孤独のクラシック ~私のおすすめ~

クラシックおすすめ曲のご紹介と、歴史探訪のブログです。クラシックに興味はあるけど、どの曲を聴いたらいいのか分からない、という方のお役に立ちたいです。(下のメニューは横にスライドしてください)

女帝に褒められ、そして捨てられたハイドン少年。ハイドン『ミサ・ブレヴィス ヘ長調』

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マリア・テレジアとフランツ1世夫妻、皇太子のヨーゼフ2世

奪われたボヘミア

マリア・テレジアハンガリー議会に味方するよう必死に説得を続けていた頃。

ウィーンにはさらなるピンチが迫っていました。

ドイツの名門でありながら、長年ハプスブルク家の後塵を拝してきた、バイエルン選帝侯ヴィッテルスバッハ家

その当主、カール・アルベルトが、フランスの援軍を得て、その都ミュンヘンからウィーンに進軍してきたのです。

カール・アルベルトは、マリア・テレジアの従妹である、伯父ヨーゼフ1世の皇女を妃にしていましたから、帝位に即く資格は十分です。

ミュンヘンとウィーンは指呼の間。

しかし、バイエルン・フランス連合軍は、途中のリンツモーツァルトが後にシンフォニーを作曲した街)を占領したあと、なぜかウィーンに向かわず、ボヘミアの都プラハに向かいます。

そして、1741年11月にプラハ占領。

翌12月には、マリア・テレジアが父カール6世から継いだはずのボヘミア王戴冠式を行ってしまいます。

しかも、肝心のボヘミア貴族たちの多くはこれを歓迎。

ハンガリーと異なり、長年のハプスブルク家の支配から脱せられることを喜んだのです。

マリア・テレジアの悔しさはいかばかりか。

ボヘミア宰相のキンスキーに手紙を書きます。

『こうして今やボヘミアが失われてしまいました。きっとこれからはもっとひどくなることでしょう。今こそ、キンスキー、勇気を出すときがきました。私は固く決心しました。すべてを賭しても必ずボヘミアを救うつもりです。』

そして、ハンガリーを味方につけた今、大いなる反撃に出るのです。

戴冠した日に、自分の都を失う

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神聖ローマ皇帝カール7世となったバイエルン選帝侯カール・アルブレヒト

ウィーンを防衛していたオーストリアケーフェンヒラー将軍は、バイエルン軍の後衛にいたフランス軍を奇襲し、これを打ち破りました。

これでバイエルン軍はプラハに補給を絶たれて閉じ込められたことになります。

そして軍を転じてリンツを解放。

さらに、主が留守のバイエルンの都、ミュンヘンを陥落させます。

ミュンヘン陥落のちょうど同じ日、皮肉なことに、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒト神聖ローマ皇帝に選出され、カール7世としてフランクフルト戴冠式を挙げていました。

数世紀の間、ハプスブルク家に独占されていた帝冠を、ようやくヴィッテルスバッハ家が奪ったのです。

マリア・テレジアは、自分の夫フランツ・シュテファンが皇帝になることが、亡き父カール6世の遺志であり、諸国も認めたはずなのに、と悔し涙を流しました。

ボヘミア奪還!

しかし、泣いている暇はありません。

夫フランツ・シュテファンの弟で、義弟にあたる貴公子、カール・フォン・ロートリンゲンに軍を授けて、孤立したプラハを包囲させます。

立て籠もっていたフランス軍ベル・イル元帥は、もはやこれまでと考え、自発的な撤退を、マリア・テレジアでは拒否されると思い、夫のフランツにこっそり打診します。

温厚で優柔な夫がこれを許しそうになるのを知ったテレジアは激怒。

あきれてテーブルを叩き、『いったい現地の将軍たちは何を考えているのです。包囲された敵軍には、捕虜として投降する以外に道はありません!』と切って捨てます。

バイエルンフランス軍はやむなく、厳冬の真夜中、包囲脱出を試みますが、捕虜になるか雪深い平野をさまよい歩くかの運命をたどります。

1743年4月、解放したプラハマリア・テレジアは女王として乗り込み、ボヘミア王戴冠式を挙行します。

バイエルン選帝侯を大歓迎で迎えたボヘミア貴族たちは、手のひらを返したように女王万歳を叫び、忠誠を誓いますが、ハンガリーのときと違い、女王はニコリともしません。

腹の中は、裏切り者への怒りで煮えくり返っていたのですが、まだ四方が敵の情勢で、厳しい報復や弾圧を行うわけにはいきません。

怒りはぐっと飲み込み、裏切り者は許すと表明。

しかし、宰相キンスキーにはボヘミアのヴェンツェル王冠は、ハンガリーのシュテファン王冠に比べれば、道化の帽子みたいなものだわ』と言い放ちます。

ボヘミアハンガリーは、後のマリア・テレジアの近代化政策で、天と地ほどの差をつけられるのです。

フランツ、ついに皇帝になる

次にマリア・テレジアは、卑怯なプロイセンのフリードリヒ2世に奪われた、シュレージエン(シレジア)奪還に動きますが、さすがに最強のプロイセン軍にはかないません。

そのような中、念願かなって神聖ローマ皇帝になったカール7世こと、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトは、肝心の領国を失っていたので、諸国を流浪する身でした。

