
ハンガリー女王に戴冠したマリア・テレジア(ハンガリーのTVドラマより)
はじめて、ハプスブルク家の女性君主となったマリア・テレジア。
父カール6世が、生前に女性継承を諸外国に認めさせたにもかかわらず、父帝が薨去すると、諸国はそれを反故にして、広大なハプスブルク家の領土を分割しようとします。
まっさきに攻め込んできたのは若きプロイセン王、フリードリヒ2世。
オーストリア軍はそれを迎え撃ちますが、予測だにしない奇襲であった上、諸侯の連合軍にすぎず、父王の時代に富国強兵策を取っていたプロイセンの近代的な精鋭には太刀打ちできません。
それでも1741年4月10日のモルヴィッツの戦いでは、オーストリア側のクロアチア騎兵の猛攻によって、一時はフリードリヒ2世も危うく命を落としそうになる場面もありました。
しかし、最終的にはプロイセン側の勝利となり、フリードリヒ2世が戦勝を誇張して宣伝したこともあって、国際情勢は一機にプロイセン優位になります。
フランス、バイエルン、ザクセン、プロイセンの4国は同盟を結び、次のように取り決めます。
・プロイセンはシュレージエン(シレジア)(現チェコの一部)の領有を確保する。
・バイエルン選帝侯はボヘミア(現チェコの一部)王となり、神聖ローマ皇帝に選出される。
・ザクセン選帝侯はモラヴィア(現チェコの一部)を領有する。
・フランスはオーストリア領ネーデルラント(現ベルギー)を領有する。
これによれば、マリア・テレジアに残されたのは、ハプスブルク家の本貫地オーストリア大公国だけでした。
ハプスブルク家は代々、帝位のほか、ボヘミア王とハンガリー王を兼任してきましたが、帝位とボヘミア王位が奪われた今、残るはハンガリーしかありません。
しかし、もともと異民族であったハンガリーは、ハプスブルク家の支配に何度も反乱を起こしてきましたので、この情勢下で、おとなしくマリア・テレジアに従う保証はありません。
それどころか、他国の支配から脱する、この上ないチャンスでもありました。
過去には異教徒であるオスマン・トルコに従い、その結果、2度にわたってウィーンはトルコ軍に包囲されることになったのです。
若き女君主、マリア・テレジアは、まさに四面楚歌。
このような混乱に巻き込まれた可哀想なヴィヴァルディは、亡き先帝に呼ばれてわざわざウィーンに赴いたのが運の尽き、多額の借金を負わされたあげくに世を去り、貧民墓地に葬られてお墓さえ残らなかったのです。
希望の星、男児誕生!
しかし、マリア・テレジアは、諦めません。
妊娠6ヵ月の身重にもかかわらず、乗馬にいそしみます。
この大ピンチになんとノンキな、と臣下たちは、その意を図りかねていました。
そして1741年3月13日。
凶事続きだったハプスブルク家に、それを吹き飛ばすような慶事が起こります。
待望久しい、男子の誕生です。
後にモーツァルトを可愛がった(しかし保護はしなかった)、ヨーゼフ2世です。
あれほど男子を望んだ、祖父にあたるカール6世は、この報を知ることなく、5ヵ月前に世を去ったことになります。
ヨーゼフ2世の誕生は、まさに歴史を変えました。
ハプスブルク家の継承が首の皮一枚でつながり、さらに続いていくという可能性が生まれたのです。
マリア・テレジアの女性継承は、それまでのつなぎということで、正当化を得ます。
それに、生まれたタイミングも絶妙でした。
あれほど男子を待ち望んでいた祖父カール6世に、ギリギリその顔を見せられなかった、というのは無念でしたが、祖父の生前に生まれていたら、ハプスブルク家の家督は、幼君ヨーゼフとなり、母マリア・テレジアはせいぜい摂政の立場くらいしか得られなかったでしょう。
この偉大なる女性政治家が表舞台に出る機会も減っていたわけで、そうなると歴史も変わってしまっていたはずです。
マリア・テレジアは、生涯で16人の子を産みますが、下から2番目のマリア・アントニア(フランス王妃マリー・アントワネット)を除いて、おおむね安産でした。
