ベートーヴェンが自作で最高としたシンフォニー
ベートーヴェンは、シンフォニー第7番の作曲を1812年5月頃にいったん終え、間をおかず第8番 ヘ長調の作曲にとりかかり、その年の年末までに完成させています。
その後、第7番にも細かい修正を加えて年明けに最終形に完成させていますので、この2曲はセットとして平行して創られたといってよいでしょう。
ちょうど、第5番〝運命〟と第6番『田園』と同じような兄弟作品です。
ベートーヴェンは、この第8番のあと、12年にわたってシンフォニーを作曲せず、最後の〝第九〟に至りますので、創作上いったんの区切りとなる作品です。
しかしながら、この〝第八〟は、9曲の中で一番影が薄い曲かもしれません。
演奏時間がおよそ30分と、古典派の古いシンフォニーの規模に戻っています。
さらに第3楽章が〝テンポ・ディ・メヌエット〟とされていて、ベートーヴェンがスケルツォに置き換えてきたメヌエットが復活しているようで、まるでハイドンやモーツァルトのシンフォニーに〝先祖返り〟しているように見えるのです。
これまで革新を続けていたベートーヴェンが、第九の一歩手前に、なぜ?というわけです。
ベートーヴェン自身、この曲をたびたび〝小さなシンフォニー〟と呼んでいたのも、この曲が軽く見られる一因ですが、一方で彼は、『このシンフォニーが評価されないのは、あまりに優れているからだ。』とも、『自分の最も優れたシンフォニー』とも言っています。
この曲が凡作だと言う人はいませんが、第7の壮大さに比べると、いまさら何でこんな軽い作品を書いたのか、物足りない、ということは昔から言われてきました。
しかし、この曲の魅力は短さにこそあります。
まるで、果汁のエキスが凝縮されたシロップのように、短い時間の中に充実した内容がギュッと詰まっているのです。
第7と同じように明るい曲調ですが、人を圧倒させるようなところはなく、寛いだような、親しみやすさが際立っています。
ベートーヴェンが、しっかりした狙いと意図を持って作曲したのは明らかですから、そのあたりを探ってみたいと思います。
風雲急を告げた、ヨーロッパ情勢の中で
まずは、作曲した頃のベートーヴェンを取り巻く状況を振り返ってみます。
1812年6月23日、フランス皇帝ナポレオンは、自分の出した大陸封鎖令を守らないロシアを懲らしめるため、ヨーロッパ史上最大となる77万の大軍を率いて攻め入りました。
2回にわたってウィーンを占領され、さんざんナポレオンに苦しめられたオーストリア・ハプスブルク家は、1810年に皇女マリー・ルイーズをナポレオンの皇后にすることでその矛先から逃れることができ、ホッと一息ついていました。
ナポレオンも、ヨーロッパ一の名家の血を我が家に入れることによって、皇帝世襲に向けて箔をつけようとしたのです。
ハプスブルク家の娘と結婚すると、えてして最終的には没落したり領地を乗っ取られたりするのですが。
前回触れたように、1812年7月にベートーヴェンがゲーテに会うために訪れたボヘミアの高級保養地テープリッツには、オーストリア皇帝フランツ2世とその皇后、ザクセン王、ワイマール公などのドイツ諸侯が集まっていました。
さらには、夫が遠征中のフランス皇后マリー・ルイーズまで、里帰りの保養という名目で来ていました。
ナポレオンのロシア遠征がどうなるか、その成り行きで国際情勢は大きく変わりますので、温泉地で夏の避暑と保養と称して、王侯たちがひそかに裏サミットをしていたわけです。
詩人にしてワイマール公国の宰相的地位にいたゲーテは、その関係でテープリッツにいたということです。
ベートーヴェンは、そんな政治的な場で、憧れのゲーテと邂逅したわけです。
また、テープリッツに到着したその日に、ベートーヴェンは〝不滅の恋人〟への手紙を書きます。
その手紙は、死後にベートーヴェンの遺品から発見されたので、実際に出されたのか、出したけれども返却されたのか、分かりません。
ただ、その内容から、ベートーヴェンはテープリッツに来る前に、ある女性と深い関係になったものの、その関係は先の見えないものだったことが推察されます。
両想いとなった愛の喜びと、それでも別れなければならない悲しみがないまぜになっている切ない手紙です。
