
マリア・テレジアとフランツ・シュテファンの婚礼の祝宴
女子続きの名家
もはや男子が生まれる見込みがなくなった名門ハプスブルク家。
当主カール6世は、神聖ローマ皇帝位のほか、オーストリア大公、ボヘミア王、ハンガリー王、ネーデルラント公、チロル公など、50ともいわれる王位、諸侯位を保持していました。
これらを総じて〝ハプスブルク帝国〟と呼びますが、フランスのように一枚岩の1国ではなく、諸国の君主をひとりで兼ねることで、ひとつのまとまりを形成していたに過ぎませんでした。
この君主位のうち、神聖ローマ皇帝だけは、フランク王国以来のサリカ法によって、女性が即くことはできません。
そこで、カール6世は、帝位は長女マリア・テレジアの婿、元ロレーヌ公で現トスカーナ大公のフランツ・シュテファンにつかせ、娘は、女性でもなれるオーストリア女大公、ボヘミア女王、ハンガリー女王として、実質的にハプスブルク帝国を相続させることを、遺言ともいうべき国事詔書によって、諸国に認めさせました。
フランツ・シュテファンは、一時しのぎのつなぎの皇帝ですから、マリア・テレジアとの間に生まれる男児に望みをつないだのです。
1736年に結婚した夫妻は、新郎28歳、新婦19歳。
恋愛結婚だったこともあり、とても仲睦まじく、翌年にはすぐ子宝に恵まれます。
しかし、待望の初子は女子。
カール6世は大い落胆します。
ふつうであれば、男子だろうが女子だろうが、初孫の誕生はうれしいはずですが、帝国の存続と平和がかかっているので、失望は隠しきれません。
2年目には二人目が生まれますが、これも女子。
国民たちも、もはやハプスブルクには男子は生まれないのではないか、と囁き始めました。
そして、不当な非難が、夫フランツにも浴びせられます。
フランツはフランスの手先で、わざと男子が生まれないようにしているのだ、と。
そんなことできるわけもないのに。
1740年1月、3人目が生まれますが、なんとこれも女子。
ひどいことに、祖父の皇帝は、もはや赤ん坊の顔も見ようとしませんでした。
あっけない、カール6世の死

神聖ローマ皇帝カール6世
1740年は運命的な年となりました。
秋10月。
カール6世は、お気に入りの娘婿、フランツを伴って鹿狩りに出ていました。
昼食後、皇帝は急に腹痛に襲われます。
原因は不明ですが、昼食のキノコ料理にあたったとも言われています。
侍医たちも成すすべがないまま、4日後、10月20日に世を去ります。
55歳でした。
ここに、600年続いたハプスブルク家の男系子孫は断絶。
23歳の若き女性、マリア・テレジアの肩に、この広大な大国がのしかかってきたのです。
外国にナメられた女君主

少女時代のマリア・テレジア
彼女には悲嘆している暇はありません。
ある程度覚悟は出来ていたとみえ、早速に『大臣、顧問官、侍従、役人、奉公人を問わず、国内にいる者も、国外にいる者も、誰もが現在の地位をそのまま、これ以後も維持することを保証する。』と宣言。
初の女性君主を仰ぐことになった国民に、何も変わることはない、と告げて安心させます。
これに対し、オーストリアの諸州も、彼女に忠誠を誓う儀式を執り行います。
国内は何とかスムーズに掌握できたようでした。
ところが、諸外国は、待ち構えていたかのように異議を唱えます。
父帝が領地の割譲など、大きな犠牲を払って、生前にマリア・テレジアの相続を認めさせたことなど、全く反故にされました。
オイゲン公が、『王女には紙切れよりも、強力な軍隊と潤沢な資金を遺すべし』と進言した通りになってしまったのです。
まず先々帝ヨーゼフ1世の娘婿であり、自身も遠くはハプスブルク家の女系の血を引くバイエルン選帝侯カール・アルベルトが、継承権を主張してきました。
フランスもこれを支持し、マリア・テレジアの相続権を否定して、オーストリア領ネーデルラント(現ベルギー)の統治権を要求。
同じくヨーゼフ1世の娘婿ザクセン選帝侯も、メーレン(現スロバキア)の王位を要求。
スペインは、これまでも狙っていたミラノへ侵攻の構えを見せました。
諸国のウィーン駐在大使たちは、自国に『大公女は何も知らない、無邪気な少女に過ぎない』と報告していましたから、何の遠慮もなく、女だと舐め切って、無法な要求をしてきたのです。
