
若き日のハイドン
楽長就任するも、すぐ解雇?
1759年にボヘミア貴族のモルツィン伯爵の楽長に就任したハイドン。
そして、安定した職についたことで、1760年11月に結婚します。
しかし、順調に進んでいたかに見えた人生も一寸先は闇。
モルツィン伯爵家の財政が、急速に逼迫してしまったのです。
伯爵父子は、お抱えオーケストラを拡大し、音楽に惜しみなく財をつぎ込んでいましたが、由緒あるとはいえ、それほど大きな所領を持っていなかったモルツィン家としては、楽長つきの楽団は身の丈には合っていなかったようです。
伯爵は、泣く泣く楽団の縮小を決断し、せっかく雇うことのできた、素晴らしい才能に恵まれた若き音楽家、ハイドンを解雇せざるを得なくなりました。
しかし伯爵は、所帯を持ったばかりのハイドンを、何の支援もなく、世間に放っぽりだすような無責任な人ではありませんでした。
素晴らしい再就職先
時々伯爵家に客として招かれていたハンガリーの大貴族、エステルハージ侯爵に打診し、再就職を斡旋してくれたのです。
侯爵は、モルツィン伯爵家でハイドンの音楽を聴き、大いに賞賛していたのです。
エステルハージ侯爵は、ハプスブルグ家によって代々ハンガリー総督、副王に封じられた、ハンガリーの大貴族です。
1740年、即位したとたん諸国から攻められ、四面楚歌に陥っていたマリア・テレジアを、ハンガリーが国を挙げて支持することに導いた立役者でもありました。
それからも、オーストリア継承戦争、七年戦争をハプスブルク家第一の忠臣として戦い、その功によってマリア・テレジアから帝国元帥にも任じられていました。
モルツィン伯爵とは比較にならないくらい、国王にも準ずる力を持っていた大貴族です。
当主も代々音楽好きで、大きな宮廷楽団を備えていました。
ちょうど、長年勤めてきた楽長グレゴリウス・ヴァルナーが高齢となり、最前線の任務をこなせなくなってきたので、それを補佐する副楽長を探していました。
そこに、かねて目を付けたいたモルツィン伯爵の楽長がフリーになるという話が来て、飛びついたのです。
この〝移籍〟にどの程度の時間を要したか不明ですが、少なくとも1760年11月の結婚証書には肩書として「モルツィン伯爵家楽長」とありますし、エステルハージ侯爵家がハイドンと交わした雇用契約書は、1761年5月1日になっています。
モルツィン伯爵家を去ってから、数ヵ月はウィーンに滞在し、作曲もしていた可能性がありますが、詳しいことは分かっていません。
作曲時期が分かりづらい、初期のシンフォニー
さて、ハイドンの初期のシンフォニーのうち、どれがモルツィン伯爵のために書かれたのでしょうか。
ハイドン自身は、老年になってからの記憶では、最初のシンフォニーは1757年に作曲したという認識でした。
これに対し、生前のハイドンにインタビューした伝記作家グリージンガーは、シンフォニー第1番はモルツィン伯爵のために書かれた、としています。
でも、モルツィン伯爵に仕えたのは1759年ですから、なかなか年代が合いません。
シンフォニー 第37番も、ずいぶん後の番号が振られていますが、発見された楽譜から、1750年代の、ごく初期の頃の作品と考えられています。
ハイドンの初期のシンフォニーは、まさに交響曲の歴史の草創期ですから、その成立を解明するのはとても重要ですが、いかんせん、資料が少ないのです。
現在、モルツィン伯爵家時代の作品と考えられているのは、第1番と第37番を除くと、第2番、第4番、第5番、第10番、第11番、第27番、第32番、第33番、第107A版です。
そして、モルツィン伯爵家とエステルハージ侯爵家の端境期の作品としては、第3番、第15番、第17番、第19番、第20番、第25番、第108B番あたりではないか、と考えられています。
次回、いよいよ、30年にも及んだエステルハージ家での宮仕えが始まります。
六女マリア・アマーリアの生涯

マリア・アマーリア
さて、女帝マリア・テレジアの娘たちの生涯を引き続き追っていきます。
今回は、1746年に生まれた、六女マリア・アマーリア(1746-1804)です。
成年まで無事育った娘としては、4番目になります。
この皇女は、マリア・テレジアの娘たちの中でも、最も母帝に反抗的で、最後には勘当されてしまいます。
しかし、その気持ちも分かるくらい、気の毒な事情もあったのです。
彼女も、絶世の美女だったひとつ上の姉、マリア・エリザベトにも比べられるほどの美貌の持ち主でしたが、かなりの〝文句言い〟で、母からも〝うるさい娘〟とうとまれていました。
兄弟姉妹たちからも嫌われていましたが、本人はお構いなし。
もちろん母帝は彼女を政略結婚のコマのひとつと考えて、他の娘と同様、厳しい教育プログラムを課していましたが、七年戦争のゴタゴタで、結婚話はなかなか決まりませんでした。
姉は認められたのに、なぜ私はダメなの!?

