肩身の狭い居候
テノール歌手のヨハン・ミヒャエル・シュパングラーの好意でその屋根裏部屋に寝泊まりさせてもらいながら、流しの楽団「ガサティム」の一員となり、自作を提供しながら食いつないでいたハイドン青年。
しかしその〝ご厚意〟にも甘えられなくなってきました。
シュパングラーに第2子が生まれることになったのです。
もともと手狭なアパート。
家族が増えれば、さすがに居候のハイドンも出ていかなればなりません。
しかし、ガサティムでもらえるチップ程度では、食いつなぐのにやっとで、とても新居に引っ越すお金はありません。
合唱隊に乱入!?
ハイドンはとりあえず、居づらくなったシュパングラー家を離れるため、「マリアツェルへの巡礼」に参加しました。
「マリアツェル」は、オーストリア南東部にある村で、ここにあるグナーデン教会は、オーストリアで最も有名な巡礼教会でした。
ハイドンが参加したのは、1750年春に行われた巡礼イベントでした。
日本で言えば〝お伊勢参り〟といった感じです。
ハイドンは、この教会の合唱長である神父に、合唱団に加えてほしい、と頼みました。
変声期が終わり、大人の声となっていたハイドンは、自信を回復していました。
しかし神父は、どこの馬の骨とも分からないみすぼらしい青年の参加は認めません。
ハイドンは諦めず、ひそかに合唱団に紛れ込み、ひとりの歌手から楽譜を奪い取って、勝手にソロを歌い始めたのです!
なんという度胸でしょう。
そしてその歌には、「すべての合唱団員が息をひそめて聴き惚れた」と伝わっています。
神父はびっくりして、ハイドンに1週間の巡礼イベント中、合唱団に加わってほしいと頼みました。
ハイドンは十分な食事を与えられ、巡礼者から寄付された16グルデンの金貨も手に入れたのです。
以前取り上げたハイドンの最初のミサ曲、「ミサ・プレヴィス」はこの頃の作品と考えられています。
下積み時代の恩は忘れない
ウィーンに戻ってきたハイドンに、さらに幸運が待っていました。
ウィーンの市場裁判官をしていたブーフホルツという富裕な商人が、ハイドンの才能を認めて、学資として150フローリンを出世払いで貸してくれたのです。
ハイドンは、こうした若いときの援助の恩を終生忘れませんでした。
彼はずっと後、功成り名遂げたあと、1801年と1809年に書いた遺言書で、このブーフホルツの孫娘に遺贈をしています。
『アンナ・ブーフホルツ嬢に100グルデンを贈る。私の青年時代に彼女の祖父が、緊急必要な150グルデンを無利子で貸してくださった。その金は、すでに50年前に返済したものである。』
まさに、情けは人のためならず、といったエピソードです。
こうした援助もあって、ハイドンはシュパングラー家を出ることになりました。
居候できなくなったきっかけとなった、シュパングラー家に生まれたのふたり目の娘、アンナ・マグダレーナ・シュパングラーは、長じてソプラノ歌手となり、大貴族エステルハージ家の楽長となっていたハイドンは、彼女を楽団に採用しました。
彼女は、1775年に初演されたハイドンの最初のオラトリオ『トビアの帰還』のソプラノ独唱を務めることになります。
また、彼女の夫もエステルハージ家のテノール歌手で、台本のアレンジや翻訳をこなし、ハイドンのオペラ『突然の出会い』の台本も書いたのです。
ハイドンは、ウィーンの寒空の中、今夜寝るところもなかった自分を温かく迎えてくれたシュパングラーの恩も、終生忘れることはありませんでした。
ようやく得た、自分の城
ハイドンは、ミヒャエル教会に近い「ミヒャエラーハウス」という6階建てのアパートの、6階の屋根裏部屋に移り住みます。
この建物は今でも残っている立派なものですが、屋根裏部屋は暖炉もなく、雨露をしのぐだけの小部屋で、料理人、職人、印刷工、従僕、釜焚夫などが住み込んでいました。
ハイドンの生前に新聞に載った伝記には、次のように記されています。
『彼は6階に住んでいた。その屋根裏部屋には、暖炉もなければ窓もなかった。冬には、吐く息がベッドと上掛けで凍っている始末だったし、朝、顔を洗うには、泉のところまで水を汲みにおりてゆかねばならなかったが、上の階まで運んでくるあいだに、氷の塊に変じていることも一度ならずあった。』
しかし、ハイドンにとっては、生まれてはじめて得た〝自分の城〟でした。
古い虫食いのクラヴサンの所有者でもありました。
ハイドンは「王侯の身分にも比すべき幸福」と感じたのです。
まるで、売れっ子芸人の下積み時代のようなエピソードではないですか。
