孤独のクラシック ~私のおすすめ~

クラシックおすすめ曲のご紹介と、歴史探訪のブログです。クラシックに興味はあるけど、どの曲を聴いたらいいのか分からない、という方のお役に立ちたいです。(下のメニューは横にスライドしてください)

過ぎ去った人生の春を取り戻すには。ハイドン:オラトリオ『四季』より第4部『冬』〝終曲〟

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プッサン『人生の踊り』

四季こそ人生、というメタファー

今回はハイドンのオラトリオ『四季』の13回目、第4部『冬』のおわり、すなわち『四季』全曲のグランドフィナーレです。

霞がただよい、温かい空気に包まれて山野に草花が萌え、雪が消えた畑を農夫が耕し、若者たちが楽しく野山に繰り出した『春』

夜明けにけたたましく鶏が鳴き、真夏の太陽が昇り、また、その暑さに人もケモノも打ちのめされ、さらに激しい雷雨が吹き荒れた『夏』

豊作の畑に収穫物があふれ、人々は苦労が報われた喜びに浸り、深まる秋に愛情をはぐくみ、狩に興じ新酒に酔いしれた『秋』

北風が吹き、山野は雪にとざされ、旅人は吹雪に道を失い、凍えながらたどりついた家の中では、村人が集まって楽しく夜なべ仕事をしながら、楽しく語り合っていた『冬』

季節はめぐり、あの春の喜びはどこへやら、再び厳しい冬となりました。

シモンはおもむろに、歌いかけます。

愚かな人間よ、この四季の移り変わりは、おまえの人生そのものの姿なのだ、と。

若さにあふれた青春、働き盛りの壮年期の夏、そして一定の功成った熟年期の秋、力衰え人生の終幕に向かってゆく老年期の冬。

シモンのアリアは、人生の冬を迎えた人が、自分の来し方を思い起して歌います。

あの若き日の楽しい日々はどこに行ってしまったのか?

若い胸に壮大に描いた人生設計はどこでどうなってしまったのか?

出世や金、名声が幸せと思って追い求めた結果はどうだったのか?

そして、シモンは結論を語ります。

死を前にして、残るものはただ、「徳」だけなのだ!

フリーメイソンの思想

「徳」というのは、漠然とした言葉ですし、「道徳」と言われるとお説教臭さを感じてしまいますが、東洋で言われる儒教的な徳とは少しニュアンスが違います。

儒教では、「仁・義・礼・智・信」の五徳が説かれ、〝他者への思いやり〟など、人間として大切な徳目が説かれていますが、その実践項目である「孝・悌・忠」になると、親の言うことには絶対的に従え、主君や国に忠実であれ、などと、上下関係の秩序を守ることが主体になってきます。

ハイドンの生きた18世紀後半のヨーロッパの啓蒙思想では、アメリカ独立革命フランス革命の基本理念となった「自由・平等・博愛」が「徳」の要素となり、むしろ反体制的な色彩が見られます。

その実践的な担い手となった組織が、秘密結社として名高いフリーメイソンです。

秘密結社というと、世界征服の陰謀でも企んでいそうな不穏なイメージがありますが、それは実体とはまるで異なります。

閉鎖的な会員制組織であるのは間違いないですが、今のロータリークラブライオンズクラブにもつながっていく、社会貢献や人間としての磨き合うことを主眼とした名士の集いなのです。

