強制された再婚
1763年、神聖ローマ皇帝の実質的な皇太子である、ローマ王ヨーゼフ2世の最愛の妃、マリア・イザベラ・フォン・ブルボン=パルマがわずか3年の結婚生活の末、天然痘により、22歳の若さで逝去しました。
夫ヨーゼフは、この〝天使のような〟妻の死に打ちひしがれ、自分の人生は終わってしまった、と絶望していました。
もう自分に二度と幸せは来ない、と。
この妃は、まさにハプスブルク家に降臨した天使のようで、国民からも慕われていたため、国家としてのショックも大きかったのです。
母帝マリア・テレジアも、息子を慰める言葉も見つかりませんでした。
しかし、ハプスブルク家の次期当主として、跡継ぎを作るのは、国家存続に関わる至上のミッションです。
息子ができない、というだけで、祖父のカール6世がどれだけ苦労したか。
そして、母マリア・テレジアが跡を継ごうとしたときに、諸国が一斉に攻めて来て、オーストリア継承戦争というヨーロッパ全土を巻き込んだ大戦争になったのは周知のことです。
ヨーゼフ2世はといえば、亡くなった妻以上の女性などいるわけもなく、再婚など論外、と思い詰めてしまっています。
しかし、国家の至上命題の前では、君主といえども、個人的な感傷など考慮されないのです。
まだ23歳のヨーゼフは、必ず世継ぎを作らなければいけません。
母帝と宰相カウニッツは、すぐに新しい妃を探し始めました。
亡妻の面影を求めて
ヨーゼフ2世は、どうしても再婚しなければならない、ということなら、せめて故妻の面影を残した女性がよい、ということで、イザベラの妹、パルマ公女のマリア・ルイサなら…と希望を出しました。
しかし、彼女はすでに、スペイン王太子と婚約してしまっており、もはや無理でした。
でもこれは、ハプスブルク家、オーストリア帝国にとっては、危うく災難を逃れたことになりました。
マリア・ルイサはのちに、スペイン王カルロス4世の王妃となりますが、わがままで傲慢な性格で、凡庸な夫を尻に敷いて、愛人ゴドイを宰相にして国政を壟断して、既に傾いていた老大国スペインを完全に没落させた、歴史的にも有名な悪女です。
画家ゴヤが描いた名画『カルロス4世の家族』は、王妃からの注文作品にもかかわらず、彼女を美化できず、その醜い性格が出てしまっています。
こんな女性がオーストリアの皇后になっていたら、ハプスブルク家は大変なことになっていたでしょう。
イザベラの弟で、ヨーゼフ2世の妹マリア・アマーリアが嫁いだパルマ公フェルディナンド1世は、長じてからも、栗を焼くことと教会の鐘を自分で鳴らすことが趣味という人物でした。
パルマ3姉弟は、イザベラだけに良い資質が偏ってしまったかのようです。
後妻は、なんと仇敵の娘
母帝と宰相が白羽の矢を立てたのは、ヴィッテルスバッハ家のバイエルン選帝侯で、神聖ローマ皇帝カール7世になったカール・アルブレヒトの皇女、マリア・ヨゼファ(1739-1767)でした。
父カール7世は、ほかならぬマリア・テレジアの仇敵で、オーストリア継承戦争では彼にずいぶん苦しめられました。
カール7世の妻は、ハプスブルク家の皇帝ヨーゼフ1世の皇女でしたので、男系が途絶えたハプスブルグ家の娘婿として、後継に名乗りを上げ、諸侯の支持も得て皇帝になったのです。
マリア・テレジアは、夫のロレーヌ公フランツ・シュテファンを皇帝にできず、悔し涙を飲みました。
近世になってから、ずっとハプスブルグ家で独占してきた帝位が、一度だけ他家にわたってしまったのです。
しかし、戦況はだんだんマリア・テレジアに有利となり、カール7世は、皇帝にはなったものの、本拠地ミュンヘンを追われ、諸侯からも敬遠されてフランクフルトでさみしく世を去りました。
戦争が終わり、講和締結後は、バイエルン選帝侯のヴィッテルスバッハ家はフランツ・シュテファンの即位を支持し、和解して今に至りました。
不美人と言われてしまった後妻
