女帝の体重は200キロ!?
マリア・テレジアは少女時代はやせ型でしたが、23歳の若さから、しかも女性の身で困難な大国の統治を一身に担う一方、毎年のように妊娠して16人もの子供を産むという過酷な人生で、だんだんと肥満してゆきました。
都市伝説?によれば、最終的に体重は200Kgに達した、といわれていますが、これはちょっと眉唾にしても、相当な肥満体になってしまったのは事実です。
ずっと頑強な健康体でしたが、48歳のときに、最愛の夫フランツⅠ世(フランツ・シュテファン)を亡くしてからは、体調が思わしくなくなりました。
50歳の時には天然痘に罹患し、生死の境をさまよいましたが、侍医のヴァン・スヴィーテン(ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンを保護、後援したヴァン・スヴィーテン男爵の父)の治療により、奇跡的に回復。
しかし、体力はめっきり衰えたといいます。
50代になって、親しい友達への手紙で次のようにこぼしています。
『私の健康ははた目にはたしかによさそうにみえるけれども、すっかり肥満体になってしまった。私の亡くなった母みたいにね。脚と胸と眼はもうダメ。脚はとても膨らんでいるし。視力もほとんどなくなってしまった。何より困っているのは、どんな眼鏡も使えないこと。息も苦しい。*1』
あまりの重さにエレベーターも故障?
晩年には、ハプスブルク家代々の君主とその家族の棺を納めた、カプツィーナー納骨堂を訪れ、亡き夫フランツ・シュテファンの棺の前で対話することが多くなりました。
年齢とともに脚が悪くなり、地下納骨堂への狭くて長い階段の昇り降りが困難になったため、特別に綱を張り巡らせた昇降機が設置されました。
手動のエレベーターかエスカレーターのようなものです。
1780年11月2日のこと。
いつものように昇降機で夫の墓参りをしましたが、昇るときに、どうにも昇降機が作動しなくなってしまいました。
単なる故障なのか、女帝の体重に耐えらえなくなったのか。
マリア・テレジアは、こうつぶやきました。
『まあ、もうお墓が私を上がらせないようにしているのだわ。』
侍従たちは何とか女帝を救い出しましたが、彼女は言いました。
『ええ、きっと私はまもなく、永遠にこの下に残ることになるでしょう。』
この言葉は、3週間後に現実になってしまうのです。
偉大なる生涯の終焉
1780年11月8日。
最愛の娘、マリア・クリスティーナ(愛称ミミ)夫妻が、任地のプレスブルクから里帰りしてきました。
一行はキジ撃ちに行くことになりましたが、小雨が降りだしたため、皆は女帝には部屋で待っているように勧めました。
しかし女帝は、せっかくだから一緒に行くと言ってきかず、シェーンブルン宮殿の庭にある高台、グロリエッテに上っていきました。
そこで木々の間を散歩しながら談笑していましたが、服が雨に濡れてしまいました。
それがたたったのか、部屋に戻ると女帝は悪寒を感じました。
いったんは治ったかにみえましたが、2週間後に高熱を出して臥せってしまったのです。
ウィーン市内のホーフブルク宮に移された女帝は、夫フランツの遺品であるガウンを身にまといながら、1780年11月29日午後9時に、息子の皇帝ヨーゼフ2世、ミミ夫妻、マリア・アンナ、マリア・エリザベートら娘に看取られて、その偉大な生涯を閉じました。
63歳でした。
夫婦のベッドを再現した棺
薨去の3日後、女帝の遺骸は、夫の眠るカプツィーナー納骨堂に、特別に用意されていた棺に埋葬されました。
棺は、夫と一緒に一つの巨大なサルコファガス(装飾棺)に納められています。
その上面には、ダブルベッドで朝、目を覚まして見つめ合う夫妻の姿が彫刻されています。
寝乱れた寝具もリアルで、16人もの子を成したオシドリ夫妻の日常がそのまま記念されているわけです。