中でもヨーゼフ2世は軽い出産だったようで、産後、『いま妊娠6ヵ月でないのが残念だわ。次の子を産むまで、また1年はかかるのですから。』と余裕をかましていたそうです。
諸国から戦争を仕掛けられている君主でありながら、妊娠、出産という大きな心身の負担も平然と受け止める強さには、脱帽のほかありません。
時に、マリア・テレジア23歳。
マリア・テレジアは、息子が誕生したことに意を強くして、巻き返しに転じます。
ハンガリーで戴冠式をやる、と宣言。
これには、重臣たちはびっくり仰天。
形式的には、故父帝が持っていたハンガリー王位は、自動的にマリア・テレジアのものになっているのですが、ハンガリー人がこれを認めるかどうかは別問題です。
ハンガリーは、地勢的には大平原が広がり、遮るものなく外敵が入り放題の国ですから、古代から中世にかけて、フン族をはじめとした騎馬民族が跋扈した地域です。
西暦1000年(覚えやすい!)、マジャル人の王、イシュトバーン1世がカトリックに改宗し、ローマ教皇から聖なる王冠を授けられたのがハンガリー王国のはじまりです。
そのため、ヨーロッパの国ではありますが、マジャル人を主体としたアジア系遊牧民族たちの多民族国家なのです。
姓名も、ヨーロッパ人の名ー姓の順ではなく、我々アジア人と同じく、姓ー名の順になっています。
それで、前述のように、時勢によって、同じカトリックであるハプスブルク家に従ったり、異教徒ではあるものの民族的に近いオスマン・トルコに従ったり、時には国がふたつに分かれてしまうこともあったのです。

初代ハンガリー王、イシュトバーン1世
大きな賭け
1526年に、ハプスブルク家のフェルディナント1世が、例によって婚姻関係の縁によってハンガリー王位を得ますが、これに反対する対立王も長く存在していました。
そのため、ハプスブルク家が世襲でこれを継ぎ、実効支配するためには、代替わりのたびに戴冠式を行い、ハンガリー議会の承認を得ることが必要でした。
マリア・テレジアは、四面楚歌の中、まだ敵か味方か分からないハンガリーに乗り込んでいって、ハンガリー貴族たちの支持を得、その助力を得てこの窮地を脱しようとしたのです。
諸臣は、敵中に乗り込んでいくに等しい戴冠式挙行に反対しますが、マリア・テレジアの意思は変わりません。
虎穴に入らずんば虎子を得ず。
乾坤一擲の勝負に出る覚悟でした。
ただ、冷静沈着で情勢が読める聡明な彼女は、無謀な賭けはしません。
十分な計算の上、勝算もありました。
ハンガリーは、広大な平原が肥沃な農地になっており、それを支配する大領主が割拠していました。
彼らは、自分の所領を守るのが第一であり、自分の権利を認めて保護してくれる強者につくべく、ハプスブルク家とオスマン・トルコの間で、臣従と裏切りを繰り返していたのです。
そのような大領主の中で、〝ハプスブルク派〟として力を伸ばしてきたのが、エステルハージ家でした。
頼みの綱、音楽好きのエステルハージ家
同家は、15世紀初めから、ハンガリー王国北部のガランタを中心に大きな所領をもっていた大領主で、ハプスブルク家の皇帝フェルディナント2世から、伯爵の爵位を与えられました。
そして、オスマン・トルコからハンガリー全土を取り戻すべく戦い、ハンガリー副王の地位も与えられたのです。
1687年、オスマン・トルコによる第2回ウィーン包囲の解放に功績があった当主、エステルハージ・パウル(1635-1713)は、皇帝レオポルト1世によって神聖ローマ帝国侯爵に叙せられます。
彼は、チェンバロを演奏し、カンタータの作曲もしていたので、〝バロック大帝〟レオポルト1世とは気も合い、軍事だけでなく文化面でも評価されていました。
ハンガリーでの侯爵は、20世紀になるまでエステルハージ家のみでした。
エステルハージ・パウルは、レオポルト1世の御恩を忘れないため、家の紋章にその頭文字「L」をあしらったのです。
その子、エステルハージ・ミヒャエル(1671-1721)は、マリア・テレジアの父カール6世から侯爵位の世襲を認められました。
居城アイゼンシュタットを豪勢に改築し、楽団を拡張して、音楽の一大拠点としたのも彼です。
