生まれは楽長の孫
しばらくベートーヴェンが傑作を次々に世に送っていた中期の作品を聴いてきましたが、今年はベートーヴェンの生誕250周年ですので、ここで彼の生い立ちに戻り、その成長の軌跡を追い、若き日の作品を聴いていきたいと思います。
ベートーヴェンは、バッハやモーツァルトと同様、音楽家の家に生まれました。
それも、宮廷楽長の孫というエリートです。
ただ、そのお祖父さんはパン屋兼レース卸売業の家に生まれましたので、一族が代々音楽を生業としていたバッハとは違います。
モーツァルトの父レオポルトも副楽長でしたが、その親は製本業、生家は代々石工職人です。
ヘンデルは床屋兼外科医の息子、ハイドンは車大工の息子でしたから、18世紀の音楽家たちは皆職人階級の出自ということになります。
音楽家そのものも職人とされていましたから、特に不思議でもないということになります。
ベートーヴェンという名はいかにも重々しく響きますが、ポルシチなどに入っている根菜ビート(beet)の農場(hoven)、という意味ですから、ご先祖は農村出身だったかもしれません。
祖父は同じルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンという名でした。
同じ、というより孫が偉大なお祖父さんの名をもらったのですが。
出身はフランドル(フランダース)地方の古都メッヘレンです。
今はベルギーにあり、ブリュッセルとアントワープの間あたりです。
名前の〝ヴァン (van) 〟はオランダ、ベルギーにある名前で、ハイドン、モーツァルト、そしてのちにベートーヴェンもお世話になるヴァン・スヴィーテン男爵にもついていますが、彼もオランダ出身です。
ただの名前なのですが、ミドルネームに使われると、ドイツ貴族であることを示すフォン(von)とまぎらわしく、ベートーヴェンが貴族社会に受け入れられるのに役立ったと言われています。
コンサートのポスターや出版楽譜に略して、L.v.Beethoven と記されると、まさに貴族っぽいのです。
ベートーヴェンはその勘違いを大いに利用させてもらったといえるでしょう。
祖父ルートヴィヒは、5歳のときにメッヘレンの教会の少年聖歌隊員になります。
これがベートーヴェン家の音楽キャリアのスタートとなります。
ハイドンもシューベルトも、少年合唱団から音楽の道に入りました。
13歳からはオルガンも弾けるようになり、周囲のあちこちの教会からもオルガニストとしてひっぱりだこに。
一方、声変わりのあともテノール歌手、のちにバス歌手に転向して名声を得、1733年に運命の出会いを迎えます。
ライン河畔の宮廷都市・ボン
領内の教会を巡回していたケルン大司教(選帝侯)クレメンス・クラウスにその歌声を気に入られ、ボンの宮廷歌手として引き抜かれたのです。
ケルン大司教は、神聖ローマ皇帝を選挙で選ぶことのできる7人の選帝侯のひとりです。
選帝侯は、皇帝カール4世が1356年に金印勅書で、マインツ大司教、トリーア大司教、ケルン大司教の3人の聖界諸侯と、ボヘミア王、ライン宮中伯、ザクセン公、ブランデンブルク辺境伯の4人の世俗諸侯を、「ローマ王(実質的にはドイツ王)」の選挙人として定めたのははじまりです。
ローマ王に選ばれた者は、イタリアに遠征して教皇に戴冠してもらってはじめて皇帝になれるのですが、ドイツからイタリアに行くのは大変なので、ハプスブルク家のマクシミリアン1世からは教皇の戴冠なしでなし崩しに皇帝を称せることになりました。
ルートヴィヒが雇われたのは、そんな有力な選帝侯の宮廷だったのです。
ただ、ケルン大司教は中世に領内の司教たちとトラブルを起こし、司教座大聖堂のあるケルンに、大きなミサのとき以外は〝出入り禁止〟になってしまいます。
そのため、ケルンから20Kmほど離れたライン河畔の小さな都市、ボンに宮廷を置くことになりました。
ボンは小さいながらも、代々の選帝侯が文化芸術を保護したため、落ち着いたインテリジェンス漂う街となりました。
第2次大戦後、東西に分かれたドイツで西ドイツの首都となりましたが、それは、フランクフルトのような大都市を首都にすると、そのまま定着してしまいかねないので、あくまでもドイツの首都はベルリンであり、ボンは〝仮の首都〟ということを示すためでした。
ケルンに出禁となった大司教が仮の宮廷を置いたという歴史からも、その意味があったのです。
また、ドイツ精神の大きな支柱であるベートーヴェンの出身地であることも加味されていたでしょう。
父ヨハンと、母マリア
ルートヴィヒは21歳でボンの宮廷に勤めることになり、結婚して3人の子供を授かります。
成人したのは3番目に生まれたヨハン(1740-1792)だけでしたが、これがベートーヴェンの父です。
ヨハンは親ゆずりで音楽の才能があり、宮廷の少年合唱団に入団し、長ずると、無給でしたが宮廷テノール歌手として雇われます。
1761年にクレメンス大司教が亡くなり、代わりにマクシミリアン・フリードリヒが新大司教として着任すると、祖父ルートヴィヒは宮廷楽長に抜擢されます。