いとあわれ。

あちこちで厄介者扱いされる中、体調を崩し、1745年1月にこの世を去ります。

もはや、ハプスブルク家の者でなければ、この実権のない名誉職は務まらなくなっていたといえます。

そして、秋に選帝侯による皇帝選挙が行われ、次の皇帝には、難なくマリア・テレジアの夫、フランツ・シュテファンが選出されました。

9人の選帝侯のうち、ブランデンブルク選帝侯位をもっていた、マリア・テレジアの宿敵プロイセン王フリードリヒ2世と、フランス寄りのプファルツ選帝侯が棄権し、残り7票を獲得しての選出でした。

これは、とりもなおさず、マリア・テレジアが、女と侮られ、四方からハプスブルク家領を分割せんと攻め込んできた諸国に対し、互角に戦ってきた成果に他なりません。

彼女は、家柄ではなく、実力で、夫を皇帝にしたのです。

大はしゃぎの戴冠式

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神聖ローマ皇帝フランツ1世(フランツ・シュテファン)

そして1745年10月、フランクフルトで、フランツ・シュテファンの神聖ローマ皇帝フランツ1世としての戴冠式が行われました。

これまで、妻マリア・テレジアの女王戴冠式に出席さえできなかったマスオさん夫が、ついに主役になる日がやってきたのです。

マリア・テレジアも、その晴れ姿を見るために、一緒にフランクフルトにやってきましたが、式場である大聖堂には入場せず、近くの貴族邸のバルコニーで見ていました。

その様子を、まだ生まれていなかったゲーテが、後に、伝聞と思えないほどありありと描写しています。

世にも美しいマリア・テレジアは、市庁舎のすぐ隣にあるフラウエンシュタイン家のバルコニーの窓辺から、あの祝典を眺めていた。さて彼女の夫の皇帝が風変りな装いで大聖堂から戻ってきて、言ってみればカール大帝の亡霊のような姿で彼女の前に現れたとき、フランツはまるでふざけてでもいるかのように両手を挙げ、彼女に十字架のついた宝珠や帝笏や不思議な手袋を示してみせた。そこで思わず彼女は、限りなく笑い興じたのだった。その様子を眺めていたすべての民衆は大喜びし、また深く感動もした。彼らはそこにキリスト教世界の最高位にある皇帝夫妻の結婚が好ましく、本来あるべきものであることを我が眼で認める栄に浴したのである。そして彼女が夫の皇帝に挨拶を送るためにハンカチを振って、声高に万歳さえも叫んだとき、民衆の熱狂は最高潮に達し、歓呼の叫び声は留まるところを知らなかった、ということである。*1

ここには、中世以来の厳粛さはありません。

やったぞー!ついに皇帝になったぞー!と両手を挙げる夫。

ハンカチを振って、よかったわねー!と叫ぶ妻。

この微笑ましいオシドリ夫婦の無邪気なまでの喜びに、喝采を送る民衆。

軍国主義で民衆を抑えつけたプロイセン王、贅沢三昧で国民の怨嗟の的となったフランス王とは違い、親しみやすく気さくで、国民に支持された近代的な王家の姿は、ここに始まるといっても過言ではありません。

それは、この夫婦の素敵なキャラに負うところ大なのです。

〝女帝〟の誕生

帝冠をハプスブルク家に取り戻し、国際的に認めさせたことで、いったんマリア・テレジアとしては、目的を達したことになります。

これで、マリア・テレジアは、オーストリア女大公ハンガリー女王ボヘミア女王に加えて、神聖ローマ皇后となりました。

これ以降、彼女はK.K.と署名するようになりました。

「Königin(女王)にしてKaiserin(皇后)」という意味です。

彼女は皇后であって皇帝ではありませんでしたが、Kaiserinには女帝という意味もありますので、もはや女帝と呼んで差し支えないと思います。

何より、夫帝フランツには政治の実権はなく、政治的才能もなく、そもそもその気もありませんでした。

実質的には帝権はマリア・テレジアが行使したのです。

オーストリア継承戦争終結

父帝の後継者として諸国に認めさせるという目的は達成できましたが、父の時代、国家歳入の1/4ともいわれる収入をもたらしていた、豊かなシュレージエン(シレジア)地方を、プロイセンに奪われたままでは戦争は終われません。