身分の上下はなく、そのメンバーには体制側である王侯貴族も多くみられ、まさに自由、平等、博愛の精神を同志で共有していました。

モーツァルトがウィーンに来てからのめり込み、父レオポルトハイドンを仲間に勧誘しました。

モーツァルトフリーメイソンに関する音楽を多数作曲し、最後のオペラ『魔笛では、フリーメイソンの秘儀をテーマにしたのは有名です。

秘儀を外に漏らした、ということで、モーツァルトフリーメイソンに暗殺されたという説もありますが、それは荒唐無稽な話です。

ただ、自由主義をもって鳴る皇帝ヨーゼフ2世も、その反体制性に危険な匂いを感じて、一時期抑制策を取り、ハイドンはその機会に脱退しています。

しかし、その理念はもはや近代社会の主要なイデオロギーとなっていました。

それゆえ、この『四季』のフィナーレでは、「徳」を讃えて幕を閉じるのです。

フリーメイソンと音楽についてはいずれ取り上げたいと思います。

人生の冬を迎えるにあたって

人間誰もが、人生の冬を迎えます。

楽しかった日々、思い出は二度とは戻ってきませんし、過ちや後悔するも、やり直すことはできません。

四季はふたたびめぐってきますが、人生はそうはいきません。

しかし、人生を通じて育んだ「徳」さえあれば、ふたたび人生の春を迎えることができる。

しかもそれは、永遠の春。

それがこのオラトリオのメインテーマだったのです。

ハイドンは終曲で、モーツァルトの『魔笛』の音楽をあえて模倣し、その理念を明確にしました。

聴衆には『魔笛』のテーマは周知のことでした。

『四季』はオラトリオとして分類されていますが、当時のコンサート告知や出版楽譜には「オラトリオ」の表示はありません。

聖書の物語を題材にし、神を讃える「聖譚曲」がオラトリオなのですが、『四季』では、神を讃える歌詞はわずかです。

終曲の骨子だけは聖書の詩篇から採られ、一応〝アーメン〟で終わりますが、この曲が神を讃えるのを目的にしたものではないことは、当時の聴衆にも常識でした。

『四季』は、きわめて充実したエンターテインメント作品として楽しまれたのです。

一方、前作のオラトリオ天地創造は、神の偉大な御業を描いたもので、まさに宗教曲でした。

ハイドンとスヴィーテン男爵は、2大オラトリオを、宗教曲と世俗曲の際立った対照として企画したのです。

それは、当時の人々の、敬虔な宗教的心情と、自由な近代的心情、両方に訴えるという巧妙なマーケティングに基づくものでした。

神、教会の生活指導がなくなった近代、人々が生きる指針として持たなければならないもの、それは「徳」。

モーツァルトハイドン、そしてベートーヴェンが『第9』で人々に呼びかけたのは、その理念にほかならないのです。

『四季』の作曲で力尽きた老巨匠

四季の初演は1801年4月24日ハイドン69歳。

ベートーヴェンはこの年、ピアノ・ソナタ〝月光〟を作曲しています。

ハイドンは、これまで見てきたように、大変な苦吟で『四季』を作曲しましたが、その苦労のあとは音楽には微塵も見受けられません。

当時の聴衆も、『天地創造』と『四季』は甲乙つけがたいと評価していました。

しかしハイドンは、『四季』を書き終えてから、頭痛熱に襲われるようになりました。作曲も思うようにできなくなり、『こうなったのはすべて〝四季〟のせいなのです。私はあの曲は書くべきではなかったのです。』と周囲にかこちました。

プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世が直接ハイドンに、作曲者としては『天地創造』と『四季』のどちらを評価しているのか?と尋ねたとき、ハイドンは躊躇なく『天地創造です。』と答えたということです。