継子がいなかったミヒャエルの跡は弟が継ぎますが、これも早逝。
その子、エステルハージ・パール・アンタル(1711-1762)が継ぎます。
彼も、軍事では帝国元帥にまで昇りつめる一方、無類の音楽好きで、自らヴァイオリン、フルート、リュートを演奏し、膨大な楽譜をコレクションしました。
そして、宮廷楽長として、グレゴール・ヨーゼフ・ヴェルナー(1693-1766)を雇い、宮廷楽団を拡張、名手を集めて充実を図ります。
そして、1761年、高齢となって務めが果たせなくなったヴェルナーを補佐し、副楽長として雇われたのが、ヨーゼフ・ハイドンなのです。
ハイドンはその後、30年にわたってエステルハージ家に仕え、その保護のもとで新しい音楽を生み出していきました。
まさに、ウィーン古典派はエステルハージ家が育んだといえるのです。
このように、軍事、音楽両面で結びついた、ハプスブルク家とエステルハージ家。
ここで果たされた音楽の役割は、織田信長や豊臣秀吉が、大名との結びつきを強めるのに、茶の湯を利用したのにも似ています。
さて、マリア・テレジアが実質的なハンガリー女王となり、ハンガリー貴族たちの助力を得るのに頼りにしたのが、このエステルハージ家でした。
エステルハージ・パール・アンタル侯は、代々御恩を受けてきたハプスブルク家のピンチに際し、マリア・テレジアを支援するために動きます。
この機にハプスブルク家支配を脱して独立を、と息巻くハンガリー貴族たちを説得し、戴冠式実現のお膳立てをします。
そして、プレスブルク(現スロバキアの首都ブラティスラバ)での戴冠式にこぎつけます。
当時のハンガリーの首府は、ブダペストではなく、プレスブルクでした。
聖イシュトバーンの聖なる冠

聖イシュトバーンの聖冠
1741年6月20日。
マリア・テレジアは、夫フランツ・シュテファン、娘マリアンドルと群臣を伴って、数十隻の船でドナウ川を下り、プレスブルクに上陸します。
その艶やか姿に、ハンガリーの人々は熱狂し、『我らが女王万歳!!』と叫びます。
ハンガリー人を代表して、歓迎の挨拶を述べるのは、もちろんエステルハージ侯爵。
人々の歓呼に包まれながら、女王はドナウ川を見下ろす聖マルティン大聖堂に向かいます。
そこで行われた戴冠式で、マリア・テレジアは、740年前に初代ハンガリー王に即いた、イシュトバーン1世の王冠を戴きます。
イシュトバーン1世は、カトリックに改宗したことで聖人に列せられ、その冠は『イシュトバーンの聖冠』として、代々受け継がれ、現在でも残っています。
この冠は、聖なるものとされ、単に王権を象徴するのではなく、〝この冠にふさわしい者が王になれる〟というもので、他国の王冠とは異なる特別な存在でした。
聖冠は、頭をぐるりと回る円環の「コロナ・グラエカ」と、頭上をクロスする「コロナ・ラティーナ」のふたつの部分が組み合わされています。
「コロナ・グラエカ」には、全能者キリストのほか、大天使や聖人たちのエナメル画がはめ込まれています。
「コロナ・ラティーナ」の頂上にある十字架は、長年の流転の中で曲がってしまっていますが、それが逆にこの王冠の長い歴史を示していて、現在のハンガリー共和国の国章にも、傾いたままあしらわれています。
聖冠とセットで戴冠式で王が身に着ける王笏、宝珠、剣、ローブも、古い時代のものが残っており、一部は実際に聖イシュトバーンが身に着けたとされています。
いわば、ハンガリーの「三種の神器」です。

ハンガリー王の聖なる冠、王笏、宝珠、剣
マリア・テレジアは、若い女性の身でこれらの重さに耐え、ハンガリー人民の前に立ちます。
戴冠式を終え、大聖堂の外に出ると、代々のハンガリー王がやってきた儀礼を行います。
それは、馬にまたがり、剣を抜いて、四方に突きつける、という所作です。
これは、敵を遮るもののない大平原のハンガリーにあって、四方から敵がやってきても、王として撃退する、という誓いであり、遊牧民族であるハンガリーならではのものでした。
若い女性の身で、重い王冠を被り、重い剣をもち、なかんずく馬にまたがってやるのですから、至難の業といってよいでしょう。
