孤独のクラシック ~私のおすすめ~

クラシックおすすめ曲のご紹介と、歴史探訪のブログです。クラシックに興味はあるけど、どの曲を聴いたらいいのか分からない、という方のお役に立ちたいです。(下のメニューは横にスライドしてください)

ベートーヴェンの耳はなぜ聞こえなくなったのか。ベートーヴェン『6つの変奏曲 作品34』

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ベートーヴェンが使っていた補聴器(ベートヴェンハウス)

親友に打ち明けた壮絶な悩み

バレエ『プロメテウスの創造物が、ウィーンで盛んに上演されている最中の1801年6月、ベートーヴェンは、故郷ボンにいる親友のヴェーゲラーに手紙を書きました。

ヴェーゲラーとは、ボンで父母を喪ったベートーヴェンを温かく迎えてくれたブロイニング家での交際の中で出会いました。

彼はベートーヴェンの初恋の人ともいわれる、ブロイニング家の長女、エレオノーレと結婚していました。

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その手紙で初めて、彼が3年にわたって独り苦しみ、悩んでいた耳の病について告白しています。

この3年は、ウィーンでの名声がうなぎ登りで、前途の洋々を若いベートーヴェンが実感していた頃に一致します。

それを妨げるかのように襲い掛かる病。

しかも、よりにもよって、音楽家にとって最も大切な聴覚に。

その絶望感は想像を絶します。

手紙から、彼の思いをたどってみましょう。

長いですが、彼の肉声は、その音楽を味わう上で不可欠な情報です。

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フランツ・ゲルハルト・ヴェーゲラー(1765-1848)

わが愛する、善良なヴェーゲラーよ!

貴兄のご厚情には何といって感謝してよいかわからない。僕はそれほどの人間でもないし、またそれにふさわしいように君にも尽くそうともしなかった。それにもかかわらず君はこんなにも善良で、何ごとにも動かされず、また僕の許しがたい怠慢さえ怒りもせず、常に変わらず、真実で善良は友であってくれた。

貴兄をはじめとして、かつて僕をあんなに愛し、また大事にしてくださった皆さんを、忘れることができるなどとは、いや決して信じないでくれたまえ。あなた方が慕わしく、実際しばらくでもそばに行っていたいと思う瞬間がある。

僕がこの世の光を浴びたうるわしの地、わが故郷は、あなた方とお別れした時のままの姿で、美しくはっきりと眼前に浮かんでくる。まあ言えば、皆さんにお目にかかれ、わが父なるラインに挨拶をすることができたら、その時が僕の生涯で一番幸福な時のひとつだと思うだろう。

それはいつのことか、今まだはっきり言えない。今約束できることは、今度お目にかかる時には、僕が本当に立派な人間になっていよう、ということだけだ。芸術家としてもっと偉大になっているということだけでなく、もっと良い、ずっと完成した人間としてお目にかかりたいと思う。その時はわが祖国の状態ももっと良くなっているだろうから、僕はわが芸術を、貧しい人々の福祉のためにのみ捧げよう。

おお、幸福なる瞬間よ。われ汝、芸術を産み出し、汝自身を創造するを得ることは、そはいかなる幸福と言うべきか。

ベートーヴェンにとって、ライン河畔の故郷の風景は、とても美しいものとして生涯忘れることのできないものでした。

しかし、彼は生涯二度と故郷を訪ねることはなかったのです。

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ヘルマン・サフトレーヴェン『アンデマッハ近郊のライン川の眺め』

僕の近況をお尋ねだが、今はまあそう悪くはない。こう言っても君には信じられぬだろうが、リヒノフスキーは、これまでもずっと僕の最も親しい友人だったし、今もそうだ。(僕たちの間に小さな仲たがいが、実際あるにはあったが、それがかえって友情をいっそう固くしたのではなかろうか?)