ここでハイドンは、作曲の勉強に打ち込んでいくのです。
四面楚歌のフリードリヒ大王
さて一方、マリア・テレジアと七年戦争の推移です。
1757年6月、ダウン将軍がコリンの戦いでプロイセンのフリードリヒ2世(大王)を破ると、大王は四面楚歌に陥りました。
東からは、エリザベータ女帝の命で、アプラクシン元帥が率い75,000のロシア軍が、東プロイセンに進軍してきて、ほぼ無防備の同地域を占領しました。
西からは、英領ハノーバーを制圧したフランス軍がザクセンに進軍してきます。
10月には、ハディク少尉率いる、たった数十騎のオーストリア軽騎兵が、プロイセンの首都ベルリンを急襲、これを占領します。
しかし、さすがにこの人数では占領を続けられないので、少尉は市の当局者と交渉し、都市を略奪しない代わりに賠償金を払わせて、撤収しました。
そして、女帝へのお土産として、極上の鹿革の手袋を20揃い買い求めました。
少尉は、意気揚々とウィーンに凱旋し、女帝にお土産を献上。
しかし、それを見たマリア・テレジアは大笑い。
なんと、手袋は全部左手用ばかりだったのです。
少尉はまんまとベルリン人にささやかな仕返しをされたわけです。
戦史に残る大王の逆襲!
窮地に陥り、一瞬ではありますが首都ベルリンまで踏みにじられる屈辱を味わったフリードリヒ大王は、天才的な用兵で諸国の軍を打ち破ります。
まず、11月にロスバッハの戦いで、スービーズ公シャルル・ド・ロアンが率いるフランス軍55,000を、半分以下の22,000で打ち破ります。
翌12月には、軍を返して、オーストリアが取り戻したばかりのシュレージエンに侵攻、ロイテンの戦いで、カール公子が率いる70,000のオーストリア軍を、半分の35,000でさんざんに破り、シュレージエンを奪回します。
このふたつの戦いはナポレオンも絶賛した戦史に残る機動作戦で、フリードリヒ大王は、マリア・テレジアがこれでシュレージエン奪還をあきらめ、講和に応じると期待しましたが、女帝は奪還するまでは終戦しない、と断言し、戦争は続くことになります。
翌1758年8月には、東から圧力をかけてくるロシアを撃退すべく、ツォルンドルフの戦いで両軍は激突します。
両軍はほぼ互角の兵力でしたが、史上稀にみる凄惨な戦いとなり、プロイセン軍は全体の32%にあたる12,800を失い、ロシア軍は全体の40%におよぶ18,000を失いました。
戦況は一進一退、フリードリヒ大王は自らサーベルを手にして突撃します。
ロシア兵の遺体が積み重なっても、ロシア砲兵は大砲にキスしながら打ちまくり、退却しなかったといいます。
両軍引き分けの様相となりましたが、ロシア軍は補給が続かず撤退。
かろうじて、プロイセンの勝ちとされましたが、フリードリヒ大王はこの死闘を経て有名な言葉を残します。
『ロシア人を殺すのは味方に引き入れるよりも簡単だ』
さて、引き続きハイドンの若い頃の作品を聴いていきます。
Joseph Haydn:Symphony no.19 in D-Major, Hob.I:19
演奏:ジョヴァンニ・アントニーニ指揮 バーゼル室内管弦楽団
作曲は、1760年か翌年の1761年で、初就職したモルツィン伯爵家楽長時代の作品と考えられています。モルツィン家時代のシンフォニーは3楽章が多く、エステルハージ家に移ってからは4楽章が主流になるのですが、このシンフォニーは3楽章です。
さりげないテーマですが、音の動きは縦横無尽。躍動感に満ちています。ホルンの合いの手が活発で目立ち、軍楽調の勇壮な雰囲気を醸し出しています。
ニ短調の、弦だけによる悲歌風なアダージョです。シンコペーションのリズムで、半音階を下ってくるテーマは実に印象的で、心に沁みます。短いですが、独特の世界を紡ぎ出しています。
第3楽章 プレスト
短いテーマが颯爽と展開する、小粋なフィナーレです。しかし、構成は凝っていて、中間部に短い展開部が設けられ、再現部が二重にある形になっています。主題が短調で別な趣になったり、第2主題も主調で再現したりと、若いハイドンの工夫の跡が見える楽章です。
動画は、同じくアントニーニのハイドン2032プロジェクトから、今回はバーゼル室内管弦楽団との演奏です。コンサートマスターは笠井友紀さんです。
www.youtube.com
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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