ヴィヴァルディが協奏曲集『ラ・チェトラ』を献呈し、会見時には大臣以上にたくさんのことをヴィヴァルディと話し込むほど大ファンだった、神聖ローマ皇帝カール6世(1685-1740)には、大きな悩みがありました。
跡継ぎの男子が得られなかったことです。
本家であるスペイン・ハプスブルク家が、最後の国王、カルロス2世に子ができず、その血を引いた男子がいなかったため、断絶してしまったのは禍々しい前例でした。
兄ヨーゼフ1世から、スペイン王位を受け継ぐべく命ぜられ、スペイン継承戦争を戦ったカール6世でしたが、最終的に王位はフランスのブルボン家に奪われてしまいました。
そして神聖ローマ皇帝位を独占してきたオーストリア・ハプスブルク家も、兄ヨーゼフ1世は男子がいないまま急逝。
あとを継いだ弟カール6世も、1716年に唯一の男児レオポルトが誕生したものの、1歳に満たずに夭折。
翌1717年に長女マリア・テレジア(のちの女帝)が誕生した後、ふたりの子が生まれましたが、いずれも女児。
皇后の体はもう限界で、これ以上の出産は命にかかわるとドクターストップがかかってしまいました。
認められない女系相続
中世初期に成立したフランク王国には、女子の相続や王位継承を禁ずるサリカ法というのがありました。
東フランク王国の流れをくむ神聖ローマ皇帝(ローマ王)、そして西フランク王国の流れをくむフランス王は、この伝統で法的に女帝、女王は認められなかったのです。
このままでは、帝位はおろか、ハプスブルク家の他家に渡ってしまいます。
兄ヨーゼフ1世の長女はザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世に、次女はバイエルン選帝侯カール・アルベルトに嫁いでおり、このふたりは帝位を継ぐのに申し分のない資格をもっていました。
ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世は、バッハの活躍していたライプツィヒの主君でポーランド国王も兼ねており、バッハがロ短調ミサやカンタータを捧げたことは、以前の記事でも取り上げました。
特に、カンタータ第206番『しのび流れよ、戯れる波』は、広い領域を手中にしたフリードリヒ・アウグスト侯を、それぞれの所領を流れる川の精たちが讃える内容で、ハプスブルク家出身の妃にちなんでドナウ川の精も登場します。
バッハが祝福する通り、大国オーストリアまで自分の手に転がり込みかねない情勢だったのです。
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一方、ミュンヘンに都するバイエルン選帝侯カール・アルベルトのヴィッテルスバッハ家は、ハプスブルク家の長年のライバルであり、ポーランド王を兼ねるザクセン選帝侯よりも、帝位に近い存在でした。
ちなみに、カール6世を悩ませたこのカール・アルベルト侯も、大のヴィヴァルディ・ファンで、ヴェネツィアを訪れた際にすっかりその音楽に魅せられ、ヴェローナで新作オペラ『ウティカのカトーネ』が初演されたときには、わざわざ遠路駆けつけて観劇したほどです。
長女に継がせるためなら、なりふり構わず
さて、自分の後釜を有力諸侯がうかがう情勢で、カール6世の焦りはいかばかりか。
何とか、長女マリア・テレジアに、帝位は無理としても、広大なハプスブルク家の所領は相続させたい、と画策します。
その内容を、「国事詔書(プラグマーティシェ・ザンクチオン)」という法令にして発布しました。
自分の死後、ハプスブルク家の所領の分割禁止と、長女マリア・テレジアへの相続を定めた、いわば遺言の公正証書のようなものでした。
しかし、これは諸外国が認めてくれなければ効力はありません。
カール6世は、領地の割譲など、大幅な譲歩を行って、バイエルン、プロイセン、英国、フランス、スペイン、オランダ、サルディニアなどから承認を得ることができました。
老将の懸念
しかし、これには、スペイン継承戦争、対トルコ戦争をハプスブルク家のために戦ってきた猛将、オイゲン公が反対します。
『何の効力もない紙切れを王女に遺すよりも、強力な軍隊と豊かな財源を遺す方がマシだ』と、何度も皇帝に進言しますが、聞き入れられませんでした。
王女に戦争など無理だと思ったのでしょう。
しかし、皇帝の崩御後、オイゲン公の考えの方が正しいことが、すぐに現実のものとなってしまうです。
ちなみに、オイゲン公(プリンツ・オイゲン) (1663-1736)は、ウィーン市内観光中には必ず名前が出てくる人物です。
彼は、サヴォイア家の血を引くフランス生まれの貴族で、縁あってハプスブルク家に仕え、〝醜男の名将〟(カワイソウ!)として高名で、数々の戦功により、ウィーンの観光名所で、現代には美術館にもなっているもベルヴェデーレ宮殿を皇帝から賜ったのです。
