孤独のクラシック ~私のおすすめ~

クラシックおすすめ曲のご紹介と、歴史探訪のブログです。クラシックに興味はあるけど、どの曲を聴いたらいいのか分からない、という方のお役に立ちたいです。(下のメニューは横にスライドしてください)

偉大なる人生の夕暮れ。ハイドン『交響曲 第8番 ト長調《晩》』

ニコラ・プッサン『冬または大洪水(連作「四季」)』

夕方に襲ってくる嵐

ハイドンが1761年、ハンガリーの大貴族、エステルハージ侯爵家宮廷楽団副楽長として雇用され、最初のデビュー作として作曲した、3曲セットのシンフォニー、『朝』『昼』『晩』

今回は最後の『晩』を聴きます。

この曲で、具体的に『晩』の事象を表しているのは、第4楽章の『ラ・テンペスタ(嵐)』だけです。

夕方に襲ってきた嵐を表現した標題音楽になっています。

嵐は、ハイドンの後年のオラトリオ『四季』の『夏』でも取り上げられていますが、そこでも襲来したのは夕方です。

そこで描かれているのは、嵐がひとしきり暴れたあと、過ぎ去って静寂が戻ると、天にはまだ夕日が輝き、露に濡れた万物が光るなか、教会の晩鐘が鳴り響く…という素晴らしい情景です。

ベートーヴェンの田園シンフォニーでも、歌詞こそありませんが、同様のドラマが描かれています。

www.classic-suganne.com

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第1楽章の元ネタとは

この曲の第1楽章のテーマは、巨匠クリストフ・ヴィリバルト・グルックオペラ・コミック『馬鹿騒ぎ』から取られたもので、いわば当時の流行曲でした。

18世紀後半のウィーンでは、「イタリア音楽」「フランス音楽」「ドイツ音楽」の3つがしのぎを削り、人々の好みや政治状況、国際情勢によって、どれかが優勢になったり、潰されたり、または融合が試みたりされていました。

〝音楽の都〟は、言い換えれば、〝諸国の音楽のるつぼ〟だったといえるのです。

これまで、ハイドンの若い頃を追ってきましたが、困窮時代の1753年、流しのセレナーデ楽団をやっていたとき、喜劇役者ベルナルドンに目を付けられ、ケルントナートーア劇場オペラ『せむしの悪魔』の作曲を依頼された、というエピソードを紹介しました。

この人気役者に取り入ろうとして、その美人妻の窓の下で、セレナーデを奏でたのが功を奏したのです。

ヴィヴァルディが客死し、後にベートーヴェンが第九を初演することになるケルントナートーア劇場は、当時は市立劇場であり、宮廷の監督は緩く、ここでは民衆にも分かるドイツ語の喜劇が上演されていました。

それは、民衆向けの下品で猥雑な劇だったので、ハイドンはその作曲にずいぶん苦労しました。

吉本新喜劇のようなものだったようです。

「海の嵐」の作曲に苦労した逸話も取り上げましたが、ほかにも、ベルナルドンは椅子をいくつも並べてその上でハイドンに、泳いでいる姿を見せ、これに合う音楽を作曲するよう要求しました。

彼は、『私がどう泳いでいるか見てくれ!』とハイドンに大声で叫んだのです。

ハイドンは、大汗をかきながら、その動きに合わせて8分の6拍子の音楽を奏でて、彼を満足させたということです。

庶民劇を弾圧しようとした女帝

しかし、女帝マリア・テレジアは、このような劇が流行するのは、風紀を乱し、品位を貶めるものとして苦々しく思い、1752年に音楽のあり方を示した「規範」を布告して、取り締まりに乗り出しました。

とくに、ベルナルドンがドイツ語で即興を交えて演ずる茶番劇は槍玉に上げられました。

女帝はヨシモトはお嫌いのようです。

『フランス語、イタリア語、スペイン語の劇からの翻訳作品でなければならない』と定められました。

自国ドイツにさんざん苦労させられた女帝らしい政策です。

でも、大衆の人気ジャンルは、お上がいくら禁止しても、なくなることはありません。

江戸時代の歌舞伎と一緒です。

ドイツ語劇は、マリア・テレジアの長男ヨーゼフ2世が、母の真逆の方針で復活させ、モーツァルト後宮からの誘拐を委嘱しました。

魔笛もその延長上にあります。

フランスと同盟したから、フランス音楽も輸入?