しかし、これらのエピソードが『四季』の価値を落とすことにはなりません。

ハイドンは台本として『天地創造』の方を評価していたということと、『四季』はスヴィーテン男爵に無理を強要されたことが響いているのでしょう。

それにしても、70歳になろうという人の、創造力の偉大さには感嘆しかありません。

ハイドンが作曲の筆を措くのは、2年後の1803年でした。

ベートーヴェン交響曲第3番『エロイカ(英雄)』を作曲中で、ハイドンの跡を継ぐべくノリにノっていた頃です。

ハイドンは最後に出版した四重奏曲の楽譜に、次の言葉を記しました。

〝わが力すでに萎えたり。齢をかさね、力、衰えぬ〟

老巨匠に、世紀を超えて心からねぎらいのことばをかけたい思いです。

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ハイドン:オラトリオ『四季』第4部『冬』

Joseph Haydn:Die Jahreszaiten Hob.XXI:3

演奏:ジョン・エリオット・ガーディナー指揮 イングリッシュ・バロック・ソロイスツ、モンテヴェルディ合唱団

John Eliot Gardiner & The English Baroque Soloists, The Monteverdi Choir

ソプラノ(ハンネ):バーバラ・ボニー Barbara Bonney

テノール(ルーカス):アントニー・ロルフ=ジョンソン Anthony Rolfe Johnson

バス(シモン):アンドレアス・シュミット Andreas schmidt

第37曲 レツィタティー

シモン

乾燥した東の方から

身を切るような

氷の息吹が押し寄せてきた

それは空気を通して肌を刺し

霧を呑みつくして

ケモノの息を凍らせる

怒れる独裁者、冬将軍の勝利は

いまや一面に広がり

自然界のすべては

打ちのめされて

物音ひとつしない

前曲の、村人の大笑いを醒まし、現実に戻すかのように、シモンが再び、容赦ない冬将軍の厳しさを伝えます。 

第38曲 アリアとレツィタティー

シモン

見るがいい

惑わされた人間よ

これはおまえの人生だ

おまえの短い春はしぼみ

おまえの夏の力も失われた

おまえの秋もすでに枯れ

いまや灰色の冬が近づいて

開かれた墓をおまえに指し示している

輝かしい人生設計は

いまやどうなったのか

幸福への飽くなき欲求

むなしい栄光の追求

つらい心労の苦しみはどうしたのか?

贅沢三昧の楽しい日々は

いまどこに行ったのか?

夜もすがら酔い心地で過ごした

あの喜びの夜はいずこに?

そのようなものは

いまはどこへ行ってしまったのか?

それらはまるで

夢のように消え失せてしまった

ただ残っているのは、徳だけだ

(レツィタティーフ)

ひとりとどまる徳は

年月の移り変わりにも

苦しみや喜びにも変わらず

至高の目標にまで

わたしたちを導いてくれるのだ

シモンが続いて歌うのは、アリアからレツィタティーフが続くという自由で斬新な形式の曲です。ふつうは逆の順番ですが、それもきっぱり分かたれているわけではなく、融合した斬新な歌なのです。人間の人生を季節の移り変わりにたとえたメタファーで、しみじみと述懐する場面で使われるのは、モーツァルトト短調シンフォニー(第40番)第2楽章の、ひらひらと枯葉が一枚ずつ舞い落ちるような下降音型です。しかしそモーツァルトは、ハイドント短調シンフォニー(パリセットの第83番〝めんどり〟)をお手本にその曲を書いたのですから、このふたりの関わりの深さを感じます。

一転、音楽はアレグロになり、激しく、過ぎ去りし日々の行方を断じますが、テンポは一定を保っています。

やがて『夢のように』という部分で三つの和音が鳴りますが、15年後の1826年、17歳のメンデルスゾーンが、これを『真夏の夜の夢』序曲の冒頭に使います。その曲を知ってしまってからかもしれませんが、まさに夢の世界に誘われるような心地がします。

再び、現実に戻るようなレツィタティーフで、徳の価値を訴え、終曲につなぎます。

第39番 三重唱と二重合唱(終曲)

シモン

そして、大いなる朝がやってきた

全能なるお方の二番目のことばが

苦痛と死とから

永久に解放して

新しい生活を私たちに呼び覚ましてくださった

ルーカス、シモン

天の門が開き

聖なる山が姿を現した

そのいただきには

神の宮殿がそびえ

そこには憩いと平和が待っている

第1合唱

誰がこの門を入っていけるのか?

ハンネ、ルーカス、シモン

悪意を持った者は遠ざけられ

善意の者が入る

第2合唱

誰がこの山を登っていけるのか?

ハンネ、ルーカス、シモン

その口に真実を語る者が

第1合唱

誰がこの宮殿に住むことができるのか?

ハンネ、ルーカス、シモン

貧しい人や困っている人を助けた者が

第2合唱

誰がそこで平和を楽しむことができるのか?