マリア・テレジアの政略結婚政策は、プロイセンなど、ドイツ国内の反対勢力に対抗するため、フランス系のブルボン家に的を絞っていましたが、ここで、ドイツ諸侯の中でも有力なヴィッテルスバッハ家との絆も強めておこう、ということになったのです。
ヨーゼフ2世には拒否権はありません。
しかし、このマリア・ヨゼファは、皇女でありながら、25歳までよい縁談が来ていませんでした。
肖像画は美化されているようですが、相当に美しくなかったようです。
マリア・テレジアでさえ、嫁いできた花嫁を抱擁するのに、ちょっと躊躇してしまったというほどですから、ヨーゼフは嫌悪の情をむき出しにしてしまいました。
1765年1月。
表向きは盛大な結婚式が行われました。
ヨーゼフの姉妹弟たちは、自分たちで本格的なオペラを上演して、兄の再婚を祝いました。
メタスタージオの台本、グルックの音楽による新作オペラを特訓し、弟レオポルトがオーケストラを指揮し、エリーザベトやクリスティーネら姉妹が舞台で歌いました。
しかし、ヨーゼフは終始憂鬱そうな表情を崩さなかったといいます。
いくらなんでもひどすぎる仕打ち…
ヨーゼフ2世は、結婚後も新妻には指一本触れませんでした。
互いの部屋がつながっているバルコニーまで、行き来ができないよう封鎖してしまいました。
妻の方はというと、イメケンのヨーゼフに一目惚れでぞっこんだったといいますから、事態はいっそう悲劇的でした。
ヨーゼフ2世は彼女のことを「背が低く太っている。歯並びはゾッとするほどで、全身が吹き出物でいっぱいだ」と評し、本人にも同じような内容を書き送ったといいます。
潔癖症のヨーゼフは、前妻イザベラとの結婚前は、女性との交わりも気持ち悪いといって嫌がっていましたので、後妻は、もはや生理的にムリ、ということだったようです。
1765年に父帝フランツ1世がインスブルックで逝去すると、皇后はマリア・テレジアからマリア・ヨゼファに代わりました。
実権はそのままマリア・テレジアが握っていましたが、マリア・ヨゼファは、夫がいつか自分に振り向いてくれることを願って、辛抱強く公務を果たしていました。
夫に相手にされない妻は、人々の嘲笑の的になりましたが、彼女はそれも耐え忍びました。
前妻イザベラと仲良しだったヨーゼフの妹マリア・クリスティーナ(ミミ)は、兄の後妻への冷酷極まりない仕打ちに対して、「もし私が兄の妻だったら、絶対に耐えられない」と書き記しています。
帝国の犠牲となった女性たち
しかし、結婚して2年後、マリア・ヨゼファは、イザベラと同様、天然痘に罹患しました。
前妻には、昼夜付きっきりで看病したヨーゼフは、病床を見舞いに訪れることもありませんでした。
1767年5月28日、この気の毒な皇后はさみしく息を引き取りました。
当然子もいません。
夫のヨーゼフは、葬儀にさえ出席しませんでした。
そして、もう二度と再婚しない、と宣言したのです。
マリア・テレジアはもうヨーゼフに跡継ぎを作らせることはあきらめ、弟レオポルトが皇嗣となることが確定しました。
弟レオポルト2世と皇后マリア・ルドヴィカ夫妻は、母マリア・テレジアと同じく16人の子供を作り、ハプスブルク帝国の繁栄を19世紀につなぎました。
マリア・ヨゼファは、皇帝の娘として生まれ、皇后にまでなるという、ヨーロッパの女性として最高位を極めました。
しかし、「王国」の上位とされた「帝国」は、非常に不安定なものであり、名ばかりである割には、諸国の争奪の的となりました。
皇女にして皇后のマリア・ヨゼファは、まさに「帝国」に翻弄された、悲劇の女性といえます。
マリア・イザベラとマリア・ヨゼファ。
ヨーゼフ2世のふたりの妃の悲運には本当に心が痛みます。
そしてもう彼が結婚することはありませんでした。
それでは、ハイドンのシンフォニーを聴いていきましょう。
Joseph Haydn:Symphony no.53 in D major, Hob.I:53 “L'impériale”
演奏:クリストファー・ホグウッド指揮 アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージック
第1楽章 ラルゴ・マエストーソ、ヴィヴァーチェ
この曲は、作曲当時から人気があり、ヨーロッパ中で流布しました。ハンガリーの片田舎の宮廷のクローズドな空間で演奏されていた曲が、外の世界で広く評判を取りはじめたのです。
愛称の『帝国』は18世紀の間は文献には見えず、19世紀になって名付けられたもののようで、由来は分かりません。マリア・テレジアに何らかの関係があるではないか?という憶測はありますが、この曲に漂う気高い気品やスケールの大きさは、まさに帝国の名にふさわしく思えます。私も最初聴いたときからずっと魅了されています。
この曲の第4楽章(フィナーレ)には「ヴァージョンA」と「ヴァージョンB」の2種類があります。第1楽章にも、序奏がついたものと無いものがあるのですが、順番から言えば、序奏は後から付け加えられたものでしょう。今では序奏なしで演奏されることはありません。
1779年11月18日未明、エステルハーザ宮殿のオペラ劇場が火災に遭い、全焼してしまいました。劇場に保管されていた楽譜と楽器もすべて焼失してしまい、残されたのは、ハイドンが作曲のため自宅に持ち帰っていたオペラ『無人島』だけでした。
この時期のハイドンのシンフォニーは、劇場音楽と密接な関係があるのですが、そのあたりは分からないことが多くなってしまっています。
Ver. Bは、世間には流布し、遠くロンドンの「バッハ=アーベル・コンサート」でも演奏された記録がありますが、エステルハージ家のアルヒーフには残っていません。そのため、これが最初のヴァージョンであり、火災後に、Ver. Aが作られたと推定されています。ハイドンは楽譜焼失による楽曲不足を補うため、ウィーンの楽譜屋から自分の筆写譜を購入し、つなぎ合わせて曲を再建していきました。Ver. Bのフィナーレはもともと何かのオペラの序曲であり、さらに後にシンフォニー 第62番の第1楽章に流用されています。現代では、Ver. Aの方で演奏されています。
さて、第1楽章の序奏は、重々しく、威厳を持って始まります。トゥッティのあと、モーツァルトのジュピター音型を思わせる継句が印象的です。この序奏は、やんごとなき方の御前演奏のために作られたのではないか、と想像します。
主部の最初の4小節は、チェロを伴ったホルンで始まります。さながら夜明けの狩りの始まりを思わせ、王者の風格。そして元気よく展開していきますが、ここでも貴族的な気品を感じます。
展開部はイ長調からロ短調、ホ短調から嬰ヘ短調、ロ短調と凝った転調が続き、緊張感をもたらします。重ねて追いかけていくようなフレーズに引き込まれていきます。
そして輝かしい再現部。スカッとするような壮大な音楽です。
第2楽章 アンダンテ
イ長調とイ短調の民謡風の2つの主題が順に変奏される複合変奏曲で、その美しさ、情感の濃さから、人気の高い曲です。民謡風の旋律の由来は分かっておらず、本当に俗謡から取られたのか、ハイドン自身が作曲したのか、諸説あります。短調に振れる部分の哀愁と、素朴な歌謡との明暗の対比が見事です。
メヌエットとトリオが同じ調という珍しい曲です。楽器法が変化に富み、色彩豊かです。トリオは2声の弦楽にフルートが旋律を重ねます。
ヴァイオリンで流れる旋律は、どこまでも流麗で、爽やかな疾走感にあふれています。中間部での短調の切迫感も見事ですが、流れは途絶えることはありません。その気高さは、王者の心情を謳うかのようです。
第4楽章(B版) フィナーレ:プレスト
元は序曲だったので、これから幕が開くような、騒がしいほどの賑やかの活気にあふれた音楽です。前述のように、後にシンフォニー 第62番の第1楽章に転用されました。それだけ人気があり、ハイドン自身にとってもお気に入りの曲だったのでしょう。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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