マリア・アマーリアの恋人、プファルツ=ツヴァイブリュッケン公子カール・アウグスト
そんな中、アマーリアはひとりの貴公子と恋に落ちます。
プファルツ=ツヴァイブリュッケン公子カール・アウグスト。
彼は相当なイケメンで、彼女は夢中になります。
相思相愛となり、ふたりは結婚を誓いあいます。
しかし、母帝と、宰相カウニッツは、この結婚を認めません。
カール・アウグストは、プファルツ選帝侯であるヴィッテルスバッハ家の傍系の公子でした。
兄の母の身分が低かったため、公位の継承の可能性もあり、伯父のプファルツ選帝侯カール・テオドール(モーツァルトを可愛がったことで有名)に子がいなかったため、選帝侯になる目もありましたが、やはり皇女の嫁ぎ先としてはつり合いが取れない、というのです。
明らかに将来、1国の主になる相手でなければ意味がないというわけです。
さらに、選帝権をもつドイツ諸侯たちには、こぞってマリア・テレジアの女系相続に反対した過去があります。
彼らに皇女を嫁がせれば、また将来、その血縁から皇位を狙われる可能性もあります。
マリア・テレジアは自分が飲まされた煮え湯から、これまでの歴史をひっくり返してまで長年の宿敵、フランスのブルボン家と手を結び、それによってドイツ諸侯をけん制する、というのを基本戦略としていましたから、皇女の嫁ぎ先には、徹底してブルボン家を選びました。
しかし、唯一の例外が、〝ミミ〟の愛称の姉、四女マリア・クリスティーナでした。
彼女は、ザクセン選帝侯の弟との恋愛結婚が許されたのです。
当然、マリア・アマーリアも、自分も同じように、好きな相手と結婚させてほしい、と母帝に頼みます。
ところが、返事は、ムゲもない却下。
彼女は泣いて母にすがりますが、もともと疎んじていた娘のわがままはきいてくれません。
ミミがなぜ許されたか。
それは、お気に入りの娘だから、というしか理由はありません。
マリア・テレジアの有名なエコ贔屓です。
そして、マリア・アマーリアの結婚相手は、イタリアのパルマ公フェルナンド1世と決められます。
彼女がいくら泣いて怒って抗議をしても無駄。
母への恨みを胸に嫁いでいくしかありません。
彼氏だったカール・アウグストも怒りを胸にウィーンを退去。
以後、ハプスブルク家の足を引っ張る行動を取り、後にヨーゼフ2世が起こしたバイエルン継承戦争を失敗に終わらせるのに一役買い、かろうじて留飲を下げます。
ママをとことん困らせてやるわ!!