ただ、英国大使だけは、『折あるごとに示されるマリア・テレジアの毅然とした態度や落ち着きには非凡の才がある』と、〝偉大な女帝〟となってゆく彼女の才能に気づいていました。
マリア・テレジアはしかし、父カール6世から帝王学や政治経済について教えを受けたわけではありませんでした。
彼女が継ぐにしても、しょせん女ではつなぎの役目しかできない、と考えていたようです。
この、即位早々に起こった厳しい情勢に対し、父帝時代の老臣たちに助言を求めましたが、うろたえるばかりで、はかばかしい答えは返ってきませんでした。

即位間もない頃のプロイセン王フリードリヒ2世
そうこうするうちに、予想だにしない、現実的なピンチが襲い掛かってきたのです。
それは、カール2世が薨去してわずか2ヵ月後、1740年12月16日に起こりました。
隣国、プロイセンの若き王、フリードリヒ2世(大王)が、突然、3万の大軍を率いて、ボヘミア王国領のシュレージエン(シレジア)に侵攻してきたのです。
フリードリヒ2世は、同年5月に父王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世を亡くし、後を継いだばかりでした。
さらに、カール6世の死に際しては、諸外国で唯一、フランツに対して殊勝なお悔やみを送ってきていたのです。
シュレージエン地方は、ボヘミアでも最も商工業が発展した豊かな地域で、ハプスブルク家としても税収のドル箱でした。
フリードリヒ2世は、王太子時代からこの地域を狙っていた、ということになります。
父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は、〝軍隊王〟と呼ばれるほど、国民に倹約を強いて、財源をほとんど軍につぎ込んできました。
フルート演奏を愛し、文化・芸術好きだった王太子フリードリヒの文弱ぶりに怒って、幽閉したほどです。
ところが、消耗を惜しみ、軍拡するだけで一切戦争をしなかった軍隊王に代わって、この文弱に見えた新王は、隣国の喪につけ込んで、大胆な侵略戦争をおっぱじめたのです。
ヨーロッパ最強と言われたプロイセンの精鋭の前に、シュレージエンはあっという間に占領されてしまいました。
フリードリヒ2世は、宣戦布告なしに侵攻しておいて、使者をマリア・テレジアのところに差し向け、次のように告げました。
『ハンガリー女王は孤立しておられる。四囲はいずれも敵ばかりである。プロイセン王は、女王をぜひともお助けしたいと願っている。王がシュレージエンへ進軍しているのは、ただ他国によってこれを奪われないため、オーストリアを守護するためなのである。それに王は、女王に300万グルデンを差し上げたいと思っている。また、フランツ・シュテファン閣下が皇帝に選出されるようにも取り計らいたい。その代償として王が求められるのは、ただシュレージエンの譲渡のみである。もしこれが無条件で割譲されない場合には、その責任はプロイセン王にはありません。』
なんとも身勝手な、女性と見くびっての言い分です。
四面楚歌の女王
これに呼応するように、バイエルン選帝侯カール・アルベルトも、フランス軍の援軍とともに、ウィーンに向かって進軍してきました。
マリア・テレジアは、対策会議を開きますが、重臣たちは経験したことのないピンチにうろたえるばかり。
夫フランツ・シュテファンも、以前プロイセンを訪問した際、聡明な若き王子フリードリヒにすっかり心酔してしまい、好意をもっていたため、会議はプロイセンの要求受諾やむなし、という方向になります。
しかし、マリア・テレジアは、毅然として拒否します。
亡くなって間もない父カール6世の詔書には『ハプスブルクの領土は分割してはならない』と明記してあります。
これに従い、シュレージエンは割譲しない、と決断しました。
この時点で、国を継いだばかりの若き女君主に、何か勝算や対策があったわけではありません。
実際、彼女はこれから大変な苦難の中、戦い続けていくことになります。
でも、その信念たるや、まさに偉大、というほかありません。
ヴィヴァルディの運命

ヴィヴァルディのカリカチュア
さて、このごたごたに巻き込まれた、偉大な音楽家がありました。
アントニオ・ヴィヴァルディ、その人です。
カール6世に協奏曲集『ラ・チェトラ 作品9』を献呈し、皇帝がイタリアに行って面会した際には大臣よりも話をした、と言われるほど惚れこまれていました。