彼は昨年から600グルデンという金を決まって出してくれている。僕に適当な地位があるまでそれを引き出していてよいのだ。作品収入も多いし、また注文も応じ切れないくらいあるといってよいぐらいだ。

その上どの作品にも出版社が6、7社もあり、増やしたいと思えばもっとある。もう契約条件をとやかく言うものではない。僕が要求する、それだけ払う、ということだ。結構なご身分でしょう。たとえば、ある友人が困っていて、僕の財布があいにく空ですぐに救えないとする。僕はただ机に向かうだけだ。しばらくすれば彼は救われている。

僕もこれまでより経済的になった。演奏会はこれまで2、3回開いたが、当地にずっと居るようだったら、必ず毎年1度ずつ開けるようにまでする。

ここは、ベートーヴェンが自分のウィーンでの成功を自慢している箇所です。

実際、これは盛っている話ではなく、事実でした。

第一のパトロンであるリヒノフスキー侯爵からは多額の年金をもらい、さらに作曲家独自の収入の道として、出版社からのオファーも引く手あまたで、絶好調だったのです。

借金に苦しんだモーツァルトの晩年とは対照的です。

ところが、話は一気に暗転します。

ただ妬み深い悪魔、病気が、わが前途に難問を投げかけている。というのは、僕の聴覚が、この3年このかただんだん弱っているのだ。

この病気は腸から来ているのだとのことだが、腸がご存じの通りボンにいた頃から弱かったのだが、ここへ来てからは常習的な下痢に悩まされて極度に弱くなり、ますます悪くなり、それが最初のきっかけを作ったのだ。

フランクは身体は強壮剤で整え、耳をアーモンド油で直そうとした。しかし、おめでたいことに!全然効果はなかった。耳は悪くなるばかりだし、腸はもとのままだ。そんなことが昨秋まで続き、その頃は何度も絶望の淵に沈んだ。

その頃、あるやぶ医者が、僕の病気には冷水浴が良いと薦め、またもう少しましなのが、例のドナウ温浴が良いと言った。これが奇功を奏し、腹の方は良くなったが、耳は相変わらずで、むしろ悪くなったとさえいえる。

この冬はまったく悲惨だった。実に恐ろしい疝痛にやられ、完全にまたもとの状態に逆戻りしてしまった。4週間ばかり前までこんな状態で過ごしたあげく、フェーリングのところへ行った。こういう病状には外科医が良かろうと思ったのと、そればかりでなくかねてから彼に信ずるところがあったからだ。

彼はこの激しい下痢を止めるのにはほぼ成功した。彼はドナウ温浴を命じ、これには入浴ごとに強化剤を1瓶入れた。別の薬は何も用いなかったが、4日ばかり前から胃には丸薬、耳には一種の煎じ薬をくれた。それからは、ずっと力がつき、良くなって来たようだ。

ただ耳の方は、昼夜を分かたずざわめき、ぶつぶついっている。僕は惨めな生活を送っていると言うべきだろう。

ここで初めて、耳の病について告白します。

そして、難聴の原因は、以前から弱かった腸にあるのではないか、と考えていることが分かります。

そして、藁にもすがる思いで、何人もの医師の診察を受け、いろいろな治療法を試しました。

当時としては、医学は発展途上で、瀉血のような、中世以来の逆効果になりかねないひどい治療法まで生きていた時代ですから、怪しげな薬や療法もあったことでしょう。

腸は何とか小康を得ても、耳は悪くなる一方でした。

僕は自分が聾です、とはとても人には言えない。だからこの2年来すべての社交というものはほとんど避けてきた。何かほかの職業にたずさわっているならまだしも、僕の仕事では、これは恐ろしい事態だ。僕には少なからざる敵がいるが、彼らがこれを知ったら何と言うだろう!

