引き続き、ハイドンの出世物語です。
功成り名遂げたハイドンは晩年、自分の青春時代を振り返って、次のように述懐しています。
青年諸君は私を範例として、無から有を生じせしめることが可能であることを知るだろう。現在の私は、すべてこれ直接の必要の所産なのである。*1
新年度を迎え、新たな道を歩みはじめた若者に贈りたいような言葉ですが、ハイドンは最初から無、というわけではありませんでした。
美声と、天与の楽才があったのです。
しかし、モーツァルトのようにもともと宮廷音楽家の息子として生まれたわけではなく、農家の子であり、世に出ること自体が奇跡でした。
どんなに才能があっても、見出してくれる人との出会いがなければ、一生埋もれたままだったはずです。
ハイドンは運ももっており、これまで見てきたように、自分を評価してくれる大者の知遇を得ることができました。
しかし、合唱団を追い出され、無一文からウィーンの街で身を立てることができたのは、努力の賜物です。
生きるためには、自分の得意技に磨きをかけるしかなかったのです。
それが、ハイドンの言う〝直接の必要の所産〟なのでしょう。
まさに〝叩き上げ〟の範例といえます。
さて、17歳でシュテファン大聖堂合唱団を追い出され、ウィーンで流しのセレナーデ弾きをしながら食いつなぐこと5年。
桂冠詩人メタスタージオや、イタリアオペラの巨匠ポルポラらの知己を得て、着実に音楽家のキャリアを積みはじめたハイドンでしたが、まだ生計の道は不安定で、将来のビジョンも茫漠としていました。
1754年には母が46歳で亡くなり、遺産465グルデンを6人の子供で77グルデンずつ分け合いました。
弟ミヒャエル・ハイドンもこの頃合唱団を卒業し、独立した音楽家の道を歩みはじめます。
彼は早くも3年後には、20歳にしてハンガリーのグロースヴァルダイン司教の楽長となるのです。
この頃は兄よりも高い評価を得ていたことになります。
貴族社会に進めた第一歩
ハイドンが成功するには、貴族からの援助が不可欠でしたが、いよいよそのチャンスが訪れます。
トゥーン伯爵夫人が、ハイドンが作曲したクラヴィーア・ソナタに感動して、彼を自邸に招いたのです。
この伯爵家はウィーンでも名高い音楽愛好家で、音楽家の保護者でした。
グルックやモーツァルトも保護し、若いベートーヴェンも親しくこの家に出入りしています。
モーツァルトは伯爵の依頼で、シンフォニー 第36番《リンツ》を作曲しました。
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まだ若かった伯爵夫人は、ハイドンの才能を知ると、クラヴィーアと声楽の教師として雇ったのです。
さらにハイドンは、フュールンベルク男爵という貴族の家に招かれ、ヴァイオリニストとして召し抱えられました。
男爵の父は優れた医者であり、マリア・テレジアの父帝カール6世から貴族に列せられました。
カール6世は、かなり気前よく貴族の爵位を授与したのが、音楽家をめぐるエピソードからも浮かび上がってきます。
力をつけはじめた中産階級を取り込み、封建領主たちに対抗させ、自分の支持層にしようとしたのかもしれません。
男爵はヴァンツィアールというところ一帯に領地を購入しました。
ハイドンを雇ったのは、この男爵の息子、二代目でした。
彼はハイドンに向かって、『4人の芸術愛好家たちが演奏できるような曲を作曲してほしい』と頼みます。
こうして出来たのが、弦楽四重奏曲です。
最初の頃は、ハイドンはこうした曲は、カルテットではなく、ディヴェルティメントと名付けていました。
娯楽曲といった意味合いです。
ヴァンツィアールの男爵の館には、チェリストとしてアルベルヒツベルガーがいました。
彼は後に偉大な対位法家となり、ハイドンのもとに弟子入りしたベートーヴェンが、ハイドンの指導に満足せず、アルベルヒツベルガーのところにこっそり通ったエピソードは以前の記事で取り上げました。
彼はハイドンの同僚だったのです。
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これに、アマチュア演奏家として、村の司祭と館の執事が加わり、4人で演奏したのが、弦楽四重奏の始まりです。
ハイドンは生涯かかけて、このジャンルに磨きをかけ、大成させ、普及させたことによって、〝弦楽四重奏曲の父〟と讃えられることになります。