カール6世は、ヴィヴァルディをウィーンに招いて、オペラの上演を頼んだのです。
ヴィヴァルディがアルプスを越えて、はるばる神聖ローマ帝国を訪ねるのは、実はこれが初めてではありませんでした。
イタリアの音楽家にとって、ドイツ、ハンガリー、ボヘミアといった帝国諸国は、一番の顧客でした。
ヴィヴァルディは、1723~24年にもウィーンに招かれ、3曲のオペラを上演したことがあります。
また、1730~31年には、ボヘミアの都プラハにも、なんと80歳を超えた父も伴って訪れたとされています。
ボヘミア貴族も、後にハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンへの賞賛を惜しまなかったように、音楽好きでした。
ボヘミア貴族たちは、雇っている下僕や馬丁、召使たちに楽器を与え、習わせました。
これは、専属のオーケストラを持てないため、経費節減からですが、彼らにイタリアの最新の音楽を演奏させたのです。
ヴィヴァルディの協奏曲集『四季』を含む『和声と創意の試み 作品8』も、そんなボヘミア貴族、モルツィン伯爵に献呈しています。
モルツィン伯の親戚には、後には若いハイドンが、初めて楽長になっています。
無念の客死

ケルントナートーア劇場
そして、2回目のウィーン訪問は、正確な記録がないのですが、1940年の夏と考えられています。
そして、ケルントナートーア劇場で新作オペラ『メッセニアの神託』上演の準備に取り掛かります。
同劇場は、ケルンテン門の近くにあったのでその名がつきましたが、1709年にヨーゼフ1世によって建設され、後にベートーヴェンの『第九』が初演されたところです。
現在は取り壊され、跡地には〝ザッハートルテ〟で有名なホテルザッハーが建っています。
ところが、10月に皇帝カール6世が突然世を去り、オーストリアは1年の喪に服すことになり、オペラ公演は禁止になってしまいました。
ヴィヴァルディにとっては、大きなパトロンも失うことになり、二重の痛手でした。
また、彼は作曲家であるとともに、興行主でしたので、オペラの準備にかかる経費も全部負担していました。
そのため、大変な借財も背負ってしまったのです。
ヴィヴァルディは、マリア・テレジアの夫フランツ・シュテファンの名誉楽長もしていましたが、女王の相続に異を唱え、プロイセンがシュレージエンに侵攻し、バイエルンがウィーンに進軍してくるといった非常事態の中、とても支援など受けられません。
翌年、1741年6月には、ヴィヴァルディが協奏曲の束を、ボヘミアのコッラルト伯爵に二束三文で売り飛ばした記録が残っています。
そして、同年7月28日。
宿舎としていたケルントナートーア劇場近くの粗末な家で、ヴィヴァルディは、困窮のうちに亡くなります。
65歳でした。
死因は『体内の炎症または腫瘍』とされています。
時は猛暑の夏。
遺体は、ろくな葬儀もされずに、亡くなったその日の夕方には、貧民病院の共同墓地に大急ぎで埋葬されてしまいました。
埋葬費用は、19フローリン45クロイツァーという最低の費用。
オペラ中止で莫大な借財を背負っていましたから、貧民扱いになってしまったのです。
墓地は後に壊されてしまい、この偉大な巨匠の墓は分からなくなってしまいました。
モーツァルトも同じような扱いでしたから、ウィーンは、あんなに音楽家をもてはやしておきながら、捨てるときにはなんと冷淡な街でしょうか。
誰もが大好きな『四季』の作曲家は、女帝マリア・テレジアが味わった最初の苦難に巻き込まれて、やるせない最後を迎えたのです。
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それでは、『ラ・チェトラ』残りの4曲を聴きましょう。
ヴィヴァルディ:『ラ・チェトラ 作品9』第9番 2つのヴァイオリンのための協奏曲 変ロ長調 RV530
Antonio Vivaldi:La Cetra op.9, no.9 Concerto B-Dur, RV530
演奏:フェデリコ・グリエルモ指揮 ラルテ・デラルコ
Federico Guglielmo & L'Arte dell'Arco
第1楽章 プレスト
『ラ・チェトラ』の中で、唯一、ソロのヴァイオリンが2台の曲です。