僕のこの奇妙な聾というのはどんなものか、君にわかるように一例をあげれば、劇場で俳優のせりふがわかるには、オーケストラのうんと近くに座らなければならない。楽器や歌声の高い音は、少し離れるともう聞こえない。人と話し合っていて、それに少しも気がつかない人たちがあるのには驚く。僕はよくうっかりしているので、そのせいだと人は思っているらしい。

低い声で話している話し声はたいていほとんど聞こえないことがある。そうだ、声はよく聞こえるのだが言葉ではない。しかし誰かが大声でやり出すと、もう僕はやりきれなくなる。いったいどんなことになっていくのか、天のみぞ知るだ。

悲痛な叫びです。

ウィーンではベートーヴェンにはたくさんのライバルがいて、演奏会での腕比べなどで相手をコテンパンにしていましたから、そいつらに何を言われるやら・・・。

ざまあみろ、という声が彼の脳内を駆け巡ります。

フェーリングは、完全に良くならなくとも、確かに今よりは良くなると言っている。僕はこれまで幾度か、創造主と僕のこうした存在とを呪った。プルタークは諦めということを教えている。だが、もしほかにどうにかなるものなら、神の創造物の最も不幸な者となるようなことがわが生涯にあるとしても、僕は自分の運命に反抗する。

僕の今のことは誰にも、ロールヒェンにさえ、決して言わないでくれたまえ。貴兄にだけ秘密を打ち明けたのだ。もしこのことについて、フェーリングと意見を交わしてくれればうれしい。この状態がつづくようだったら、来春君のところに行くことにする。

田舎で、どこか風景の良い所に家を一軒借りておいてくれたまえ。そして半年ばかり農夫をやろうと思う。そうすればひょっとしたら事態も変わるだろう。諦め!なんと悲惨な逃避手段だろう。しかもそれが僕に残された唯一の道だ。

何かと苦労の多い今の君に、なおもこうした友人としての心遣いを求めるのを許してくれ。

フェーリングはウィーン大学医学部の教授をしていた外科医で、その娘はシュテファン・ブロイニングと結婚していました。

可哀想なことにその娘さんは結婚の翌年に亡くなってしまいましたが、優れたピアニストでベートーヴェンの弟子でした。

医師であるヴェーゲラーと、信頼するフェーリング医師との間で、自分の病気について相談してもらえるよう依頼しています。

シュテファン・ブロイニングが今ここへ来ているので、僕たちは毎日のように逢っている。昔の懐かしい気持ちを呼び起こすのは、僕の体にはとても良いのだ。彼は常識のある、また我々は多かれ少なかれ皆そうだが、正しい心情をもった、本当に善良な素晴らしい青年になった。

僕は今、稜堡のそばの、とても素敵な家に住んでいる。しかもこの家は僕の健康にも良いのだ。きっとブロイニングも来て住んでもらえるようになると思っている。貴兄のアンティオクムと僕の作品をまだかなり送りたいのだが、たくさん金がかかってもかまわないだろうか。

ブロイニング家のシュテファンはこの頃ウィーンに来ていて、ベートーヴェンと旧交を温めていました。

前述のように、ヴェーゲラーにとっては義弟にあたります。

本当に、貴兄が芸術を愛してくれるのは、とてもうれしいのだ。僕の作品を全部送ろうと思うのだが、どうしたらよいか知らせてくれたまえ。今でもかなりの数に上っているが、今後もどしどし増える。

祖父の肖像をなるたけ早く郵便で送ってください。そのかわり彼の孫、貴兄のつねに善良なる、真実なるベートーヴェンの肖像を送ろう。それは当地のアルタリアで売り出している。アルタリアも、ほかの多くの書店(外国の美術商もあるのだが)と同じく、それを出させてくれと幾度も言っていたのだ。

シュトーフェルには近いうちに手紙を出して、彼の頑固さにひとつお説教をしてやりましょう。彼の耳に古くからの友情というものを吹き込んでやって、それでなくても苦労の多い境遇にある貴兄たちに、これ以上面倒をかけないように誓わせよう。

ボンの宮廷楽長だった祖父ルートヴィヒの肖像を送ってくれるよう依頼していますが、これは今でも残っています。

また、自分の肖像も、人気アーティストのブロマイドのように、出版社から売り出されていたようです。

アルタリアは、ハイドンモーツァルトも世話になったウィーンの有名な出版社です。

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ベートーヴェンの祖父ルートヴィヒ(1711-1773)の肖像