しかし、マリア・テレジアは、これをやってのけ、ハンガリー人たちは熱狂し、新女王に忠誠を誓ったのでした。
男性向きの儀式ではありますが、実は、聖イシュトバーンの即位は、聖母マリアとの契約とされていました。
聖冠の「コロナ・グラエカ」のギザギザが、とがっているだけでなく、逆U字型もありますが、これは東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の女帝用の王冠に由来しています。
つまり、この冠はもともと女性用であり、聖母マリアを象徴しているのです。
それもあって、ハンガリー人は、マリア・テレジアを、聖母マリアが目の前に顕れたかのように感じて、熱狂したのです。
マリア・テレジアが、ピンチの中乗馬の訓練をしていたのも、この演出の準備であり、それは絶大な効果を上げたのです。

ハンガリー女王としてのマリア・テレジア
マスオさんの悲哀
一方、哀れだったのは、夫フランツ・シュテファンでした。
彼は、妻の晴れ舞台にいそいそと一緒にやってきたものの、ハンガリー人からしてみれば、まったく〝お呼びでない〟存在でした。
皇帝でもなければ、女王の共同統治者でもなく、また〝王妃〟でもありません。
ハンガリーには何の関係もない人であり、戴冠式では、一般人と同じ席しか用意できない、と言われてしまいました。
彼は、単なるギャラリーのひとりとなる屈辱にも耐えきれず、入場をあきらめました。
しかし、愛妻の晴れ姿は一目見たいと、大聖堂の外壁にスタンドをこしらえてよじ登り、娘と一緒に窓から中を覗き見た、ということです。
マスオさんの哀愁漂うエピソードです。
難航!議会対策
さて、戴冠式は無事終わり、名実ともにハンガリー女王として認められました。
これによって、四面楚歌の一辺、当方は、少なくとも敵に回ることはなくなりました。
オスマン・トルコも中立を保ってくれています。
しかし、これでは足りません。
自分が直面している戦争のために、ハンガリー貴族たちから、多くの兵と資金の提供を得なければなりません。
そのため、マリア・テレジアはハンガリー議会に臨みましたが、そこでは戴冠式に熱狂した貴族や都市の代表者たちも、自分の利害が絡んでくるとなると、まったく別な反応になりました。
これまでのハプスブルク家の過酷な収奪を非難し、これ以上の兵や資金、物資を要求するのなら、大幅な自治や特権を認めろ、と女王に迫ります。
それは、ハンガリーの独立を認めるに等しく、とても受け入れられるものではありませんでした。
交渉は何ヵ月にも及びました。
打開の道の見えない中、マリア・テレジアは、生まれたばかりのヨーゼフ2世をウィーンから連れてこさせ、抱っこして議会で哀願します。
『この子を抱いた私を助けられるのは、あなたたちだけなのです。』と。
これは、前述のように、聖母マリアを意識した演出でした。
こうした粘り強い努力と、エステルハージ侯爵の周旋もあって、5ヵ月にわたる交渉の末、ついにハンガリー議会は、『我々は我が血と生命を女王に捧げる』という有名な決議を行い、10万の兵と多額の軍資金を提供する決定を行ったのです。
マリア・テレジアが、自らの才覚と魅力で、ひとり国難に立ち向かっていく姿には、心を打たれます。

マリア・テレジアに忠誠を誓うハンガリー議会
帝国の逆襲、始まる
孤立したマリア・テレジアに味方する国が現れた、ということは、ヨーロッパ情勢を大きく変えました。
勇猛なアジア遊牧民族の血を引くハンガリー兵は、これから第1次世界大戦に至るまでハプスブルク軍の中核を成します。
女だからと侮っていた、宿敵プロイセンのフリードリヒ大王は、後に次のようにうなります。
『今のハプスブルクは類まれな才能の男が統治している。ところが、この男というのが、女なのだ!』
さて、女帝マリア・テレジアの窮地を救ったハンガリーのエステルハージ侯爵家が、その後のハプスブルク帝国でどれだけ勢力を保ったかは想像に難くありません。
ハイドンの豊かな創造は、こうした歴史的背景から生まれたものなのです。