冒頭のリトルネッロは、実に賑々しく、楽し気です。ふたつのソロ・ヴァイオリンは相次いで、まずエコーのように入ってきて、やがてカノン風に旋律を紡ぎ、だんだん重なって豊かな響きを醸し出します。2回目のソロでは、ふたつのヴァイオリンにチェロ、室内オルガンのバスが絡み合い、さながらトリオ・ソナタのような趣きとなります。
第2楽章 ラルゴ・エ・スピッカート
トゥッティは、スタッカートのユニークなリズムを刻み、ソロ・ヴァイオリンはその間に優雅に歌い交わします。バッハの『2台のヴァイオリンのための協奏曲』の優艶な第2楽章を思わせる美しさです。
実に大らかなリトルネッロです。ふたつのソロ・ヴァイオリンはさらにのびのびとして、夏の高原で深呼吸をするかのように爽やかです。短調のソロでは〝悲しみが疾走する〟かのようです。
ヴィヴァルディ:『ラ・チェトラ 作品9』第10番 ヴァイオリン協奏曲 ト長調 RV300
Antonio Vivaldi:La Cetra op.9, no.10 Concerto G-Dur, RV300
リトルネッロ形式の繰り返しの妙がたっぷり味わえるコンチェルトです。トゥッティにはバスつきと、バスなしの対比がされています。ヴァイオリンのソロはほとんどはトレモロが占めていて、実にリズミカルです。
この曲のこんなアマチュア動画を見つけました。1年前、当時8歳のヘンリー君が、コロナのロックダウン中に、ご両親とこのコンチェルトを演奏した、実に微笑ましく元気が出る姿です。
www.youtube.com
美しいピチカートの上に、ソロ・ヴァイオリンが伸びやかで叙情的な歌を歌っていきます。静謐な中に光る一本の美しい糸、といった風情で、神秘的でさえあります。
第1楽章の楽しさを再現するような最終楽章です。存在感を示しているのはチェロで、その活躍のお陰で非常に立体的に響きます。ソロ・ヴァイオリンは華麗なトレモロや、3弦を使う重音奏法を駆使して盛り上げていきます。トゥッティの終止の音型は、第1楽章と同じ、愛らしいものです。
ヴィヴァルディ:『ラ・チェトラ 作品9』第11番 ヴァイオリン協奏曲 ハ短調 RV198a
Antonio Vivaldi:La Cetra op.9, no.11 Concerto C-Moll, RV198a
悲劇的な激しさをはらんだ音楽です。ソロよりリトルネッロの方に重きが置かれていて、それだけうわべの華麗さだけではない、内容の濃さを感じさせます。リトルネッロの中での模倣が印象的です。
悲鳴のように無骨で鋭いトゥッティに驚かされますが、そのあと、ソロ・ヴァイオリンがバスに支えられて歌う歌の美しさに息を飲みます。
再び、激しいリトルネットになりますが、ソロが入ると、だんだんと明るさをはらむようになり、光と陰の中を音が交錯しながら進んでいきます。ヴァイオリンのソロは比較的低音域で歌い、最後は焦燥感と切迫感に満ちて曲が閉じられます。
ヴィヴァルディ:『ラ・チェトラ 作品9』第12番 ヴァイオリン協奏曲 ロ短調 RV391
Antonio Vivaldi:La Cetra op.9, no.12 Concerto B-Moll, RV391
特別な調弦を要求する、スコルダトゥーラの指示がある曲です。つい口ずさみたくなるような、印象的な歌で始まります。リトルネットの中でも、強弱の対比がドラマチックな演出をします。ソロは3回ですが、変幻自在。スコルダトゥーラの効果で、とても濃く複雑な響きが味わえます。
第2楽章 ラルゴ
暗いロ短調独特の、救いのないような厳しいトゥッティに、抗うように切々と訴えるヴァイオリンの歌が胸に迫ります。
一度聴いたら忘れ難い、元気な中に哀愁を帯びたリトルネッロのテーマです。ソロはその世界から飛び出すかのように縦横無尽に飛翔します。その間のリトルネッロは旧世界を維持するかのように同じ調子を繰り返しつつ、だんだんヴァイオリン・ソロにつられるように変化していきます。そして最後はともに新しい世につなぐかのように曲を閉じます。
『ラ・チェトラ』はこの曲で終わりです。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。


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