ロシアの挑発に乗ってしまったトルコ
前回の続きです。
ロシア女帝、エカチェリーナ2世は、南方への侵出、黒海の支配を推し進め、オーストリアのヨーゼフ2世と同盟を結び、ウクライナへの植民、オスマン・トルコ帝国の保護国であったクリミアの併合を行いました。
これは第一次露土戦争(1768~1774)のキュチュク・カイナルジ講和条約違反でもあったので、英国、フランスの駐トルコ大使は、トルコを支持する、とスルタン(トルコ皇帝)を焚きつけました。
ロシアの挑発、西欧各国の支持もあって、スルタン、アブドゥル・ハミト1世は、1787年8月17日に、ついにロシアに対して宣戦布告をしました。
第二次露土戦争の勃発です。
これはまさに、ロシアにとって思うつぼでした。
トルコ側から戦いを仕掛けた形になってしまったので、ルイ14世以来、伝統的にトルコと結んでいたフランスも、ルイ16世の優柔不断もあって、中立を保たなくてはなりませんでした。
英国とプロイセンはトルコを支持しましたが、参戦はできません。
さらに、トルコも宣戦はしたものの、戦争準備不足で、しばらく大きな戦闘は起きませんでした。
オーストリアのヨーゼフ2世は、この情勢を見て悩んでいました。
ロシアが一方的にトルコに勝ってしまったら、自分が狙っているトルコ帝国の領土、バルカン半島までロシアに獲られかねません。
というのも、母帝マリア・テレジアの意に逆らって、かつてエカチェリーナ女帝と会見、秘密同盟を結んだ際、女帝は、「ギリシア計画」というのをヨーゼフ2世に提案していました。
それは、同じキリスト教国として協力してトルコと戦い、西欧文明のふるさとギリシアを奪還し、コンスタンティノープルを首都とする「ギリシア帝国」を樹立する、というものでした。
それは、かつてこの地に千年続いた東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の復活構想です。
1453年、最後の皇帝コンスタンティノス11世がオスマン・トルコに敗れ、コンスタンティノープルが陥落し、古代から連綿と続いた東ローマ帝国は滅亡しました。
モスクワ大公イヴァン3世は、亡命してきた最後のビザンツ皇帝の姪を妻とし、ツァーリ(皇帝)を名乗り、東ローマ帝国の後継者を自認して、ロシア帝国が誕生しました。
そんな由緒もあるため、新しいギリシア帝国の皇帝には、エカチェリーナ女帝の孫、コンスタンティンを即ける、という提案でした。
ヨーゼフ2世が持つ「神聖ローマ皇帝」の帝位は、フランクのカール大帝の帝冠、ひいては西ローマ皇帝に起源があります。
そのため、ヨーゼフ2世はこの計画には反対しにくい、と老獪な女帝は読んでいたのです。
3世紀にディオクレティアヌス帝の行った古代ローマ帝国の分割統治。
それに始まった「西ローマ」と「東ローマ」の概念は、はるか後世、18世紀の国際情勢にまで影響を与えていたのです。
さらにこの時期は、古典古代、つまりギリシア・ローマ文化に憧れた「古典主義」時代です。
「古代の復活」というのは、当時の人々を魅了したスローガンでした。
しかし、今のプーチンが掲げる「偉大なロシア帝国の復活」は時代錯誤に他なりません。
最悪のタイミングで参戦したヨーゼフ2世
さて、ヨーゼフ2世としては、ロシアの傀儡国家である「ギリシア帝国」などが地中海に出現してはたまりません。
彼こそバルカン半島に大いなる野心を持っていました。
そもそも、歴史的にはトルコと死闘を繰り返してきたのはハプスブルク家です。
2度も帝都ウィーンを包囲され、係争の地ハンガリーをやっとのことで確保したところです。
ハイドンが仕えるハンガリーのエステルハージ家も、トルコとの闘いでハプスブルク家に味方して大領主になりました。
そのため、ロシアだけにトルコ領という戦果を持っていかれたくない、という焦りから、翌年1788年2月9日、ヨーゼフ2世はオスマン・トルコ帝国に宣戦布告し、兵員24万5千、騎馬3万7千、大砲900門という大軍を送り込んだのです。
これは、有事の際の援軍派遣という、ロシアとの同盟の範囲を超えた規模でした。
まさに野心まるだしの暴挙です。
しかも、オーストリア領ネーデルラント(現ベルギー)での反乱勃発や、プロイセンとの緊張が高まっている時期での参戦で、歴史家からも「これ以上ないという不都合なタイミング」と評された開戦でした。
泉下の母帝も嘆いていたことでしょう。
この戦争は、ウィーンでの音楽生活にも大きな影響を与えました。
開戦直前の1787年11月15日、楽壇の大御所、グルックが世を去りました。