廷臣名簿では序列第3位とされていますから、音楽の才能だけでなく、世渡りも上手で、立派な宮仕えぶりだったと思われます。
また、当時のボンではオペラ上演が盛んで、ルートヴィヒはバス歌手として時には主役を歌ったということです。それは死の年まで続きました。
息子ヨハンは、1767年に、トリーア大司教の料理長の娘で、21歳にして未亡人になってしまったマリア・マグダレーナ(1746-1787)と恋愛結婚します。
選帝侯宮廷の宴席や儀式を仕切る料理長の娘ですから、父親の地位、職責は楽長に勝るとも劣らず、身分的に不足はないように思いますが、父ルートヴィヒは不満だったようです。
せっかく宮廷楽長になったのですから、息子にはもっと上流階級の娘と結婚させて、家格を上げたいという野望があったのかもしれません。
しかしこのベートーヴェンの母マリアは、真面目で信心深く、優しくて聡明だったと複数の史料に記録されており、ほどなく舅にも受け入れられたと考えられます。
その墓碑には、ベートーヴェンの母に対する言葉『彼女は私にとって大変素晴らしい愛すべき母であり、私の最良の友であった』が刻まれています。
ヨハンとマリアの間には5男2女が生まれましたが、成人したのは、2番目に生まれて長男となったベートーヴェンと、ふたりの弟カールとヨハンだけでした。
このふたりの弟は、ベートーヴェンの生涯に良くも悪くも大きな影響を与えます。
第1子と第5子は生後数日、第6子は2歳半、第7子は1歳半で亡くなっており、マリアは先夫との一人の子もすぐに喪っていて、その精神的ショックと身体的負担は想像を絶します。
当時の出産育児の危険度は非常に大きなものでした。
ベートーヴェンは、おそらく1770年12月16日に、屋根裏部屋で産声を上げました。
おそらく、というのは、生家近くの聖レミギウス教会の洗礼簿に、洗礼を受けたのが12月17日とあるので、生まれたのはたぶん前日だろう、ということです。
事情によっては生まれて数日後、数週間後に洗礼、ということもありうるのですが、当時のこの地方(ラインラント)には、出生の24時間以内に洗礼を受ける、という習慣があったため、偉大なるベートーヴェンの生誕は12月16日と推定されている、というわけです。
記念すべきその部屋と家は今も残っていて、ベートーヴェン生家記念館(ベートーヴェン・ハウス)として公開されています。
祖父の楽長はこの孫を可愛がり、手をつないで歩く姿が見られたということでしたが、ベートーヴェンが3歳の誕生日を迎えてまもないクリスマス・イヴに、脳卒中で急逝してしまうのです。
61歳という当時としては普通の寿命でしたが、あと少し生きていれば、孫に類まれな音楽的才能を見出したはずなのに、惜しいことです。
祖父が死ぬと、祖母はアル中になって廃人同様の扱いで修道院に送り込まれ、2年後に他界します。
祖母の記録はほとんど残っておらず、ベートーヴェン家のタブーのような感じがします。
父による教育という名のDV
楽長であった祖父が亡くなったあと、一家はどんどん落ちぶれていってしまいます。
父ヨハンは、祖父の後釜として当然自分が楽長に任命されると思い、楽長にふさわしい広い家に引っ越しまでしているのですが、任命されたのは別のベテラン楽団員でした。
ヨハンにもひとかどの音楽の才能はあったようですが、祖父ほどではなかったようです。
失意の父は祖母と同様、深酒に溺れていきます。
そんな中で、ヨハンが気づいたのは、息子ルートヴィヒの才能でした。
これはいける、と思った彼は、息子にピアノやヴァイオリンの猛レッスンを課しました。
しかしその指導法は、スパルタを通り越して、DVそのものだったのです。
夜中に酔っ払って帰宅した父が、寝ている息子を叩き起こして、明け方まで練習させたというのは、ベートーヴェンの伝記には必ず書いてあるエピソードです。
ベートーヴェンは心底音楽が好きだったので、それで音楽嫌いにはならなかったのですが、楽譜通りに弾く定型的な練習よりも、自由に即興的に奏でる方が好きだったようです。
すでに作曲家の片鱗が出ているわけですが、それを父に見つかったときはただでは済まず、なぐられたり、地下室に閉じ込められたりしました。
幼少期に虐待を受けた経験が性格形成に及ぼす影響は大きいですから、成人後のベートーヴェンの、周囲とのギクシャクしたコミュニケーションぶりの一因になっているといわれています。
父ヨハンは、自分がいけていない分、息子をモーツァルトのように神童として売り出し、それで大儲けしようと考えたのです。
本人もずっと気づかなかった年齢詐称
そしてついに、コンサートデビューの日がやってきました。
父ヨハンは次のように新聞広告を出します。
本日、1778年3月、シュテルン通りの音楽堂において、選帝侯邸付テノール歌手ベートーヴェンは、ふたりの弟子、すなわち侯邸付コントラルト歌手アーヴェルドンク嬢と6歳の小さな息子を、つつしんで世に送り出す所存であります。*1
