亡き母に抑えられていた息子
1780年11月29日。
偉大なる女帝、マリア・テレジアは、63年の生涯を閉じました。
〝女帝〟と呼ばれるものの、神聖ローマ皇帝には女性はなれませんでしたので、彼女は形式的には夫帝フランツ1世の皇后でした。
1765年に夫が崩御し、皇帝には息子ヨーゼフ2世が即位したものの、ハプスブルク家の領土を治める君主としての地位の数々、すなわち「オーストリア大公」、「ハンガリー王」、「ボヘミア王」などの称号は亡くなるまで保持し、息子には譲りませんでした。
皇帝は領邦君主たちから選ばれるものでしたので、この時期のヨーゼフ2世は、領土を何ももっていない、名前だけの皇帝であり、実質的な君主ではなかったのです。
あくまでも、母マリア・テレジアのもつ統治権の一部を分けてもらって、共同で行使していたに過ぎませんでした。
かろうじて、皇帝が諸侯を指揮する軍事権だけが、ヨーゼフ2世に帰せられました。
この状態は、頼りない息子にはまだまだ任せられない、ということではなく(その思いは内心ありましたが)、これらの地位はマリア・テレジアの父、カール6世の遺言ともいうべき「国事詔書」でマリア・テレジア個人に法的、国際的に保証されたものだったので、夫の生死には関係なかったからです。
このあたりは何とも複雑です。
息子ヨーゼフ2世は、母との共同統治時代、張り切って領土拡大やせっかちな改革をしようとして、母に止められ、歯がゆい思いをしました。
それでも、ポーランド分割やポテト戦争など、母の反対を押し切って進めたことはことごとく裏目に出て、その尻拭いを老練な母にやってもらうという有様だったのは、これまで見てきたとおりです。
理想は高く、先進的な皇帝
さていよいよ、ヨーゼフ2世が自分の意思で何でもできる、単独統治時代が始まりました。
プロイセンのフリードリヒ大王からは、『彼は1歩進む前に2歩進む』と揶揄されるほど、せっかちなヨーゼフ2世がどんな政治をするか、国内外は固唾をのんで見守っていました。
果たしてヨーゼフ2世は、予想通りというか、それを上回る改革をおっぱじめるのです。
彼のポリシーは、「人民に利益と幸福と自由を与えること」でした。
それを自らに与えられた使命とし、自分の命を削ることも厭わず、昼夜働き続けました。
自分の仕事を「善良なる手配」と呼んだのです。
ヨーゼフ2世は「皇帝革命家」と呼ばれますが、まさに、フランス革命の先駆ともいえる改革を、皇帝として行おうとしました。
しかし、歴史上、革命で一気に世の中がよくなることは少なく、その急進性から、多くの副作用が生まれ、一進一退したり、かえって独裁者が現れたりして、悲劇が起きがちです。
まさに、ヨーゼフ2世の死後、妹のマリー・アントワネット夫妻が革命の犠牲になるのがその例です。
ヨーゼフ2世が最初にやった改革は、宗教改革でした。
マリア・テレジアが世を去った1年後の1781年10月に、「宗教寛容令」を発布します。
これは、カトリックしか認められていなかったハプスブルク家領土において、プロテスタントや東方正教会の信仰実践を認めたものでした。
前世紀に起こった三十年戦争(1618-1648)は、カトリック(旧教)を守ろうとしたハプスブルク家の皇帝と、プロテスタント(新教)の諸侯たちとの泥沼の戦争であり、諸外国の介入も招いて、ドイツを荒廃させました。
この戦争の爪痕は深く、ドイツは他のヨーロッパ諸国から発展が100年は立ち遅れ、それを取り返そうとして、20世紀に2度の無茶な世界大戦を引き起こした、と言われるほどです。
カトリック教会の守護者たる皇帝が、ついにここまで踏み切ったのです。
母帝マリア・テレジアも、敬虔なカトリック信者ではあったものの、教会や聖職者の腐敗や特権は国家の発展の阻害要因とみなし、免税特権の廃止や、イエズス会の解散などの政策を取りました。
しかしヨーゼフ2世はさらに踏み込み、カトリックの独占を無くしたのです。
さらに、教会の統制に乗り出しました。
カトリック教会は、ローマ教皇をトップとした、国境を越えた組織です。
まるで、国の中に別な国があるようなものですから、ヨーゼフ2世の近代化、中央集権化政策の中では、最初のやり玉に上がりました。
教会を、ローマ教皇の支配から切り離し、国家の管理としました。
そして、700にのぼる修道院を一挙に閉鎖。
ただし、教育や医療に従事している修道院は残されました。
修道院から没収した土地、財産を元に、小学校や福祉施設を設立し、国家に従う新しい教区を約1700設置したのです。