そして、彼が持っていた「皇王室宮廷作曲家」の官職の後任に、モーツァルトが任じられました。
年俸はグルックの2000グルデンに対して、800グルデンに減額されていましたが、ようやくモーツァルトは、ヨーゼフ2世から正式な役職を得たのです。
具体的な仕事は、宮廷のダンス音楽の作曲という地味なものでしたが、モーツァルトはせっせと精を出しました。
また、前年秋にプラハでヒットしたオペラ『ドン・ジョヴァンニ』が、開戦直後の1788年5月7日にウィーンのブルク劇場で上演されました。
ウィーンの歌手たちが、難しすぎて歌えない、と文句を言ったので、何曲も新たに作曲し、差し替えての上演でした。
ヨーゼフ2世もこれを観て、『モーツァルトの音楽は歌にはとても難しすぎる』と、劇場監督のローゼンベルク伯爵に感想を漏らしたということです。
また、『このオペラは絶妙である。あるいは「フィガロ」よりさらに美しいかもしれない。しかし、われわれウィーン人の歯に合う食べ物ではない』とも言ったとされています。
上演は15回を数えましたが、ヨーゼフ2世の言う通り、ヒットとはいえない結果となりましたが、何しろ戦争が始まっていますので、音楽どころではない状況でもありました。
あのケルントナートーア劇場も、開戦と同時に閉鎖となり、モーツァルトのメインの収入源であった予約演奏会が開けなくなってしまいました。
また、彼の顧客であった貴族たちも、多くが士官、将官として出征してゆきました。
1788年は、モーツァルトの生涯でも珍しい寡作の年となってしまい、彼の生活は急速に窮乏してゆきます。
豪商にして盟友プフベルクへの、有名な借金の手紙が書き始められるのもこの頃からです。
大貴族エステルハージ侯爵の宮廷楽長であったハイドンとは、生活の安定度が違いました。
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定職プラス副収入で安定したハイドン
しかもハイドンは、宮廷だのみではなく、この頃には出版によって大きな副収入を得ていたのです。
自身がピアニストとして出演していたモーツァルトが、コロナ禍でライブ演奏ができなくなってしまったアーティストのように困窮してしまったのとは、大きな違いでした。
さて、そんなハイドンのシンフォニーを聴いてゆきましょう。
前回まで、実現しなかった英国旅行のためのシンフォニーとして作曲された、第76番、第77番、第78番の3曲を聴いてきましたが、この頃から、ハイドンはシンフォニーを3曲セットで出版するようになっていました。
そして、次なるセットが、第79番、第80番、第81番で、1783年から1784年にかけて作曲されました。
しかし、この3曲がどのような動機で作曲されたのか、は明らかになっていません。
自筆譜も残っていません。
ただ、間違いないのは、この3曲は前3曲と同様、エステルハージ家のためのものではなく、出版のためだということです。
1784年10月25日付で、ハイドンがナーデルマンという出版者に楽譜を売り込んだ手紙が1838年に発見されましたが、それはその後消失してしまいました。
ナーデルマンはそれを出版せず、第79番だけ、ロンドンのブランド社が出版しました。
さらに、ハイドンはロンドンのフォースター社に、既に売却済の第79番の代わりにオペラ『アルミーダ』序曲を差し替え、第80番、第81番とセットにして売りました。
ハイドンはウィーンのトリチェッラ社にも、第79番、第80番、第81番を売り、同社は1785年2月23日のウィーン新聞に次のような広告を出しました。
『クリストフ・トリチェッラは、光栄にも、楽長ヨーゼフ・ハイドン氏のまったく新しい3つの交響曲をお知らせする栄誉に浴します。この3曲は、それぞれト長調、ヘ長調、ニ短調で書かれています。最大の注意が、正確さ、白い紙、きれいではっきりした音符のために払われました。なぜなら、いたるところで愛されているこの巨匠はそれに値いするものなのです。3曲合わせて5フローリンです。』
この広告に先立つ前年の11月20日に、ハイドンはトリチェッラに次のように書いています。
『私が目下のところ、あなたの望みをただちに叶えられないことで、私を責めないでください。3番目の交響曲(第80番)はすでにできあがっているのですが、私がこの3曲から引き出そうとしているちょっとした利益のために、あなたは私がウィーンに着くまでは出版できないのです。』
ここでハイドンが言っている「ちょっとした利益」とは、出版の前に、ハイドン自身が「筆写譜」を売るということでした。