ここからはウィーン旧市街を一望できるため、〝良い眺め〟という意味で名付けられました。
相思相愛の政略結婚
ともあれ、カール6世自身は、まずは長女マリア・テレジアへの所領の相続を国際的に承認させて一安心。
あとは、マリア・テレジアの婿選びです。
ハプスブルク家の男系子孫は断絶が避けられませんが、せめて、女系での帝位継承に望みをつないだのです。
オイゲン公は、バイエルン選帝侯や、プロイセンの若い王子フリードリヒ(のちの大王)を候補に上げましたが、カール2世は、それでは大国に乗っ取られる形になるとして拒否。
白羽の矢を立てたのは、フランスとの国境にある小国、ロレーヌ公の公子フランツ・シュテファンでした。
ロレーヌはフランス語で、ドイツ語ではロートリンゲンです。
アルザスとともに、近代に至るまで独仏が奪い合った係争の地であり、フランス語ではアルザス・ロレーヌ、ドイツ語ではエルザス・ロートリンゲン、と呼ばれます。
現在では第2次世界大戦の結果、最終的にフランス領になっています。
ロレーヌ公は、ハプスブルク家と縁浅からぬ仲でした。
〝バロック大帝〟レオポルト1世時代、オスマン・トルコの第2回ウィーン包囲にあって、ポーランド王とともにロレーヌ公が援軍に駆けつけ、トルコ軍を打ち破ってウィーンを救ってくれたのです。
カール6世は、小国ロレーヌ家なら、一体化させてもハプスブルク家のアイデンティティは保てると判断したのです。
幸い、公子フランツ・シュテファンは、マリア・テレジアと幼馴染でした。
仲のよい宮廷同士だったので、交流があったのです。
ふたりとも幼い恋を育み、1736年に、政略結婚でありながら、恋愛結婚を果たしたのです。
大事な入り婿の宮廷楽長
その前年、ヴェローナで上演されたヴィヴァルディのオペラの台本には『ロレーヌ公殿下の宮廷楽長』という肩書が記されています。
ヴィヴァルディはロレーヌに行ったことはありませんから、名誉職的な肩書ですが、カール6世としては、自分が贔屓の、ヨーロッパ一の音楽家を楽長にすることで、ロレーヌ家に箔をつけようと考えたようです。
しかし、この結婚に早くもフランスのルイ15世がいちゃもんをつけます。
ロレーヌはフランス圏だと思っていますから、そこが宿敵ハプスブルク家に取り込まれてしまっては面白くありません。
結婚を認める引き換えに、ロレーヌ公国を寄越せ、と横車を押してきます。
ロレーヌとトスカーナのとりかえっこ
フランツ・シュテファンは、先祖代々の国と、ハプスブルク家への婿入りの二者択一を迫られ、悩みぬいた末に、〝逆玉〟を選びます。
政治判断ではありますが、マリア・テレジアへの愛もあったかもしれません。
ロレーヌの譲渡に関する合意書に署名する際、怒りと絶望のあまり、3度もペンを投げ捨て、震える手でようやく署名したといいます。
ルイ15世は、空いたロレーヌ公位を、王妃マリー・レクザンスカの父で、ポーランド継承戦争でポーランド王位をザクセン選帝侯に奪われ、領地なしになってしまった岳父スタニスワフ・レシチニスキに与えます。
フランツ・シュテファンは、ロレーヌ公位の代わりに、メディチ家が断絶した後のイタリア・トスカーナ公国をもらうことになります。
トスカーナ公位は、これでメディチ家からハプスブルク家に移ったことになります。
メディチ家断絶のお話はこちらです。
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王家の女系相続とは
王位があちらこちら、諸国の思惑で取引のようにいろんな家に移っていくのは、ヨーロッパならではの現象です。
キリスト教国ですから、重婚や側室は認められず、妾腹の男子がいても王位は絶対に継げません。
そのため、どうしても女系相続が発生します。
ハプスブルク家はそれを利用して領土を拡大しましたが、一転、逆にそれによって王位を失う危機に陥ったのです。
日本の皇室が世界に珍しく〝万世一系〟を貫いてこれたのは、側室制度があったためといえます。
側室制度を正式に廃止したのは昭和天皇で、日本が近代化する上で当然といえば当然ですが、それは男系皇位継承の継続を難しくすることを意味します。
女系天皇や女系宮家を認めないと、皇室にはずっと断絶のリスクがつきまとうことになります。
ハプスブルク家は、直系男子はカール6世で断絶しましたが、ロレーヌ家から入り婿を迎え、ハプスブルク=ロートリンゲン家と名前を変えて、辛うじて存続に成功しました。
しかし、姓さえ無い日本の皇室が、一般民間人の家と合体することなど、近頃の騒動を見るにつけ、多くの国民には受け入れ難いのでは、と思わざるを得ません。
カール6世はひとり苦悩しましたが、日本国民が抱える、何とも悩ましい問題です。