おそらくはベートーヴェン最後の失恋であり、結婚願望を最終的に諦めた時期でもありました。
このシンフォニーのスケッチが進められたのはそんな状況でした。
弟の結婚に反対したものの
ベートーヴェンは9月末にウィーンに戻りますが、リンツに住む弟ヨハンが家政婦と結婚するという知らせを受けます。
それを阻止するべく、あわててリンツに向かいますが、弟は兄の反対を押し切って11月に結婚してしまいます。
ベートーヴェンはひと月半をリンツで過ごしますが、その間ずっと、このシンフォニーの作曲に取り組みました。
モーツァルトもリンツでシンフォニーを作曲しましたが、この曲は〝ベートーヴェンのリンツ〟といってもよいでしょう。
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11月半ばにウィーンに戻って、年末までに完成させています。
これほど身辺慌ただしい時期にこのシンフォニーは創作されたのです。
しかし、明るく軽妙な、このシンフォニーからは、暗い影は何も見い出せません。
むしろ、世事多忙だったからこそ、現実世界から離れ、芸術の世界に没頭したのかもしれません。
あえて言えば、第7はゲーテ前、第8はゲーテ後ですから、彼との深い対話から得た影響はこの曲にこそ反映している可能性もあります。
また、第2楽章の、時計のように刻むリズムとメロディは、メトロノームを模したもの、ということがよく言われます。
メトロノームの発明者といわれるヨハン・ネポムク・メルツェル(1772-1838)は、自動オーケストラ機械というべき「パンハルモニコン」を発明し、そのためにベートーヴェンに「ウェリントンの勝利またはビトリアの戦い(戦争交響曲)」の作曲を依頼しました。
その評判がよいので、メルツェルはあらためてちゃんとした交響曲用の作品に編曲するよう勧め、それを引っさげて一緒に英国に行こう、とベートーヴェンに持ちかけます。
ベートーヴェンは戦争の影響やパトロン貴族たちの破産などで年金がちゃんともらえなくなっていたので、英国行きに乗り気になります。
ロンドンに行って大儲けした師ハイドンを思い出したのでしょう。
しかしメルツェルは、ウィーンで戦争交響曲が大喝采を浴びると、その楽譜を無断でミュンヘンに持っていき、そこで上演します。
怒ったベートーヴェンは絶交し、英国行きの話は立ち消えます。
メルツェルは、ハイドンをロンドンに招いた名プロデューサー、ザロモンに比べたらかなり不誠実な人間で、ベートーヴェンは組んだ相手が悪かったようです。
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しかし、メルツェルが発明したメトロノームを、ベートーヴェンは大いに評価していました。
ベートーヴェンは、各地で演奏される自分の作品が、まちまちのテンポであることを苦々しく思っていました。
ベートーヴェンは1817年12月17日に、自作のシンフォニー第1番から第8番までのテンポ指定を、ライプツィヒの『総合音楽新聞』に一覧として掲載しました。
過去の作品にも遡ってテンポを決めたわけです。
しかし、これは後世の指揮者たちを大いに悩ませました。
20世紀半ばまでは、ベートーヴェンの指定テンポは、せかせかとして速すぎる、とされており、何かの間違いだろうということで、もっとゆっくり、じっくりとした演奏が主流でした。
それを覆したのが、1980年代以降の古楽器演奏です。
ベートーヴェン当時の楽器は、特に管楽器などはバルブもキーも未発達で、テンポの速い演奏は至難の業ですが、弦楽器は音の立ち上がりが遅いのが、逆にキビキビとしてキレのある響きとなり、これこそがベートーヴェンのオリジナルの音、という感じがします。
また、もうひとつの悩みどころは、第3楽章のメヌエットやスケルツォです。
中間部にトリオがありますが、普通は主部とテンポが異なるはずです。
第4番、第6番、第7番のトリオは、別のテンポ表示があり、イタリア語の速度指示も別なものが書き込まれていますが、第1番、第2番、第3番、第5番、そしてこの第8番のトリオは、主部とは特に別の指示はないのです。
これも議論がありますが、ベートーヴェンは同じテンポでよしとしていた、と考えられます。
ただし、全く同じテンポでよいかというと、そうとも言い切れません。