一方、マリア・テレジアと、宰相カウニッツ侯爵は、新興国プロイセンの侵略に対抗するため、「外交革命」で長年の宿敵フランスと同盟しましたが、カウニッツ侯は、その政策転換の一環で、音楽界においても、フランス劇場とフランス劇団をウィーンに作りました。

しかし、フランス風の大仰な宮廷オペラは、ウィーンっ子だちには全く受けませんでした。

でも、パリの巷で流行していた喜劇、オペラ・コミックは大ウケしたのです。

マリア・テレジアによって1754年に劇場総監督に任命されたドゥラッツォ伯爵は、ボヘミア出身の作曲家グルックに、フランス音楽にイタリア音楽を融合させた、ウィーンならではのオペラ・コミックの作曲を依頼しました。

これは、マリア・テレジアのお気に召すところにもなり、大衆にも受け入れられました。

ハイドンは、エステルハージ家の初仕事であるこのシンフォニーに、そんなグルックの流行曲を取り入れたわけです。

女帝第一の支持者というべきエステルハージ侯爵の宮廷副楽長として、必要な政治的配慮もできることを示したのです。

18世紀の音楽は、政治と不可分でしたので、その理解にはこうした情勢を知ることが不可欠なのです。

ハイドンを雇った英主、急逝

エステルハージ・パウル・アントン侯爵

この3部作の初演を聴いたエステルハージ・パウル・アントン侯は、ハイドンを雇った自分の判断が間違っていなかったことに満足したでしょうし、同家の未来に豊かな音楽芸術が花開くことを確信したことでしょう。

しかし、ハイドンが就任して1年もたたないうちに、翌年1762年3月18日、マリア・テレジアを支えたこの英主は世を去ってしまうのです。

パウル・アントン侯には子供がいなかったので、弟のニコラウス・ヨーゼフが跡を継ぎました。

この侯爵は、兄に勝るとも劣らない名君であり、後世『壮大侯』と讃えられます。

彼こそ、ハイドンが30年にわたって仕え、その芸術の最大の理解者、庇護者となった主君でした。

その君臣の信頼関係は、まさに〝水魚の交わり〟ともいうべきものです。

ともあれ、ハイドンを見出したパウル・アントン侯は、彼の『晩』を聴いて、その偉大な人生の夕暮れを迎えたのでした。

跡を継いだエステルハージ・ニコラウス・ヨーゼフ侯爵

ハイドン交響曲 第8番 ハ長調《晩》

Joseph Haydn:Symphony no.8 in G major, Hob.I:8 "Le Soir"

演奏:クリストファー・ホグウッド指揮 アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージック

第1楽章 アレグロモルト

ヴァイオリンで静かに語りだされるテーマは、前述のようにグルックのオペラ『馬鹿騒ぎ』の中のヒット曲『わたしゃタバコは好きじゃない』からの引用です。この曲は、パリの巷の歌謡曲「ヴォードヴィル」(ヴォワ・ド・ヴィル、街の声)のスタイルで作曲されたものです。モーツァルトの『後宮からの誘拐』のフィナーレもヴォードヴィルですので、その誰もが口ずさめるような親しみやすいメロディーは、民衆でも分かるドイツ語オペラに取り入れられたのです。『馬鹿騒ぎ』は、1759年のラクセンブルクで初演され、1761年4月にウィーンでリバイバル上演されましたので、まさにこのシンフォニーが作曲される直前のことで、当然パウル・アントン侯も観ていたはずです。

このシンプルなテーマは、フルートが飾りつつ、進むにつれ、典雅に展開されてゆき、めくるめくようなシンフォニーの世界に変貌していきます。ニ長調に転じるとオーボエも活躍し、再現部では管楽器だけになる部分も設けられ、例によって団員ひとりひとりの見せ場が作られています。

第2楽章 アンダンテ

2つのヴァイオリンが、コンチェルトのように甘美に絡み合い、夕べの美しいひとときのような時間を現出します。チェロとファゴットの低音コンビも、メロディーラインを受け持ち、くぐもったような渋さを醸し出します。まるで迫りくる夕闇のようです。ヴァイオリン・ソロは、時に長く引き伸ばされ、高音に至るクライマックスは、まるでヴァイオリン・コンチェルトのようです。

第3楽章 メヌエット

あっさり、スッキリとした雰囲気が魅力のメヌエットで、全楽器によるポリフォニックな響きが、トリオとの絶妙な対比を形作っています。トリオは、『朝』『昼』と同様、ヴィオローネ(コントラバス)が独奏を務め、広い音域でトリルまで奏でます。のちのシンフォニーでは決して味わえない音楽です。

第4楽章 ラ・テンペスタ(嵐):アレグロ

チョロチョロっとしたヴァイオリンが、嵐の前の吹き始めの風や、ポツポツと降り始めた雨を表しているようです。フルートが下行するアルペッジョで閃く稲妻を表すと、ざあーっと豪雨と暴風が押し寄せます。『四季』のような激しい迫力はなく、あくまでもサロン音楽の中での表現に抑制されていますが、展開部で短調に転じ、畳みかけるような土砂降りの様子が彷彿とします。

ベルナルドンに、音楽で場面を表現するよう強要され、鍛えられた標題音楽の腕前を披露しているようです。

『四季』では、嵐の過ぎ去った平安の音楽が続きますが、このシンフォニーではそれはなく、嵐の場面で幕となります。


動画は、アントニーニ指揮ジャルディーノ・アルモニコです。


www.youtube.com

 

今回もお読みいただき、ありがとうございました。

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