのような感じで始まりますが、この楽章のピアノ・パートは〝ピアニスト殺し〟として有名な難曲です。いよいよベートーヴェンが自分で演奏するために本気を出した、という感じを受けます。ピアノが主役の趣きではありますが、ヴァイオリンにもそれ相応の技も要求されています。第2主題は愛嬌たっぷりで親しみやすく、難曲とは感じさせませんが、それが曲者といえます。音は時に怒涛のように押し寄せ、さっと引いていきます。展開部はハ短調、ト短調、ハ短調、ヘ短調、変ホ短調、変ハ長調と転調し、その畳みかける調子には思わずのけぞってしまいます。まるでシンフォニーを聴いているかのように充実した楽章です。ベートーヴェンにしか弾けないような難曲を出版して、果たして売れたのかどうか心配になるくらいです。
第2楽章 アダージョ・コン・モルテスプレシオーネ
まず、ピアノが前楽章の興奮を鎮めるかのように、落ち着いた旋律を静かに奏でますが、この楽章の主役はヴァイオリンです。その歌は、ピアノの分散和音に支えられて、暗い森に響くかのように幻想的です。後半、いきなりのフォルテッシモに驚きますが、そのあとにこぼれ出るような音符が実にロマンティックです。複雑な思いを込めた音楽です。
力強く明快で、ベートーヴェンの変ホ長調らしいロンドのテーマです。明らかに、前の2曲と比べれてもスケールが大きく、工夫が凝らされています。テーマは変幻自在に加工され、各主題と有機的に連携され、綿密に設計されています。中期の「主題労作」への萌芽が見られるという人もいます。この作品12は、同じ曲集でも、ベートーヴェンの成長ぶりを感じることができて、次の作品が楽しみになるのです。
オペラ作曲家であったサリエリには、室内楽曲はほとんど残っていませんが、この曲を献呈されて、どのような感想を持ったのでしょうか。
サリエリは弟子からは一切謝礼は取らず、それどころか生活に困った弟子への援助を惜しまず、職を失った音楽家やその遺族のために互助会を作り、慈善コンサートを主催するなど、音楽家の生活を守るために尽くしたと伝わります。
史実からは、ライバルを蹴落とすためには手段を選ばないような陰険さは全く感じられません。
何よりこの曲集には、ベートーヴェンのサリエリに対する感謝の気持ちが込められているのです。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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