ふたりにとって、子作りは統治の重要な手段でもあり、そのお陰であとしばらくはハプスブルク帝国はヨーロッパに君臨していきます。
この姿は、単に夫妻の日常のひとコマを切り取った、というわけではなく、最後の審判の日に、死者が大天使のラッパで目覚めさせられた瞬間、最初に最愛の相手と目を合わせるように、という願いも込められています。
過剰ともといえるバロック装飾が施された夫妻の巨大な棺の手前に、何の飾りもない、シンプルで質素な小さな棺が置かれていますが、これが息子、ヨーゼフ2世の棺です。
質素を好んだ皇帝自身の希望によるものですが、偉大なゴッドマザーの前にポツンとある小さな棺は、ふたりの歴史的な関係性まで暗示しているかのようです。
マリア・テレジアの薨去によって、10年にわたるヨーゼフ2世の単独統治時代が始まります。
これは、音楽の世界では、ウィーン古典派が花開く時代の幕開けでもあったのです。
さて、偉大なる女帝マリア・テレジアを悼むにふさわしい音楽として、今回はハイドンの宗教曲『スターバト・マーテル』を取り上げたいと思います。
これは、イエスが磔になったとき、その傍らでわが子の苦難を悲しむ聖母マリアの姿を歌った中世の聖歌です。
歌詞は13世紀にフランチェスコ会で成立しましたが、作者は不詳です。
感動的な内容で、古今の作曲家が音楽をつけましたが、最も有名なものは、26歳の若さで亡くなったイタリア・バロックの作曲家ペルゴレージ(1710-1736)が、死の間際に作曲したものです。
過去記事はこちらです。ぜひ、聴き比べてみてください。
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ハイドンもこの曲に素晴らしい音楽をつけました。
作曲したのは1767年で、前年にエステルハージ侯爵宮廷楽長のヴェルナーが亡くなり、副楽長であったハイドンが楽長に昇進した頃です。
ハイドンはこれまで副楽長として、オーケストラの管理・運営と器楽曲の作曲全般を任されていましたが、侯爵としては、長年仕えた老齢のヴェルナーをすべて引退させるに忍びず、名誉楽長のように処遇する一方、宗教曲の作曲を任せました。
ハイドンは、そのキャリアを聖シュテファン大聖堂の少年合唱団からスタートさせましたので、むしろ教会音楽畑でした。
自分も宗教曲を作って腕前を披露したかったでしょうが、大先輩の存命中は叶いません。
それがついに、宗教曲も担当できることになりました。
巨匠に捧げた音楽
そして満を持して作曲したのが、この1時間にもわたる大作、『スターバト・マーテル』なのです。
作品はエステルハージ侯爵の本拠地アイゼンシュタットで演奏された後、ハイドンは楽譜を、ウィーンにいた巨匠、ヨハン・アドルフ・ハッセ(1699-1783)に送りました。
ハイドンは、この自信作を田舎の宮廷だけに埋もれさせたくなくて、巨匠のお墨つきが欲しかったのです。
それが功を奏し、1771年3月29日にはウィーンのマリア・トロイ教会で演奏され、ハイドンは自身で指揮しています。
そのため、休暇を申請するため、秘書に次のように書いています。
昨年の夏、私が全力を傾注して、『スターバト・マーテル』と呼ばれる高名な賛歌に曲をつけ、それを偉大であまねく知られたハッセに、他意なく送ったことをあなたは覚えておいででしょう。ただ、こうした大切な件なのに、私は適切な言葉をお伝えできていませんでした。この欠如は、あらゆる形式の音楽で大変成功している巨匠に対しては矯正されなくてはなりません。曲の真価とは逆に、この類まれな芸術家は作品に賞賛の言葉を与えてくれ、作品が求めるような良い音楽家によって演奏されるのをぜひとも聴きたいと望まれたのです。
巨匠ハッセには認められたものの、この曲が国際的にブレイクするのは10年後になります。
パリで大ブレイク!