ここで父ヨハンは、息子を6歳としていますが、実際には7歳3ヵ月でした。
神童効果を高めるため、芸能人よろしく年齢詐称をしたわけです。
一度世に出してしまった以上、訂正するわけにはいきません。
ベートーヴェン自身もこの年令をずっと信じていて、40歳のときにテレーゼ・マルファッティとの結婚準備のため、洗礼証明書をボンから取り寄せてはじめて、自分の本当の年令を知ることになるのです。
証明書を見ても、何かの間違いではないかと、にわかに信じなかったといいます。
コンサートの広告では、クラヴィーア・コンチェルトとトリオを数曲演奏する、とありますが、ケルンで行われたこの演奏会で、当日どんな曲を弾いたのか、また評判はどうだったのか、については記録は残っていません。
ただ、父ヨハンは、モーツァルトの父レオポルトには、教育者としてもマネージャーとしても到底及ばなかったのは間違いないでしょう。
よき師を得て
しかし、選帝侯の文化興隆政策によって、ボンには優秀な音楽家が呼ばれ、また旅行で立ち寄り、ベートーヴェンが多くの教えや刺激を受けることができたのは、かけがえのない幸運でした。
祖父の同僚でベテラン宮廷オルガニストのヴァン・デン・エーデン、流しの楽団の役者トビアス・フリードリヒ・プファイファーからはクラヴィーア、ベートーヴェン家に同居していた宮廷楽師のフランツ・ゲオルク・ロヴァンティーニからはヴァイオリンとヴィオラを習いました。
ミュンスター教会のオルガニスト、ツェンゼンからはオルガンを学び、彼は『10歳のこの少年の方が20歳の同門生より優っていた』と書き残しています。
オルガンは、フランシスコ教会のコッホからも学び、この教会と、ミノリート会教会の両方で、ベートーヴェンは10歳頃には立派なオルガニストの仕事をしていました。
また、祖父や父とも親しかった優れたヴァイオリニスト、フランツ・リース(1755-1846)からもヴァイオリンの手ほどきを受けましたが、この人にはベートーヴェンはこれからかなりお世話になることになります。
その恩返しとして、後年、その息子のフェルディナンド・リース(1784-1838)を弟子にしますが、ベートーヴェンの高弟のひとりとして有名です。
そして、ボン時代の最大の師は、クリスティアン・ゴットロープ・ネーフェ(1748-1798)ですが、そのお話は次回にします。
今回は、ネーフェの指導のもと、1782年にはじめて出版した作品、『ドレスラーの行進曲によるクラヴィーアのための9つの変奏曲 WoO63』を聴きます。
この初版譜にも、10歳のベートーヴェン作、と印刷されていますが、ネーフェも本当の年令は知らなかったのです。
マンハイムのゲッツ社から出版され、ヴォルフ・メッテルニヒ伯爵夫人フェリーチェに献呈されました。
今聴くことができるベートーヴェンの最初の作品です。
ベートーヴェン:ドレスラーの行進曲によるクラヴィーアのための9つの変奏曲 WoO63
Ludwig Van Beethoven:9 Variations on a March by Dressler, WoO63
演奏:ロナルド・ブラウティハム(フォルテピアノ)
Ronald Brautigam (Fortepiano)
テーマが取られたエルンスト・クリストフ・ドレスラー(1734-79)は、ウィーンやカッセルで人気を博したテノール歌手です。いくつかの器楽作品を作曲していますが、この曲の原曲は失われています。
最初の曲が、ベートーヴェンの〝宿命的な調〟といわれるハ短調であるのも運命を感じます。葬送行進曲のようなマーチは、哀調の中にもマエストーソの力強さを秘めていて、これから始まるベートーヴェンの苦難の人生のスタートにふさわしく感じます。このテーマをベートーヴェン自身が選んだのか、師ネーフェが与えたのかは分かりません。
第1変奏は伴奏の音型を変化させ、第2変奏は第1変奏の伴奏を残してテーマを変えています。だんだんベートーヴェンの個性が出てきます。第3変奏は第2変奏の右手の動きを左手に移し、右手で元のテーマを復活させています。第4変奏はアルペッジョ的な趣き、第5変奏はコード進行だけ引き継ぎながら大胆に展開させます。第6変奏はメインテーマの途中からの開始という意表を突く形、第7変奏はこれまでの16音符に代わり3連符が登場、第8変奏はこれまで何回か出てきた伴奏音型の上に16分音符のアルペッジョで変奏を繰り広げていきます。
最後の第9変奏は、なんとハ長調をとり、華麗なパッセージで明るく曲を閉じます。ハ短調の曲をハ長調で終えるというのは、後年シンフォニー第5番〝運命〟の、〝苦悩を突きぬけた歓喜〟と同じ展開なのです。
12歳の少年による、これからの自らの人生を予告するかのような曲。
偶然というには、運命を感じてやみません。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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