メルツェルのメトロノームの刻みは、160、152、144、138、という風になっていますので、ベートーヴェンの真意はその中間にあったかもしれないのです。
そのあたりは、指揮者の解釈の余地は残されているわけです。
さて、そんな文明の利器メトロノームを曲にしたのがこの第2楽章かというと、その証拠はありません。
そこには、またあの大ウソつき、ベートーヴェンの自称秘書、シンドラーがでっちあげた可能性が高いのです。
シンドラーはその『ベートーヴェン伝』で、メルツェルがウィーンを離れるときの送別パーティーにて、ベートーヴェンが記念としてその場で作曲して贈った『タタタ・カノン』がこの曲のもとになった、としています。
しかしそのパーティーが行われたのは1812年のことであり、メルツェルがメトロノームを発明したのは1815年ですから、明らかに嘘です。
『タタタ・カノン』はシンドラーが逆にこのシンフォニーを引用して作った贋作なのです。
それにしても、シンドラーの創作したエピソードがうまく出来過ぎていて、何度夢を壊されたことでしょうか。
ちなみに、1813年にメルツェルはメトロノームの前身となる「クロノメーター」という機械を作っていました。
当時の新聞に次のような記事が載っています。
メルツェル氏は、問題の解決の乗りだし、最近展示された見本でウィーンの第一級の作曲家たちを完全に満足させることに成功した。これは間もなく国内のあらゆる作曲家たちの注意を引くものになろう。この見本は、作曲家のサリエリ、ベートーヴェン、ヴァイグル、ギロヴェッツ、フンメルが試みた様々のテストにもたえた。宮廷楽長サリエリは、大作のハイドンの『天地創造』にまずこのクロノメーターを試してみた。そして、その楽譜の種々の段階に応じたあらゆるテンポを認めた。ベートーヴェン氏は、氏自身の考えているテンポが非常にしばしば誤解されるのを残念がっていて、あらゆる場所でそうした氏自身のテンポでその輝かしい楽曲の演奏を保証するという喜ばしい手段として、この発明をみなしていた。*1
この時点では、クロノメーターはメトロノームは違う機構の機械で、メルツェルは1815年にアムステルダムでヴィンケルという技師の作った機械に接し、それをパクッてメトロノームを作ったということです。
クロノメーターという名は一般的には航海で使う精密な時計のことを指しますが、メトロノームの前身として一瞬だけ登場したものだったのです。
ベートーヴェンはテンポにこだわってこの機械を利用した初めての作曲家ですから、その音を記念にシンフォニーに入れた、ということは考えられます。
しかしそれはメトロノームではなく、クロノメーターだったということになります。
では、聴いていきましょう。
ちなみに、ベートーヴェンの9曲のシンフォニーのうち、調性がかぶっているのは、ヘ長調の『田園』と第8番だけです。
ベートーヴェンがこの曲を〝小さなシンフォニー〟と呼んだのは、『田園』と比べてのことだったかもしれません。
Ludwig Van Beethoven:Symphony no.8 in F major, Op.93
演奏:ホルディ・サヴァール指揮 ル・コンセール・ナシオン
Jordi Savall & Le Consert des Nations
ベートーヴェンのシンフォニーは、いつもその開始から意表を突く仕掛けがあって驚かされますが、この曲も例外ではありません。3拍子の1拍目からいきなり始まるのです。古典的な様式に回帰していると言われるシンフォニーですが、1拍のアウフタクトも置かないというのはハイドンでもモーツァルトでもありえない開始です。〝いきなり!シンフォニー〟です。
トゥッティによる強奏で示される第1テーマは、何か楽しいことが始まるようなワクワク感に満ちています。続いて、3拍子らしい力強い動きが雄大に奏されますが、第7番の壮大さとはまだ違った、優雅な趣きがあります。第2テーマはファゴットの伴奏に乗って、ヴァイオリンが歌い出します。
転調は大胆で、これも経過なくいきなり遠隔調にいったりします。ベートーヴェンらしい強弱のメリハリが強烈で、再現部の開始はなんとfffです。フォルテの間にはさまる管や弦のなんと愛らしくユーモラスなことか!