では、ヴィヴァルディがカール6世に捧げた『ラ・チェトラ』の続きを聴いていきましょう。
ヴィヴァルディ:『ラ・チェトラ 作品9』第5番 ヴァイオリン協奏曲 イ短調 RV358
Antonio Vivaldi:La Cetra op.9, no.5 Concerto A-Moll, RV358
演奏:フェデリコ・グリエルモ指揮 ラルテ・デラルコ
Federico Guglielmo & L'Arte dell'Arco
アダージョの序奏がついていて、最後の二小節は、ヴァイオリンとヴィオラが付点リズムを刻んで、プレストへ導入しますが、『四季・夏』の第2楽章を思い起こさせます。プレストは、嵐のよう。リトルネッロの中でも、音の強弱がリズミカルなコントラストを生んでいます。ソロは3回ですが、華やかで情熱的。
第2楽章 ラルゴ
前楽章の嵐が急に静まったかのように、ヴァイオリンがオペラがレチタティーヴォ風に何かを物語ります。さらに、ヴァイオリンはアリアを歌い出し、その哀感は心に沁みわたります。歌詞がついているかのように、何かを訴えているように聞こえます。
嵐の前のような不気味な前奏が奏でられたあと、やはり激しいトゥッティになります。まるで現代のロックのように情熱的です。毅然とした趣もこの楽章の魅力です。
ヴィヴァルディ:『ラ・チェトラ 作品9』第6番 ヴァイオリン協奏曲 イ長調 RV348
Antonio Vivaldi:La Cetra op.9, no.6 Concerto A-Dur, RV348
この曲集のうち、何曲かには『スコルダトゥーラ』という指示があります。これは、曲に合わせて変則的に特別な調弦をすることで、これによって困難なパッセージを弾きやすくしたり、音色に変化を与えたりする効果があります。使用される曲には、楽譜冒頭に『アッコルダトゥーラ』と表示され、具体的な調弦法が指示されています。ヴァイオリンの可能性と技巧をとことん突き詰めた中で生まれた方法といえます。この第6番にもその指示があります。
すっぱりとした下行音型が心地よりリトルネッロです。ソロ部分は聴くだけで込み入っていて、重音奏法や大きな跳躍に度肝を抜かれます。当時のヴァイオリン技は曲芸レベルになっていたことがうかがえます。
第2楽章 ラルゴ
付点リズムのゆったりした序奏が、フランス風序曲を思わせます。続いて、3連符の上にのびやかなヴァイオリンの歌が流れます。
ジーグ風の、ダンスを思わせるちょっとお茶目な最終楽章です。どこか、ハイドンのシンフォニー第98番のフィナーレを思い出してしまいます。ちょっとお澄まししたような趣がユーモラスです。最後のソロのトリルはいわゆる〝火花音型〟で、音符が弾けるようです。
ヴィヴァルディ:『ラ・チェトラ 作品9』第7番 ヴァイオリン協奏曲 変ロ長調 RV359
Antonio Vivaldi:La Cetra op.9, no.7 Concerto B-Dur, RV359
魅力的なフレーズが繰り返されますが、もちろん、単純な繰り返しではなく、だんだんと音域が広がっていきます。短調への揺らぎの部分は、落ち着いていて、渋い光を放っています。ソロも装飾重視の反復音型で、この楽章全体のリズム重視の性格を強めています。
第2楽章 ラルゴ
カンタービレ(歌うように)とも記させていて、しみじみと、優しく何事かを語り掛けてくるようです。なんといっても伴奏が魅力的で、癒されます。
リトルネッロの後半は、伸びやかで、スケールの広さを感じさせる楽章です。誰もが魅了されてしまうでしょう。ソロは3連符のリズミカルなもので、どこまでも軽快です。この曲集でも特に白眉といえるコンチェルトではないでしょうか。
ヴィヴァルディ:『ラ・チェトラ 作品9』第8番 ヴァイオリン協奏曲 ニ短調 RV238
Antonio Vivaldi:La Cetra op.9, no.8 Concerto D-Moll, RV238
半音階がゆらぐドラマチックなリトルネッロで始まります。畳みかけるようにハーモニーが重なっていき、挟まれるソロは情感豊かです。ヴィヴァルディの短調の魅力がたっぷり味わえる一品です。
第2楽章 ラルゴ
深い森の静寂の中にいるかのように、孤独で、悲愴な雰囲気のラルゴです。ヴァイオリンのソロはひとり何かを訴えています。
第1楽章としてもおかしくないような、スケールの大きなリトルネッロです。曲調は落ち着いていて、大人の雰囲気、といったところです。ソロは抑え気味で、リトルネッロの間のスパイスといった趣きです。
次回は、思いがけないヴィヴァルディの死について、です。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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