エキゾチックなハンガリー風ロンド
それでは、エステルハージ家に仕えたハイドンのピアノ・コンチェルトを聴きましょう。
主家にちなんだ、ハンガリー風のロンドがついています。
ハイドンのピアノ・コンチェルトの中で、唯一ポピュラーな人気曲です。
1784年にウィーンのアルタリアから『クラヴィチェンバロまたはフォルテピアノのための協奏曲』として出版され、どちらでも演奏できるように書かれていますが、現代ではほとんどピアノで演奏されます。
モーツァルトがウィーンでピアニストとしてセンセーショナルなデビューを果たし、盛んに自分がソロを弾くためのピアノ・コンチェルトを書き始めた頃で、ハイドンはそれに刺激を受けてこの曲を作ったともいわれますが、これ以降コンチェルトは作曲していません。
ピアノ・コンチェルトはモーツァルトに任せようと思ったかもしれませんが、ハイドン自身はピアノの名手ではなく、作曲の動機もありませんでした。
作曲当時、ハイドンはまだピアノを持っていなかったとされており、ここでは、作曲当時には多かったであろう、チェンバロでの演奏を取り上げます。

現在のハンガリーの国章
Joseph Haydn:Concerto per il clavicembalo D-dur, Hob.ⅩⅧ : 11
演奏:トレヴァー・ピノック(指揮&チェンバロ)、イングリッシュ・コンサート
Trevor Pinnock & The English Consert
編成は、弦4部のほかは、オーボエ2、ホルン2という、宮廷室内楽的なシンプルなものです。楽しくて屈託のない第1主題が、まず弦楽3声で軽やかに提示され、すぐにトゥッティが受け継いで盛り上げていきます。ソロは第1主題をなぞったのち、3段階で展開していきます。第2主題はシンコペーションがかっこいいイ短調です。提示部の最終段階では、緊張感あるロ短調が、いいスパイスとして効いています。展開部では、動機が転調を重ね、充実した響きに引き込まれます。再現部では、再び屈託のない明るさとなり、時々短調への揺らぎを見せながら、カデンツァを経て締めくくられます。
モーツァルトとは一味違った魅力が人気の曲です。
第2楽章 ウン・ポコ・アダージョ
ゆったりとしていて、この上なく優雅な歌です。美しいソロは、時折短調の哀愁も漂わせながら、変奏を重ねていきます。弦の、寄せてはかえすさざ波のような伴奏が心に沁みていきます。最後は、ソロがカデンツァ風に豊かな叙情を漂わせます。
第3楽章 ロンド・アルンガレーゼ(ハンガリー風ロンド):アレグロ・アッサイ
民族舞踊の香りたっぷりの、楽しいロンドのテーマで始まります。ソロも呼応して、フォルクローレ風に踊ります。ロンドの間には、3つの「クプレ」が入りますが、これがいずれも、さらに異国情緒にあふれています。しかし、これが本当にハンガリー風なのかはわかっていません。スラブ風、トルコ風、はたまたポーランド風と言われても、そうなのか、と思ってしまいます。ボスニアの「シリ・コロ」と呼ばれる舞曲に起源があるという説もあります。いずれにしても、ハプスブルク帝国の辺境ですので、ウィーンっ子にとっては細かい区別などどうでもよく、異国情緒だけ味わえればよかったということでしょう。ハンガリー勤務のハイドンが、その風情をウィーンの聴衆向けにお届けした、ということになります。いずれにしても、ハンガリー大平原で楽しく踊る農民たちの姿が彷彿としてきます。マリア・テレジアが結んだ、ハプスブルク家とハンガリーの強固な絆が生んだ音楽といえます。
現代ピアノでの演奏の動画です。あまり画像はよくありませんが、カティア・ブニアティシヴィリの素晴らしい演奏です。
www.youtube.com
TVドラマのハンガリー女王戴冠の場面です。
www.youtube.com
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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