マリア・アマーリアの夫、パルマ公フェルナンド1世
イタリアのパルマ公国は、領土は小さいですが、スペイン、フランスの影響下にあり、ブルボン家が統治していました。
イタリアでの勢力拡大を図っていたマリア・テレジアとしては、まずパルマの公女イザベラを、長男ヨーゼフ2世の妃に迎えました。
しかしイザベラは早逝してしまったため、今度は逆に、イザベラの弟でパルマ公を継いだフェルナンドに皇女を嫁がせて、関係を再構築しようとしたのです。
ところが、無理矢理嫁がされたマリア・アマーリアは、母の言いなりになるどころか、この恨み晴らさでおくべきか…といった態度に出ます。
20歳のマリア・アマーリアに対し、新郎のパルマ公フェルナンドは17歳。
しかも、精神的に幼く、引っ込み思案で、教会の鐘を自分で鳴らすのが好き、という青年。
結婚して3ヵ月も、花嫁には触れさせてもらえませんでした。
マリア・アマーリアは、憂さ晴らしに、夜通しパーティーを開くなど、浪費と贅沢の限りを尽くしたばかりか、イケメンの貴族や兵士を見つけると、片っ端からベッドに引き込み、浮気をする始末。
また、気弱な夫を完全に尻に敷くと、国政も牛耳り、反ハプスブルク的な政策を取り始めます。
マリア・テレジアが叱責の手紙を次々に送り付け、自分の方針に従うよう命じても、『ママも自分の思い通りに政治をしているじゃない。なんで私が自分の国の政治をしちゃいけないの?』と返信。
そのあとは、返事も出さなかったので、激怒した女帝から勘当され、二度とウィーンに来ないように、と通告されます。
それでも、上等じゃない、とどこ吹く風。
母からお目付け役として派遣されたローゼンベルク伯爵をウィーンに追い返します。
映画『アマデウス』で、劇場監督としてモーツァルトに意地悪をする伯爵です。
恋を引き裂かれた恨みは忘れることはできないのです。
こんな調子なので、さぞ国民からの評判も悪いのでは、と思いますが、意外に人気がありました。
浪費や贅沢は基本的には自分の財産で行い、国費は使っていません。
国民の福祉を充実させたため、慕われていたのです。
そこは、さすがマリア・テレジアの娘といえるでしょう。
パルマ公国は、1796年、イタリアに遠征してきたナポレオンによって解体させられてしまいます。
マリア・アマーリアは、甥の皇帝フランツ2世に保護され、子供とプラハに移ってその生涯を終えます。
マリア・テレジアの子育ては、おおむね失敗したと言われ、その代表に挙げられるのがこのマリア・アマーリアですが、政略結婚という理不尽に反抗したその姿には、スカッとしたものも感じ、近代人的な片鱗さえうかがえるのです。
Joseph Haydn:Symphony no.30 in C-Major, Hob.I:30 “Alleluja”
演奏:ジョヴァンニ・アントニーニ指揮 バーゼル室内管弦楽団
ハイドンがエステルハージ侯爵に仕えて4年目、1765年に作曲したシンフォニーです。愛称の『アレルヤ』は、第1楽章の第2ヴァイオリンに、聖週間(復活祭の前の週)に歌われるグレゴリオ聖歌の「アレルヤ」に基づく旋律が出てくることによります。英語では「ハレルヤ」になります。実に楽しく、華やかなこのシンフォニーには、宗教的な要素は感じられませんが、イエスの復活を祝う、祝祭的な音楽なのです。侯爵家での礼拝堂における行事で演奏されたものと思われます。ただ、自筆譜にはタイトルはなく、同時代の筆写譜に書かれています。
第2楽章 アンダンテ
この時期の作品の緩徐楽章は弦だけのものが多いですが、この楽章では、フルート1本とオーボエ2本が加わり、豊かな叙情を楽しませてくれます。展開部では独奏フルートがさらに活躍し、小さなフルート・コンチェルトといってもよいかもしれません。ホルンは休んでいます。
第3楽章 フィナーレ:テンポ・ディ・メヌエット、ピウ・トスト・アレグレット
このシンフォニーは、メヌエットで終わる特殊な3楽章制です。同じく宗教的なテーマを持つシンフォニー 第26番『ラメンタツィーネ』も同じですから、当時のハイドンの決まったスタイルなのかもしれません。正確には「メヌエット」ではなく「メヌエットのテンポで」と書かれており、トリオにあたる中間部はふたつある、ユニークな構成になっています。優雅なだけではなく、イ短調の鋭いフレーズがアクセント的に挿入され、コーダもありますので、〝拡大メヌエット〟といってもよいかもしれません。中間部では、第2楽章同様、独奏フルートが活躍するので、フルート奏者にスポットを当てる機会だったのかもしれません。ハイドンの独創的な工夫がみられる1曲です。
動画は、同じくアントニーニ指揮のバーゼル室内管弦楽団です。
www.youtube.com
今回もお読みいただき、ありがとうございました。


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