第2楽章 アレグレット・スケルツァンド
第7番と同様、緩徐楽章でありながらゆっくりではない楽章です。「スケルツォ」は形式を表す言葉ですが、「スケルツァンド」は曲の表情を表しています。
木管がスタッカートで16分音符を刻みますが、メトロノームを表したというのはでっち上げだったとしても、時計の秒針は連想せざるを得ません。振り子の原理を利用したメトロノームと異なり、前身のクロノメーターは、時計に近い機構だったと考えられますから、それをイメージして作曲されたかもしれない、という可能性はあります。
ハイドンの〝時計〟よりもハイテンポというわけです。
2部構成をとっており、3部形式のスケルツォとは明らかに違います。
曲が進むにつれ、弦と管が呼び交わすさまも実に楽しく、終わりも実にユーモラスで、思わず顔がほころんでしまいます。
第3楽章 テンポ・ディ・メヌエット
メヌエットが戻ってきた、と言われますが、表記は「テンポ・ディ・メヌエット」、つまり、メヌエットのテンポで、ということですから、正規のメヌエットではありません。古風にみせているところに、実は相当な皮肉が隠されているのです。ホルン、トランペット、ティンパニはそれぞれに出るところをとちって、素っ頓狂な音を出してしまい、それでも曲は典雅であろうと、かまわず続けていきます。これは、当時の成金市民たちが貴族の生活をまねた〝ビーダーマイヤー〟スタイルを痛烈にからかっているのです。〝笑うところ〟なわけです。トリオは優しく穏やかに進みますが、前述のように主部とのテンポの違いはなく、メヌエットとはいえません。主部にダカーポしますが、均等ではなく、ぎこちなさとダサさをあえて醸し出している、ベートーヴェン一流のユーモアなのです。
第7番のフィナーレに勝るとも劣らない大騒ぎですが、より洒落が効いた楽章です。ロンド形式でもなく、かといってソナタ形式でもない自由なスタイルで、縦横無尽にはしゃぎまわります。
ファゴットとティンパニの扱い方も斬新で、まるでアラビアの音楽のようなエキゾチックな雰囲気も漂わせます。
音楽の流れは留まることなく盛り上がってゆき、現代的なクライマックスはしびれるようです。
終わりそうで終わらない、ユーモアたっぷりのコーダですが、曲が終わったあとのいたずらっぽいベートーヴェンの表情が思い浮かびます。
この曲は、古典回帰したと言われますが、内容は斬新で、むしろ新しいものです。
しかし、全楽章に通貫するテーマは〝ユーモア〟日本語で言えば〝諧謔〟であり、これはハイドンのシンフォニーのコンセプトでもあります。
その意味では、ベートーヴェンは師ハイドンが得意とした遊び感覚、人を笑わせる愉しさを、この曲で自分流にやってみた、といえるのではないでしょうか。
シンフォニーの原点に立ち戻って、それを永遠のものにした、という満足感が、ベートーヴェンをして、この曲が自作で最高のもの、と言わしめたと思うのです。
ガーディナーも、この動画でベートーヴェンのハイドンへ思いを語っています。
Symphony No. 8: A tribute to Haydn | Gardiner and the ORR on Beethoven's Symphonies
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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