英国ではヘンリー8世が200年以上前にやったことですが、ローマから遠い島国の王様がやるのと、カトリック世界において教皇と両輪といわれたトップの皇帝がやるのとは、インパクトが違います。
あわてたローマ教皇ピウス6世は、1782年になんと自らアルプスを越えてウィーンにやってきて、ヨーゼフ2世に面会を求めました。
皇帝は本来、ローマに出向いて教皇から戴冠を受けなければ即位できませんでしたし、中世の有名な「カノッサの屈辱」のように、皇帝が教皇に謁見しに行くことはあっても、逆はありませんでした。
まさに前代未聞です。
ヨーゼフ2世は教皇を歓迎したものの、その要求は突っぱねました。
宰相カウニッツ侯爵に至っては、拝謁の儀礼として、跪いて教皇の手にキスをしなければならないのに、手を振って済ませ、教皇を愕然とさせました。
会談ではかろうじて、教皇の首位権だけは確認できたものの、ハプスブルク家領内の教会への影響力回復はできないまま、ピウス6世はすごすごとローマに帰るしかありませんでした。
モーツァルトが、雇い主のザルツブルク大司教と大喧嘩をして飛び出し、ウィーンでヨーゼフ2世に歓迎されたのは、その前年の1781年のことです。
ザルツブルク大司教国はハプスブルク家領ではなく、独立国であり、また領内の司教を任命できる特権をもっていました。
司教の任命権は教皇にあり、他のどの大司教も持っていなかったため、ザルツブルク大司教は「半教皇」といわれていました。
ヨーゼフ2世はその宮廷音楽家を引っこ抜いたのですから、モーツァルトのウィーン移住は、皇帝の教会圧迫政策の一環ともいえます。
まさに政治的な意味を持っていたのです。
映画『アマデウス』で、サリエリがヨーゼフ2世に『モーツァルトを招かれれば、大司教はお怒りになるでしょうな』とささやくと、皇帝が『それが狙いよ。おぬしも悪よのう』とニヤリとする場面は、この政治的背景を描いています。
それでは、引き続きハイドンのシンフォニーを聴いていきましょう。
Joseph Haydn:Symphony no.72 in D major, Hob.I:72
演奏:クリストファー・ホグウッド指揮 アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージック(古楽器使用)
第72番、という1780年代のシンフォニーの番号がついていますが、実はこれはナンバリングに際しての年代の間違いで、だいたい15年前、1765年あたりの作品です。ちょうどヨーゼフ2世が即位した頃です。異例の4本のホルンが使われていますが、この頃ちょうどエステルハージ侯爵家宮廷楽団に4人のホルン奏者が雇われていたらしく、このあと有名なシンフォニー 第31番 《ホルン信号》が書かれます。豪放な第31番よりもしみじみとした味わいのある、癒しの曲です。
聴く方は癒されますが、4人のホルン奏者は相当な難易度を課されます。冒頭8小節目でいきなりの上昇音型。そしてまた名人的なパッセージを求められます。4人の奏者は対等に扱われています。展開部は静かな感じですが、再現部で再びヴィルトゥオーゾ音型が出て来て、最後にはファンファーレ的に登場して終わります。
第2楽章 アンダンテ
フルートの素敵なソロと、独奏ヴァイオリンが呼び交わす、田園的なのどかな楽章です。小さなコンチェルトといってもよいでしょう。弦はふたりを優しく伴奏しますが、各小節の半分のリズムしか刻まず、いわゆるパストラルの持続低音とは違う趣を出しています。ホルンは休みます。
メヌエットでは、ホルンたちは控えめにエコーの役目を果たし、宮廷的な優雅さをあえて壊さないようにしているかのようです。トリオは管楽器だけになりますが、その響きはまさにハルモニー!管たちの豊かな和音に癒されます。
第4楽章 フィナーレ:テーマ・フォン・ヴァリアツィアーニ:アンダンテ―プレスト
フィナーレがゆっくりしたアンダンテの変奏曲という、極めて異例な構成です。テーマは弦だけの8分音符でポツポツと刻まれるシンプルなものですが、これが6つに変奏されていきます。第1変奏はフルートのソロ。第2変奏はチェロのソロ。第3変奏はヴァイオリンのソロ。第4変奏は珍しいヴィオローネ(コントラバス)のソロで、団員たちの腕前を披露させているかのようです。第5変奏はホルンに伴奏された2本のオーボエで、第6変奏はフル・オーケストラになります。それがいったん静まったところで、意表を突くプレストの総奏で華やかに締めくくります。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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