マリア・テレジアが亡くなった翌年、1781年に、パリの公開演奏会、コンセール・スピリチュエルがこの曲を取り上げ、大人気を博したのです。
ハイドンは、この成功について、ウィーンの楽譜出版社アルタリアに次のように書き送っています。
コンセール・スピリチュエルの指揮者ル・グロ氏は、私の『スターバト・マーテル』が4回も演奏されて最高の喝采を浴びたという、並みはずれた賛辞を書いてよこしました。この紳士たちは、この曲を出版する許可を求めてきたのです。彼らは、私の今後の作曲全部を、私の気に入るいちばん有利な条件で出版したいと申し出てきました。そして私の声楽曲がそんな異常な成功をかちえたことに驚いていました。けれども私は、彼らが私の曲をまだひとつも聴いたことがなかったとしても、そんなに驚きはしないでしょうに。彼らに、私の第一のオペレッタ『無人島』や、新作のオペラ『裏切られたまこと』だけでも聴かせたいものです。きっとこういう作品はパリでいままでに聴いたことがないに違いありません。まだウィーンでさえ、めったに聴けないものなのですから。私の不運は、遠い田舎に住んでいるということにあるのです。(1781年5月27日付)*2
コンセール・スピリチュエルは、入場料を取って運営する演奏会のはしりで、王侯貴族の私物であった音楽が一般公開される歴史的役割の中で重要です。
このような興行は、パリやロンドンといった大都会で初めて可能となりました。
3年前の1778年、モーツァルトもコンセール・スピリチュエルで、ル・グロの依頼でパリ・シンフォニー(交響曲 第31番 ニ長調 K. K. 297 (300a))を演奏して大喝采を浴びました。
しかし、その後作曲したシンフォニア・コンチェルタンテ(協奏交響曲 変ホ長調K.297b)を、ル・グロに紛失?させられ、自分の成功を妬んだパリの音楽家たちの陰謀だ、と憤っています。
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これまで聴いてきたハイドンのシンフォニーの数々も、エステルハージ侯爵のために作曲されたものですが、ジワジワと出版によってヨーロッパ中に拡がり、人気が高まっていたのです。
でも、雇用契約でハンガリーの田舎に縛り付けられていたハイドンは、本人が嘆いているように、その栄誉と利益に直接あずかれませんでした。
ハイドン自身がようやく世界にデビューできるようになったのは、主君が亡くなって自由の身になった58歳のときだったのです。
それでは、この大作を聴いていきましょう。
ハイドンが1798年に66歳でオラトリオ『天地創造』を作曲するまでは、この若いときの『スターバト・マーテル』が、ハイドンの声楽曲で一番有名なものだったのです。
Joseph Haydn:Stabat Mater, Hob.XX:bis
演奏:ジュリアン・ショーヴァン指揮 ル・コンセール・ド・ラ・ロージュ(古楽器使用)、合唱:アンサンブル・エデス
フローリー・ヴェリケット(ソプラノ)
アデル・シャルヴェ(アルト)
レイナウト・ファン・メヘレン(テノール)
アンドレアス・ヴォルフ(バス)
第1曲 テノールと合唱『悲しみの聖母は涙にくれて』
悲しみの聖母は涙にくれて
御子がかけられた
十字架のもとに立ち尽くされる
嘆き悲しみ
苦しめる御子の魂を
剣がつらぬいた
『スターバト・マーテル』は、イエスが十字架にかけられ、その下で悲しみに立ち尽くす聖母マリアに思いを馳せて作られた賛歌です。
冒頭、ト短調の前奏は、一挙に舞台を、陰惨な処刑の行われたゴルゴダの丘に誘います。テノールがゆっくりと、涙に暮れる聖母の姿と、その心の中にあふれる悲しみを歌い出します。「ドロローザ(涙にくれる)」という言葉には、暗いナポリ和音が使われます。しかし、音楽はずっと暗いわけではなく、時々安らぎを見出すように長調にも触れますが、逆に心に沁みわたります。