ハンネ、ルーカス、シモン

潔白な人に保護と正義を与えた人が

第1合唱

おお、ごらん

大いなる朝がやってくる

第2合唱

おお、ごらん

もう明るくなった

第1・第2合唱

天の門が開き

聖なる山が姿を現した

第1合唱

もう過ぎ去った

第2合唱

もう収まった

第1合唱

苦しみに満ちた日々は

第2合唱

冬の嵐の人生は

第1・第2合唱

末永い春が支配し

限りない至福が

正しい報酬として与えられる

ハンネ、ルーカス、シモン

わたしたちにも

いつかその報酬が与えられるように!

みんなで努力しよう!

勝ち取ろう!

第1合唱

勝ち取ろう!

第2合唱

待ち焦がれよう!

第1・第2合唱

この褒美を手に入れることができるよう

わたしたちをお導きください

おお、神よ!

わたしたちに力と勇気をお与えください

わたしたちは歌います

そしてわたしたちは入ってゆきます

あなたの栄光の国へ

アーメン!

トランペットが嚠喨と鳴り響き、力強い行進曲が始まります。前作『天地創造』のあと、神の言葉に背いて楽園追放されたアダムとイブ(エヴァ)。その子孫としての人類は、大自然の恵みに生かされながら、時にはその災いに打ちのめされながら、悲喜こもごも、苦労をして生き続けてきました。その日々を描いたのが『四季』ですが、いよいよその苦しい日々から解放されるチャンスがやってきました。ルーカスとシモンが、天の門が開き、神の住まう聖なる山が目の前に現れたと告げます。その音楽は、モーツァルト魔笛』の第2幕の二重唱『女の奸計から身を守れ』からきています。

群衆の問い、〝誰が門に入れるのか〟に対し、ハンネ、ルーカス、シモンがその条件を答えますが、これも『魔笛』第1幕での王子タミーノと僧侶の問答を彷彿とさせます。その歌詞は聖書の詩篇第15篇からきています。

主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り

聖なる山に住むことができるのでしょうか。

それは完全な道を歩き、正しいことを行う人。

心には真実の言葉があり

舌には中傷をもたない人。

友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。

主の目にかなわないものは退け

主を畏れる人を尊び

悪事をしないとの誓いを守る人。

金を貸しても利息を取らず

賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人。

これらのことを守る人は

とこしえに揺らぐことがないでしょう。*1

この内容は、聖書の徳目ではありますが、近代市民社会のモラルに合致するものです。いや、今問題になっているネット上のモラルとしても通じます。農民ハンネ、ルーカス、シモンは昇華し、ついにここで天使の声を代弁することになります。これこそハイドンの望んだ展開でした。行進曲は、正しい生活をした人が堂々と天の門に入場し、揚々と聖なる山を登り、天上の幸福へと進んでいく姿に他なりません。

曲半ばで、合唱が朝の到来を告げ、再び春が訪れて季節が一巡したことを示します。

スヴィーテン男爵は最後の合唱を8声の二重フーガにしたいと考えましたが、ハイドンはこれを却下してふたつの合唱をひとつにし、シンプルで力強い4声のフーガとしました。 その代わり、ホルンとトランペットを3つのパートに分割し、輝かしいファンファーレを響かせて、この大作の幕を下ろします。

この圧倒的なフィナーレに、後進のベートーヴェンシューベルトメンデルスゾーンワーグナーは大いに啓示を受けました。

18世紀を代表する作曲家ハイドンですが、その最後の力で19世紀の幕を開けたのです。

ハイドンは生前『神は私に朗らかな心を与えてくれたから、神に朗らかに奉仕しても神は私を許されるであろう。』と記しました。

老巨匠は今、天上で永遠の春を楽しんでいるのでしょう。 

 

動画は、ベルギーのバート・ヴァイ・レイン指揮ル・コンセール・アンヴェルス、オクトパス・シンフォニー合唱団の演奏です。

第38曲


Haydn The Seasons [HD] - Winter part 5: looking back

第39曲(終曲)


Haydn The Seasons [HD] - Winter part 6: Enlightenment - the final chorus

 

ハイドンのオラトリオ『四季』はこれにて幕です。

今回もお読みいただき、ありがとうございました。

 

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*1:聖書(新共同訳)