善良なロールヒェンにも手紙を書きたい。僕が自分のことを少しも知らせないようなことがあっても、愛する善良な貴兄たちのひとりだって、決して忘れたことはない。

しかし、ご存じの通り手紙を書くのは、どうも僕の得手じゃない。最も仲のよい友達にも、数年来1本の手紙もやってない有様だ。

僕の生活は音楽三昧で、1曲が成るか成らぬに、もうほかの曲にかかっている。今みたいに、時として3つ4つを一緒に作曲する。

では時々手紙をください。僕も暇を盗んで折々書くようにこれから心がけよう。皆さんによろしく。善良な宮廷顧問官夫人にも。僕は今でも時々発狂する、とお伝えください。

コッホさんのことですが、運勢が一変したようですが、僕は別に驚きません。幸福は弾丸のように丸い。だから自然にいつも最も高潔な人や、最も善良な人の上に見舞うとは限らない。

ロールヒェンは、ヴェーゲラーの妻となったエレオノーレの愛称です。

ベートーヴェンが一度に何曲も作曲を同時並行で進めていたことは、残されたスケッチ帳からもうかがえます。

リースさんにはくれぐれもよろしく。彼の息子さんのことは近く詳しく書きます。もっとも僕は、彼のためにはウィーンよりパリの方が良いと考えるのだが。ウィーンは音楽家が多すぎて、最も優れた者でさえ、それで生計を立てるのに困難を感じます。

でも、秋か冬には、みんな急いで都に帰ってきますから、そのころまでには彼をどうしてあげられるかわかるでしょう。

さようなら、善良な、忠実なヴェーゲラーよ!愛と友情を信じられんことを

君のベートーヴェン

1801年6月29日 ウィーンにて*1

リースさん、はボンの元宮廷楽団コンサートマスターで、ベートーヴェンの祖父、父のいわば同僚です。

ボン時代に父母を喪って困窮した際、助けてくれた恩人です。

のちに、リースの息子フェルディナンドをウィーンに迎え、一番弟子として可愛がり、恩返しをします。

この後も、血のにじむような治療の努力を続けましたが、薬石効なく、ベートーヴェン聴覚障害は進み、晩年には完全に聴覚を失います。

難聴の原因はなんだったのか

ベートーヴェンも医師も原因は腸にあると考えていましたが、後年には、若い頃頭を打ったせいだとか、暑い日に裸で風に当たったせいだとか、色々な説明を人にしていました。

最後まで自分にも医者にも分かりませんでした。

弟たちには、自分の死後、遺体を解剖して原因を探ってくれ、と頼んでいて、それは実行されましたが、にもかかわらず明らかな原因は分からずじまいでした。

後世の研究者たちも、作曲と演奏で耳を酷使したせいだとか、梅毒治療に当時使われた水銀のせいだとか、さまざまな説を唱えましたが、決定打はありません。

ただ、2000年になって、アメリカにあったベートーヴェンの遺髪の高度な科学分析が行われ、髪から基準値の40倍を超える「鉛」が検出されました。

一方、水銀はほぼ含まれていませんでした。

鉛中毒になると、胃腸疾患や通風、黄疸が発生し、また視神経や聴覚神経が損傷するということで、ベートーヴェンの症状と一致します。

あとは、何でそんなに大量の鉛を体内に摂取したのか、という問題が残ります。

これも決定打ではないのですが、有力な説としては、当時、安物ワインには、甘くするために鉛糖(酢酸鉛)を入れることがあった、という事実があります。

これは古代ローマ時代から行われていて、ローマ皇帝に暴君が多いのは鉛の大量摂取による精神障害だ、という説もあります。

ベートーヴェンも、ハンガリーの甘いトカイワインを愛飲していましたから、甘口が好きだったのでしょう。

貴腐ワインのトカイアスーは高価ですから、日常的には鉛を含んだ混ぜ物のある安いワインを飲んでいたかもしれず、十分説得力のある話です。

また、彼は魚料理が大好物でしたが、産業革命のはしりでドナウ川が汚染され、魚の体内に鉛が蓄積していたかもしれません。

でも、そうであれば、他にも同様の被害者がたくさん出たはずで、なぜベートーヴェンだけなのか、という疑問はあります。

当時の鉛筆には鉛が含まれていましたから(〝鉛〟筆というくらいですから)、作曲スケッチの間に、楽想を練りながら鉛筆を舐めるくせがついてしまっていたのか・・・?