合唱が静かにそれに和し、十字架上のイエスの苦しみと、それに勝るとも劣らない母の絶望を綴っていきます。
第2曲 アリア(アルト)『おお、神のひとり子の』
おお、神のひとり子の
祝福されし御母は
悲しみと傷はいかばかりか
尊き御子の苦しみを
ご覧になって嘆き悲しみ
うち震えておられる
全13曲から成るこの曲は、ドラマ性の薄い歌詞に対して、短調と長調が楽章ごとに交替し、平板になるのを避けています。第2曲は変ホ長調、ラルゴのアルト独唱で、オーボエがイングリッシュホルン(コール・アングレ、コーラングレ)に持ち替えられ、控えめに伴奏します。ハイドンのシンフォニーにあるような華やかなソロは、この曲では避けられています。マリアの嘆き、震える様を静かに歌い上げます。
第3曲 合唱『これほどに嘆きたまえる』
これほどに嘆きたまえる
救い主の御母を見て
泣かない者は誰か
合唱がハ短調で、強く嘆きの叫びを上げます。速度はレントです。後半、長調に転じ、〝泣かないものなどいるのか?〟と、呼びかけ合います。
第4曲 アリア(ソプラノ)『御子とともに苦しみたまえる』
御子とともに苦しみたまえる
慈悲深い御母を眺めて
悲しまない者は誰か
ヘ長調、モデラートでソプラノが華やかに、それでいて哀調を秘めた絶妙な歌で、聖母の慈悲を讃えます。オペラのようでいて、世俗に堕さず、宗教的な雰囲気から逸脱することはありません。
第5曲 アリア(バス)『その人々の罪のために』
その人々の罪のために
拷問と鞭に身を委ねられた
イエスを御母はご覧になったのだ
変ロ長調、アレグロ・マ・ノン・トロッポのバス・アリアです。低音が、イエスに加えられた拷問を表し、バスが決然と、それは我々の罪ゆえなのだ、と、自省を宣言します。
第6曲 アリア(テノール)『また苦悶のうちに見捨てられ』
また苦悶のうちに見捨てられ
息絶えられた
愛する御子をご覧になった
ヘ短調、レントの静かな、そして長いテノール・アリアです。悲しみの底にある絶望の中で、イエスの苦悶と死を、そして、それを見つめる聖母の心境に思いを致します。この曲の核心となる楽章です。最後のカデンツは暗闇に響くかのようです。
第7曲 合唱『愛の泉なる聖母よ』
愛の泉なる聖母よ
御身とともに悲しむよう
われに嘆かせたまえ
その御心にかなうべく
われを神なるキリストを愛する火で
燃え立たせたまえ
ニ長調、アレグレットの合唱で、聖母に対して、一緒に嘆かせてください、と呼びかけます。しかし、次第に音楽は明るくなり、希望の光に満ちてゆきます。それは、イエスの死によって、人間が救われることを意味しています。歌詞と音楽は、聖母の悲しみを客観的に悼むことから、この悲劇を自分たちにも共有させてください、と主観的になってゆきます。
第8曲 二重唱(ソプラノとテノール)『聖なる御母よ』
聖なる御母よ
十字架に釘付けされた御子の傷を
わが心に深く刻みたまえ
わがためにかく傷つけられ
苦しまれた御子の栄光を
われにも分かちたまえ
変ロ長調、ラルゲットのソプラノとテノールの二重唱です。まずはソプラノが聖母に、イエスの傷を私の心にも刻んでください、と呼びかけます。テノールが、同じ歌詞をなぞったあと、音楽は転調し、ソプラノとテノールは一緒になって、〝御子の栄光を私にも分かち与えてください〟と歌います。そして、さらに全部の歌詞を繰り返し、華やかな中にも真摯な祈りを天にも届けとばかり歌います。
第9曲 アリア(アルト)『わが命のある限り』
わが命のある限り
十字架につけられた御子に対し
御身とともに涙し
苦悩させたまえ
われは御身とともに十字架のもとに立ち
御身とともに嘆かせたまえ