クラシックのジャンルの中で、最も高尚なものといわれる形式のルーツは、ヴァンツィアールのこの館にあったのです。
16人の子を産んだ女帝
さて、マリア・テレジアの物語です。
父伝来の豊かな土地、シュレージエン(シレジア)を奪ったプロイセンのフリードリヒ大王から、かの地を取り戻すべく、25年もの間、国の改革と軍の強化、そして戦争に全力を注いだ女帝。
ついに、その志はかないませんでした。
七年戦争を終結させたフベルトゥスブルクの講和条約では、シュレージエンは〝永遠に〟プロイセンに属する、と書いてあり、女帝の後の皇帝たちも、この地の支配権を主張することはありませんでした。
彼女の無念は察するにあまりありますが、自身の気力も、国家の力も、これ以上の戦争を続ける力はなく、涙を飲みました。
しかし、マリア・テレジアは、このような苦しい戦争の間にも、20年の間に、なんと16人の子供を産んだのです。
彼女が携わったのは、ただの政務ではありません。
改革に次ぐ改革、戦争に次ぐ戦争です。
それを彼女は、常に妊娠と出産の間にこなしたのです。
子育ては女官がやるとはいえ、大変な肉体的、精神的負担です。
お産で命を落とす女性がたくさんいた時代に、これはもう世界史上の偉業といってよいでしょう。
ではマリア・テレジアの子供たちは、みんながみんな偉大だったかというと、遺伝の不思議で、そうではありません。
偉大な子もいましたが、平凡な子、あるいは、とんでもなくやんちゃな子もいたのです。
彼ら、彼女らは、女帝の子として生まれた宿命で、大かれ少なかれ、歴史、そして音楽に影響を与えていますので、まずはひとりひとり、その生涯をみていきましょう。
次女マリア・アンナの生涯
男児誕生を期待され、入り婿のロレーヌ(ロートリンゲン)公フランツ・シュテファンと結婚し、できた最初の子は女児でした。
マリア・エリザベート(1737-1740)と名付けられた娘は、活発な愛らしい子でしたが、3歳のある日、突然発病してその日のうちに亡くなってしまいました。
ふたり目も女児で、両親と国中を落胆させましたが、マリア・アンナ(1738-1789)と名付けられ、男子が誕生するまでは、推定相続人とされました。
彼女は成長するほどに、才能があふれだしました。
絵画、ダンス、音楽では並々ならぬ才に恵まれ、学問では自然科学に興味を示しました。
しかし、病気がちで、成長につれて、だんだんと背骨が湾曲してしまい、陰で〝せむしの皇女〟などと言われるようになってしまいました。
マリア・テレジアは、ハプスブルク家の伝統的政策である政略結婚に子供たちを利用するつもりでしたので、マリア・アンナは使えないと考え、彼女には特別な愛情を注ぐことはなかったのです。
女帝は愛情深く、そのファミリーは円満なイメージがありますが、政治が絡んでくると、彼女の底知れぬ冷たい一面が見られます。
子供の好き嫌いや依怙贔屓は相当に激しかったのです。
後に生まれた未来の皇帝、弟ヨーゼフ2世よりも学問ができたため、逆にそれも疎まれてしまったようです。
そんな報われない彼女を可愛がったのは、同じく宮廷の〝日陰者〟であった、ハプスブルク家のマスオさん、父フランツ帝でした。
彼も、政治的には無能と言われ、妻マリア・テレジアからは何も仕事は任せてもらえませんでしたが、トスカーナ公国の財政を立て直し、蓄財に成功するなど、経済人としての才能に秀でていました。
さらに、文化、学問への造詣が深かったため、この知的な娘を愛したのです。
フランツ帝の死後、その自然科学に関するコレクションを管理、拡大し、それは今のウィーン自然史博物館の基礎となりました。
生涯独身を貫き、学問発展と福祉に尽くした皇女
マリア・テレジアは、彼女の生活のため、プラハの貴族女性にための施設長に任じましたが、赴任はしませんでした。
さらに、ヨーゼフ2世の妃マリア・イザベラに冷たくあたってしまったため、弟ヨーゼフ2世からも疎まれ、宮廷に居づらくなってしまいました。
彼女は、ある時立ち寄ったケルンテンのクラーゲンフルトにあるエリザベト修道院がの修道女たちが、自分の容姿にもかかわらず、温かく迎えてくれたことに心を打たれ、この修道院に入ることを希望しました。