特別な顧客に先行して筆写譜を売り、その後一般に広く出版する、というのがハイドンの販売戦略だったのです。
ハイドンの研究者は時々、誠実で実直なイメージのハイドンが、出版社やパトロン相手に不誠実な取り引きをしている証拠を見つけてしまい、苦しむことになります。
したたかな商売根性ですが、いったん出版してしまうと、著作権の確立していない時代ですから、どんどん海賊版が出回って、作曲者には1円も入りませんので、そのくらいの駆け引きは必要といえるのです。
ちなみにトリチェッラは広告を出した直後に破産してしまい、出版はその版を安く買いたたいたアルタリアが行うことになります。
この3曲は、あまり大きな反響は呼びませんでしたが、ハイドンの新境地を示しています。
これまでの曲とは一線を画し、広く大衆に訴える「迫力」を持ち、明らかに「宮廷音楽」から「市民音楽」に舵を切っています。
82番以降の「パリ・セット」に比べるとまだ粗削りではありますが、音楽に円熟味が増しているのが実感できます。
私はこの3曲によって、シンフォニーが大衆のエンターテインメントに成長したと考えています。
作曲の順番はナンバリングとは逆で、第81番、第80番、第79番とされていますが、ここではナンバリング通りに聴いていきましょう。
Joseph Haydn:Symphony no.79 in F major, Hob.I:79
演奏:ジョヴァンニ・アントニーニ指揮 カンマーオーケストラ・バーゼル(古楽器使用)
第1楽章 アレグロ・コン・スピリート
冒頭、気負いのない第1主題がさりげない調子で奏でられます。第1ヴァイオリンとファゴットのユニゾンで、一見平凡です。しかし、だんだんと音楽は活気づいてゆき、その高まりに圧倒されます。子供がはしゃぐような無邪気な第2主題も印象的です。3連音のファンファーレで展開部に突入し、短調で畳みかけていきます。例によって疑似再現部のあと、さらに展開部は続き、再び短調となって、対位法を駆使して奥深くテーマが深堀りされていきます。そして陽気に曲を閉じます。
優美な旋律がゆったりと変奏されていきます。変奏は6つですが、劇的な変化はなく、細部の装飾が微妙に変幻する、職人的な楽章です。弦と管が役割を変え、テーマを受け渡しつつ、曲は流れていきます。昼下がりのまどろみのようです。ところが、そのまま静かに終わると思いきや、最後のフレーズが何かを引き出すように終わると、意表を突く仕掛けが待っています。
第2楽章(後半) ウン・ポコ・アレグロ
なんと、緩徐楽章なのに、全く無関係なフレーズがウン・ポコ・アレグロで始まります。しかしこのフレーズのなんと魅力的なこと!頭の中でずっと鳴ってしまい、つい鼻歌で口ずさんでしまうような、まるで童謡のように親しみやすい旋律です。こんな構成のシンフォニーは、悪戯好きのハイドンの中でも唯一です。前半のアダージョ・カンタービレとは無関係ではありますが、絶妙な組み合わせといえます。効果は絶大なのに、ハイドンはこのパターンはもう使いませんでした。単なる実験で終わってしまったのか、ハイドンの気まぐれだったのか、それは謎です。
屈託のなさとくつろいだ雰囲気が特徴のこのシンフォニーにぴったり合った、素敵なメヌエットです。トリオでは、フルートの動きが印象的です。
第4楽章 フィナーレ:ヴィヴァーチェ
第1楽章に通じるテーマのロンド形式です。後年のロンドン・セットの各曲につながっていく音楽です。ヘ短調に転調すると、トルコ音楽のような粗野さにびっくり。さらに対位法的な処理で楽天的なテーマがシリアスに展開されます。再びロンドに戻ったあとは、変ロ長調で今度はホモフォニックな響きが、大迫力で聴衆を引き込んでいきます。再度のロンドのあと、コーダは賑々しく曲を閉じます。
動画は同じく、アントニーニ指揮のカンマーオーケストラ・バーゼルです。第2楽章のウン・ポコ・アレグロが終わると、思わず拍手が湧きますが、ポピュラーな曲ではないため、シンフォニー全体が終わったと勘違いしたのか、それとも単純にこの異例の楽章の演奏が素晴らしかったので、思わず異例の拍手が出てしまったのか。私は後者と思うのですが、いかがでしょうか。
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今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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