ト短調のラクリモーゾで、アルトの悲しみに満ちた、長大で感動的なアリアです。オーボエの伴奏がさらに悲痛さを増しています。自分の命のある限り、イエスの犠牲を忘れない、と誓います。自分はイエスの処刑には立ち会えなかったけれど、心は聖母と一緒に十字架の元にある、という切々とした訴えが聴く人の心に沁みます。
第10曲 四重唱と合唱『乙女の中の清らかな乙女よ』
乙女の中の清らかな乙女よ
われを拒むことなく
御身とともにわれを泣かしたまえ
われにキリストの死を負わしめ
受難をともにし
その傷を再びわれにも与えたまえ
御子の傷をもってわれを傷つけ
その十字架と御子への愛によって
我を酔わしたまえ
変ホ長調、アンダンテで、まずはソリストたちが、聖母に、一緒に泣かせてください、と呼びかけますが、調子は明るく、それによってイエスの愛に浴したい、という希望が、悲しみに勝っていきます。オーボエはここでもイングリッシュホルンに持ち替えられています。だんだんと合唱が絡み、希望の声が個人から集団へと高まっていく様子が表現されます。
第11曲 アリア(バス)『おお乙女よ、審判の日に』
おお乙女よ、審判の日に
われが地獄の火にて焼かれることなく
御身によって守らしめたまえ
ハ短調、プレストで、この曲で唯一の速い速度の曲です。バスのアリアが、最後の審判の激しさと恐怖を歌うさまは、モーツァルトの『レクイエム』を思い起こします。
第12曲 アリア(テノール)『十字架によってわれを守り』
十字架によってわれを守り
キリストの死によって前を固め
恩寵によって慈しみたまえ
一転、ハ長調のモデラートで、穏和なテノールのアリアになります。イエスの犠牲、慈しみによって、自分を守ってください、という願いを歌います。もはや悲しみは去り、信仰による心の平安が支配します。
第13曲a 二重唱(ソプラノ、アルトと合唱)『肉体が死するとき』
肉体が死するとき
魂が天国の栄光に捧げられるよう
なしたまえ
ト短調の不安を帯びたソプラノと、それに続くアルトがラルゴ・アッサイで歌い始められ、肉体の死に思いを馳せ、続けて合唱が祈りの声を上げます。
第13曲b ソプラノと合唱『魂が天国の栄光に捧げられるよう』
魂が天国の栄光に捧げられるよう
なしたまえ
アーメン
いまや音楽は明るく、ト長調のフーガで天国への憧れが満ちます。ソプラノの輝かしいコロラトゥーラが、イエスの犠牲とマリアの苦悩によって人間に与えられるであろう、天上の喜びを歌い上げます。バッハのような厳格なフーガではなく、心が浮き立つような親しみやすいフーガです。
『神は私に朗らかな心を与えてくれたから、神に朗らかに奉仕しても神は私を許されるであろう』というハイドンの言葉通りの音楽です。
さて、聖母マリアは息子イエスに先立たれましたが、女帝マリア・テレジアは、不肖の息子、ヨーゼフ2世の行く末に不安を抱きながら世を去りました。
自分が望んだ平和な帝国は、よほどの才覚と徳をもった君主にしか収められないことを彼女は知っており、残念ながら、息子にはそれが難しいことを痛感していました。
しかし、偉大なるマリア・テレジアも、極めて保守的な旧体制の人であり、ヨーゼフ2世は、やり方はともかくとして、新しい時代を切り拓こうと燃えていました。
母子の確執は、前近代と近代の葛藤ともいえます。
女帝は、最愛の夫と同じ棺の中で、その後の歴史をどのように見つめているのでしょうか。
『マリア・テレジアとヨーゼフ2世母子の葛藤物語』はこれにて終わり、次回からは、古典派音楽が花開いたヨーゼフ2世の単独統治時代を見ていきます。
動画はルネ・ヤーコプス指揮、カンマーオーケストラ・バーゼルの演奏です。
www.youtube.com
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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