あるいは、ヴェーゲラーへの手紙にあるように、治療のためたびたび温泉に行っていますが、そこで鉱泉水を大量に飲んでいた可能性もあります。

医師が薦める怪しげな薬にも鉛の成分が含まれていたかもしれません。

また当時、鉛は毒という認識はありませんから、水道管、食器、洗面器など、たくさんの日常製品に使われていました、

生活習慣の中で、他の人より大量の鉛を摂取してしまった可能性はあります。

治療のために、より悪化させてしまったとしたら、何ともやりきれませんが、こうした不運との闘いの中で、彼の芸術は生み出され、人類を感動させてきたのも事実です。

では、ハイリゲンシュタットで絶望と闘いながら、前回の《エロイカ変奏曲》とともに、〝両方ともまったく新しい手法で、またそれぞれが違ったやり方〟で作曲された『6つの変奏曲 作品34』を聴きましょう。

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ハンガリーの銘酒トカイアスー

ベートーヴェン:6つの変奏曲 作品34

Ludwig Van Beethoven:6 Variations, Op.34

演奏:ロナルド・ブラウティハム(フォルテピアノ

Ronald Brautigam (Fortepiano) 

テーマ

テーマはベートーヴェンのオリジナルです。アダージョのゆっくりしたテーマは異例で、これも新機軸といえますが、バッハのゴールドベルク変奏曲を思わせます。ヘ長調ですが、ふつうの変奏曲はこの調性の中で変奏が続き、後半で同主調短調がアクセントとして出てきて、コーダで盛り上げて終わり、というのが定番、定石です。しかし、この後に続く変奏は、第1変奏=ニ長調、第2変奏=変ロ長調、第3変奏=ト長調、第4変奏=変ホ長調、第5変奏=ハ短調、第6変奏=ヘ長調に戻る、ということで3度ずつきれいに下行して調を変えていくのです。つまり、音の〝調性の変奏〟という、これまでありそうでなかった、斬新な曲なのです!調は絵画でいえば色調のようなものですから、まるでレインボーのような変奏というわけです。

第1変奏

テーマと同じアダージョで、明るい、まばゆい光のニ長調。テーマの音のまわりを宝石で散りばめていくような変奏です。

第2変奏

変ロ長調で、テンポはアレグロ・マ・ノン・トロッポに転じます。跳ねて踊るようなユーモラスなリズムですが、それでいて気品が感じられます。

第3変奏

ト長調のアレグレットで、泉からほとばしる水のように流麗です。

第4変奏

変ホ長調のテンポ・ディ・メヌエットです。メヌエットのリズムですが、それほど舞踏の要素は感じられません。

第5変奏

ハ短調のアレグレットのマーチです。葬送行進曲といえるでしょう。ピアノソナタ第12番や、後のエロイカにも通じる、この時期特有の企画です。ドラマチックな迫力の行進曲には、決然として運命に立ち向かうような覚悟を感じます。最後、トリオかと思うような輝かしい光が差しますが、それは最終変奏への導入になっています。

第6変奏とコーダ

テーマのヘ長調に戻り、アレグレットで賑やかで楽し気な雰囲気になります。煌びやかなトリルは、遠い日のお祭りを思い出させるように、ノスタルジックでもあります。コーダはアダージョモルトでテーマを回想しつつ、万感の余韻を残して終わります。

地味なたたずまいの曲ですが、《エロイカ変奏曲》と並んで、これまでの変奏曲技法を集大成した上で、新しい時代を切り開いた傑作です。

ここにはベートーヴェンの私生活を襲った絶望の暗い影は見出せないのです。

 

動画は今回もグレン・グールドの1970年の演奏です。冒頭は変ホ長調のバガテルが弾かれ、司会者の解説のあと、作品34は6:03からです。


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今回もお読みいただき、ありがとうございました。

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*1:小松雄一郎編訳『新編 ベートーヴェンの手紙(上)』岩波文庫