しかし、8年続いたこのオーストリア継承戦争で、国力は限界に達していました。

いったん休戦の潮時です。

マリア・テレジアは、不俱戴天の仇フリードリヒ2世への恨みをいったんぐっと飲み込みながら、和平に応じることになりました。

1748年、アーヘンの和約(エクス・ラ・シャペル条約)で、この大戦は終結

平和の到来を記念し、英国のヘンデル『王宮の花火の音楽』、フランスのラモー『ナイス、平和のためのオペラ』を作曲しました。

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ボーイ・ソプラノとしてデビューしたハイドン

では、この頃、オーストリアではどんな作曲家がいたのでしょうか。

ちょうど、ハイドンの現存する最古の曲が作曲された頃です。

それはミサ・ブレヴィス ヘ長調

ハイドンは1740年、8歳のとき、その美声を買われて、ウィーンの聖シュテファン大聖堂聖歌隊に入りました。

現在も〝天使の歌声〟と讃えられるウィーン少年合唱団のルーツです。

ちょうど、カール6世が亡くなり、マリア・テレジアが後を継いだ年です。

同じ頃、ギリギリ同じ町にヴィヴァルディもいたわけです。

ヴィヴァルディが大聖堂でハイドン少年の歌声を聴いた可能性もあると思います。

ハイドンは合唱団の中でソロを担当するくらいの美声で、マリア・テレジアからも大いに褒められたといいます。

5年後、弟のミヒャエル・ハイドンが入隊してきました。

彼は後年、ザルツブルク大司教に雇われ、モーツァルト一家と親交を結ぶことになります。

弟の美声はさらにもてはやされ、ちょうど兄は変声期を迎えていました。

ハイドンが無理して歌っていると、ついにマリア・テレジアから『カラスの鳴き声みたいね』とダメ出しをされてしまい、独唱者の地位は弟に取って代わられました。

女帝は、弟ミヒャエルの歌をたいそう気に入って、アーヘンの和約が成った直後、1748年11月15日、クロスターノイブルク修道院で開催されたウィーンの守護聖人オポルト聖伯祭で、ソロを歌わせました。

期待通りに美声を響かせたミヒャエルに対し、マリア・テレジアは金貨24ドゥカーテンを与えたということです。

変声した少年に用はない…

一方、可哀そうに、変声を迎え、女帝からも見放された兄ハイドンは、合唱団を解雇され、街にほっぽり出されたのです。

そして、流しのセレナードや付き人などをしながら、飢えに苦しみつつ作曲の勉強に打ち込みます。

声で食えなくなったので、作曲で身を立てよう、という尋常ならざる決意です。

この頃作曲されたとされるのが、この『ミサ・ブレヴィス』です。

ハイドンの曲で現存する最古の作品で、おそらく18歳くらいのときの作品と推測されています。

晩年、70歳を過ぎた頃、老ハイドンは偶然、50年以上行方不明になっていたこの作品のパート譜を発見します。

ハイドンは、若き日の苦労の結晶であるこの作品を懐かしみ、現代の編成に書き直して出版しました。

しかし今でも、オリジナルの簡素な編成で演奏される方が多く、そのソロに少年ハイドンの美声を偲ぶことができます。

この曲を聴きながら、女帝とハイドンの平行した人生を辿っていきたいと思います。

ハイドン:ミサ・ブレヴィス ヘ長調

Joseph Haydn:Missa Brevis in F-dur, Hob.XXII:1

演奏:サイモン・プレストン指揮 オックスフォード・クライストチャーチ聖歌隊、アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージック、デュディス・ネルソン(ソプラノ)、エマ・カークビー(ソプラノ)

第1楽章 キリエ

ソプラノ二重唱、4部合唱、第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、オルガン、ヴィオローネという簡素な編成です。晩年のハイドンはフルート、クラリネット2、ファゴット2、トランペット2、ティンパニを楽譜に加えましたが、素朴な響きの方が、ハイドンの輝かしいキャリアのスタートとして味わい深いものがあります。合唱がキリエ・エレイソンと歌うと、続いてソプラノが繰り返しますが、その二重唱は実に美しく絡まり合います。同じ形で、クリステ・エレイソン、再度のキリエ・エレイソンとシンプルに続きます。

第2楽章 グロリア

キリエと同じように、合唱と二重唱が繰り返しながら、ラテン語ミサ通常文を綴っていきます。ポリフォニックな技法は使われていませんが、それだけにストレートに神の栄光が伝わってきます。作曲の面ではかならずしも〝神童〟ではなかったハイドンですが、同時代の作曲家とは一味違った才能の光を感じることができます。

第3楽章 クレド

我は神を信ず、という信仰宣言が合唱で、明るく優雅な中にも力強く歌われます。イエスの受難のくだりでは、一転悲しみをたたえた短調の合唱になります。そして、輝かしい復活も合唱で歌われ、独唱の出番がないのが特徴です。

第4楽章 サンクトゥス

前半のサンクトゥスは、アダージョで、合唱を独唱ソプラノが美しく装飾します。後半はアレグロに速くなり、盛り上げていきます。

第5楽章 ベネディクトス

落ち着いたアンダンテで、器楽の序奏に続いて美しいソプラノの二重唱が天国的に歌われます。最後のホザンナはアレグロの合唱で、短いですが印象的です。

第6楽章 アニュス・デイ

悲しみをまとった合唱が、神の子羊の犠牲を歌います。平和を祈る「dona nobis pacem」は、冒頭のキリエの旋律が回帰し、二重唱を交えて感動的に曲を終えます。

 

独唱が素晴らしい、簡素な編成での演奏です。ソプラノは当時はボーイ・ソプラノが務めました。


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今回もお読みいただき、ありがとうございました。

 

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*1:ゲーテ『詩と真実』菊盛英夫訳