マリア・テレジアは、皇女の身分に合わないと渋りましたが、最後には受け入れ、修道院の側に彼女の城館を建てました。
彼女が実際に移り住んだのは、1781年のことでしたが、皇女が来るのをずっと心待ちにしていた村人たちから歓待され、女子修道院長シャヴェリエ・ガッサーとも固い信頼関係で結ばれ、充実した余生を送ることができました。
施設の病院の拡張や、貧者や病人への援助など、社会福祉活動に専心する姉には、ヨーゼフ2世も一目置かざるを得ず、国庫から修道院への財政援助をすることになりました。
1789年に51歳で亡くなったときには、村人が城館を取り囲んで祈りを捧げたということです。
奇しくも、彼女が帰依した聖エリーザベトの祝日でした。
曲は、ハイドンの珍しい宗教的シンフォニーです。
Joseph Haydn:Symphony no.26 in D minor, Hob.I:26 “Lamentatione”
演奏:ジョヴァンニ・アントニーニ指揮 バーゼル室内管弦楽団
第1楽章 アレグロ・アッサイ・コン・スピーリト
題の《ラメンタツィオーネ》は聖書の哀歌という意味で、この曲の古い楽譜には「Passio et Lamentatio(受難と哀歌)」と記されていることによります。イエスの受難に思いを馳せる復活祭の時期に演奏するために作曲されたようです。第1楽章と第2楽章に、聖句が挿入されているのが特徴です。
冒頭の、フォルテによるシンコペーションの激しく情熱的な第1主題は、ハイドンの『疾風怒濤期』の表れとされています。〝疾風怒濤(シュトルム・ウント・ドランクは当時の文芸上の思潮で、ゲーテ、シラーらが主導し、感情を素直に吐露したロマン派の先駆けといえる運動です。ハイドンが憧れて学んだカール・フィリップ・エマニュエル・バッハの感情過多様式も、これと同じく次の時代への胎動といえるかもしれません。
まさに怒涛のような第1主題が終わると、いきなり、なんの経過句もなく、平行長調であるへ長調に転調し、聖句が、当時の受難曲の旋律でオーボエ1管と第2ヴァイオリンによって奏されます。もちろん器楽曲ですから歌詞はありませんが、次の言葉に対応しているとされています。
最初の9小節は福音書記家(エヴァンゲリスト)の『Passio Domini nostri Jesu Christi secundum Marcum』、次の6小節がイエスの『Ego sum』、次の3小節は再び福音書記家の『In illo tempore』、最後の4小節がユダヤ民衆の『Jesum Nazarenum』です。
展開部はヘ長調で第1主題がシンコペーションし、イエスの短い言葉も再現されます。再現部は、まずは冒頭主題がそのまま戻ってきますが、受難メロディはその哀感が薄れ、勝利のように高らかに奏されます。短調で始まる楽章を長調で締めくくるというのも、極めて異例であり、若いハイドンの冒険的実験なのです。
ニ長調から遠いヘ長調で始まり、これもハイドンとしては初めての試みでした。ここでもコラール風の聖句がオーボエと第2ヴァイオリンで歌われ、第1ヴァイオリンが後光をまとわせます。テキストは『Aleph. Incipit Iamentatio Jesumiae Prophetae. (アレフ。預言者エレミアの哀歌はここに始まる)』です。前楽章よりも、静謐な祈りの世界が現出し、すり足のようなヴァイオリンのバスは、巡礼者の足取りを思わせます。再現部ではホルンが加わって、静かな中にも精神の高揚を現わしています。
この曲は3楽章で、このメヌエットが最終楽章になります。第4楽章は逸失したという説もありましたが、今では否定されています。宮廷舞踊の優雅さはなく、重苦しい舞曲になっています。冒頭も主音を外し、不安定なリズム、不協和音が〝哀歌〟がテーマのこのシンフォニーを特徴づけています。トリオでも、アウフタクトの強い音が緊張感を高めます。モーツァルトが短調のシンフォニーを書いたとき、このハイドンの先例をなぞった可能性もあります。
動画は、同じくジョヴァンニ・アントニーニ指揮のバーゼル室内管弦楽団です。
www.youtube.com
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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